鬼庭秀珍   幻想花、志津という女の物語






      第六章   
自分の物語








 ブルブルブルッと、ボクは頭を何度も繰り返して振った。熱い血が激流となって全身を駆け巡っていた。
 ボクは、自分が蛭田に(なぶ)られているような錯覚に陥っていた。志津さんの辛く切ない気持ちにボクの心が共鳴しているように思った。

(でも、志津さんの心は微妙に変化しはじめてる……)


 蛭田の暴力に怯えて素肌に縄をかけられることにも耐えていた志津さんが、思いがけない優しさを殿村老人に見て、無意識のうちに忌まわしい成り行きを甘受しようとしている。そんな風にボクは思った。

 ペットの犬猫同然に売られ、恥辱を与えられ屈従を強いられる状況に変わりはないのに、志津さんは安堵感を覚えている。同じ目に遭わされるにしても卑劣で冷酷な蛭田より懐が深そうな殿村老人にならと考えている。

(女の人って、皆そう考えるものなんだろうか? それとも志津さんにはそう考えてしまう特別な性向があったんだろうか?)
 ボクは思い悩んだ。それにしても志津さんの行く末が案じられてならない。
(でもこの小説は、実在の志津さんが実際に体験したことをそのまま書いたものなんだろうか、それとも雨息斎先生のフィクションなんだろうか?)

 無理やり犯され、泣き泣き裸になって、しかもそのまま縄で縛り上げられたあられもない姿を写真に撮られ、それをネタに卑劣な蛭田に誘い出されて殿村老人に売り渡された志津さんが、身も心も雁字搦(がんじがら)めにされて、男の慰みものとして弄ばれる運命を受け容れようとしている……。

 ボクにはそういう女性の心理が理解できなかった。それでまた、「どうしてなんでしょうか?」と尋ねて、雨息斎先生の仕事の邪魔をしてしまった。

「そうだねぇ……」
 首をかしげた先生は、人間が個人として存在するためには自分自身についての物語を持つことが必要不可欠で、自分の自我が認識していない現象や元々自分の物語に入っていない事件に直面すると大変なショックを受けるのだと話してくれた。

「人間誰しも、自分の信じている物語にヒビが入ったように感じると、自分の物語を組み替える必要に駆られるものだよ。特に自我が崩壊してしまいそうな窮地に立たされると、物語を組み替えることで過去を温存しようとするものなんだ。現在と訣別する自己を正当化する訳だな。そうやれば楽になれるからね。それに一度自分の物語を書き換えると、男より女の方が迷いを吹っ切れるものらしい」

(確かにそうだ。女の方が割り切りは早い。ボクの惚れてた香織もどこかで物語りを書き換えたんだ、きっと……)

 香織と志津さんとでは状況が全然違うけど、ボクはそう思った。

「その話の主人公の場合は、肌身を(さいな)む縄と執拗なりに悶えながら自分を被害者の立場に置くことを覚えたんだ。それは彼女の心の奥に潜んでいた被虐の性が目覚めたということだと、私はそう思う。自分から望んだのではなく他人から強いられたのなら自分自身に言い訳が出来る。それだけ物語の書き換えが易しい訳だな。もしかすると彼女は、心の奥底で無意識に望んでいた被虐の悦びを手に入れたかも知れないな」

 ボクはポカンと口を開けて雨息斎先生の説明を聴いていた。ボクの常識を超えた解釈だったからだ。

 志津さんは目に見えない蜘蛛(どくぐも)の糸にからめとられて囚われの身になってしまった。そして不運なその境遇を受け止めようとしている。その志津さんの無意識が新しい快楽を手に入れたと先生は説明したけど、ボクには到底そうは思えなかった。そもそも心を抑圧されて辛く恥ずかしい思いをすることがどうして快楽につながるのか、それが分からない。

