【10月11日up】
第二章 おカメさんの孤独死
開店当初から『居酒屋やすこ』の常連客である三人組はこの頃、すでに熟年に達している年齢を顧みず、しかも臆面もなく、自分たち三人は「マドンナ舞子姫を守るひなたやま三銃士」だと吹聴していた。
しかし、決して舞子本人の前ではそのことをおくびにも見せないし、口にも出さない。いや、出さないのではなく、出せないと言った方が表現としては適切だろう。三人とも元来気が小さくて照れ症なのである。にもかかわらず、舞子の気を惹きたい、舞子の親戚同然に振る舞いたいという手前勝手な思いを抱いているものだから、必然、言動が曖昧なものになる。その不自然さを隠すために、三人は週末の『居酒屋やすこ』では競馬のG1レース予想に口角泡を飛ばしていた。しかも、舞子がその様子を微笑ましく眺めてくれるから、ますます熱が入っていた。
ところが、この滅法競馬好きな熟年三人組が絶対に賭けないG1レースが一つだけあった。日本ダービーの翌週に行われる『安田記念』がそれである。舞子にはそのことが不思議に思えたが、一人の老女の孤独死が彼らにそうさせていた。
*
五年前の安田記念検討の夜のこと――。
へそ曲がりのカバこと自称小説家の樺山次郎を中心に元小学校長のタヌキ先生こと讃岐金之助も加わっていた『ひなたやま四天王』は『居酒屋やすこ』のいつもの指定席にいた。普段はカウンター席の後ろに立ち飲み客があふれるほど賑やかな土曜日の夜なのにこの日は至って静かだった。というのも、女将の立花泰子が日本ダービー予想では閃かなかったものだから、泰子のご託宣を聞きに来る“さもしい根性”の櫻渓大学生たちは途端に姿を消し、同窓の大先輩カバを慕っている貧乏学生トリオだけが隅っこに座っていた。
「やすこさん、俺、今ふっと思い出したんだけどさ。安田のバアさん、どうしてるのかな? 去年の暮れ以来トンと顔を見かけないけど……」
すでに古希(七十歳)を過ぎた安田カメは、ひなたやまの麓の、隣町との境にある古いアパートで一人暮らしをしていた。身寄りがないせいもあってか、ある宗教団体の熱心な会員だった。年金だけが頼りの倹しい生活を切り詰めて毎年かなりまとまった額のお布施をしていたおカメさんの楽しみは、月に一二度『居酒屋やすこ』でお惣菜一皿を肴に日本酒一合をゆっくりと時間をかけてなめることだった。が、そのおカメさんが姿を見せなくなって半年が経っていた。
前の年の師走の木枯しが吹き荒れた日のおカメさんは暗く沈んでいた。何かあったのかとカバに尋ねられてしばらく逡巡していたおカメさんだったが、切羽詰った顔つきで訥々と打ち明けた悩みの種はこうだった。
教団のブロック長から十万円のお布施をするように言われているがその仕度が出来ない、一万円にしてもらえないかと頼んだら信心が足りないと怒鳴られた、十万円を用立てるには今月末に受け取る国民年金二か月分のほかに手元の蓄えのほとんどを差し出さなければならない、家賃も払えなくなるし日々の生活が出来なくなる。そう言っておカメさんは皺だらけの顔をゆがめた。
カバは、(おカメさんはお布施の額と信仰の厚さが正比例するような教えを真に受けて苦しんでる)と思った。
カバと並んで座っていたツルは、床屋の婿養子に入る前の名前を亀谷鶴雄という。彼のオメデタイ性格は鶴と亀とが揃った目出度い名前のせいかも知れない。が、それはさておき、名前の縁もあっておカメさんを人一倍いたわってきたツルは、「一円だって出すことはありませんよ。信心はお金じゃなくて心でするものですから」とおカメさんを諭す一方で、今まで皆の前で見せたことのない怒りの感情を露わにした。
「やることが酷過ぎるよ!」
鬼の形相になって宗教団体とそのブロック長を非難し激しく憤るツルが、カバには別人のように見えた。
居合わせた誰もが、今回だけはお布施をやめた方がいい、仏様は間違いなく許してくれると口々に言い、おカメさんは涙ながらに聞いていた。
その夜から半年の月日が流れ、木立は青葉を茂らせ風は蒸し暑かった。
「わたし、皆さんには黙っていようと思っていたの、悲しい出来事だから……。実はね、おカメさんが亡くなったの、二月の末に……」
「な、なんだって! どうしてなんだ?」
カバは眉をひそめ、ツルの頬は引き吊っていた。重たい空気がずしんと天井から降りてきて皆の身動きを止めた。呼吸が荒くなり、胸の鼓動も高まり、わずかな沈黙の時間がその場の誰にも、とてつもなく長く息苦しく感じられた。目頭を押さえた泰子は続けた。
