第一章 居酒屋のマドンナ 【9月9日up】
春爛漫――。櫻渓大学のキャンパスにも満開の桜が咲き乱れていた。爽やかな風が演出する桜吹雪の下を、晴れやかな笑顔で、あるいはいささか緊張した面持ちで学生たちが歩いている。
その学生たちの中に、ラフなポロシャツ・ジーパン姿でポニーテールに結んだ長い髪を後ろに靡かせている、ひと際目立つ女性がいた。一七〇センチ近い上背があり、端整な容貌と見事に均整のとれた肢体をしている。彼女は桜庭舞子、二十四歳。二年間のOL生活を経て、この春から櫻渓大学の法科大学院で学び始めた弁護士志望の大学院生だった。その舞子の下宿先は、櫻渓大学前からバスで十分ほど行った「ひなたやま」にあった。
ひなたやまというのは、横浜と川崎の市境に続いているゆるやかな丘陵の一角で、呼び名通りに陽当たりがいい。JRや私鉄の最寄り駅まで徒歩だと三十分以上かかるのが欠点といえば欠点だが、都心からそんなに離れていないのに、緑豊かな田園風景が心を癒してくれる爽やかな土地だった。
バスの停留所から南に延びる八メートル幅の通りを挟んで商店が軒を並べ、その後ろに細々とした住宅が密集しているが背の高い建物はなく、『昭和』を思い起こさせる町並みが広がっている。商店が途切れる南の端から西へ足を向けると旧い分譲住宅地があり、そこの東南の角にポツンと一軒、居酒屋があった。女将の名は立花泰子といい、『酒処やすこ』という小さな看板をあげていた。
立花泰子がこの店を開いたのは九年前の師走だった。彼女はその二年前に夫を亡くしていた。贅沢さえしなければ人並みの生活は出来るだけの遺産があったとはいえ、亡夫の影を慕いながら独りひっそりと暮らす日々は寂しく味気ない。彼女は夫の三回忌法要を終えてまもなく一念発起した。居酒屋を開くことにしたのである。町の自治会長を務めていた夫の友人たちからの勧めもあったし、惣菜作りには自信があった。レパートリーも広い。それが活きると思った。
庭に面する応接間と次の間を改造した店は、カウンター席が七つだけのこじんまりしたものだったが、泰子にはそれで十分だった。新規開店を告知する宣伝の類いは一切しなかったためにしばらくは閑古鳥が鳴き続けたが、桜が散り若葉の緑がまぶしい頃になると、お惣菜の美味さや泰子の慎み深く温かい人柄が口の端に乗って、常連客が少しずつ増えていった。
値段の安さも魅力のひとつだった。ビールや焼酎・日本酒などアルコール類はそれぞれが三百円、お惣菜もすべて一皿三百円。客にすれば夏目漱石さんが一枚あれば事足りる。二枚もあれば舌を喜ばせたうえに酔っ払える。福沢諭吉さんは勿論のこと、新渡戸稲造さんがお留守でも心配はない。
だから、まずはアパート暮らしの独身サラリーマンや学生たちがちょくちょく通いはじめた。次いで商店の旦那衆やご隠居さんたちが顔を見せてくれるようになり、夏が過ぎ野山が色づく頃には客足が途絶える日はほとんどなくなった。
当時の常連客の中に「ひなたやま四天王」を自称している滅法競馬好きな熟年四人組がいた。四人とも小遣いの工面に四苦八苦している身だから、大きくは賭けられない。それだけにいつも夏目漱石さんを大枚の福沢諭吉さんに換えようと血眼になっていた。とはいっても所詮は下手の横好き。的中馬券を手にした話はついぞ聞かなかった。それでも一向に懲りない連中を年の若い順に紹介してみよう。
先ずは老舗豆腐店四代目の白壁凡平。店でつくる豆腐と同じ生白い顔を突き出して呑気なことばかり言っている。次が蔓野鶴雄、理容室ツルノの婿養子である。舅姑への気の遣いすぎですっかり髪が薄くなっているが、ピント外れで唐変木なところとバーコード頭が客に優越感を与えるらしく家業の方は至って順調だった。続いて自称小説家の樺山次郎。他のお客の会話にも平気で割って入る悪癖のあるへそ曲がりで、屁理屈をこね始めると際限がない。文才より我の強さの方に一目おかれている。そして最年長が讃岐金之助。年金暮らしの元小学校長だが教育者らしからぬ曲者で、以前から競馬資金稼ぎのために教育委員会の仕事を無理やり手伝って迷惑がられている。毎年、晦日が来ると居酒屋『やすこ』でガックリ肩を落としてしんみりと額を寄せ合っているのがこの四人だった。