 その一方で蛭田への怒りが少し薄らいでいる自分に気づいてボクは唖然とした。蛭田によって志津さんが被虐の悦びを引き出されたのだとしたら、志津さんを一概に不幸だとは決めつけられない……かも知れない。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。考えがまとまらなかった。
 もしかするとボクは、憧れの奥様とイメージの重なる志津さんを自分の好き放題に出来る男たちに嫉妬しているのかも知れない。でも、縄で縛られて凌辱される体験が自分の物語に入っている女性なんているはずがない。仮にそんな物語を持つことになった女性がいたとしても、強いられた被虐体験が自我の崩壊につながるほどのものなのかどうか、そのあたりがどうしてもボクには理解できない。

 奸悪(かんあく)な男の毒牙(どくが)にかけられ、情欲に狂った男に嬲られて喘ぎ、嗚咽(おえつ)を洩らしながら被虐の情念にれてゆく……。そんな悲劇のヒロインという物語をつくって自分を納得させるような女性が、果たして現実に存在するのだろうか?

「いずれ解るよ、キミにも」
 そう微笑んだ雨息斎先生がなんだか憎らしかった。
 ボクは、ボクの抱いた疑問に今すぐはっきりとした答えが欲しい。そう思いながらまた、原稿に目を落とした。




――あの日、志津は羞恥と屈辱に喘ぎながら倒れ込むようにして国分寺の自宅に辿り着いた。その衝撃は強く、心に受けた傷は言葉では言い表せないほど深かった。

 しかし、一夜明けた翌日からの時の流れが志津には思いのほか軽く早く感じられた。いつまた襲ってくるかも知れない蛭田にビクビク怯えて暮らしたひと月余りとはまったく違い、気持ちに落ち着きが戻っていた。

 とはいえやはり悩ましい。思いがけずも陥ってしまった現在の境遇が、である。
 決して志津自身が選り好んでそうなった訳ではない。亡夫の一周忌法要の後で幾分か気落ちしていた。その心の隙間を蛭田という狡猾(こうかつ)な男に突かれ、身も心も雁字搦(がんじがら)めに縛られて、得体の知れない老人の所有物にされてしまった。その自分がいまだに悪夢の中にいるような気がしてならない。出来ることならこの悪夢のような世界から抜け出したい。が、志津にはその方法が分からなかった。

(両親が生きていれば……。せめて兄か弟がいてさえくれれば……)

 一粒種(ひとつぶだね)の志津に兄弟はいない。他人が引き起こした交通事故に巻き込まれてしまったのだが、まだ幼かった志津一人を残して逝った父と母が恨めしかった。両親に代わって志津を育ててくれた伯父も先年他界した。残った伯母は高血圧とリウマチに悩まされて入退院を繰り返している。そんな伯母に相談など出来ない。自分で何とかするより仕方がない。

 しかし、何ともしようがなかった。殿村昭吾は、あの奸悪(かんあく)な蛭田でさえ恐れおののいている裏の世界の実力者だという。殿村昭吾という存在を、志津はとてつもなく大きく真っ黒な闇の(かたまり)のように感じた。その闇のが今、自分を呑み込んでいる。志津は老人の底知れない力に怯えた。逆らった時に受けるであろう扱いを想像するだけで身震いがした。

 他方、別の思いもあった。老人が垣間見せた優しさが志津の恐怖感を薄めている。今まで通りにここ国分寺に住んで週に一度だけ山荘へ通えばいいということは、多分、破格の扱いに違いない。蛭田のような酷い扱いはしないだろうと思う。いや、そう信じたかった。今の志津には、たとえそれが根拠のないものであっても、新しい境遇に耐え忍んでいくための心の支えが必要だった。

         *

 あれこれ思い悩んでいるうちに十一月も半ばになった……。

 風の強い金曜日の昼下がり、島野が大きな(あつら)え物の化粧箱を抱えて国分寺にやってきた。

「御前からの贈り物です。志津さんに是非これを着て来て欲しいとのことでした。明日の昼過ぎにお迎えに上がりますから仕度しておいてくれませんか」
 島野はそれだけ言うとすぐに帰っていった。