「お彼岸の頃だったかしら、駐在さんがおカメさんの身寄りの人を知らないかとお見えになったのは……。うちのマッチがいくつも、部屋の隅の整理箱の中にあったらしいの」
「なるほど。それでイヌのおまわりが……」
犬塚弘行という駐在警察官をカバはそう呼んでいた。
「ええ、そうなの。駐在さんのお話では、その二日前に夕食時を見計らって大家さんが訪ねたらしいの、ふた月滞っている家賃の催促でね。でも、何度呼んでも返事はないし、裏に回ったら窓のカーテンがぴったり閉じてあるし、ドアの鍵穴から中を覗いてみたらしいの。そしたらおかしな臭いが鼻をついたそうで、連絡を受けた駐在さんと大家さんの二人で合い鍵を使って部屋に入ったんですって」
「それで?」とカバが先を促すと、泰子の瞳から涙がどっと溢れ出た。
「……布団にくるまったまま息をひきとっているおカメさんを見つけたそうなの」
聴いた途端にツルはうつむいて唇を噛み締めた。タヌキもハンペーも、いつも通りに隅で小さくなっていた貧乏トリオまでが涙ぐみ、目の周りを赤くしたカバがため息をついた。
「安田のバアさん、なけなしの金をそっくりお布施にしちゃったんだ……」
「そうしたみたいなの。おカメさん、ガリガリに痩せ細っていたって……」
「ちくしょう!」
床屋のツルが拳でドンとカウンターを叩くと突っ伏して泣き出した。凍りついた空気がツルの泣き声で震え、哀しみを増幅した。
誰もが皆、黙りこくって虚ろな視線を漂わせ、泰子の亡くなった夫が骨董屋で見つけてきた年代物の壁時計がカチッカチッと時を刻む中で、タヌキ先生がしんみりと哀しい思いを口にした。
「おカメさんは疲れ果てたのでしょうなぁ。あれだけ信仰心の厚かった方です。お布施をやめることは、たとえそれが一度だけのことであっても、彼女にとってはおすがりしている仏様を裏切ることになる。だからそうは出来ない。さりとて小額では上の人が許してくれない。ならばと、覚悟を決めるしかなかった……。私にはそのように思えます」
「そんなのねーよ!」
すすり泣きに変わったツルの傍らで豆腐屋のハンペーが叫んだ。
「宗教ってさぁ、先生。人を救うもんじゃないの? あいつら何で、おカメさんみたいな人から有り金全部召し上げんだよー。そんな権利があんのかよー。オレ、絶対に許さねー、あいつら。そのブロック長とかいう奴、見つけて叩きのめしてやる!」
「ハンさん、気持ちは私もあなたと同じだが、暴力はいけません、暴力は……。ハンさんがそうすることをおカメさんが喜ぶと思っておるのですか? 私はね、こう思うのですよ。おカメさんは生きてゆく気力を失ったのではないか……と。人生の最期に彼女は、今まで心を支えてくださった仏様にすべてを捧げようと決めたのでしょう」
「命まで捧げてなんになるってぇのよ、先生!」
「楽になりたかったのではありませんか? 仏様の御許にゆきたかったのでしょう」
「でも、騙されたんだよ! お布施が多けりゃ極楽で少なきゃ地獄、みてーな詐欺話に」
「ハンペー。そんなこたぁ分かってたんだよ、おカメさんも。幹部の連中を信じてた訳じゃねーんだ。けどよ、そいつらのずっと先には信じている仏さんがいらっしゃるってことさ。仏さんとつながる道を断たれることが怖かったんだよ、おカメさんは……。同じ仏さんがご本尊の別の宗教団体もあるよ。あるけどさ。やっぱり最初のつながりは大事なんだ。それが信仰ってもんだと俺は思うよ。だからいるんだよ、そういう信仰心を利用して金儲けする卑劣な奴らが」
「カバさんの言う通りですな。私もそういう悪辣な連中は憎い。憎いが彼らは法律で守られている。おかしな国です、日本という国は……」
「先生。こんなときに競馬の予想なんぞしてちゃいけませんや。今夜はおカメさんを偲んで思いっきり飲むことにしましょう」
カバがしんみりした口調でそう提案すると、その場の皆が悲しげにうなずいた。
*
「そんなことがあったのね……」
カバたちが数あるG1レースの中で『安田記念』だけは予想はしても絶対に馬券は買わない理由を伯母の立花泰子から聞かされた舞子は、彼ら三人の心根の優しさを改めて知って、ある種の感動を覚えていた。
そして、その『安田記念』レースの前日――。
いつもの土曜日と同じく熟年三人組が時計の長針と短針が上下に分かれて垂直になるのとほぼ同時に『居酒屋やすこ』の暖簾をくぐり、泰子と舞子は笑顔で迎えた。
「やすこさん。今夜の支度、してくれてるよね」
