徒然草37「沈みゆく国」 (2010.12.23up)






人偏に夢と書くと「儚(はかない)」という文字になるが、人の見る夢は本当に儚いものなのかも知れない。ついそう思ってしまうほど嫌な世の中だ。

この国の政治は今、去年の夏に国民が自らの一票で実現させた政権交代がまるではかない夢であったごとき情況になっている。ボクたち国民の多くが民主党政権に抱いた期待は、それこそ夢に浮かされて抱いたもののごとく萎んでしまった。実に嘆かわしい。

鳩山政権時には米軍普天間基地問題でミソをつけたがそれなりの改革努力が感じられた。しかし、菅政権になってからは自公政権時に時計の針が戻った感が日に日に増している。政権奪取時の公約(マニフェスト)は次々と修正されていき、今や影も形もなくなりつつある。「国民の生活が第一」は「政権の維持が第一」に変わり、「政治主導」は「官僚支配」に後戻りして、「地方主権による地方経済活性化」は捨て置かれている。「自主外交・対等な日米関係」は何ら進展せず、むしろ「対米従属」が鮮明になる一方でアジアの国々との関係が悪化の一途を辿っている。その結果、60%半ばだった内閣支持率が20%そこそこまで落ち込み、七月の参院選に続き相次ぐ地方選挙でも惨敗を続けている。

菅首相はじめ現政権の主要閣僚と民主党執行部を見ていると、残念ながら、国のため国民のために我が身を投げ打ってでも改革を進めようとする気概が感じられない。「今がよければ、自分さえよければ」良いらしい。彼らは、国民との約束を反故にしても何だかんだと屁理屈をつけて自分たちを正当化し、支持率低下も選挙での惨敗もマスコミが創り上げた「小沢一郎元代表の政治とカネ」の問題のせいにするのだから責任転嫁・責任回避もはなはだしい。

何事もすべて自分が正しいとする唯我独尊的思考で、私利私欲に基づく政権維持のための近視眼的な判断ばかりしている。それどころか、自公政権ですら躊躇したことを、国会での議論はおろか党内議論さえ経ずに打ち出してくる。政権基盤が揺らいでいるにもかかわらず、まるで独裁政権さながらの様相を呈しているから末恐ろしい。

たとえば「武器輸出(禁止)三原則」の見直しだ。日本との共同開発技術を使って製造した武器を全世界に輸出したいアメリカからの要請に応えるためである。沖縄の普天間基地問題については、「沖縄県民は日米合意の県内移設を甘受してもらいたい」と言って、沖縄の民意を無視する。アメリカの機嫌をとることが国益に叶うと思っているらしい。
 内政面でもおかしなことは多々ある。

官僚の天下りを事実上認める「現役出向」制度を閣議決定した。「公務員人件費20%削減」の公約はどこかへ消え去り、公務員給与改正は人事院勧告の1.5%下げを了承したばかりか、特別公務員たる首相と閣僚並びに各省庁の局長クラス以上の官僚の給与カットは0.3%未満にとどめた。首相と閣僚が率先して給与20%カットをやらずして支持してくれとはおこがましいかぎりだ。

また、過去二十年間で税と社会保険を含む国民負担増総額は約220兆円であり、その間の企業減税総額はほぼ同額の約200兆円にのぼる。そして現在、一部上場企業は全体で200兆円を超える内部留保を持っている。それなのに「法人税5%減税」に踏み切った。企業減税が回りまわって庶民のフトコロを潤すなどというのは古びた経済学の机上の空論に過ぎない。更には、「NIE(Newspaper in education=授業時間に新聞を読んで学ぶこと)」を来年度から義務教育課程に入れることも決めた。政府が新聞の販売拡張に手を貸すなど前代未聞だ。