「志津さんに……」、「是非これを……」、「お迎えに……」という島野の言葉の柔らかさと丁重さが志津の心を和ませた。

 殿村老人から贈られた着物は素晴らしいものだった。

 淡いピンクの豪奢(ごうしゃ)りは、光の加減で桜の花びらが散りばめられているように見えた。
 シンプルな紫紺の袋帯が総絞りの着物をよりあでやかに演出しそうである。羽ばたく鶴を織り込んだ白綸子の長襦袢は手触りがこの上なく心地好い。
 純白の肌襦袢には小さな鶴が織り込まれ、くすんだ品のいい紅地の湯文字にも同じように白く小さな折鶴が散りばめられていた。


 島野が立ち去った後で早速身に着けてみると、姿見に映る自分が今までになく粋で垢抜けした女に見えた。真紅の帯揚げと紫と辛子(からし)の糸で編んだ帯締めが色彩バランスをピリッと引き締めている。

(これほどのものをこんな短期間によく……)
 志津は殿村老人の力量に舌を巻いた。

 翌日の午後……。
 予定時刻に迎えに来た島野は志津のあでやかな着物姿を見て微笑んだ。

「さすがは御前の見立てですね。志津さん、よくお似合いです」

 そう褒められて、志津はなぜか頬を赤らめていた。

 卑劣な蛭田の手こそ放れたものの、今の志津には殿村老人の慰みものになるほかに選択の余地がない。優しい眼差しを向けてくれたとはいえ、蛭田とは比べようのない大きな力を持っている殿村昭吾は、志津に関する生殺与奪(せいさつよだつ)の権利をすべてその手に握っている。志津を翻弄(ほんろう)する哀しい運命の呪縛(じゅばく)は依然として解けていない。それなのになぜか志津の心は軽かった。

(どうしたのかしら、わたし?)
 自分の気持ちを訝しく思いつつ島野が運転するベンツに乗り込み、小一時間の後に西多摩山荘に着いた。

 淡いピンク色をした豪奢りの着物をまとった志津は、前回と同じく、老人が待っている二階の部屋に通された。

「どうじゃ、島野……。ワシの目に狂いはなかったであろう」
 殿村老人はそう言って相好を崩した。

「はい。いつもながら御前の眼力(がんりき)には(おそ)れ入ります」

 笑顔で相槌を打った島野の言葉を、志津は二通りに受け止めた。老人が見立てた着物がよく似合うということのほかに、島野が志津に「あなたは御前に気に入られたのですよ」と伝えてくれたように思った。

 その島野が控えの間に下がり、今、志津は老人と差し向かいに座っている。右腰に重心をかけて横座りになり、膝から下を斜めに流していた。

 ピンクの総絞りの裾がわずかに乱れて白い陶器のような輝きをもつ(すね)がまばゆく覗いている。老人と対座してすぐはさすがに全身が強張ったが、時間の経過とともに気持ちもほぐれ、顔の表情の硬さもとれた。老人は志津に優しかった。

 この二人を遠目に眺めれば、多分、嫁ぎ先から里帰りした美しい孫娘といまだ矍鑠(かくしゃく)としている優しい祖父が楽しげに語らっている情景に見えることだろう。
 が、しかし、そのような微笑ましい情景とは縁遠いことがひとつあった。それは、孫娘の方が麻縄で後ろ手に縛られていることだった。


 山荘の玄関を入るとすぐに島野は麻縄を取り出した。

「当面の決め事ですから……。志津さん、両手を後ろに廻してください」
 そう断った島野は、素直に両手を後ろに廻した志津の左右の手首を背中の帯の上に一つに重ね合わせた。キリキリ縄がかけられ後ろ手に縛られていくのを賄いの老女がすがめにジッと見つめている。頬を赤らめた志津は、老女の視線から顔を逸らした。

