最終章 白磁に咲いた桜
読み残している原稿も残り少なくなった。妖しい物語に魅入られたボクは、眼を皿にして読みすすんだ。
――秘密の晩餐会から三か月が過ぎ去った。
関東地方にも入梅宣言が出されたが、空梅雨模様で雨は少なく、蒸し暑い日が続いている。そうした鬱陶しい日が続く中で、殿村昭吾の西多摩山荘では遅咲きのソメイヨシノが花開いた。
「志津。例のものをじっくり見せてくれんか」
「はい、御前さま」
軽やかに答えた志津はすっと立ち上がった。
くるりと老人に背を向けた志津は、帯に手をかけた。濃紺に小さな桜の花びらを散りばめた帯をくるくると外し、黄八丈の着物を肩先から滑らせる。薄い水地に白の斜め格子が入った長襦袢が成熟した女の色香をむんむんと匂い立たせ、紅地に白い縞柄の伊達巻が妖艶さを添えている。
伊達巻をほどいた志津は、にっこり微笑んで一呼吸おくと、女が馨(かぐわ)しい長襦袢を肌襦袢と一緒にさっと脱ぎ落とした。
パッと桜が咲いた、と殿村は錯覚した。
志津の背中一面に桜の花が咲き乱れている。右肩に伸びた枝を優しく包みこむように天女の羽衣が舞っていた。老人は志津の背中に見惚れた。と、咲き誇るその桜がふっと姿を消し、たわわに実った真っ白な乳房がとって替わった。
志津はくるりと向き直っていた。艶々と光る左肩から柔らかく溶けるような乳房の傾斜にかけて、妖しく美しい桜が枝を伸ばしている。老人はゴクッと生唾を呑んだ。
細く優美な白い指が湯文字の腰紐をするするとほどく。濃い水色に白い桜の小さく可憐な花びらを散らした湯文字がさっと取り去られると、桜が咲く場所を変えた。老人は再び錯覚に襲われていた。
左腰から太ももへ花びらを満載した枝が垂れていた。その太もものつけ根の柔らかく膨らんだ漆黒の繊毛の茂みをどす黒い縄が縦一文字に割っている。老人はまたゴクンと生唾を呑み込んだ。
ふふふっ、と悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた志津は、白く妖しい光沢を放つしなやかな両腕を静かに後ろへ廻して肘(ひじ)を深く折る。左右の手首を背中の中ほどで重ね合わせると、胸を心もち反らせて、うっすらと瞼を閉じ合わせた。
妖しい美しさと女肉の官能味を発散する志津の、見事に均整のとれた裸身はすでに上半身が目に見えない縄に縛められているようだった。
志津の悩ましい肢体を殿村昭吾の血走った視線がゆっくりと這い上がる。爪先から脛(すね)へ、膝から太ももへ……。そして、黒ずんだ縄が縦一文字に喰いこんだ漆黒の茂みから白く柔らかい腹部へ這い上がった老人の視線は乳房の上でとまった。膨らみを増してツンと空を向いた赤い乳首を堪能した老人の熱い視線が乳房の左上の桜の枝へ動いた。その瞬間、胸上の桜がふっと消え、代わって背中の桜が姿を現した。
志津は上体をひねって左半身を見せていた。心持ち前に突き出した左肩に顎を載せるように首を巡らせ、仄かに赤く染まった顔を殿村に向けている。
志津はその裸身をほんの少し前方に倒し、背中で組んだ白くたおやかな両腕の手首を重ね直すと自らググッと高く持ち上げる。華奢な両手首を高手小手に組み直し、再び背筋を伸ばして胸を張った。ふっくらと丸く後ろに結い上げた黒髪のほつれ毛が一本、頬にかかっている。切れ長の眼に男心を蕩(とろ)けさせる妖しい光が宿っていた。
女盛りの色香が妖しく匂い立つ中澤志津とすでに老境に入って長い時を過ごしている殿村昭吾の二人だけを包む時間は、熱くゆっくりと流れた。
真っ赤に充血して焦点が定まらない老人の視線をとらえた茶褐色の大きな瞳がキラッと光った。志津は、自らほどこした縄が縦一文字に走る白い腰を斜めに構え、自ら背中に高く重ね合わせた手首の先で白い指を踊らせて、まるで挑むかのように殿村昭吾の目を見据えた。美しく妖艶な女に変貌を遂げた中澤志津は、手首を重ね合わせた背中をしならせ、甘えるように腰をくねらせて艶然と微笑んだ。
土をこね、形を整え、絵付けをして、焼き上げる。その結果、美しく風趣のある器は出来上がる。
殿村老人の元から逃げたあの頃の志津は、半年の間、美濃焼きの里・多治見の地で亡くなった夫・慎一との想い出を陶土に練りこみながら記憶を整え、尽きることのない思慕で彩(いろど)り、楽しかった過去を形にしていった。その志津が、心をこねられ、からだを縄で縛り固められ、刺青に彩色されて、従順で可愛い慰みものに造り上げられていた。
運命……。果たしてそのひと言で片付けてしまってよいのだろうか?
