鬼庭秀珍   蛇淫の洗礼




       第一章 不可解な拉致






 向こうの景色が透けて見えるほど初々しかった木々の若葉が、日に日に緑を濃くし、鮮やかな青葉の季節になった。木立ちをすり抜けてくる風が爽やかで頬に優しかった。しかし、雲一つない澄み切った空をゆっくりと昇っていく太陽の光はすでに強く、一か月後に結婚式を控えている若い娘の柔らかく薄い肌には、いささかきつく感じられた。

 妹尾(せのお)毬子(まりこ)は、この朝、まばゆい光に涼やかな切れ長の目を細めながら汐汲坂をくだっていた。横浜駅の改札口で婚約者の藤田正弘が待っている。高島屋デパートで新婚旅行に着て行く洋服を見立ててもらい、昼食をともにする予定である。

 軽やかな足取りで坂をくだった毬子が、まだほとんどの商店がシャッターを降ろしている元町通りに出た時、はるか前方に一台のワンボックスカーが見えた。その車影が見る見る大きくなってくる。毬子は一瞬、美しい弧を描いた柳葉のような眉をひそめた。商店街の真ん中を走る道は決して広くない。どの店も開店前だとはいえ、この一方通行路を乱暴に走り抜ける車は滅多にいない。

(困ったものね、マナーを守らないなんて……)

 端整な顔を心持ちしかめて眼を逸らした毬子は、JR石川町駅へ向かう足を速めた。その毬子のそばまで瞬く間に近づいてきたワンボックスカーが、キキキキーッと、タイヤを軋ませた。毬子は、思わず両手で耳をふさいで立ちすくんだ。

 急停車したワンボックスカーの運転席側のドアが開き、男が一人、飛ぶようにして降りた。毬子は、両手で耳を覆ったまま後ずさりをした。おののくその眼に映ったのはなんと、藤田正弘の親友、武田悟郎だった。バーンと荒々しく車のドアを閉めた武田がつかつかつかっと、呆気に取られている毬子のそばに歩み寄ってきた。

「よかった、ここで毬子さんに出会えて……」

 武田はなぜかホッとため息をついた。が、表情が硬い。いつになく険しい眼差しをしていた。毬子はかすかな不安を覚えた。

「驚いたわ、武田さん……。そんなに急いで、どうかなさったの?」

 怪訝な眼差しで問いかけた毬子の眼を見据えるようにして、武田は思いがけない言葉を発した。

「いいかい、毬子さん。気をしっかり持って聞いてくれ」

「…………」毬子は無言でうなずき、背の高い武田の顔を見上げた。

「ついさっき、藤田が……」

「えっ、正弘さんになにか……」

「事故に遭ったんだ。藤田の車が事故に巻き込まれちゃったんだよ」

「何ですって!」毬子の顔は一瞬にして蒼白になった。

「俺、アイツに渡し忘れてたものがあったもんだから、今朝八時半に三ツ沢のファミレスで待ち合わせて、一緒にコーヒーすすって別れたすぐ後だったんだ」

「…………」

「藤田は俺の少し前を走ってたんだけど、反対車線から来たトラックの運転手が居眠りしてたらしくて、急に中央線を乗り越えて藤田の車にぶつかっちゃって……」

「そ、そんな……」

「正面衝突みたいになって、危うく俺も巻き込まれるところだったんだ」

「け、怪我は……。正弘さんは大丈夫なんですか?」

「すぐに救急車が駆けつけてくれて近くの病院へ運ばれたんだけど、頭から血を流してたから俺にはなんとも……」

「そんなひどい怪我を……」
 全身からすっと血の気が退いていくのを覚え、毬子はその場に崩れ落ちそうになった。

「あっ、危ない!」
 小さく叫んだ武田がさっと毬子の背中に手を廻して毬子のからだを抱きささえ、耳元で囁くように続けた。
「それで俺、毬子さんに早く知らせなきゃと思って、こうやって急いで……」

「…………」毬子の頭の中は真っ白になっていた。

 尋ねたいことが喉元まで上がってきているのに言葉にならない。いきなり後ろからハンマーで頭を殴られたような衝撃が毬子の喉をふさいでいた。その衝撃はたちまち悲痛な思いに変わり、切れ長の眼の長い睫毛の間からあふれ出た涙が白い頬に何本も糸を引いた。


「とにかく俺と一緒に救急病院へ行こう。さあ、早くこの車に乗って……」

「はい」と小さく答えて唇を噛み締めた毬子は、頬を濡らした涙を拭うと、促がされるままにワンボックスカーの助手席に飛び乗った。

(正弘さんお願い、無事でいてっ!)