そして、歳月は瞬く間に流れ、五年の時を刻み、夏目漱石さんは野口英世さんに、新渡戸稲造さんは樋口一葉さんに代替わりした。
――「そうか、あの話の続きだな」と、もう気がついた方もおられると思う。そう、この物語は、五年前に筆者が同時進行形で書いた競馬エンタテイメント小説『すぐそこにある万馬券』の続編というか、姉妹編というか(呼び方はどうでもいいけれど)、要するに同じ舞台に同じ人物が登場してハチャメチャなことを繰り広げて何となく終る小説である。前作と違うのは、登場人物がそれぞれ五つ歳をとっていることと、うら若き美女がヒロインを演じること。「なんだ、その程度の話か」とガッカリされる向きもあろうかと思うが、書きはじめた筆者には「内心期するものがある」ことを先にお伝えてしておく。とはいえ、決して期待してくださいと言っているのではなく、どんな風にストーリーが展開するか、興味を持って読んでいただきたいとお願いする次第である。――
さて、話を本編に戻そう。
居酒屋『やすこ』の常連客もそれぞれ泰子と同じだけ歳をとったはずだが、相変わらず下手な競馬予想に熱中している熟年男たちにその意識はない。が、メンバーが一人欠けていた。執拗な薀蓄で周囲を辟易させていたタヌキ先生こと元小学校長の讃岐金之助は、去年の秋に故郷の四国高松に戻っていた。そのため残った三人はこの頃、『ひなたやま三銃士』だと称している。
しかし、リーダー格の自称小説家・樺山次郎のへそ曲がりな屁理屈をこね回す癖は還暦を過ぎても一向に改まらず、文才より我の強さの方にますます磨きがかかっている。「今年はやりますよ、ゴーゴー!だから」と五十五歳になったことを下手なダジャレにしか出来ない床屋の婿養子・蔓野鶴雄は、頭のバーコードがまばらになってきたこと以外は何の変化も進歩もない。相も変わらず唐変木ぶりを発揮してお客に笑われている。老舗豆腐店四代目の白壁凡平も、店でつくる豆腐と同じ生白い顔の顎を突き出して、能天気なことばかりしゃべっている極楽トンボであることに変わりはない。五十二歳の熟年店主というのは身上書の上だけのことである。
この三人が「三銃士」を名乗り始めたのには、理由がもう一つあった。この春から女将の家に下宿している若くて見目麗しい女性が週末の居酒屋『やすこ』を明るく彩っているからである。彼女は櫻渓大学の法科大学院で学んでいる泰子の姪だった。本人の前では口にしないものの、三人の間では彼女を「姫」と呼んでいる。
桜庭舞子は、日本橋室町の福徳神社近くに事務所を構えている敏腕弁護士・桜庭東吾の一人娘だが、お嬢様育ちなのに気取ったところのないさばけた性格をしていた。明朗活発で人あたりも良いが、女らしい恥じらいを示す可愛さもあった。その舞子が、父の指示で、週末の二日間は伯母の居酒屋を手伝っている。
若くて気が置けない美人が、しかも大学院生の才媛がいるとなれば、当然衆目を集め、噂が噂を呼ぶ。『居酒屋のマドンナ』の評判は日に日に高まっていった。そんな訳で、週末の金曜日と土曜日の居酒屋『やすこ』は、一度でいいから親しく話をしてみたい、出来ることならお付き合いさせてもらいたい、という学生や独身サラリーマンでごった返すようになっていた。
「どうしようもないな、今どきの若い奴らは……。なっ、ハンペー」
「そうだよ、カバさん。あいつら、長幼の序てぇのを知らねぇからなぁ」
「ハンちゃん、何なのよ? その、チョウチョ何とか、ってのは……」
「ツル。お前、いい歳して長幼の序も知らないのか? 若い者は年上の人を敬いなさいっていう、昔からある日本人のマナーだよ」
「そう? あっ、そうか。年功序列と同じ意味でしょ、カバさん?」