自らすすんで選択した訳ではなかったが、いや、ある時を境に自らそうなることを決心したのかも知れないが、中澤志津というひとりの美しい女が新しい自分の物語を紡いで大きく変貌していったことは紛れもない事実である。――
ゾクゾクッとして、ボクの分身はいまにも爆(は)ぜそうだった。
あわててトイレに駆け込んだボクは、先生に悟られないように、とくに奥様には絶対に気づかれないように動きを殺して、便器の中へ男の精をぶちまけた。軽い目まいがした。
多分いま、ボクは蒼い顔をしている。なのに顔が熱い。眼をつむると志津さんの妖艶な姿が瞼の裏に浮かび上がる。瞼を開けても悩ましい姿が目の前をチラチラした。しばらくトイレから出られなかった。そして、やっとの思いで書斎に引き返したボクは、残りの資料整理にとりかかった。
雨息斎先生が書いた妖しい物語に心を奪われてしまったせいで、結局、資料整理が終わったのは七時半過ぎになってしまった。
夕食をいただきながら、ボクは志津さんのことを先生に尋ねた。どうしても奥様とイメージが重なってしまう志津さんのことをもっと知りたかった。
「先生、志津さんが自殺を考えなかったのはどうしてなんでしょうか?」
「キミねぇ、死ぬというのは怖いものなんだよ……。それに、人間はなかなか死ねないように出来ているんだ。どんな不幸な境遇にあっても、生きる希望というか、小さな光を見続けるのが人間だからね。大抵の人はいつも自分自身の物語をまだ続けたいと思っている。意識していても、いなくても、みんな自分が描いた自分のための物語を完成させる努力をしながら、毎日を送っているんだ。その未完成な物語が一応、首尾一貫(しゅびいっかん)していれば人間は何とか生きていける。しかし、何らかの事情で物語が破綻(はたん)すると、危機に見舞われる。その時の対応が二つに別れるんだな。自殺という行為を正当化出来る物語をその先につなぐか、生存を前提としている従来の物語に新しい展開を加えるか、そのどちらかに別れる。彼女の場合は後者の道を選んだということだろうね」
なるほどと、うなずきながらボクは先生の話に耳を傾けた。
「蛭田という卑劣な男はね、その実は彼も不幸な男なんだが、彼女を嬲り抜くことに懸命だった。殿村も島野も間接的に手を貸している。しかしね。連中は命まで奪おうとは思っていない。それは彼女も判っていたはずだよ。確かにひどい目に遭わされている。ただ、嬲られているうちに自分の未知の性に気づいた。というより気づかされた。それも思いがけず心地好いものとしてね……」
「なぶられる、ことがですか?」
「そういうことだな。すすんで快楽を求めるより、強制されて覚えさせられた方が自分を正当化し易いじゃないか。自分は淫らな女ではない、絶対にそうではなかったのにそうされてしまったのだと、そう考える方が納得し易いとは思わないか?」
「はあ……。ボク、その辺がよく解らないんです」
「おいおいキミにも解るようになる。今キミが憶(おぼ)えておくといいのは、人間はどんな時にも必ず心の逃げ道をつくるということかな。元々自分たちが創り出した幻想で成り立っている世界に住んでいるのだから、個人の幻想は当の本人が変えればいい。心の置き場所を変えれば自分を取り巻くすべてが新しい情景として描き直されるんだよ」
つい首を縦に振って相槌を打ったけど、正直、ボクはさっぱり理解できなかった。
「志津さんもそうなんですか?」
