危険水域



    連載第九回 冬来春不遠







 十二月三日土曜日。前日は都心からも富士山がくっきり見える晴天だったのに、この日はあいにく夜半から冷たい雨が降りはじめた。
 うとうとするだけで熟睡できない一夜を過ごした島崎浩二は、午前五時過ぎに寝床を出た。アパートの寝室の窓のカーテンを引くと、まだ暗い外の景色が霞んで見えた。

「霧雨か……。大降りにならなきゃいいけど……」
 そぼそぼと降る雨を眺めながら島崎は独りそうつぶやいた。年中無休をうたった山本鉱油八王子店はいよいよ今日、新規開店する。
 とにかく身を清めようとユニットバスで熱いシャワーを浴びた島崎は、仕上げに冷水を浴びて身を引き締めて、真新しいユニフォームの袖に手を通した。普段は店のロッカールームで着替えるのだが、新たな出陣日を迎える前夜、ユニフォームを自宅に持ち帰っていた。


 六時十分。愛用のマグカップにたっぷりいれたインスタントコーヒーをすすり終えるとアパートを出て八王子へ向った。武蔵境から三鷹街道を南下して調布で甲州街道に出る。霧雨に煙る甲州街道は上り線もまだ車影はまばらで、下り線はガラガラである。行く手を遮(さえぎ)るものはない。ほの暗い道筋もやがて明るくなる。島崎は自分の将来を左右するに違いない新しい店の前途に希望を抱きつつ、三十分余りで八王子に到着した。
 島崎はまずドライブウェイの点検をした。完成したばかりの店である。コンクリートのひび割れなどあるはずがない。が、入念に目を配った。
 セールスルームドアの鍵を開けて中に入る。前夜飾りつけた商品陳列台を眺めながら従業員控え室に移って電源をすべてONにする。注油室のシャッターを上げて再びセールスルームに戻る。
 レジ・システムの稼動状況をチェックしているところに、ザザーッと、タイヤのトレッドがドライブウェイの雨水をさばく音が店内に響いた。涼子の車だった。


「おはようございます、所長さん。本日はご開店おめでとうございます」
 そう言って深々と頭を下げた涼子は顔を上げるとペロッと舌を出しておどけた。
「朝ご飯まだでしょ、島崎さん。これ、今のうちに食べておくといいわ」
 涼子は濃い紫色の風呂敷に包んだおせち料理用の重箱を差し出した。開けてみるとまだ湯気の立っているおにぎりと色とりどりのお惣菜がぎっしり詰まっていた。
「こいつはありがたい。涼ちゃんありがとう。俺、やっぱり落ち着かなくてさ。起きてすぐに出てきたからまだ何も口にしていないんだ」
 微笑んだ島崎は心の温もりを感じさせるおにぎりを頬張りながら式典用の品物のチェックにかかり、従業員控え室に移った涼子はお湯を沸かした。
 まもなく副所長の吉村が他のメンバーを乗せたワゴン車で到着し、打ち合わせ通りに開所式典の支度を開始した。紅白の幕を防火壁に張り巡らせ、来賓席を作り、真新しい給油ポンプにオープンカット用の紅と白のテープをつけ、
小一時間の後、近くの神社から神主が到着して祭壇も出来上がった。
 社長の山本恒彦が元売の松本支店長と一緒に到着した九時には、式典準備はすべて整っていた。直後に元売本社の鏑木(かぶらぎ)販売統括部長が到着し、続いて特約店会の幹部や地元の石油商業組合の役員などが次々に訪れ、式典参列者もすべてそろった。幸いに霧雨もやんだ。


 予定通り九時半にはじまった新しい店舗の幾久しい繁栄を祈る神事は三十分ほどで終了して、祝賀パーティに移った。
 来賓代表として最初に挨拶に立った鏑木は、こんな話をした。
「有望なマーケットにこれだけの広さと先進機能を備えた店が出来ました。優秀な人材も配置されております。山本鉱油さんには、いかに厳しい環境にあってもやるべきことをやれば必ず成功するのだという見本を見せてもらいたい、と私は思っております。本来ならばここで開店おめでとうと言うところでしょうが、一年経って、業績を不動のものにした時に改めてお祝いを言わせて貰うつもりであります」
 山本は冷え冷えとした大気の中を熱い閃光(せんこう)が走るのを見た。心の奥底から意欲と確信が湧き立つのを感じた。力強く前に踏み出すことが結局は困難や危機から遠ざかる確実な方法なのだと思った。
 鏑木に続いて挨拶に立った組合役員は業界の秩序と商道徳を守ることの大切さを強調した。その話し振りは、山本鉱油の八王子店がこの地区の同業者たちにとって明らかに脅威となっていることを裏打ちしていた。