「おい、誰でもいいから、この唐変木に広辞苑を持ってきてやってくれ!」
カバとは樺山次郎の、ツルが蔓野鶴雄の、ハンペーは白壁凡平の通称だった。
土曜日の常連である古株三人は、以前からの優先指定席がちゃんと確保されているにも関わらず、落ち着きが薄れてしまった店の雰囲気に不満を感じていた。というより、自分たちの『舞子姫』にまだケツの青い若造どもが話しかけるのが気に食わない。要は、年寄りの焼き餅みたいなものである。
そこで考えたのが、自分たちを『三銃士』と称することだった。美しい舞子姫を守る白馬の騎士になったつもりだったが、如何せん、三人ともメタボリック体型だし、今流のイケメンには縁遠いオッサン顔をしている。白馬の騎士というより、ロバに跨ったドン・キ・ホーテである。しかし、そんなことはおくびにも出さずに、舞子の保護者面をして若い客たちを取り仕切った。
舞子から見るとカバもツルもハンペーも、父の東吾とあまり年の違わない、お人好しのオジさんである。が、カミソリ東吾と綽名されるほど頭の切れる父に比べると、夫々が大人としてはどこか抜け落ちていて子供っぽさが目立つことにかえって好感を覚えていた。
「樺山のオジさま」、「蔓野のオジさま」、「白壁のオジさま」
初めのうち舞子は三人をそう呼んでいた。その丁寧で品のいい呼び方がまた嬉しくてたまらない。三人は心の中で、遠い日の初恋気分をこっそり味わっていた。だから、若い連中は目障りで邪魔になるし、「悪い虫は俺たちが追っ払ってやる!」と張り切るのも無理はないが、どちらかと言えば動機は不純である。
その熟年三人組が、ゴールデンウイークが明けてすぐの頃に、方針を転換した。
「舞子ちゃんとは、俺たち、親戚みたいなものだから……」
親戚でも何でもないのに勝手にそう決めつけたカバは、図々しくも実の伯父のような顔をしてふんぞり返り、舞子に命令した。
「舞子ちゃん、今後俺たち三人のことは、カバ・ツル・ハンペーと呼びなさい」
唐突に呼び方を変えろと言われた舞子の方は、相手は父と同年配の人たちだから、さすがに「はい、そうします」とは応えられない。
「でもわたし、今の方が……」と戸惑いを示した。幼い頃から親しい年配者をオジさまと呼んできた舞子にとっては、今の呼び方が自分の気持ちに忠実な表現方法である。
が、俗世間の水にどっぷり浸かっているカバたちにその乙女心は伝わらない。
舞子が気分を害したと勘違いしたらしいカバは、突然態度を一変させ、先ほどの横柄な態度が嘘だったように深々と頭を下げた。並んで腰掛けているツルもハンペーもカバに習って平身低頭した。
「舞子ちゃん。頼むから……、お願いだから……そうしてくれないか? いやね。ここにいる唐変木と極楽トンボが、舞子ちゃんにオジさまって呼ばれるたびに尻がこそばゆくていたたまれないらしいんだ。なっ、そうだったよな?」
ガバが二人を指差して、いかにも自分は違うと言いたそうな素振りをした。それが癪に触ったらしいハンペーが、「ガバさんだって尻がムズムズするって言ってたじゃないか!」と不平を鳴らした。
オヤジ軍団の気まぐれに、舞子は弱り切ってしまった。その姪の困惑に助け舟を出したのは、やはり女将の泰子だった。
「舞子ちゃん。カバさんたちの言う通りにしておあげなさい。皆さん、その方が気が楽みたいだから」
「さすが! ひなたやま一の美人女将はいいことを言ってくれるよなぁ」
カバは慣れないお追従に声を上ずらせ、そのカバの手をツルとハンペーが感極まった表情でぎゅっと握り締めた。
つくづくおかしな熟年男たちである。舞子は内心呆れて三人をみつめた。が、次の瞬間、舞子はあわてて口に手を持っていった。湧き立つ笑いをこらえきれなくなっていた。
何はともあれ、この日の出来事が、居酒屋のマドンナと熟年オヤジ三人組が後に『ひなたやま探偵団』を結成する端緒となったのである。
つづく
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