 う……。縄が着物の上から胸のなだらかな傾斜を緊めつけた時に小さな呻き声が洩らしたが、薄く目を閉ざして顔を伏せた志津は、諾々と島野の縄を受けていった。

 蛭田に無理やり犯されたあの日から、志津の人生は一変した。心の置き所も変わった。
 今の志津は縄で縛られることへの抵抗がほとんどない。蛭田に
凌辱
(りょうじょく)され素肌を緊めつける縄に泣いたことが、股間に喰いこむ縄に呻吟(しんぎん)しながら自宅の玄関に倒れこんだ体験が、これからも縄目の恥辱は避けられないだろうと自分に言い聞かせてきた三週間が、志津を変えていた。

 辺りが薄暗くなってきた頃、長襦袢姿の志津は上半身を殿村老人にしなだれかからせ、顔を老人の胸に預けていた。

 綸子の長襦袢の白い輝きに劣らないほど白く艶やかな両腕を後ろ手に縛られている。上下を二重三重に巻き緊められた胸をゆるやかに波打たせながら、志津は甘い吐息を漏らしていた。長襦袢の襟が引き開かれ、瑞々しく盛り上がった透きとおるように白い乳房がこぼれ出ている。

 老人はその溶けるように柔らかな感触の乳房を手のひらに包んで優しく揉み、膨らみを増した乳首を指先で弄んだ。

 ん……、あっ……、んん……。
 志津の口から洩れる甘い喘ぎ声は低く小さく抑えられている。襖の向こうに控えている島野に、志津は、自分が老人の愛撫に敏感に反応していることを悟られたくなかった。


 島野健史(しまのたけし)は野村昭吾の次男の(しょうじ)と幼馴染みである。かれこれもう十年近く老人の秘書と運転手をかねた仕事をしているという。息子のようなものだと老人は志津に紹介した。その島野が老人から声がかかると部屋に入ってきて志津を縛り直した。その度に志津は紅潮させた顔を背け、島野とは決して目が合わないようにした。

 夕食時になってやっと縄の縛めはとかれた。

 二人で差し向かって食事を済ませると、殿村老人は一緒に風呂に入るよう命じた。志津は藍地に立ち(あおい)が白く染め抜いてある浴衣にピンクの単帯をして老人の背に従った。


 風呂場は一階の長い廊下の一番奥にあった。
 脱衣所の広さが約十二帖。湯殿もほぼ同じ広さがあった。
 檜の浴槽には遠方の源泉からパイプをつないで引き込んだという泉湯が溢れている。木の香りが充満していた。



 老人の背中を流しながら志津は、遠い昔、まだ小学生の頃に祖父の背中を流したことを思い出していた。

 贅肉(ぜいにく)がほとんどついていない筋肉質な殿村の背中は亡くなった祖父のそれとよく似ていた。

(この人の言うことなら……)と志津はまた思った。

 身も心もすっきりとなれた志津は、湯上りの火照った胸にバスタオルを巻いて備え付けのヘアドライヤーを使いながら洗い髪を丹念に(す)いて、櫛どおりよく乾いた長い黒髪を丸く巻いて後ろに束ねた。そして鏡に向かって化粧直しをはじめた。殿村老人は脱衣所の中央に置かれた畳一帖大の長椅子に腰かけ、柔らかい笑みを浮かべてそんな志津の後ろ姿を見ながら扇風機の風にあたっている。志津は最後に形のいい小さめの唇に淡く紅いルージュをひいた。そこに脱衣室の外から島野の声が聞こえた。

「御前。よろしいでしょうか……」

「島野か。入ってよろしい」

 老人の許しを得て脱衣所に入ってきた島野が鏡に映った。その島野の手に握られている麻縄の束を見て、志津ははっと息を呑んだ。

「御前さま、お願いです。し、縛るのは……、もう堪忍してください」

「ほう、嫌か?」

「わ、わたし……」

「この変態ジジイの相手は嫌か?」

「いえ、そんなことは……」

「いや、そう思っておろう。そうであろうが、のう志津……。しかしな、思っておっても言わぬが花じゃよ。ワシの愉しみを奪わんでくれんか。なっ、志津。分かるな?」

「……は、はい」
 優しかった祖父の姿を殿村に重ねていた淡い感傷は一瞬にして砕け散り、志津は、自分が現在置かれている立場を改めて認識させられていた。

 うつむいて下唇を噛んだ志津は、胸にバスタオルを巻いたまま腰を落とし、島野に背を向けて床に正座した。薄く瞼を閉じ合わせると静かに両腕を背筋へ廻し、腰の上で左右の手首を重ね合わせた。

