鬼庭秀珍 幻想花、志津という女の物語 |
第八章 蜘蛛の糸 志津さんが身を隠したことにホッとひと息ついて外を眺めると、太陽がもうかなり西に傾いていて、庭の木立ちの影が長く伸びていた。 壁時計の針が午後四時二十分を指している。資料整理をほっぽらかしにして、ボクはまだあの原稿を読み続けていた。 それでも雨息斎先生は一言も文句を言わない。机に向かってペンを走らせたり、天井をじっと見つめたり、庭を眺めて考え込んだり、を繰り返している。 その先生が不意に振り返った。 「キミ。今日は夕飯を食っていったらどうだ。遠慮はいらないよ」 「済みません、資料整理が遅れてしまって……」 「構わんよ。我が家の夕食は七時過ぎだ。それまでに整理してくれればいい」 先生はそう言うとまた机に向かった。 (また心を読まれてる……)ような気がした。雨息斎先生の背中には眼がついていて、その眼がボクの様子を逐一(ちくいち)観察しているように思った。 それはともかく、貧乏フリーターにとって夕食一回分が浮くのは嬉しい。それに資料整理を終えるのにあと一時間はかかりそうだし、この原稿は最後まで読み終えたい。ボクは先生の背中に向かって返事を弾ませた。 「済みません、ご馳走になります!」 残りはあと少しだ。ボクが一番知りたい志津さんの行く末がそろそろ語られるはずだと思って心が躍った。(先に資料整理を済ませなきゃダメだ)とも思ったが、いつものように本音と建前がゴチャゴチャになって頭の中で格闘して、今日は本音の方が勝った。 ――忽然(こつぜん)と姿を消した中澤志津は、東京から西へ三〇〇キロメートル余り離れた岐阜県多治見市にいた。 志津がこの美濃焼きの里にひっそりと隠れ住むことを考えたのは、茶道とは違った意味で趣味にしていた陶芸がきっかけである。多治見には前に一度だけ立ち寄ったことがあった。亡くなった夫の慎一がまだ独立前のサラリーマン時代にした夏のドライブ旅行の途中のことである。その時にたまたま訪ねた窯元の主・加藤清三郎が、「うちでえかったらいつでも気軽に見えりゃええがな。焼き物の基礎は知っとりゃーすようだけん、もうちびっと習らや、ええもんが焼けるじゃろ」と言ってくれたことを志津は思い出した。芥子粒(けしつぶ)ほどの小さな縁だが、志津はその清三郎翁の言葉にすがろうと思った。多治見には、親戚縁者は勿論のこと、友人も知人もいない。縁の薄い土地だからこそ殿村昭吾から追っ手がかかったとしても見つかることはないだろう、とも考えた。 思い立ってすぐに清三郎窯に電話を入れてみると、幸いに加藤清三郎はまだ健在だった。しかも、志津のことをはっきりと覚えていてくれた。 「こげなジジイをあんた、よう憶(おぼ)えておいでなすったなも」 語尾が跳ね上がる美濃弁で加藤清三郎は、まるで孫娘から久し振りに連絡をもらったように喜んでくれた。 しかし志津は、夫が亡くなったことは話したが、現在の自分の境遇には触れなかった。そのことを話せば受け入れを躊躇するだろうし、仮にそれを承知で受け入れてくれた場合にはかえって清三郎翁に迷惑をかけることになるかも知れないからである。 「ご迷惑でなければしばらくそちらに滞在させていただきたいのですが……」 改めて陶芸を教えて欲しいとだけ告げた志津は、新しい年が訪れるまで、約十ヶ月間の多治見滞在を申し出た。 「なにが迷惑なもんか。あんたなら、いつまでおってもええがな」 そう言って快諾してくれた加藤清三郎は、さも嬉しそうな声で住まいの手配を約束してくれた。そして、その清三郎翁から手ごろな借家があったと連絡を受けた翌週月曜日の昼下がりに、志津は身の回りのものを整えて国分寺の家を後にした。 その前の土曜日は、いつものように殿村昭吾の山荘で素肌を晒し、麻縄の緊めつけに呻き、執拗な愛撫に喘いだ。志津は、自分の決心を悟られないように細心の注意を払いながら老人に甘えて見せた。 恥ずかしく狂おしい一夜が明けた翌日曜日の朝は空が抜けるように青かった。 前夜からずっと上機嫌な殿村昭吾は、都内のホテルで大切な会合があるとかで、島野の運転するセルシオに志津を同乗させて朝のうちに国分寺まで送ってくれた。 