鬼庭秀珍  幻想花、志津という女の物語





         第一章   
美しいひと







 透きとおった、それでいてしっとりした、温もりのこもった声だった。

「主人から聞いておりますわ。遠慮なさらずにどうぞいらしてください」

 柔らかい言葉が耳の奥でこだまし、鼓膜(こまく)がプルッと震えてかすかな耳鳴りを感じたボクは、携帯の電源をオフにしてすぐに軽いめまいを覚えた。壁に背中をあずけて目をつむると、瞼の裏に気品にあふれた和服姿の美しい女性が浮かび上がった。

 滑らかですらりと高い鼻梁(びりょう)、優しく膨らんだ頬、慎ましく結ばれた紅い唇、柔らかいカーヴを描く顎のラインが垢抜(あかぬ)けている。細くしなやかな首、ふっくらと巻き上げた長く艶やかな黒髪、袖口から覗く繊細な手指。何もかもが白く美しい輝きを放ち、成熟した女性の色香がむんむんと匂い立っている。

 心が震えた。

 それから二時間後……。
 ボクは、ドキドキしながら玄関のインターフォン・ボタンを押した。八月初旬の、腕の皮膚が焼け焦げるような日のことだ。

「よくおいでくださいましたわ」

 二重瞼の切れ長な眼が優しく微笑み、柔らかくしなう弓のように細い眉と長い睫毛までが語りかけてきた。想像した通りの、いや、それ以上に美しいひとがボクを出迎えてくれた。胸のあたりと裾に亀甲(きっこう)模様をあしらった紫紺地の着物に白茶の袋帯を締めている、そのひとの澄み切った瞳の中にボクの魂は一瞬にして吸い込まれていた。

 これほど美しいひとを目の当たりにしたことはいまだかつてない。
 ボクはまるで、悪戯(いたずら)を叱られた子供がしょんぼりうな垂れるようにお辞儀をしていた。顔を上げることも出来なければ、金縛りにあったようにからだが動かなかった。廊下の奥からぬっと現れた出雲(いずもうそくさい)先生から「キミィー。なにをそこでぼーっとしているんだ? 早く上がりなさい!」と声を掛けられるまで、呆然と立ち尽くしていた。
 念のために断っておくけど、ひと目惚れなどという不遜(ふそん)な感情はボクにはなかった。現実が妄想を超えたことに驚いて我を忘れていただけだ。

 応接間に通されて、冷たい麦茶をすすめられた時もボクはそのひとの顔を直視できなかった。心臓が喉までせり上がってきて、今にも口から飛び出しそうだった。熱い血潮がドクンドクンと全身を駆け巡っていた。その激しい胸の鼓動が少し鎮まったのは出雲先生の顔を間近に見てからだった。

 還暦が近いと思われる先生は、どちらかといえば小柄な方だが恰幅(かっぷく)がいい。だけど贔屓目(ひいきめ)に見ても美男子にはほど遠い。
 頭髪の生え際が後退したと思われる広い額と白髪混じりの口髭の間にゲジゲジ眉とギョロ目と獅子鼻が据わっていて、真ん中の眼が時々怖くなるほど鋭く光る。鬼瓦が髭を生やしたように(いか)つい顔をしている。
 先生が奥様と並んでいるとつい、正真正銘の『美女と野獣』だと思ってしまう。それがボクの偽らざる感想だ。それにボクの見たところ、多分、先生と奥様とは
年齢が二十歳以上離れている。


 ボクは地元の大学を卒業すると同時に上京し、兜町(かぶとちょう)の会社に就職した。でも、二年しか勤められなかった。証券マンという仕事がどうしても肌に合わなかったし、東京の水も合わなかった。
 だからボクは、去年会社を辞めて帰郷し、小説家を目指すことにした。自分の我がままで親に迷惑はかけたくないから、今は月四万円のアパートで一人暮らしをしている。生活の方はコンビニの深夜担当や警備員のバイトでなんとか凌(しの)いでいる。
 現在のボクは、小説家の卵だと自称していても、世間の目から見れば定職を持たない二十五歳のフリーターに過ぎない。


 ボクの生まれ育ったところは北国なのに雪が少ない。緑が多いことから(もり)の都と呼ばれている宮城県仙台市だ。
 JR仙台駅から歩いて六七分のところに八階建てのマンションがあって、そこの一階にシャレた造りの小料理屋がある。七月末にその店で高校時代の仲間と暑気いをやった。
 召集をかけてきた
今野健一は行きつけにしているらしい。今野は親が経営している会社の取締役をしていて金回りがいいから通えるのだろうけど、貧乏ったれのボクなんか初めて入る高級な店だ。でも、幸いにその日は今野のオゴリだった。


 店内に足を踏み入れると奥の座敷席へ向かう通路の手前右の一角で髭面(ひげづら)のオッサンが一人、真夏の暑い盛りなのに日本酒の熱燗をちびちびやっていた。そこだけ周囲とは違う空気が漂っているものだから一瞬躊躇したけど他に空いている席もなかったから、ボクらはオッサンの隣りのテーブルに陣取った。