ことほど左様に、自民党も平成になってからはそうだったが、菅民主党の眼が国民生活向いていないことは明らかだ。鼻摘み者のボクまでが鼻を摘みたくなる胡散臭さだ。

 バブル崩壊以降の日本は、従来の政治行政システムが立ち行かなくなったところにアメリカ式市場経済原理主義が不用意に導入された結果として、様々な分野で格差が拡大して社会全体を閉塞感が覆い尽くしていた、その閉塞感を打ち破りたいが故に国民は政権交代を選択したのだ。民主党に大胆な改革を期待したのである。であれば、いかに官僚の抵抗が強くても、自分たちが総選挙で提唱した政策を実現する努力を続けなければならない。

しかるにその覚悟に欠ける現政権は、官僚の抵抗にあっさり負けて財源を捻出する改革努力を怠り、自公政権以上に官僚依存を強めている。挙句の果てに「政治主導などと軽々に言うべきではなかった」としゃあしゃあと言う。ならば政権の座を降りろと言いたい。しかも、政権交代の立役者を、自分たちを政権の座に導いてくれた仲間を、自分たちの現在の地位を保持するために排除しようとしているのだから呆れ返る。

♪義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界〜

ボクが尊敬する俳優の高倉健さんが歌った演歌『唐獅子牡丹』の一節だ。義理と人情はともに大切だが、どちらか一つを取れと言われれば男は義理を取らざるを得ない、という日本人の心に響く言葉である。しかるに、恩義も顧みず、人情すら捨て去って自己保身に走る現政権の幹部連中の所業には反吐が出る。

江戸っ子の特徴を端的に表した言葉に「義理と人情と心意気」というのがあるが、研究者によると、江戸庶民の生き方の中心となっていた観念は「自立と共生」だそうだ。他人に頼らず真面目に働き、それでも困窮すると周囲の者が手を差し伸べる。個人の尊厳を大切にしつつ互いに助け合うことで、決して裕福ではないが毎日を活き活きと暮らし、他人を思いやる心の豊かさを身につけていたのが江戸庶民だったようだ。

また、映画やドラマの時代劇で「おいら江戸っ子だい、宵越しのゼニは持たねぇよ!」という台詞をよく耳にするが、金欠の実態を「心意気とやせ我慢」で吹き飛ばす言葉であり、庶民にとってお金がないことが正直者の証であったようだ。

明治維新によって新しい時代が到来してからもこうした庶民の生き方は脈々と受け継がれて、「愛情、責任、礼儀」に満ちた社会が続いていた。フランスの詩人で、1921年から6年間も駐日大使を務めたポール・クローデルは在任当時、「命あるものへの愛情、更には家族や地域社会や自国民に対する愛情が日本人は傑出していて、こんな国は見たことがない」と、本国への報告に書き記している。彼はその後、太平洋戦争によって日本が焦土と化した時にもこう述べた。
「日本の人々の心の中には希望がある。こういう国は必ず復活する」

 立ち戻って現在。果たして日本人の心の中に希望はあるだろうか……。
「無さそうだなあ」と、つい、ボクは呟いてしまう。

自国の伝統ある文化とその根源をないがしろにして環境も発生過程も異なるアメリカ流の手法を先進的だとして進めることは、自己を失うことと同義である。現政権がまるで自公政権の小泉時代に戻ったような政策を進めていけば、日本がどん底に沈んでしまいそうな気がしてならない。

どん底まで沈んだとして、もう一度立ち上がれるだろうかと考えると無理なような気がする。気概も迫力もない日本人が多くなり過ぎている、それも政治家や財界人の中に。

日本はすでに人口減少期に入っている。2050年に8000万人台に、2100年には4000万人台まで人口が落ち込むと推定されているのに、今沈んだら、多分この国は終わる。ボクたちが生まれ育ち子々孫々が暮らしていくこの国を、今生きている世代で終わらせてはならない。今、ボクたち国民のひとり一人が、この国を終わらせないためには何をするべきかを真剣に考えなければいけない時が来ている。

 

                         [2010年12月23日]