 毬子はからだを小刻みに震わせながら懸命に祈った。今はただ祈ることしか出来ない。余りの衝撃に思考力を失っている毬子の頭の中は、藤田正弘を搬送していく白い車の影と救急音が渦巻いていた。その救急音が急に高くなった気がして頭が割れそうになり、激しい動悸を繰り返す胸に締めつけられるような痛みが走った。

 両手で頭を押さえた毬子は、胸の痛みに耐えながら、上目遣いにジッと前方を見つめた。が、視線は虚空を彷徨(さまよ)っている。涙のベールが厚くかかった双眸には何も映っていない。見開いた瞼の裏と脳裏にまさかの事態の情景が飛び交った。

「毬子さん。この先が混んでるようだから近道を行くよ」

 そう言うなり、武田は狭い路地に切れ込んだ。右に左にハンドルを切りながら路地を折れ曲がっていく。しばらく走ると、建物も疎らでほとんど人通りのないところに出た。武田はそこで一旦車を停めて前方を眺めた。切羽詰ったような表情になっていた。

(道を間違えたのかしら?)

 毬子が確かめようと武田の方を向いて口を開いた時だった、いきなり伸びて来た武田の手が毬子の口と鼻をふさいだのは。左手で毬子の後頭部を押さえた武田は、右手に持った四角く折りたたんだ厚い布を毬子の顔に押しつけていた。
 鼻にツンと刺し込む異臭がして、毬子の意識は急速に遠のいていった……。



              *


 挙式の朝が訪れ、式場へ向かう時刻になった――。

「お父さん、お母さん。長い間、本当にありがとうございました」

 両親に向かって正座をした毬子は、深くからだを折って三つ指をつき、お定まりの挨拶をした。顔を上げると、母はさも嬉しそうに瞳を輝かせていたが、顔を背けた父は涙をいっぱい目にためていた。躾けに厳しく、毬子を叱ってばかりいた父。その怖い父が弱々しく浮かべた涙を見て、毬子の胸に熱いものがこみ上げた。

 そして今――。
 純白のウェディングドレスをまとった毬子は、新婦控え室の椅子に腰掛け、母に付き添われて挙式の時刻を待っている。面映さにうつむいた顔のすぐ下で豊かな胸をときめかせていた。涙混じりに一言「おめでとう」とだけ言った父は、部屋の入り口に立ち、次々に訪れる祝い客とにこやかに語らっている。

「おい、妹尾。花嫁の父ってのはどんな気分だい?」

 耳馴れた甲高い声に顔を上げると、父の親友の大学教授が顔を覗かせていた。
 季節ごとに必ず一度は我が家で酔い潰れる教授が、父の顔を覗き込むようにしてニヤニヤしている。名門私立大学でフランス文学の教鞭をとっている教授は、父に言わせれば変態学者なのだそうで、マルキ・ド・サドとマゾッホの研究をしているらしい。


「何言ってんだ、お前は……」と少年に戻ったように口を尖らせた父が、教授の耳元に口を寄せて何か囁いた。

「うん。そうだろ、そうだろ。そうに決まってるさ。あははははは」
 また奇声をあげた教授が、急に真顔になって毬子のそばに寄って来ると、後ろを指差しながら囁いた。

「父上は今日きっと、オンオン泣くぜ。オジサン、そいつを見にきたんだ。おっ、いけねえ。毬子ちゃん、結婚おめでとう!」
 教授は頭の後ろに手をやって照れ笑いをし、そそくさと控え室を出て行った。

 次々と祝い客が訪れる中、毬子は、時間が経つのがひどく遅く感じられた。

(わたしの周りだけ、時間の流れがゆるんでる……)
 寝不足のせいか、それとも気持ちが昂ぶっているせいか、しばらくすると毬子は少し苛立ってきた。

 と、その時、ようやく係の声がかかった。
「ご新婦さま、こちらへおすすみくださいませ」

 男の声だった。
(あら? 女の人が案内してくれることになってたのに……)

 係の男性の顔には見覚えがあった。しかし、それが誰なのか、どこで見かけたのか、思い出せない。
 毬子は、小首をかしげながら、赤い絨毯が敷き詰めてある廊下を静々とその男性の後ろに従った。ふかふかした絨毯の長い毛足が意地悪をして毬子の足を絡めとろうとする。その足元のおぼつかなさに頬を赤らめた時、背後から不意に、ピーポーピーポーと救急音が高鳴った。
 毬子はハッと身をすくめて背後を振り返った。が、救急車の車影はない。代わりに音の濁流が廊下を埋め尽くしていた。渦を巻いて迫ってきた音の洪水は、すぐ目の前で天井へ這い登って頭上を覆い尽くし、一瞬とどまったと思うや轟音を発して流れ落ち、蒼ざめた毬子の全身を包み込んだ……。



