中野新橋

 

ジニアス

かつて渋谷には、硬軟織り交ぜて、ジャズ喫茶が多く存在した時期があります。
硬派の代表格、道玄坂の「ジニアス」
天才ピアニスト、守安祥太郎が自殺する直前、最期に立ち寄ったジャズ喫茶、道玄坂の「デュエット」
ラヴホテル街に近かった、道玄坂の「音楽館」
私が行った時にはただのカフェ・バー(古い!)だった、桜ヶ丘の「メリー・ジェーン」
この中で現存しているのは「メリー・ジェーン」のみ。

私は大学時代、渋谷には滅多に行かなかったんです。
理由ですか?嫌だったからです。
モダン・ジャズとは最も掛け離れた印象を持つ街。
渋谷には、よほどのことがない限りは行きませんでした。

そこで「ジニアス」です。
大学時代の友人は、大晦日の夜から元旦4時まで、ジニアスで年を越しました。
閉店を告げる店員さんが、「お疲れ様」の一言とともにテーブルに置いてくれたのは、ミカン。
その友人は、翌年から「ジニアス」でバイトを始めました。

階段を下りると、右手に店員さん用の控えスペースがあって、
私は友人がバイトをしている時にはそこに座らせてもらいました。
友人がレシートを切らなければ、飲み物代はタダでしたね^^ごめんなさい・・・

また、ジニアスの上階には「ジニアス2」というバーがあって、
こちらは社会人になってから、新人時代にたまにみんなで出かけたことがあります。
そうこうしているうちに「ジニアス」は風俗店になってしまいました。
バブルで時価が上がり、場所代が高騰したから
やむなく退去したと聞いたことがあります。
(もちろんジニアスが風俗に衣替えしたわけではありませんよ、念のため)

その「ジニアス」ですが、
現在、中野新橋にて営業を継続しております。
中野新橋と言えば、貴乃花部屋がある相撲の街。
今はさっぱりですが、若貴時代は相当盛り上がった街です。

ヤフー・オークションでお付き合いがある方から、
「ネット検索していたら、ジニアスという店が出てきたが、渋谷ではなかった。
 でも、店のロゴは渋谷のジニアスと一緒だったが、関係はあるのか?」と質問されたことがあります。
その方は、今は九州に住まわれているそうですが、
大学時代、ジニアスに足げく通ったジャズ・マニアの方です。
そう、「ジニアス」はだいぶ以前から、中野新橋にあるのです。

定休日をまったく調べていかない私は、
今回もまた定休日に当たってしまい、入れませんでしたが、
かつて一度だけ新生「ジニアス」に入ったことがあります。

場所柄、硬派なイメージはなく、
近所の奥様たちが集う憩いの場になっておりました。
ランチなど、ご飯物もやっていたと思います。
スピーカーのそばには大きなテーブルがあり、
一応、リスニング・スペースとして確保されておりました。
渋谷の雄だった「ジニアス」は、神保町の「響」同様、
趣を変え場所を変え、現在も息づいております。


(以下・・・日を改めて)


その日は私が初めて好きになった外国人女性
「世界の歌姫」オリヴィア・ニュートン・ジョンのライヴが中野サンプラザでありました。
会社を早めに出た私は、
同じ中野ということで、先般定休日だった店に足を運びました。

「中野新橋/ジニアス」
言うまでもなく、1970年に渋谷道玄坂に開店した伝説のジャズ喫茶。
当時はジャズの街だった渋谷でも屈指の硬派店。
バブルによる地上げでやむなく渋谷を撤退。
平成元年、現在の地に腰を下ろしました。

入店するのはこれが2回目になりますが、
前回とは明らかに店の作りが違う。
前回は、奥様たちがおしゃべりするところ、
ジャズ者がジャズを聴くところ、と
簡単な陣地分けがあったのですが、
そのような明確な区分けがなくなっております。

広々とした店内は明るく清潔で、
かつての「ジャズ喫茶」のイメージはまったくありません。
ところどころ柱に隠れての奥まった席があり、
非常に落ち着ける空間が演出されています。
壁一面を覆うどでかいスピーカー。
但し音量は控えめ。
部屋の隅には山と積まれたジャズ関係の書籍。