「志津、それが邪魔じゃな」
 老人は志津の胸から下を覆ったバスタオルを指差した。

「御前様……。せ、せめて下を隠すものを……」

「ん? 屋敷うちのことじゃ。人目をはばかることはない」
 長椅子に腰を降ろしたまま、老人は志津に素っ裸になって縄を受けるよう促した。

「でも、おカネさんの目が……」

 おカネさんというのは、賄いの老女・田野倉カネのことである。猫のように背中の曲がったこの(しゅうかい)な老女の視線に志津は今日もまた心をかき乱された。玄関ロビーで島野の縄を受けるのを(すがめ)に見て、「まぁ、なんて淫らな女だろう」と(さげす)むような、「ふふふ、いい気味だこと」と心の奥でほくそ笑んでいるような、その眼差しが耐えがたかった。

「カネ? そうか、あのバアさんに裸を見られるのが恥ずかしいのか? そうかそうか。あれはジロジロ盗み見るようなところがあるからのう、ははははは……。しかしあれじゃなぁ志津。お前のその羞恥心が強いところがよい」
 カネのことは気にするでない、と老人は志津の願いを聞き流した。

「で、でも……」と、顔を赤らめ声を震わせてなお情けを乞おうとする志津の瞳を、老人はキラッと光る鋭い眼差しで見据えた。その視線をすっと島野に移して再び小さく顎を持ち上げた。

 分かりましたと目顔で答えた島野が縄をほぐしながら志津に近づいた。

「志津さん。さ、両手を後ろへ廻してください」

 これ以上拒めば御前の機嫌を損ねますよと島野の目が言っている。志津はようやくためらいを捨てた。
 胸に巻いていたバスタオルを自分で取り払った志津は、改めて島野に背を向けて正座した。かすかに震える両腕を静かに背筋へ廻して腰の上で手首を重ね合わせ、それを背中の中程まで持ち上げて縄がかけられるのを待った。

 麻縄が重ね合わせた両手首の下をくぐる。くるくるとふた巻きしてきゅっと引き絞られると、胸の底が疼いた。縄尻が前に廻り、ほんのり赤みを帯びた胸の上部に縄が渡されて背中に戻る。再び前に廻って二の腕に喰いこみながら乳房を下から緊め上げた。と、胸の内奥の疼きが表面まで浮かび上がってきたような気がした。

 覚悟は出来ているといっても縄目を打たれることは辛く切ない。それも一糸まとわぬ裸の肌身を縛られるのだから、全身の毛穴から火が噴き出るほど恥ずかしい。が、しかし、柔肌を緊め上げていく縄の感触は異妖な刺激を伴う。志津の乳首を次第に膨らませ、心に微妙な揺らぎを醸し出す。縄は志津に新しい環境に順応することを求めた。

 島野が操るその縄は、背中に戻って一つに束ねられた志津の両手首を高く吊り上げるようにして縄止めされた。

「よしっ。ワシは先に部屋へ戻っておる。あとは島野……。分かっておるな」

 老人は長椅子からすっと立ち上がると、風に浮かんで床の上を滑るような足取りで廊下へ出た。スリッパの踵が廊下をペタペタと叩く軽い音が遠ざかっていった。

「志津さん。口を開いてくれませんか」

 いつのまにか島野は、中ほどに結び目をこしらえた豆絞りの手拭いを手にしていた。

「そ、それは……」

「御前はこうするのがお好きなんです。さ、志津さん。口を開いてください」

 一片の布も身に着けることを許されず、後ろ手に縛り上げられて両手の自由を封じられ、なおかつ口までふさがれる……。志津は恥ずかしさよりも屈辱に胸を緊めつけられた。

「島野さん。どうしても……なんですねっ」

「ええ。志津さんのお顔の美しさが引き立つだろうとおっしゃっていました」

「そうですか……」

 志津には老人が島野に指示したことの意味が呑みこめなかった。
(丸裸の女を縛り上げた上に猿轡を咬ませることのどこに美しさがあるというの? 羞恥心を(あお)って屈辱を与えるだけじゃないの……)