 お互いの近況を報告し合っているうちに今野がお見合いをしたことやそれぞれのガールフレンドの話になって、(おんなひでり)が続いているボクはついていけなくなった。それでふと横を向いたら、厳つい髭面がニコッと笑った。
 不気味に優しい眼差しにドギマギしたボクはあわてて仲間の話の輪に戻った。するとオッサンは、唐突に、自分のお銚子とお猪口を手に持ってボクらの席に割り込んできて、ボクの眼を見据えた。


「キミは小説家になるつもりだと言っていたが、どんなものを書いているんだね?」

 オッサンは耳をそばだててボクらの話を聴いていたらしい。
 父というよりは祖父に近い年齢の人から、しかも得体の知れない相手から唐突な質問をされたボクは、当然面食らった。正直、気味が悪かった。今野たちも唖然として気圧(けお)されていた。

「ど、どんなものと(き)かれましても。ひ、ひと様にお話し出来るようなものではありません」
 ボクは口ごもった。
 一応、証券マンの頃に覚えた目上の人や年長者の方に話す時の丁寧な言葉遣いは出来たけど、警戒心が言葉を振るわせた。そのせいかも知れないけど、オッサンの大きな黒目がピカッと鋭い光を発した。


「キミは他人に話せないようなものを自分の作品として世に問うつもりなのかね?」

「…………」
 ボクは返事に詰まった。
 でも、オッサンの眼が「正直に話せ!」と言っている。その眼光に射すくめられながら、ボクはなぜか、言い訳じみたことを考えていた。

(俺、幼なじみの香織にずっと恋してた。けどあいつ、口惜しいけど、俺を友だちとしてしか見てなかった。俺が東京にいる間に七つも年上の男と結婚してしまった。なのに俺、あいつのことが忘れられない。だから、せめて小説の中であいつと結ばれたいと思ったんだ……)
 そんなことを考えていると、野太い声が迫った。

「それほど話しにくい内容なのかね?」

「いえ、違います。ボク……、恋愛ものを書いてます」
 オッサンの容赦ない突っ込みに、ボクは思わずそう答えていた。

「ほほう、恋愛小説をねぇ。それで、どんなストーリーなのかな?」

「話すんですか、いまここで?」
(未練がましい話だし、香織を知ってる仲間の前で話せる内容じゃないのに……)と口を尖らせたボクの頭の中を自分の書いたストーリーが渦巻いた。


――幼なじみに失恋した男は独身を貫く決心をしたが、十年後に偶然街角で彼女と出遭う。夫のドメスティック・バイオレンスに悩む彼女は昔の美しさをすっかり失い、絶望の淵にいた。彼女を懸命に支えた男は二年後に離婚に(こ)ぎ着けた彼女と男は結ばれる。――

 そこまで思い起こしてハッとした。(オッサンのペースに完全に乗せられてる……)と感じたボクはあわててお茶を濁した。
「まだ完成してないですから今日は……」

「そうかね。それじゃ仕方がない。出来上がったらその作品を持って、一度うちへ遊びに来なさい」

 大きな眼をギロッと剥いた髭のオッサンは、使い古した黒革の財布から名刺を一枚取り出してボクにくれた。
『物書き・出雲雨息斎』という印刷文字が眼に飛び込んできた。


 ポカンと口を開けて名刺を見つめているボクの手許を皆がからだを乗り出して覗き込み、今野が「へえ〜っ」と素っ頓狂(とんきょう)な声を上げた。
 そして呆気にとられているボクらが揃って顔を上げると、オッサンはもう帳場の前にいた。女将さんらしいひとに向かって右手をちょいと上げると、さっと店を出て行った。

 これがボクと雨息斎先生との出会いだ。それから五日後のことだった、ボクが先生の家の玄関で立ち尽くしたのは……。


「さて、読ませてもらうとするか」

 冷たい麦茶に興奮を鎮めてもらったボクは、コクンとうなずいて、持参した小説原稿をおずおずと先生の前に差し出した。
 ムスッと受け取った鬼瓦(おにがわら)顔にドキッとしたけど、先生はミミズがのたくっているような汚い字にも嫌な顔一つせずに目を通してくれた。でも、五十枚近い原稿を先生が読み終えるまで、ボクは就職試験の面接を受けた時と同じで、やたら緊張した。背筋を伝う汗がヌルヌルと冷たかった。

「なるほど……。どうやらこれはキミの失恋話のようだね。よほど好きだったとみえるな、この女性をキミは……」

 鬼瓦顔がふわっと崩れて、例の不気味に優しい眼差しを先生はボクに向けた。

「その感情がよく描かれているよ。ストーリーに少し無理があるけれど、キミの純粋さは貴重だ。プロの物書きになることもあながち夢ではないかも知れないなぁ」

 出雲雨息斎先生がそう言ってくれたことで、ボクは小説家を目指す決意を改めて固めた。でも、雨息斎先生とのこの出会いがあの妖しい物語に触れるきっかけになるとは、この時のボクは想像すらしていなかった。



                                                    つづく