カバの問いかけに女将の泰子はにっこりうなずいてカウンター上の棚へ黒漆塗りの角盆を差し出した。そこには安田カメが好きだった旬野菜の煮物一皿とお銚子一本が載せられていた。
「女将さん、いつもながらありがとうございます」
旧姓は亀谷だった床屋の婿養子ツルが深々と頭を下げて礼を述べ、豆腐屋のハンペーは「うちの豆腐も入れといてくれたよね。おお、あった、あった」と嬉しそうに微笑んで、それぞれの指定席に着いた。
そしてまもなく、卒業した貧乏学生トリオに代わってカバの使い走りをしている仲良し貧乏学生の金田耕助と明智五郎が到着した。
「樺山先輩、ゴチになりにきました」
「おう、一文字足りずたちか。よく来た、よく来た。遠慮は無用だ。さ、そこに座って、今夜は思いっきり飲んでたらふく食え。勘定の心配はいらねーぞ」
「はい、ありがとうございます!」と声を揃えて喜んだ二人がなぜ『一文字足りず』なのかというと、金田くんは苗字に『一』を加えると『金田一耕助』となり、明智くんは名前の方に『小』を加えると『明智小五郎』となって、ともに小説世界の名探偵と同姓同名になることからカバはそう呼んでいる。時には「字抜けの脳タリン」などと酷い呼び方をするが、二人はシャラッと聞き流している。カバの性格をよく理解していた。
「カバさん、わたしね、毎年思うんだけど、おカメさんは本当に可哀相な人だったね」
予定の皆が揃って小一時間が経った頃、ツルがしんみりと呟くように言った。その目には涙がうっすらと滲んでいた。
「そうだよな。嫌な世の中になったもんだぜ、この頃は……。年寄りを邪魔にするようなことばっかでさ。年金の高齢者加算は止めちまうし、老人医療費の本人負担を増やしちまう。年寄りは早く死ねって言ってるようなもんだぜ、今の政府のやり方は」
「そうだよ、カバさんの言う通りだよ。そんでもって、金儲けに走る奴らには歯止めをかけずに放っとくてんだから世も末だな。おカメさんもその犠牲者の一人だと、俺、思うよ」
「ハンペー。お前の言う通りだ」
いつも底抜けに明るいカバも今夜ばかりは沈みがちだった。
「樺山のオジさま。そのおカメさんて……」と口を開いた舞子にカバは、「舞子ちゃん、そのオジさまは止めてくれないかな、くすぐったくていけねーから。カバさんにしてくれよ、頼むから」と照れた。
「ごめんなさい。それじゃ、カバさん。伯母から聞いたんですけど。そのおカメさんてご老人は孤独死されたんですってね」
「ああ、一人寂しく死んじまったんだよ」と答えたカバのそばからハンペーが「いや、殺されたんだよ、あのエセ宗教の奴らに!」と声を荒げた。
「えっ。どういうことなんですか、ハンペーさん?」
「殺されたのも同然だってことさ。食っていくのがやっとのわずかな金を全部持っていかれたんじゃ、餓死しちまうのは当たり前だろ? そんなことは百も承知のはずさ、あいつらだって。ところが情け容赦なくそれを召し上げたんだよ、あの教団は!」
ハンペーは怒りを煮えたぎらせ、いつもは自分が作る豆腐と同じような生白い顔を紅潮させた。
そこにツルが、「カバさん、実はわたし……」と、か細い声を出した。「今、やっと思い出したんですけどね。あの後で駐在の犬塚さんが頭を刈りに来られて、確かに孤独死なんだけど何か腑に落ちないものがある、って言ってたんです」
「どういうことなんだ、イヌのおまわりが腑に落ちないものってのは」
「いえね、具体的なことは話してもらえなかったけど、犬塚さんは現場の様子に疑問を感じたらしいんですよ」
「ふ〜ん、現場の様子にね……。しかし、ツル。こんな大事なことを忘れちまうなんて、やっぱりお前の唐変木は治ってねーな」
「哀しすぎて、早く忘れようとしたものだから……。すみませんでした」
「ま、それはそれとして、いっぺんイヌのおまわりから話を聞いてみる必要がありそうだ。おまわりの自宅はお前のとこのそばだったよな」
「ええ、歩いて一二分のところのマンションですけど」
「来週、いつでもいいからさ。犬塚にここに来てもらおう。ツル、お前があいつの非番の日を調べて、ここにご招待してくれ。勘定は俺が持つから、早速当たってくれ」
「わかりました、そうします」
にわかに事が動き始めたのを目の当たりにして、舞子の心は、事件への好奇心ではなく、彼らの強く心情に共鳴していた。生来の正義感がふつふつと煮えたぎってくるのを感じながら、緊張と興奮を覚えていた。
つづく
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