第二章 古ぼけた茶封筒
初めて雨息斎(うそくさい)先生の家を訪ねた日からもう一か月半余りが経っている。半袖シャツからはみ出た腕や日焼けした顔を撫でる朝夕の風はもう秋を感じさせるけど、日中はまだまだ暑い。
この頃ボクは週に二三回、先生の家へ通っている。
出雲先生に師事(しじ)した。といっても、ボクが勝手にそう思っているだけで、先生の方はボクを弟子にした覚えもなければするつもりもないらしい。
時々される頼み事も、残暑見舞いの宛名書きとか本の買い出しとかの簡単なことばかりだ。
そもそも先生は一風変わっている。
ボクがいつ訪ねて行っても気軽に書斎に入れてくれるから〈来る者拒まず〉主義だと思っていたら、大抵の人が玄関先で追い返される。ついこの間も出版社の人がうな垂れて帰って行った。
かと思えば、畑で獲れた野菜を届けに来た農家のオバさんを応接間に通して歓待した。東京へ出かけた時にはホームレスの人を連れて帰ってきて、風呂に入れ自分で散髪までしてあげて、一晩泊めたこともある。えらくなよなよしたお喋りの中年男はオカマさんだったし、手の指が欠けている人も時々来る。
来客があると大抵ボクは同席させられる。先生の斜め後ろに控えて、交わされる会話にじっと耳を傾けている。
だけど真面目な話は一度も聴いたことがない。奇想天外(きそうてんがい)というか荒唐無稽(こうとうむけい)というか、雲をつかむような話ばかりで眼を白黒させてしまうけど結構愉しい。
先生が号にしている『雨息斎』は「天からの恵みの雨で息を吹き返す野山の雑草」という意味だそうだ。『出雲』という名字と続けて読むと「いつもウソ臭い」というダジャレになる。つい先日、ボクはそのことに気づいて噴出しそうになった。でも、先生は決してウソ臭くもなければ胡散(うさん)臭くもない。
雨息斎先生の家は、馬に跨った伊達政宗公の銅像が空を睨んでいる青葉城跡へ登る手前の、広瀬川の西岸にある。広い書斎は二つの壁面が床から天井まで書架になっていて、本や資料がギッシリ詰まっている。
「興味がある本があったら、構わないからどれでも勝手に取り出して読みなさい」と許可をもらったボクは、二度目にお邪魔した日から風通しのいい書斎で先生の蔵書(ぞうしょ)を読みはじめた。
書斎の隅っこでおとなしく本を読んでいる分には先生の邪魔にならないようだったし、何よりも憧れの女性の近くに居られることが嬉しかった。
ボクは、先生に勧められた心理学と精神分析関連の本を立て続けに読んだ。そして六冊目を読み切った一昨日ことだ、先生が資料整理のバイトを持ちかけてくれたのは……。
勿論ボクはすぐにお引き受けした。
福沢諭吉さんが一枚ふところに入る魅力には勝てない。母さんを誤魔化(ごまか)して実家へ帰る約束はキャンセルした。
そんなわけで、今朝十時にお邪魔したボクは、先生から頼まれた作業を開始した。作業といってもそんなに難しいことじゃない。書斎の隅に乱雑に積み出された資料の山を年代別に別けて段ボールの書類箱に詰めるだけのことだ。
ただ、一つひとつの資料がいつ頃のものなのかを確認しなければならない。それが少し面倒だけど、アパートの部屋がいつもすっきり片付いているように整理整頓にはかなり自信のあるボクは、資料の山を手際よく崩していった。
ところが、古ぼけた茶封筒に詰めこまれていた小説原稿の分厚い束を見つけた途端に手が止まってしまった。プロが書いた直筆原稿に心惹かれたボクは、資料整理を放り出して、それを読みすすんだ。
――息子の一周忌法要をつつがなく終えた翌日。
自分たちの在所へ引き返す初老の夫婦は、東京駅の新幹線ホームまで付き添ってきた息子の嫁に優しくこう言った。
「あなたはまだ若いのだし、子供もいないことだから、早く好(よ)い人を見つけなさい」
「そうだよ。私たちに遠慮することはない。好い人が見つかったら再婚すればいい。その方がきっとあの子も喜ぶはずだよ」
三十路に入ったばかりのまだ若い身空(みそら)には心配りの行き届いた言葉だったが、その優しさにあふれた言葉はかえって嫁に寂しげな笑みを浮かべさせた。
「お心遣い、ありがとうございます。でもわたし、まだ……」
