【4月23日up】
第三章 新興宗教『太玄光教』
ひなたやま商店街を南に抜けてすぐ先の、旧くからの分譲住宅が静かに建ち並んでいる一角にある『居酒屋やすこ』は少し変わった店構えをしていた。入り口が前の道に面していないのである。ごく一般的な住居の、玄関はそのままに、庭に面した応接間とその続き間を造り直したので入り口が庭の方を向いている。そのために、植栽豊かな広い庭の一部を区切って店へのアプローチにしていた。八畳近いスペースがあるそこには芝が敷きつめてあり、格子戸が昔懐かしい入り口まで『く』の字に飛び石が埋め込まれていた。
お客は、暖簾が出ているのを確かめてアプローチに足を踏み入れ、腰高の生垣越しに庭木の緑を眺めながら飛び石を渡る。季節ごとに掛け代わる藍染め暖簾をくぐって格子戸を引くと、白木のカウンターの中から「あら、いらっしゃい」という温もりのある声が柔らかな笑みとともに迎えてくれる。居酒屋やすこは、手前に五つと奥に二つ、カウンター席があるだけのこじんまりした店だった。それだけに客と店側の距離が近い。
しかも、今年六十四歳になった女将の立花泰子は気さくなだけでなく人柄もいいと評判だった。元々が良家の奥方だから品もいい。自然、客筋もよく、大人の隠れ家のように落ち着ける雰囲気の店が出来上がっていた。ところが、毎週土曜日だけは場末の居酒屋のような喧騒に包まれる。その元凶は『ひなたやま三銃士』を名乗る競馬好きな熟年三人組に他ならなかった。
その三銃士のうちの二人が、普段は顔を見せない水曜日の午後六時丁度に居酒屋やすこの暖簾をくぐった。自称小説家の樺山次郎と老舗豆腐屋四代目の白壁凡平である。
「あら、カバさんにハンペーさん。お二人とも、ずいぶん早いお出ましだこと」
「うん、何だか気が急いちまってさ」
カバこと樺山次郎がぼんの窪に手をやって苦笑いをする傍らで、ハンペーこと白壁凡平が、「俺がまだ早えーよって言ってるのに、カバさんがきかねぇんだよ。お陰で俺、トキちゃんに叱られたんだぜ、もっと商売に身を入れたらどうだって」と口を尖らせた。
トキちゃんというのはハンペーの愛妻・白壁鴇子さんのことで、十九歳の春に『ミスひなたやま』に選ばれた評判の美人である。瓜実顔の端整な容貌もスタイルの良さもいまだ衰えを知らず、むしろ重ねた歳月が女の艶を磨き上げていた。だから近所のスケベ中年たちがわざわざ朝早くに小鍋をもって豆腐を買いに来て色目を遣う。風采の上がらない旦那としては気が気ではないらしい。それもあってか、ハンペーは鴇子さんの言うことなら何でも素直に聞く。が、カバの言うことにも従うから時折りややこしいことになる。
「うん、鴇子さんがおっしゃる通りだ。ハンペー、反省しろよ」
「よく言うよ、このカバ旦那は……。俺とトキちゃんが揉めるときは大抵カバさんがその原因を作ってるってえのによ」
ハンペーは苦り切った顔でカバを睨みつけた。が、カバは馬耳東風、どこ吹く風かの面持ちでシャラッとしているものだから、ハンペーの目が三角になってきた。
「カバさん。駐在さんがお見えになるのは何時でしたかしら」
剣呑になってきたその場を和らげるように、女将の立花泰子が話を振った。
「あ、それね。床屋の唐変木が七時半にここへ連れて来ることになってるんだ」
カバは床屋の婿養子の蔓野鶴雄のことを唐変木のツルと呼んで憚らない。そのツルから、ひなたやま交番駐在の犬塚巡査部長はカバの招待に快く応じたとの報告が来ていた。
「そうだろ、七時半だったろ? 誰だ、一時間ほど早くなったって嘘こいたのは?」
「ハンペー。済んじまった話を蒸し返すのはよくねえぞ。『覆水、盆に返らず』てぇ譬えもあるだろうが……。過去のことは綺麗さっぱり忘れて未来のことを考えるのが大人ってぇもんだ。そんなに尖がってねぇで、ま、一杯やりな」