              *


(滝だわ……)
 轟々と鳴り響く水の音が耳朶を叩き、意識を呼び覚ました。崩れかけた壁の隙間から忍び込んでくる風の匂いに、草や木や水の香りが混じっていた。

 ようやく深い眠りから醒めた妹尾毬子は、壁も襖も障子も、何もかもが朽ちかけている廃屋のカビ臭い破れ畳の上に横たわっていた。人里離れた草深い場所にいると思った。が、ここがどこなのか、皆目見当がつかない。外壁の隙間に明るい光が満ち満ちているが、屋内に射し込んではいない。まだ、太陽が中天にある時刻のようだった。


「わたし、どうしてこんなところに……」

 そう呟いた毬子だったが、まだ頭に霞がかかっている。芯に鈍痛を感じ、からだを動かすことさえ億劫だった。が、鈍痛が和らぐに連れて霞が晴れ、毬子は思い出した。

 今朝……のことだと思った。
 元町通りを石川町駅へ急いでいる時に暴走する車を見た……。
 その車が毬子のすぐそばて急ブレーキを踏んだ……。
 運転席から武田悟郎が降りてきた……。
 武田は、藤田正弘が交通事故に巻き込まれたと、毬子に告げた……。

(そうだわ。わたし、早く病院へ行かなくちゃ)

 毬子は起き上がろうとした。が、両手の自由が利かない。肩が動かず、肘も使えない。

「んん?」

 お気に入りのグレイに細い白のストライプが走るツーピースを脱がされ、パステルグリーンのシルクブラウスも剥ぎ取られている。毬子の頬は引き攣った。毬子は、肌色に近いベージュのブラジャーとパンティだけのあられもない姿を後ろ手に縛られ、足首までが揃えて縛られていた。遠目に見れば、全裸を縄で縛られた女が畳の上に転がっているように見えるに違いなかった。

 両腕が背中で一つに束ねられている。柔らかな二の腕にかかった縄が両腕を後ろへ引き絞り、両肘を一つに固めている。両手首を縛った縄尻はくびれた腰に喰いこんで結ばれていた。肩甲骨が高く浮き上がった背中に深い溝ができ、刺繍が可愛いベージュのブラジャーに覆われた豊かな二つの乳房は異様なまでに前に突き出ていた。

(もしかして……)
 武田に騙されたのではないかと、毬子はこの時はじめて考えた。そうでなければ自分が今こんな場所にいるはずがない。武田は、藤田が交通事故に遭ったと嘘をついて毬子を自分の車に乗せ、布に沁み込ませた薬液の強い刺激臭を吸わせて気を失わせ、ここに連れ込んだ……に違いない。
 一方こうも考えた。武田が毬子を騙したのであれば藤田は無事だということになる。束の間、毬子は、自分が拉致され縛られていることを忘れてホッとした。


(でもあの人が……。武田さんが、わたしにこんなことをするなんて……)

 毬子をこんな目に遭わせたのが武田であることに疑う余地はなかったが、武田は何のために毬子を拉致したのか、それが分からない。しかも毬子は、気を失っている間にブラジャーとパンティを残すだけの裸同然の姿にされ、身動き出来ないように手足を縄で縛られている。なぜ武田がこんな理不尽なことをしたのか、毬子に思い当たる節はなかった。
 つい一週間前のことである、武田が藤田正弘と毬子をランドマークタワーのフレンチレストランに招いてくれたのは……。結婚祝いだと言ってフルコースをご馳走してくれた武田が、何の理由もなく毬子を拉致監禁するとは、到底考えられない。何か特別な意図がある、と毬子は思った。

(もしかして武田さんは……)
 ふっと頭に浮かんだのは、武田が毬子に邪な思いを抱いていたのかも知れないということだった。
 そうだとすれば、武田は毬子が結婚する前に自分の思いを遂げようとしたと解釈できる。しかし、的を射ているならば、毬子は武田に犯され、操を奪われる……。


 そこに思い至った毬子の心は慄えた。心の中を漂っていた不安がたちまち膨らみ、言い知れぬ恐怖感へと変わった。焦燥感に駆られた毬子は、肘をついて上半身を起こそうとした。すると、縄がギシッと鳴いて二の腕の柔らかい肉を咬んだ。

 ううっ! 痛みが両目をうるませた。と同時に毬子は、裸同然にされている肌身を後ろ手に縛られていることを改めて意識し、羞恥に頬を赤らめた。

「誰か、助けてーっ!」と大声で叫びたかった。しかし、叫び声を聞いた誰かが今ここに入ってくれば、毬子は、あられもない姿をその誰かの目に晒すことになる。それだけは何としても避けたかった。

 救出を願う悲痛な思いと強い羞恥心が、毬子の中で闘っていた。


                            つづく