中澤志津は、とてもそんな気持ちにはなれなかった。
(仮に舅姑(りょうしん)の勧めに従うにしても三回忌までは、いえ、七回忌が終わるまでは……)
再婚など志津には毛頭(もうとう)考えられなかった。
結婚四年目にして最愛の夫を喪ってしまった。その悲しみの淵に沈んでいる志津は、亡夫への尽きない思慕を胸に抱き続けて深い淵の底に立っていた。
「本当に再婚してくれていいんだよ、志津さん」
舅(しゅうと)は、列車のドアが閉まる直前にもう一度そう言って手を振った。その笑顔が亡くなった夫の慎一とそっくりなことに志津は往時を思い出して胸を締めつけられた。夫の両親の優しい気遣いはうら若い未亡人の心にさざ波を立たせ、ひかり号は定刻に発車した。
列車が遠ざかり、その車影が視界から消え去るまでプラットホームに佇(たたず)んで見送った志津は、気を取り直して国分寺の自宅への帰路についた。
天平十三(西暦七四一)年。鎮護国家と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願う聖武天皇は「国ごとに七重の塔を一基ずつ創りて金光明最勝王(こんこうみょう(さいしょうおう)経と妙法蓮華(みょうほうれんげ)経を納めよ」という詔(みことのり)を発した。都から遠く離れた武蔵国(むさしのくに)でも国府(現在の東京都府中市にあった)の北に壮麗な国分寺が創建されたが、後年の度重なる戦乱に崩れ落ち、今は地名にその名をとどめているにすぎない。その地が今日の東京都国分寺市である。
JR中央線の国分寺駅で降りた志津は、足を南へ向けた。
駅から七八分歩くと緑豊かな住宅地が広がっている。その一角に、自然の緑をこよなく愛した中澤慎一が自ら設計した瀟洒(しょうしゃ)な自宅があった。
堅固な鉄筋コンクリート造りの建物の南にある広い庭には洋芝が貼り詰めてあり、敷地の塀に沿って背の高い常緑樹が立ち並んでいる。天気のいい休日には二人でよくこの庭に出て朝食を摂った。木立ちに羽を休める小鳥のさえずりをBGMにして、暖かい陽射しを浴びながら楽しく語り合ったものだった。
しかし、今は女ひとりの侘(わ)び住まいである。温もりを失った家にはそこはかとなく寂寥(せきりょう)感が漂っていた。
志津たち夫婦は三年前にこの新居に移り住んだ。
システム・エンジニアとして抜群の技量を持っていた中澤慎一は、志津と結婚してまもなく、それまで勤めていた大手企業を辞めた。その半年後にパソコンソフトの開発会社を自ら立ち上げたのだが、幸いに時流に乗ったベンチャービジネスは大成功し、その創業者利益で建てたのがこの邸宅である。まだ三十代半ばの青年が構えるにはいささか立派に過ぎるが、「そのうち郷里の両親を呼び寄せるつもりなんだよ」と聞けば「なるほど!」と膝を打てる。
慎一は心優しい男だった。それだけに志津が幸せでないはずがなかった。しかし、嫉妬深い運命の女神は若く美しい女が幸せな日々を安穏と送ることを許してはくれない。去年の秋に慎一は、仕事の無理がたたったのか、突然心臓発作を起こして三十六歳の若さで帰らぬ人となってしまった。
*
法事を終えた翌週の土曜日。志津は久し振りにお茶のお稽古に出かけた。
裾に萩の花模様をあしらった薄茶の着物に袖を通し、黒地に舞扇が品よく刺繍されている袋帯をきりっと締めると気持ちがしゃんとした。
中高の面立ち、切れ長の目、長い睫毛、引き締まった小鼻、慎ましく結んだ唇、ほどよく膨らんだ頬、ほっそりした首。京言葉でいえば「はんなりした」、楚々として匂い立つ女の色香を感じさせる志津は着物がよく似合う。
十一時過ぎにお稽古を終えた志津を待っていた者がいた。古参の稽古仲間で、何かと志津に気を遣ってくれていた女性である。
志津よりひと回り年上の彼女から昼食に誘われ、志津は断りきれなかった。顔には出さないものの渋々ながら、彼女と一緒に茶道教室の近くにあるレストランで昼食を摂った。
「しばらくぶりにお会いできたけど、中澤さんて、いつも本当にお綺麗よね。もったいないわよ、このまま独り身を続けるなんて……。ご主人の一周忌法要も終えられたことだから、そろそろ次のことを考えてみてもいいんじゃないかしら」