 心の中で反発しながら志津は潤いに満ちた紅い唇を開いた。

 う……。手拭いの結び目が口の中にすっと滑り込んで舌をおさえた。

 志津の口を割った豆絞りの手拭いは、程よく膨らんだ頬から耳たぶを持ち上げるようにして後ろへ引き絞られ、後れ毛が貼りついている白いうなじの上で結ばれた。

「さ、行きましょう、志津さん」

 島野に促されて致し方なく立ち上がった志津が足をスリッパに伸ばすと、縄尻がグッと引かれた。

「志津さん、それは……」
 スリッパはダメだと島野が首を左右に振る。裸足のまま行けということらしかった。

(スリッパを履かせないことも御前さまの指示なのね?)
 猿轡に言葉を奪われている志津は、目顔で島野に問いかけた。

 その意を悟ったようにコクンとうなずいて、島野は志津を廊下に連れ出した。

 明りはあるものの廊下はほの暗い。等間隔につけられているアンティークランプの灯が心許(こころもと)なかった。それ以上に廊下の長さが、志津には果てしなく感じられた。

(どうしてわたし、こんな目に……)
 何一つ罪を犯した訳ではないのに、今の自分は映画やテレビの時代劇に出てくる女囚そのものである。いや、もっと酷い扱いをされている。素っ裸の肌身を後ろ手に縛り上げられて女の恥部をさらけ出し、猿轡まで咬まされて曳き回されている。志津の切れ長な眼にうっすらと涙が滲み出た。

 薄暗い廊下の冷たい床板をよろめく足で踏みしめる度に、玄関が迫ってくる。ガラス戸越しに見える戸外は、常夜灯に照らし出された石燈籠や庭木が浮かび上がり、美しく静かな夜を描いた一枚の絵画のように見えた。

(もしもあの庭木の陰に誰かが潜んでいたら、あられもない姿を見られてしまう……)

 そう思った志津の胸は慄えた。しかも、玄関脇にある階段の上り口手前の賄い部屋にはあの田野倉カネが寝泊りしている。

 その賄い部屋の方角を見遣って志津はハッとした。出入りの引き戸がわずかに開いている。中の電灯が消えているので、その隙間からカネが目を(こ)らしているかどうかは分からない。分からないが人の気配を感じた。

(うふふふふ。ざまはないわね、金に目が眩んで御前様の言いなりになる淫乱女は……)
 カネがそう嘲笑(あざわら)っているような気がした。

(違うのっ。おカネさん違うのっ。わたしはそんな女じゃないのよ)

 猿轡にゆがめられた顔を小さく左右に振りながら頭の中でそう呟いた志津は、カネの部屋の前をすり抜けるようにして階段の上り口へと急いだ。

 小走りする志津の後に続いた島野が、苦虫を噛み潰したような顔で賄い部屋を振り返って引き戸の隙間を睨んだ。するとピタッと引き戸が閉まる小さな音がし、志津の、後ろ手の高手小手に縛り上げられた乳白色の裸身は一気に紅潮した。

 カネの(いや)らしい視線から逃れたものの、羞恥の渦から逃れ出たわけではない。階段を踏み昇りながら志津は、今更ながら我が身の哀れさを痛感した。

 下半身が心許ない。風が股間をすり抜けていくような冷ややかな感覚が志津の羞恥心を掻き立てた。踏み出す足のバランスを崩しそうになる。肌身を縄に縛められている屈辱が志津の心を打ちひしいだ。不安も募った。

(縛られたまま肌身を(もてあそ)ばれても一時のことならまだ我慢出来る。でも、これがいつまでも続くとしたら……)