「志津。この頃ワシはな。土曜日が待ち遠しゅうてならんわ。あはははは」 殿村は破顔一笑し、発進した車の窓から顔を覗かせて手を振った。子供のようにはしゃぐ老人の姿を目の当たりにして、志津の気がとがめた。 (わたし、あの人をこれから裏切るんだわ……) 走り去るセルシオのリア・ウインドウを見つめているうちに、志津の心にかすかな戸惑いが生じた。その戸惑いが迷いになり翻意へと変わっていくのを必死に抑え込んで、志津は予定の行動に移った。 それから六日後のことである、いつも通りの時刻に国分寺を訪れた島野が志津の遁走(とんそう)を知ったのは……。 * 多治見の加藤清三郎は、志津のために、街中から少し離れたところにある一軒家を借りてくれていた。庭は広いが建物は十五坪ほどの小じんまりとした平屋である。一人暮らしを考えるとマンションのような集合住宅の方がよかったが、多治見市郊外にある清三郎窯に近い辺りにマンションはない。小ぎれいなアパートもほとんど見受けられない。志津は清三郎が支度してくれたこの一軒家に住むことにした。 多治見に隠れ住んだ当初は、東京から遠く離れた場所にいるとはいえ、やはり一抹の不安があった。殿村昭吾の力をもってすれば日本全国どこに隠れていようとも探し出すのは容易なことではなかろうかと考え、そのたびに志津は心を慄わせた。 しかし、幸いに日々は平穏に過ぎ去り、志津は好きな陶芸に集中することで心の傷を徐々に癒していった。 美濃焼きの歴史は平安時代に遡る。室町前期には山茶碗や古瀬戸(こせと)が焼かれ、後期に入ると山頂に大窯が造られて、新しいタイプの灰釉(はいゆう)と鉄釉(てつゆう)が焼かれた。灰釉は後に黄瀬戸(きぜと)となる。同じ頃に生まれた瀬戸黒は織部黒(おりべくろ)に変化していく。そして灰釉に長石を多く加えた灰志野(はいしの)が出来、続いて長石だけで作られ焼き流れしない釉薬(ゆうやく)の志野が出来上がった。これによって筆描きの文様付けが可能になり、色々な文様が陶器に描かれるようになったという。 土をこね、形を整え、絵付けをして、焼き上げる……。そのことが心底愉しかった。 志津は、自らこしらえる陶器に亡夫・慎一との懐かしい想い出を練り込むことに専念した。 そうした月日の流れは早い。気がつけば、いつの間にか野山が色づく季節になっていた。 紅葉が陽の光に透けて見えるようなある日……。志津は、師事する清三郎翁からの頼みで、陶芸展の受付の手伝いに出かけた。 萩の裾模様が優雅に揺らめく薄茶の着物に袖を通し、お気に入りの黒地に扇をあしらった袋帯を締めると、蛭田に手篭(てご)めにされて辱められた一年前の秋のことが頭をよぎった。 (大丈夫よ。ここにいる限りもう二度とあんな目に遭うことはないわ……) 自分にそう言い聞かせて陶芸展会場に出かけた志津は、午後三時過ぎまで受付を手伝い、傾いた陽が影を長く伸ばす中を家路についた。 志津が仮住まいとして借りた一軒家は、県道から少し引っ込んだ場所にあり、両隣りとの間に昔流に言うと一反歩の田んぼがそれぞれ一枚ずつあった。周りにはまだあちこちに田畑が残っている。十数年前の区画整理で用地転用された地区とのことで、昔は畦道(あぜみち)だったところがアスファルト舗装の生活道路になっている。人家は多くても密集しているわけではない。 その借家のすぐ近くまで辿り着いて志津はハッと立ち止まった。 家の前の生垣が切れた先の道端にどこかで見たことのあるフルスモークのワンボックスカーが停まっている。薄闇に溶け込んで様子を窺っている黒豹のような、その車影を見て志津は胸騒ぎを覚えた。 (まさか……) 足がすくみ、冷や汗が背中に滲み出た。志津の胸の鼓動が一気に高まった。 早鐘(はやがね)を打ちはじめた胸を押さえ着物の裾を乱して家の敷地内へと小走りした志津は、開けた門扉(もんぴ)を閉じる暇(いとま)も惜しんで玄関に駆け寄り、震える指をもどかしく思いながら玄関扉に鍵を差し込んだ。 