店員さんにマッチを貰おうとしたら、
切らしているとのことで、ライターを頂くことができましたが・・・
ジャズ喫茶の風物詩でもあるマッチ、
今は非常に入手が困難
置いている店って、あまりないんですよ。

近所の奥様がた2名がどやどやと入店してきたのを機に席を立ち、
会計をしにレジに行くと・・・
ありました!かつてのレコードの大群がレジの裏に!何千枚も!
ドアを出ようとした時、「ありがとうございました!」の声が。
隅のほうに座っていたマスターでした。

お仕事中、悪いかなと思いながらも、
ちょっとマスターに話しかけてみます。

(とりあえず会話のきっかけに、判りきったことを尋ねる私・・・)
私「こちらはかつて道玄坂にあった、『あの』ジニアスですか?」
(初老のマスター、満面の笑みを湛えながら)
マスター「そうです!『あの』ジニアスですよ!」

(まあ、座って下さいと、ご自分の前の席の荷物をどけてくれる優しいマスター・・・)
私   「私の友達がかつて渋谷時代、ジニアスでバイトしていたんですよ。
     中大生の○○と○○っていう奴らなんですが・・・」
マスター「僕も中大出身なんだ。名前は覚えていないけど、確かに後輩連中が二人いたな〜」

それからマスターはしばらく私に付き合って、お話して下さいましたが、
ジャズ喫茶のマスターの話って、何でこんなに面白いんでしょうか!!!

私   「渋谷はもう、ジャズ喫茶がほとんど無くなってしまいましたね・・・」
マスター「そうなんだ。昔はね、道玄坂のほんの一角に何軒もあったんだよ。
     うちだろ、音楽館、オスカー、ありんこ、デュエット、スウィング、BYG、ブルーノート・・・」
    「ハードバップ・カフェも1月で閉店しちゃったし・・・でもJBSはいいお店ですよ。」
驚いたことにマスター、現在の渋谷のジャズ関係店まで完璧に把握しております。

私   「今もアナログ・レコードをかけるんですか?」(思いっきり失礼なことを聞いてしまう私)
マスター「かけますよ!リクエストにも応じます。お客によって、アナログとCDを区別するんですよ。」
    「レコードはもう、7000枚くらいあるんじゃないかな?
     昔は前を向いてジャズ喫茶をやっていたから、フリー系もかけたけど、
     今は後ろを向いて、ハードバップが主体になったね。
     その代わり、ジャズを知らない人にも、間口を広く開放してみたんだ。」
要するにジニアスは、中野新橋に隠居したわけじゃないんです。
場所を変え、スタンスも少々変えながら、人々にジャズを聴かせ続けているんです。

さて、この辺から、話はがんがんとマニアックな方向へ・・・
私   「私の知り合いに、佐賀県のジャズ・マニアの方がいらっしゃるんですが、
     その方はほとんどアート・ペッパーしか聴かないようなんです。しかも1975年以降限定で・・・」
マスター「それは凄い!徹底しているね。
     我々みたいな商売人でも評論家でもないんだから、そういう自由な聴き方が一番いいんだよ。
     でも、すべてアナログで集めるのは大変だろ?
     カル・ジェイダーのライヴにペッパーが飛び入りしたやつはCDでしか入手できないはずなんだけど・・」
    (注.主役のジェイダーよりも目立ってしまったアート・ペッパー伝説の初来日ステージです。)
私   「その方は昔のジニアスにも行ったことがあるそうで、
     中野新橋のジニアスは昔のジニアスとロゴが同じだが・・・同じ店なのか?というメールを頂きました^^」
マスター「へ〜、そうなんだ・・・それは嬉しいね!」