「彼女の場合は、途中からむしろ積極的に新しい物語を描いたかも知れないな。結果としてということだがね……。彼女が自殺までは考えなかったのはそれまで歩いてきた道と関係していると思う。専業主婦として家を守ってきたという、ある意味で夫に頼りきってきた経緯がある。その生き方の延長線で頼る相手を殿村に替えたということな。当然自尊心は持っている。持っているけれど、その持ち方が違ったということだろう。自尊心は高ければいいというものでもないし、高ければ高いほど崩された時が怖い」
なるほどと呟いたボクは、奥様が席を立った隙を狙って先生に尋ねてみた。
「女のひとを縛っていじめるなんて異常ですよねぇ。でも先生、志津さんは縄で縛られることに順応しちゃってるでしょ? それって、どういうことなんでしょうか?」
「私も女じゃないから本当のところはよく分からん。ただね、日本人というのは被虐性がかなり強い精神構造をした民族かも知れない。この頃私はよくそう思うんだ、あの原稿の主人公と大差ないと……。日本という女を嬲る男はさしずめアメリカかな? 中国がそうであることもあれば韓国や北朝鮮だったりしそうだけどね」
雨息斎先生は、遠くを見つめるような表情になって話を続けた。
「日本国内でものをとらえれば、国民があの主人公で、政治家や官僚が主人公の女を虐(しいた)げる男たちという見方も出来る。今、この国の国民は全員が後ろ手に縛られているようなものだよ。これで人権保護法とかいう耳に聞こえのいい面妖(おかし)な法律をつくられて、猿轡までされたらこの国は大変なことになる。戦前の治安維持法の時代に逆戻りだ。恐ろしいことだよ、無能な政治家たちと組織の自己保存本能に凝り固まっている官僚たちによってその危険が現実になろうとしているのは……」
(そうなんだ……)とボクは少し心が震えた。
「人間の営みというのはすべてが異常ですべてが倒錯なんだな、これが……。つまり、異常と倒錯の、ある一つの形を正常と置いているに過ぎないのが現実でね。正常というのは共同化された異常のことなんだよ。今の政治家や官僚は自分たちこそが正常だという偏見を持っているから危ないんだ」
雨息斎先生はなんだか暗い顔になった。
夕食が済んでからも先生はボクに色々な話をしてくれた。
「若いうちは何に対しても積極的でなくてはいかんよ。周りに遠慮しないで思ったことを率直に話す勇気が大事だ、自分の考えを整理してモノを言うことが……。正しいとか、間違っているとかは、そのあとのことにしていいんだ」
仙台の地酒に『浦霞』という銘酒がある。中でも『禅』という銘柄の吟醸酒が旨いと評判だけど、ボクには高くて手が届かない。その『禅』をたっぷり振る舞ってもらったボクは、したたかに酔ってしまった。虚ろな眼で時計を見たらもう十時を回っていた。
「今日は泊まっていくかね?」
「そうなさったら?」
ボクの眼を覗き込んだ先生の傍から奥様もそう言ってくれた。ボクはお二人のご好意に甘えることにした。
風呂を先に使わせてもらって、ふかふかした布団に仰向けになると、今日一日のことが走馬灯のように瞼の裏に甦った。
話の合間にボクが先生と奥様の馴れ初めを尋ねた時、先生は「駆け落ち同然の都落ちだよ」と言って少しはにかんだ。先生は、テーブルのお銚子が空になるたびに台所に向かって「しーちゃん、酒をもっと持ってきてくれよ」と注文した。お酒を運んできた奥様は、「はい、とのさま。お待ちどうさま」と、にこやかにお酒をテーブルに置いた。
(しーちゃん? とのさま?)
ボクはハッとした。
(もしかして奥様があの志津さんなのか? すると雨息斎先生は殿村昭二? 蛭田は「ジイさんに歯向かうことが出来るのは唯一人、次男の昭二さんだけだ」と志津さんに話してた。その次男の昭二の、雨息斎先生が……、十年前に志津さんを父親から奪い取って駆け落ちしたんだ!)