カバがお銚子を向け、ハンペーはお猪口で受けた。
「いつもこれだもんなぁ」と苦笑するハンペーに、泰子が「カバさんは寂しがり屋さんですものね」と微笑んだ。
と、その時、店内にパッと花が咲いた。泰子の姪の桜庭舞子が姿を見せたのである。
「どうしたの、舞子ちゃん。今日は水曜日だよ」と言ったカバの、贅肉で膨れた頬がタランと垂れた。ついさっきまで尖っていたハンペーの目も『ハ』の字に垂れていた。
「今日は皆さんがお揃いでお見えになると、伯母から聞いたものですから」
涼やかな声で答えた舞子の、笑みをたたえた顔が輝いている。カバもハンペーも眩しげに目を細めた。
「カバさん。駐在さんがいらっしゃるんですってね」と尋ねた舞子の艶っぽい視線にたじたじとしたカバが、「そ、そうなんだ」と、まだ酔いの回っていない舌をもつれさせた。
「あ〜あ、だらしねーなぁ、カバさんは……。メグミさんに叱られるぜ、他人様の前でヨダレをこぼしちゃいけませんって」
カバの奥方・樺山恵さんは、ガサツな夫とは対照的に、物静かで気品溢れる知的な美人である。カバは亭主関白を気取っているが、実際は、観音様の手のひらの上を飛び回っているだけの孫悟空のような、顔つきと体形から言えば猪八戒のようなものなのである。
「よ、涎なんぞ、だ、誰が……」
と尖らせた口の周りをさっと手のひらで拭ったカバが反撃に出た。
「脳みその代わりにオカラが一杯詰まってるのは前から知ってたけどな、ハンペー。お前のその目がおでん種の茹でたうずらの卵だったとは今の今まで知らなかったよ」
「な、何だって! 言うに事欠いて、俺のこの目がおでんのうずらだと!」
「そうじゃねーか。先の見通しどころか、目の前だって見えちゃいねぇじゃねーか」
「そういう自分はどうなんだよ。思い通りにならなきゃすぐにひっくり返って、我が儘のし放題でさ。皆言ってるぜ、あの人はカバさんじゃなくてバカさんだって」
「何だと! 俺がバカだと!」
「そうさ。カバをひっくり返しゃバカになるじゃないか」
カバとハンペーの口喧嘩は年中行事で、仔犬のじゃれ合いのようなものである。五分もすれば収まるのを知っている女将の泰子はニコニコしながら眺めている。
しかし、初めて目の当たりにした舞子は驚いた。その拍子に舞子の心理モードがパチンと切り替わっていた。
「こらっ、そこの二人! うだうだぐだぐだと、べらぼうめぇ。いい年齢した大人が互いの言葉尻をあげつらって口から泡を飛ばすなんざぁ、どういう料簡してんだい!」
「そ、それは……」
と口を開きかけたカバだったが、舞子の鋭い視線に恐れをなして口を紡いだ。
「みっとないとか、こっぱずかしいとか、思わないのかい、ええっ?」
「…………」
「ウンとかスンとか、返事をしたらどうなのさ、おたんこなす!」
「お、おたんこなすだって、俺たち……」とハンペーがカバの耳元で囁くと、カバは「お前のことだぞ、ハンペー」と囁き返した。
「こらっ! 人の話は真面目に聞くんだ。聞いてる振りしてりゃそれで済むと思ったら大間違いだよ、このスットコドッコイが……」
舞子はかなり本気になってオジさん二人の説得にかかっていた。その真剣な眼差しがまた色っぽい。不良熟年二人は舞子の話を聞くのではなく、舞子の表情に見惚れている。
「スットコドッコイってぇのはカバさんのことだぜ、うふふっ」
ハンペーがさも嬉しそうに肩をすぼめ、そのハンペーをカバがキッと睨んだ。
「あ〜あ、こりゃダメだわ。話が右の耳から左の耳に抜けてってるよ」と舞子が嘆息した時に、女将の泰子が自分の口に人差し指をあてて「舞子ちゃん」とニッコリ笑った。
「あっ、いけない!」
と、今度は舞子が慌てた。
「樺山のおじさま、白壁のおじさま、ごめんなさい。わたし、時々、無意識のうちにこうなっちゃうんです。失礼なことを言ってしまってごめんなさい。許してください」