この辺から、話は日本のジャズ史そのものの話に・・・
私   「中平穂積さんの本に、マスターが登場されていましたよ^^」
    (注.中平さんは伝説のジャズ喫茶「DIG」のオーナーで、日本のジャズ文化を牽引した人物です。)
マスター「昔、中平さんの運転手をやっていたんだ。
     あの人にくっついてジャズをかけているうちに、お店が開けるような知識が身についちゃったよ。」
    「DIG渋谷店で700枚のレコードが盗難にあったことがあってね。盗難を最初に発見したのが僕なんだよ。
     すべて盗まれた棚に、ぽつんと1枚だけレコードが残っているんだ。
     見ると、ケニー・ドーハムの『マタドール』・・・『また盗る』という意志表示みたいでドキリとしたな。
     結局、渋谷をうろつく不良どもの仕業でさ、700枚のレコードを渋谷の警察署から、
     車をぎしぎし言わせながら、僕が取り返したよ。大変だったな〜あれは・・・」
    (注.有名なDIG盗難事件・・・でも当事者の口から事情聴取できるとは!!!)

私   「私は父にモダン・ジャズを教わりました。一番最初に行った店は神保町の『響』なんです。」
マスター「一番いいところに行ったんだね。よかったじゃない、大木さんのところで。
     店も素晴らしいし、マスターも人間的に素晴らしい人だしね。」
    「昔はね、変なジャズ喫茶も沢山あったんだ。
     僕、思うんだけど、ジャズ喫茶って暖かくなきゃいけないと思うんだよ。
     どこか冷たかったり、つっけんどんだったりする店も多かったな〜」

ジャズ喫茶は暖かくなければならない。
鈴木さんの口からその言葉が出た時、私は涙が出そうになりました。
ああ、だから渋谷の「ジニアス」はあんな雰囲気だったんだ・・・
だから大木さんの「響」もあんな雰囲気だったんだ・・・
そういえば神保町「響」(現、鵠沼海岸「響庵」)の大木さんの書籍にも、
こんなようなことが書いてあったような記憶があります。

「ジャズ喫茶で、不味い珈琲を平気でお客に出している店があるが、あれはいけない。
 ジャズ喫茶である前に、喫茶店でなければならない。
 喫茶店である前に、サービス業でなければならないんだ。」

「マスター、別のCDをかけてください!」というバイトの声を機に、
私は席を立ち、お邪魔しましたが、鈴木さんは、
「何にもないんだけど、佐賀県の方にこれを渡してあげて下さい」といって、
ジニアスのロゴ入りのライターをくれました。
マスターの心遣いが嬉しくて、私はまた涙が出そうになりましたよ。
佐賀のTさん、マスターから頂いたライター、後で送りますね^^

「ジャズ喫茶も少なくなってしまいましたね・・・」という私の問いに答えて、
鈴木さんはこうおっしゃいました。
「そうだね。理由わかる?みんな死んじゃうんだよ。」

ジャズを愛し、ジャズ喫茶で皆にジャズを聴かせてきたマスターたちが亡くなると、
ジャズ喫茶そのものも跡継ぎを失い、消え去ってしまう・・・
こんな寂しいことがありますか!
ジャズという音楽は、世界最高の音楽だと私は信じています。
誰かが後世に伝えていかないと、ジャズ自体が死に絶えてしまう。
鈴木さんや大木さんたち、ジャズ喫茶マスターの熱い熱い想い、
誰かが受け継がなくてはならないんです。

私はジャズという音楽から、語りきれないほど多くのものを得ました。
学校の先生なんか論外で、親からもこれほど沢山のことは教わっていない。
生涯の恩人でもあるジャズというものが、みすみす死に絶えようとしているのを、
ぼさっと指をくわえて、安穏と見ているわけにはいきません。
私には、ジャズ喫茶を開くことはできないかもしれません。
また私には、自分が演奏することでジャズを広めることはできない。
でも、私には、ペンの力でモダン・ジャズの素晴らしさを広めることだけはできるんです。

私たちジャズ者には、どんな形であれ、
ジャズの素晴らしさを後世に残していく義務があるんです。
田村、年永、お前らがバイトしていたジニアスは、立派に生きてるぞ!

鈴木さんのジャズへの熱き想い、
拙筆ながら、残させていただきました。