真相を探り当てたような気がして俄然ボクの眼は冴えた。夕食時の情景と会話を何度も思い起こして、同じことを何度も何度も繰り返し考えた。
お酒をたっぷりご馳走になったせいか、ボクの膀胱(ぼうこう)は破裂しそうになってきた。布団から抜け出したボクは音をたてないようにそっと廊下を歩いてトイレへ向かった。トイレのすぐそばまできた時、斜め前にある風呂場でコトッと音がした。そっとトイレの中に身をひそめたボクはドアを少しだけ開けて、一センチほどの隙間に眼をくっつけて息を殺した。
まもなく風呂場から寝巻き姿の奥様が出てきた。黒髪が艶々として背中に長く垂れて、ほつれた髪の毛が数本頬に貼りついていた。そのほつれ毛を左手で掻きあげた一瞬、寝巻きの襟の左肩の部分が少しはだけた。
(あっ! 桜が咲いてる、左肩に……)
やはり先生の奥様は志津さんその人だったんだ。ボクはそう思った。が、自信がない。妄想に駆られているのかも知れない、お酒を呑み過ぎたから。でも奥様の白く透きとおるような肌には、確かに桜の彫り物があった、と思う。
ボクは、奥様の静かな足音が消えて一二分待ってから一度トイレを出て、今度はわざと大きく廊下を踏み鳴らしてからトイレのドアを開け、我慢に我慢を重ねた小便を一気に放出した。
客間に戻って布団に横たわってからも、桜の彫り物が目の前をチラついた。ボクが見た桜の刺青(いれずみ)は幻かも知れない。だけど、その桜はボクの脳裏にしっかり焼きついている。
いつの間にかボクは、背中から肩にかけて桜の彫り物をした先生の奥様を、いや、志津さんを、自分で腕を後ろに廻して背中に高く両手首を重ね合わせている志津さんを、頭の中で縛った。
――両手首をキリキリ縛った縄尻を二の腕から前に廻して乳房の上に喰いこませる。
あっ、と志津さんは喘ぎ声を上げた。
今度は縄を乳房の下に深く沈みこませて思い切り引き絞る。
うっ、と志津さんは呻いた。
新しい縄を奥様の……、いや違った。志津さんの赤く染まったうなじにかけたボクは、胸の谷間に降ろした縄で乳房の上下にかけた縄を引き絞り、その縄尻を引き下げる。しかし奥様の……、いや志津さんの柔らかな繊毛に包まれた女の恥丘には……、すでにどす黒い麻縄が縦に喰いこんでいる。――
(お、おい! お前、なに想像してんだっ!)
ボクは両眼をカッと見開いて顔を左右に振った。頭に血が上っている。顔がまるで炎を噴いているように火照っている。
――身にまとった衣類をすべて剥き取られる。
糸くず一本まとわない素っ裸の柔肌を麻縄でひしひしと縛り上げられる。
肌身をなぶられ淫らな言葉を浴びせられて羞恥の極に追い上げられていく。
おぞましい縄にえぐられた下腹部から甘い疼きと異妖な痺れが全身に拡がっていく。肉体がドロドロに溶け、心までもが溶けていく。――
そんな妖しい淫靡(いんび)な世界にボクは囚われている。自分が物語のヒロインになったりヒロインを責めるヒールになったりと忙しかった。心が真っ二つに割れていて、ヒロインとヒールの狭間で彷徨(さまよ)っている。自分が幻想の世界か妄想の渦の中にいるような気がした。
(そうだ、すべて幻想なんだ! 幻想や妄想なら、許されていいはずだ……) ボクは突然そう思った。
(志津さんを……、いや、ボクの先生の奥様を……。ああ、思いっ切り愛したい!)
ボクは、朦朧(もうろう)としてきた意識の中で、自分が軽蔑した卑劣な男たちと同じように邪(よこし)まな想念を煮えたぎらせながら淫靡な妄想が渦巻く眠りの世界へと沈んでいった。
『幻想花』完結
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