志津の心のうちを推(お)しはかることができない彼女が続ける。
「よろしかったら私に好い人を紹介させていただけない?」
世話好きの彼女は、無神経な言葉を並べ立てて志津の眉を曇らせた。人柄は決して悪くはないのだが、いつもおせっかいが過ぎてしまう彼女に志津は内心閉口した。が、そんなことはおくびにも見せず、執拗な彼女をなんとかいなして別れた。
思いがけない誘いに気疲れした志津が家に戻り着くとまもなく電話が鳴った。
「奥さん、ご無沙汰して申し訳ありません。ヒルタです、蛭田和幸(ひるたかずゆき)です」
野太い声に聞き覚えがあった。夫の慎一が独立前に勤めていた会社で直属上司だった男である。
生前の慎一は、「蛭田部長は僕が独立することを快く思っていないようだ」と洩らしたことがある。その蛭田から慎一にかかってきた電話の取次ぎは何度もしたが、志津が蛭田と顔を合わせたことは二度しかない。来賓の一人として招いた結婚披露宴の時と慎一の葬儀の折だった。
しかし、特徴あるその風貌(ふうぼう)は脳裏に鮮明に残っていた。
蛭田和幸は、骨太のがっしりした体躯に太く短い首が大きなサイコロのような四角い頭を載せている。
顔の真ん中で猜疑(さいぎ)心の強そうな細い眼が光り、まるで品定めでもするように視線を走らせて志津の全身を舐(な)めるように眺めて、気味の悪い淫らな色を三白眼の双眸(そうぼう)に浮かべていたことを志津は思い出した。
技術畑ひと筋に歩んできた慎一は繊細で感受性に富んでいた。同じ技術畑の人間なのに慎一とは対照的に、蛭田には修羅場をくぐり抜けて来た老獪(ろうかい)な営業マンという印象が強かった。その故か、志津は蛭田を余りこころよく思っていなかった。
が、その蛭田が、この日は神妙な物言いで来訪を願い出た。
「ご主人の、慎一さんの一周忌でしたよね。ご迷惑でなければ午後のうちに伺ってお線香をあげさせていただきたいのですが……」
思いがけない申し出が、蛭田が夫の一周忌を憶えていてくれたことが嬉しかった。蛭田への悪印象はその一事に打ち消され、志津は、「どうぞお越しになってください。亡くなった主人もきっと喜びますわ」と明るく答え、蛭田は午後三時に訪れることになった。
約束の時刻にアタッシュケース片手に現れた蛭田は、顔を会わせるなり深々と頭を下げ、仕事の都合で法事の日に来られなかったことを詫びた。
蛭田の風貌は以前と変わらない。どこか油断ならない雰囲気を感じさせた。
しかし、仏間では慎一の遺影に向かって合掌を続け、瞑目したまま小さく呟いてしきりに何かを笑顔の慎一に語りかけた。
その蛭田の真摯(しんし)な姿に気持ちの和らぎを感じ、目を潤ませた志津は蛭田を茶の湯でもてなすことにした。
「やぁ、それはありがたい。嬉しいなぁ、奥さんにお茶を点(た)てていただけるとは……」
相好(そうこう)を崩した蛭田は、大切なものが入っているらしいアタッシュケースを手にして、先に立って廊下を歩む志津の背に従った。
九月も下旬に差しかかり、風が冷たくなってきたこの頃はいつも窓や扉を閉め切ってある。そうしておけば温かいし安心できた。
分厚く頑丈なサッシが嵌めこんであるこの家は、土砂降り雨の轟音も小雨程度にしか感じないほど密閉度が高い。
とりわけ奥の和室は静かだった。広さこそ八帖あるが、利休風茶室に倣(なら)って、出入りは腰を屈めてくぐらなければならない高さの半間引き戸にしつらえてある。簡素な拵(こしら)えをしてある床の間の、桜の古木を使った床柱が、「侘び寂び」の風情を醸(かも)し出していた。腰高窓の内側に嵌めこんである障子が外光を柔らかに濾(こ)してくれ、心を和(なご)ませてくれる。
その密室にも似た空間で蛭田に抹茶をふるまい、志津は時間の経過を忘れるほど在りし日の慎一の思い出話に興じた。
『秋の陽は釣瓶(つるべ)落とし』という。
ようやく会話が途切れたときには、戸外はもう薄暗くなっていた。志津は、口直しに熱いコーヒーをすすめた。――
つづく
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