その志津の背後で音もなく、あたかも周囲を窺うようにして、ワンボックスカーが家の入り口をふさいだ。 この家は、塀の代わりをしている常緑樹の生垣が外からの視界を遮(さえぎ)っている。そのことを前もって調べた上で周到に計算したような位置にワンボックスカーは停まった。 ワンボックスカーが家の出入り口に横付けされたことに気づいた志津の胸の鼓動はますます早まった。ようやくカチッと玄関の鍵が開く音がした時には、ずんぐりした体格の男が志津のすぐ後ろまで迫っていた。 (ああっ!) ワンボックスカーから降りてきた男はやはり、あの蛭田和幸だった。 志津は手にしていた玄関の鍵をポロリと落とした。一瞬にして顔が蒼白に変わり、全身がすくみ上がってしまって足を一歩動かすことすら出来ない。 そばにつつっと歩み寄った蛭田は、例によって口の片端を吊り上げ、厭(いや)らしい顔一面に冷たい笑みを浮かべた。 ふふっと含み笑いをした蛭田は、西欧人がするように肩をすぼめ、薄い口でおどけた物言いをした。 「ひと目見てあんただと分かったよ、あの日と同じ姿をしてるからさぁ。ずいぶんとお気に入りらしいな、この萩の裾模様の着物が……」 「…………」 志津は言葉を失っている。その志津の全身に、白さがまぶしい足袋の爪先から蒼ざめた顔へと、蛭田は舐めるように視線を走らせた。 「それにしてもこんなところに隠れていたとはな、志津……。突然消えちまうなんていい迷惑だぜ、アフターサービスをさせられる俺としちゃ。ま、それはよしとしておいてやるよ、こうしてちゃんと見つけたから。それに、あちこち探し回ったお陰でいい目を見せてもらったからな。さ、志津。殿村の御前がお待ちかねだよ」 「…………」 志津は目を丸く見開いて立ち尽くしている。まさかの事態に喉が干上がっていた。 「突っ立ってないでさっさと車に乗れよ」 すっと背後に回って震える両肩に手をかけた蛭田は、志津のからだを車の方へ押した。 「ここのことは心配にゃ及ばないさ。あとで島野さんが来て、ちゃんと片付けてくれる手はずになってるから……」 諭すようにそう言って強引に志津を後部座席に押し込んだ蛭田の顔を、志津は哀しげな眼差しで見つめた。 「おっ、なんだその眼は……。そうか心配なんだな、あの加藤なんとかっていうジイさんのことが……。安心しなよ、片付けると言っても危害を加えることはないから……。お舅(しゅうと)さんに無断で出奔(しゅっぽん)した息子の嫁が東京に連れ戻されたという、よくある筋書きだ。お前、あのジイさんにはずいぶん世話になったんだろう? その恩ある人に迷惑をかけたくなけりゃ、おとなしく俺と一緒に殿村の御前のところに帰ることだな」 お前が言われた通りにしない場合は加藤清三郎にも危害が及ぶぞと、蛭田は言外に匂わせた。それだけは何としても避けたい。そう願う志津の心はすでに蛭田に縛られていた。 「分かったな、志津」 蛭田は、哀しみを色濃く滲ませた志津の瞳を覗きこんで念を押した。しかし、突然降って湧いた恐怖に干上がっている喉からは、まだ声が出てこない。志津は口をつぐんだまま弱々しく、コクンと小さく首を縦に振った。 「よしっ!」 うなずいた蛭田が後部座席を倒して平らにした。その中央に志津を座らせた蛭田は、麻縄の束を取り出して志津の鼻先にかざした。 「分かってるな、これでどうするか」 (ああ、またこの男に……) 鎌首を立てた黒ずんだ縄がすでに志津の震える胸を締めつけていた。 目の前にかざされた縄を見つめる切れ長な眼が潤(うる)んだ。志津は弱々しく顔を横に振って蛭田に訴えた。 「し、縛るのは……。お、お願いです。やめてください……」 志津は、必死になってかすれた声を喉から絞り出した。からだは硬直し、顔から血の気が退いている。頭の中が真っ白になっていた。 「おいおい、お前は縛られるのが好きなはずだぜ。そんな勝手を言っちゃいけないなあ。さ、着物を脱いでもらおうか」 「…………」 縛られるのが好きなはずだと蛭田に言われて、凍りついていた志津の端整な頬がぽっと桜色に染まった。恐怖心の狭間から羞恥心が頭をもたげていた。 