 営業を開始する午前十一時には開店セールに訪れた客の車が店の前の道路に長蛇の列をなし、先頭車両の前で島崎が開店を告げると店内は足の踏み場もないほどに賑わった。二日連続の新聞折込と広範囲にまいたチラシが功を奏していた。島崎を先頭にクルーの全員がテキパキと接客をすすめる。が、容易にはさばき切れない。それほどの大盛況で、午後には高円寺から応援部隊が駆けつけた。
 誰もがわずかな休憩を取る暇もないほどごった返した初日も夕方の来店ラッシュ時を過ぎると少し落ち着いた。
 午後七時。副所長の吉村に後を頼んだ島崎は、山本の車を運転して源七郎の新居へ向かった。ささやかな記念夕食会が予定されており、島崎も招かれていた。

 すっかり暗くなった国道十六号線を車が南下する途上、山本は淡々とした口調で島崎に語りかけた。
「近い将来、島崎には私の片腕として会社の経営に参加してもらいたいと思っているんだ。実は、八王子が軌道に乗ったら元売の貸与店をもう一軒やらないかという話が来ていてさ、朝の鏑木さんの言葉にはそういう含みがあるんだ。そうなれば私一人ではとても眼が届かない。全体を眺めながら仕事をする人間がもう一人か二人は必要になる」
「そうだったんですか……。でも社長。僕が社長の期待に応えられるかどうか、正直なところちょっと不安です」
「大丈夫だ。島崎なら出来るよ。ただし条件がある。まずは八王子店を成功させること。次に来年中にもう一人所長候補を育ててくれ。三つ目は島崎に続ける人間を私と一緒に育てることだ」
 一つひとつ肯(うなづ)きながら話を聞いていた島崎は、今こそあの件を切り出す好機だと思い、山本が話し終えるとおもむろに切り出した。
「社長。僕の方にもひとつだけ条件を出させていただけますか?」
「ああ、いいとも。この際、大抵のことはOKだ」
 気軽に答えた山本の耳を予想外の言葉が襲った。
「涼子さんと一緒になりたいんです」
「えっ! な、なんだって?」
「涼子さんと僕を結婚させて欲しいんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか、島崎……」

 思いがけない島崎の言葉に動転した山本は車を路肩に停めるように指示した。
「りょ、涼ちゃんは承知なのか?」
「はい。承知してくれています。出来れば社長に仲に入ってもらえると助かるんですが……」
「私が仲人をするという意味か?」
「はい、できましたら……」
「う〜ん。正直、驚いたよ」
 島崎たち二人のことには本当に気づいていなかったらしく、山本は眼を丸くして嘆息した。その山本に島崎は、これまでの涼子と二人で育んできた愛の経緯を事細かに話した。
「そういうことになっていたのか……。涼ちゃんもなかなかやるもんだ。よし、その条件を喜んで呑もう」
 満面に笑顔をたたえた山本が手を差し出し、二人は固い握手をした。

 源七郎宅に着くと、玄関先で涼子が二人を出迎えた。

「遅かったわね。二人してどこで油を売ってきたの?」
「いや、あのさぁ。例の、前に見た夢の話をしてたんだよ、二人で……。島崎が私の夢の続きを見たって言うものだから……。その夢の中では涼ちゃんが嵐の海に投げ出されるんだ。溺(おぼ)れそうになって波に呑まれかかったらしい。それを島崎が飛び込んで助けに行くんだそうだ」
「社長さんはどうしてたの? 大切な部下の私が溺れそうになってるのにまた傍観(ぼうかん)してたんでしょう……」
「いや、今度は違うんだよ。私は海には飛び込まないけど、板を一枚投げ入れる」
「あら、それだけ? お兄ちゃん、やっぱり冷たい人なのね」
「そうでもないさ。私が投げ入れた板には〈仲人承知〉と書いてある……」
「ええっ!」
 涼子はさっと顔を紅潮させた。
「涼ちゃん、おめでとう。この件はすべて私に任せてくれ」
 山本はポンと胸を叩いて玄関を上がると二人を残して、廊下を踏み鳴らしながら奥座敷へ入っていった。
 涼子は一気に熱くなった目頭を押さえた。全身から力が抜け落ち、腰が砕けかかった。その涼子を島崎が抱きしめるようにして支えた。が、まもなくいつもの気丈な顔にもどった涼子は、島崎を案内して二人の花道のような廊下を歩いた。外は再び雨が降りはじめ、濡れそぼった庭の樅の木がその葉をきらきらと輝かせた。


                「第一部 イン・ザ・ストーム」 完