頬を真っ赤に染めた舞子は二人に向かって深々と頭を下げた。
「カバさんもハンペーさんも堪忍してやってくださいな。この娘はね……」と、舞子の実の伯母である女将の泰子が語ったところによると、
桜庭舞子は、父の東吾がまだイソベン(他人の法律事務所に居候をしている弁護士)時代の、小学六年間を今も江戸情緒があちこちに残る下町の江東区深川で暮らしていた。負けん気が強くて男勝りな舞子の遊び相手はいつも男の子ばかりで、しかも空手道場に通い続けたという。中学に上がる年の春に深川から杉並区荻窪に引っ越したものの、下町っ子気質は身に染み付いている。その上に山の手の令嬢作法が織り重なって現在の舞子がある。そのせいか、舞子の心理モードは「山の手お嬢様モード」と「下町江戸っ子モード」の二つがあるとのことだった。
「なるほどね。俺もそうじゃないかと思ってたんだ」とカバが訳知り顔をし、ハンペーは「俺、江戸っ子モードの舞子ちゃんの方がいいな」と微笑んだ。
「お二人に分かっていただきたいのはね。どちらのモードでも、舞子は舞子なの。二重人格みたいに性格が変わる訳じゃないのよ。ただ、今ご覧になったように、言葉遣いと態度がコロッと変わるものだから、皆さん、びっくりなさるのよね」
と説明した女将の泰子は、舞子を振り返って「舞子さん、気をつけなさい。お相手がカバさんとハンペーさんだから許していただけたけど、他の方だったら大変よ」と叱った。
「すみません」と舞子は消え入るように身を縮めて再び二人に謝った。
「舞子ちゃん。なにも謝ることはねぇよ。謝らなくちゃいけねぇのはむしろ俺たちの方だ。なっ、ハンペー」
「そうだよ。舞子ちゃんは俺たちバカオヤジを諭してくれただけだから」
不良熟年二人は思いがけない場面に遭遇してますます舞子に親近感を覚えていた。
「しかし、びっくりしたなぁ。ガキの頃に悪戯してオフクロに怒鳴られた時と同じ気持ちになっちまって身が縮まったよ。ハンペー、お前はどうだ?」
「俺、トキちゃんに怒られた感じでさ。おろおろしちゃったよ。それにしても舞子ちゃんが空手二段の腕前とはねえ。逆らっちゃいけないよ、カバさん」
「そうだな。でもな、ハンペー。時々はあの気風のいい啖呵を聞きてぇと思わないか」
「イヤだわ。わたし、恥ずかしいわ」としなやかな首まで真っ赤に染めた舞子は、「結構意地悪なんですね、樺山のオジさまって」とささやかな抵抗を示した。
打って変って恥じらい露わなお嬢様モードに戻った舞子がまた艶っぽい。上機嫌になったカバとハンペーはカラカラと高笑いをして、もうじきやってくる駐在の犬塚巡査部長のこともすっかり忘れて盃を重ねた。
その同時刻――。ひなたやま商店街に北から入ってすぐの角を左に折れて五十メートルほど先にある『太玄光教』ひなたやま支部の道場では、近隣各地から電車とバスを乗り継いで集ってきた百人余りの在家信者を前に、支部長の鬼沢玄真が説法会を行っていた。
「私どもの太玄という言葉は深遠なる道の理を意味しております。しかも、この太玄の光のみが宇宙の根源仏である大日如来さまにつながるものなのです。ただし、大日如来さまにお姿はありません。なぜならば、大日如来さまは宇宙を成り立たせている原理そのものであり、原理から溢れ出たこの大宇宙世界そのものだからなのです」
そう語り始めた鬼沢玄真は、教祖である『大導師』鬼沢道玄の次男である。長男の継道が代表を務める本部は、奥多摩湖の西に隣接する山梨県北都留郡に置かれてあった。ひなたやま支部の、四十坪はゆうにある広い道場内には咳払い一つなく、張り詰めた静寂の中を、細いが力強い声が響き渡った。