その志津の顔色の変化を見てホクソ笑んだ蛭田がたたみかける。 「もう感じてるのか? そうだろ志津? なにしろお前は、縄を見ただけで興奮する女だもんな。からだがウズウズしてきてるんじゃないのか?」 「…………」 志津に返事ができるはずがない。 それをいいことに蛭田は、卑猥な表現を繰り出す言葉嬲(なぶ)りをして、志津の羞恥心を煽った。 「さ、うんと感じる縄をかけてやるから着物を脱げよ。脱ぎたがってるんだろ、お前のからだは? 裸になって両手を後ろに廻したら胸がゾクッとして下が濡れてくるんだろ? なぁ志津、そうなんだろ? なに? 今日は自分じゃ脱げないってか? それなら俺が脱がしてやるよ」 そう言うなり蛭田は着物の帯に手をかけた。 「あっ、イヤっ」と咄嗟に洩らした志津の声はか細くかすれていた。 手足がまだ思うように動かない。その志津を蛇のように冷たい眼で睨みつけた蛭田は、運転座席の後ろポケットから褐色の粘着テープを取り出し、千切ったテープを震えている志津の唇に貼りつけた。人形さながらに固まってからだを強張らせている志津は、粘着テープが口に貼られるのを拒むことすら出来ないでいた。 蛭田は、ふさいだ志津の口の上を更に一枚二枚と、粘着テープを貼り重ねた。テープの端をしっかりと、入念に指の腹で押さえて声が洩れないようにした。 手際よく粘着テープで志津の口をふさいだ蛭田は、薄笑いを浮かべながら再び帯に手をかけた。帯揚げを抜き取り、帯締めを外し取る。慣れた手運びでするすると帯をほどくと何本もの腰紐を次々に抜き取り、一気に志津から着物を剥ぎ取った。 (ああっ!)と猿轡の中で小さな悲鳴を上げて志津はようやくわずかな身じろぎを見せた。その志津の着物の下から現れた白地に水色の大きな格子縞の入った爽やかな長襦袢を蛭田はしげしげと見つめた。 「今日は無地じゃないんだ……」 そう呟いただけで蛭田の手運びはゆるまない。ささっと伊達巻きをほどくと、肌襦袢と一緒に長襦袢を奪い取った。 反射的に両手で胸乳を抱き、菊の花びらが織り柄になっている薄桃色の湯文字に包まれた臀部をよじった志津を見つめて、蛭田はからかうように言った。 「えらく艶っぽいじゃないか……。もしかして好い男でも見つけたのか?」 ニヤッと笑った蛭田は、志津の肩を縄で軽く打った。 「さ、両手を後ろに廻すんだ」 志津には蛭田の言葉が聞こえていない。焦点の定まらない虚(うつ)ろな瞳で、呆然(ぼうぜん)と蛭田の顔を見つめていた。 「そうか志津。お前は乱暴に扱われる方が嬉しい女だったな。無理やり腕をねじ上げてもらいたい訳だ」 そう嘯(うそぶ)いた蛭田は、志津の両肩に手をかけるとくいっと捻り、いとも簡単に志津のからだの向きを変えさせた。後ろ向きになった志津のからだの両側から腕を前に伸ばし、志津の華奢な両腕を手繰って背後にねじり上げる。左右の手首を背中の中ほどに一つに重ね合わせて、キリキリと縄をかけた。 蛭田は、縄尻を二の腕から前に廻して胸の隆起の上下を緊め上げると、胸縄の両脇に抜け止めの閂(かんぬき)縄をほどこして、瞬く間に上半身を裸に剥いた志津を後ろ手縛りにした。 両腕を背筋にねじ上げられ素肌に縄目を打たれている間、志津は一切抵抗を示さなかった。放心状態が続いていた。 「その腰のものも余計だなぁ。ついでに脱がしておくとするか」 そう呟いた蛭田は、すっと手を伸ばし、志津の腰から薄桃色の湯文字を引き千切るようにして奪った。 (ああっ!)と、女の秘所を露わにされた羞恥が志津を我に返らせた。が、すでに両手の自由は封じられ、言葉まで奪われている。志津の長い睫毛の間からこぼれ落ちた大粒の涙が鼻梁(びりょう)の脇を下って口をふさぐ粘着テープの表面を濡らした。 (ああ……。結局わたし、こうなるしかなかったんだわ……) 志津は、あの忌まわしい秋以前に引き返すことの出来ない自分の運命の哀しさと苦さを粘着テープの猿轡の中で噛み締めた。あふれ出る涙で目の前が霞(かす)んだ。 「志津。今日は俺の縛りの腕を堪能(たんのう)させてやるよ。その代わり容赦はしないからな」 |