 逃げ出したい、と志津は思った。しかし、優しく見えても殿村老人は恐ろしい。蛭田の比ではない。後ろ手に厳しく縛られた裸身を島野に優しく追い立てられながら、志津はしきりに煩悶(はんもん)した。

         *

 老人の居間に連れ戻された志津は、そのまま小舞台に上がらされた。


 舞台の床に尻を落とした裸の志津の両足首を縛った島野は、別の縄を背中の両手首を縛っている縄につなぐと、その縄尻を梁に架け渡し、縄にたるみが残らないように引き絞って結び止めた。

 まるで飾り人形のように小舞台に据えられた志津は、下腹部の羞恥の茂みを隠そうと、腰をひねった。膝を折って束ねられた二肢を横に流し、薄く瞼を閉じ合わせて豆絞りの手拭いで猿轡をされている顔を斜めに伏せた。

 老人はカネに用意させたらしい酒の膳を前にしていた。脇息にもたれかかって島野の作業を見つめながら、志津の恥じらい豊かで艶っぽい姿態に、老人特有の斑(あばた)が目立ってきている顔をさも満足げに崩した。

「思った通りじゃ。今夜は旨い酒が呑めそうじゃな」
 老人は目を細めて傍らに寄った島野に同意を求めた。

 島野がうなずいた。が、その表情にかすかな戸惑いが見えた。老人はそれを見逃さない。

「なんじゃ島野、その顔は……。もしかしてお前、この女に同情でもしておるのか?」

「いえ、そんなことは……」

「では何じゃ」

「志津さんの美しいお顔がはっきりと見える方がもっとよろしいかと……」

「おお、そうじゃな。お前の言う通りじゃ。ではそうしてくれ」

「はい、只今」と抑揚を抑えた声で答えた島野は、麻縄を手にして再び小舞台に上がった。

 湯上りに巻き上げた志津の黒髪がほどかれる。島野は長い髪を器用に束ねてくるくると縄を巻きつけた。その縄がゆっくりと引き上げられた。

 くっ……。伏せていた志津の顔が次第に持ち上がって正面を向いた。

「おお、それでよい。それでよいぞ島野。お前もこっちへ来て一緒に呑め」
 老人は上機嫌に島野を手招きした。

(なになの、この人たちは? わたしは一体なになの? お酒の(さかな)? そんなことのためにお金を払ってわたしを手に入れたの?)
 なぜか志津はそう思って憤っていた。

 凌辱された後に犬猫のように売り渡され、意思のない人形同然に扱われている哀れな女の考えることではない。吊り上げられた長い黒髪とともに引き張られている顔の皮膚の突っ張りがある種の苛立ちを生み、反発心を芽生えさせたのかも知れない。 

 しかし、そんな場違いな思考に自分が陥っているという意識は志津にはない。志津は不可思議な思いに囚われていた。

 闇の世界の実力者だというこの老人の意図がまるで理解できない。志津が心身ともに囚われてしまっていることに疑いの余地はないし、現にこうして素っ裸にき上げられて辱めを受けている。
 しかし中途半端なのである。幽閉されて徹底した恥辱を味合わされることもなさそうであり、そうかといって危険な匂いがしない訳でもない。逃れようとすれば命を失いかねない怖さも感じる……。志津は混乱していた。

 (ねや)での志津は、麻縄で二重三重に緊め上げられた豊かな乳房を揺らし、見事に均整のとれた優美な肢体をくねらせ、端整な顔の眉間に皺を寄せて甘く喘いだ。雪白の美肌をほんのりと赤らめて殿村老人の愛撫を受けとめて小一時間が経ち、縄の縛めはとかれた。

 この夜の志津は一糸まとわぬ裸身を殿村老人に抱かれて眠った。

 恐怖心と安堵感がないまぜになっていて心の整理がつかない以上、今はただ老人の機嫌を損ねずに、老人に甘えて身を任せ、解放される時期(とき)を待つよりすべはない。数奇な運命を歩みはじめた中澤志津はそう結論していた。――



                                                  つづく