「そのゆえに大日如来さまはいかなる形にても現われることがお出来になられます。その形は山や川や草木であり、あらゆる生命でもあります。輝く星の光も吹く風のそよぎも大日如来さまであり、我々ひとり一人の心にも大日如来さまの御種は宿っているのです。その御種に水をやり、光の芽を出させ、心の息吹を育てて解脱へ導いてくれるのが太玄の光なのです。私たちは太玄の光を信じ、太玄の光にすがって生きてゆかねばなりません。幸いにしてここに集った皆様はすでに太玄の光を浴びておられます」
はぁーっという安堵の吐息が道場のあちこちに洩れた。
「しかし、太玄の光を浴びているだけでは解脱への道は拓かれません」
玄真支部長はここで呼吸を止めて微妙な間をとった。途端に道場内がざわめいた。心のざわめきが退いては寄せる潮騒のように広がっていく。
「では、どうすればよいのか?」
深く息を吸った直後にそう問いかけて一同を見回した玄真に、皆の視線が集った。
「その答えは、賢明な皆さんにはもうお解かりでしょう。それは求道心です。道を求める心がなければ解脱への道を歩むことは出来ません。それでは、何をもって真の求道心と言えるのでしょうか? このことを共に考えるのが本日の課題なのであります」
(なるほど)とうなずいている者もいれば、(それが大事なんだよな)と訳知り顔をしている者もいる。中には(んん?)と首をひねっている者も少なくない。集っている者の教義に対する理解レベルは多種多様だった。
「皆さんにはこれから、十二人ずつのグループに別れていただいて、求道心についてそれぞれの考えや見方を述べ合っていただきますが、その前に私たちの大導師である鬼沢道玄さまについてお話ししておきたいと思います」
大導師・鬼沢道玄の名前を聞いて、道場内は一瞬にしてシーンと静まりかえった。全員が姿勢を正して玄真支部長の口許に視線を注いだ。
「仏法の世界では、お釈迦さまが入滅されてから五十六億七千万年後の未来に弥勒菩薩さまが現出されるまでの間を無仏時代と申します。では、その長い間、仏さまはどなたもいらっしゃらないのかといえばそうではありません。仏さまはいらっしゃいます。ただ、この世にご自身がお姿を現わされて衆生に救いの手を直接差し伸べることは深遠なる宇宙の原理に反する怖れがあるためにじっと見守っておられるのです」
道場内は引き続き静まり返っている。誰かが座り直した音が思いのほか大きく響いて皆の意識を散らしたが、すぐにまた緊張した静けさが満ち渡った。
「しかし、慈悲深い大日如来さまは、この無仏時代に衆生を済度する二仏中間の大導師を遣わされました。その二仏中間の大導師さまは、お釈迦さまが入滅されてから百の歳を十二回重ねた千二百年後に弘法大師空海さまとしてこの世に現身を得られました。そして空海さまが即身成仏されてから百の歳を十二回数えた千二百年後の今日に鬼沢道玄さまとして現身を得られて私たちと共におられます」
おおーっという抑えた驚きの声が、後ろの方の、新参の信者が座っているかたまりのあちこちから上がった。が、玄真は気にとめる風もなく熱心に話を続けた。
「大導師・鬼沢道玄さまが説かれる太玄光の道は、決して数多ある教えの一つではありません。この教えこそがすべてなのです。仏教もキリスト教もイスラームも、最終的には太玄の光に行き着きます。深遠なる宇宙の叡智である大日如来さまの光と唯一直接につながっているのが太玄の光であり、済生利民こそが私たち太玄光の道を奉じる者の眼目なのです。煩悩をかかえた人々を極楽浄土へ導くのが私たちの勤めなのです」
玄真支部長の話は言葉を重ねるにつれて熱を帯びてきた。
それに呼応するように道場内に熱気が満ちて行く。誰かが「大導師さま、万歳!」と場違いな叫びを上げたが、それも熱気に吸収された。太玄光教ひなたやま支部の説法会は、時間の経過とともにある種の熱に冒された異妖さを帯びていった。
つづく
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