鬼庭秀珍   蛇淫の洗礼




             第四章 淫魔の囁き






(あんなこと、引き受けなきゃよかった……)

 どうにも気の重い一週間を過ごした武田悟郎は、昨夜、JR桜木町駅からほど近い野毛商店街の一角にある小料理屋で、藤田正弘からあの後の妹尾毬子の様子を聞いた。

 なるほど藤田が予想した通りに、縄の縛めをほどかれた彼女は、「後ろから突然襲われて、すぐに気絶させられしまったから……」どんな男だったかも分からないとすすり泣き、消え入るようにしてこう答えたという。

「気がついたら手足を縛られていて目まで塞がれていたの。わたし、何か空恐ろしいことに巻き込まれたと思ってブルブル震えていたら、ミシッと床が軋んで誰かがゆっくり近づいて来たの。本当に怖かったわ、生きた心地がしなくて……。でも、足音がすぐそばまで来た時に突然携帯電話が鳴って、その誰かは早足で廃屋から出て行ったわ。わたし、今のうちに逃げ出さなきゃと思って必死に縄をほどこうとしたんだけど、どうやってもほどけないから諦めかけていたところにまた足音が聞こえてきて……。それがまさか正弘さんだとは思いも及ばなかったから、わたし、絶望したわ」


 妹尾毬子は精一杯の嘘をついていた。武田に犯されたことには一切触れなかった彼女を、武田はいじらしく思った。一方、毬子が自分の思い通りに反応したことに内心ホクソ笑んだ藤田はこんな作り話をしていた。

「僕が家まで迎えに行くべきだったんだ。約束の時間を過ぎてもキミが姿を現さないからキミの家へ電話を入れたんだよ。そしたらとっくに家を出ているじゃないか……。JRの駅員に聞いてみたら電車の運行は平常通りだって言うしさ。心配でたまらなくなったけど動くに動けなくて、そのまま待ち合わせ場所でキミを待ってたんだ。そこに武田から携帯に連絡が入ったんだ、キミによく似た女性が黒いワンボックスカーに押し込まれた現場を偶然に見かけたって……。あいつ、そのワンボックスカーを追ってるって言うから、大あわてで家に戻って車を出してさ。携帯で連絡を取り合いながら、この下の、道が二つに分かれてるところでワンボックスカーを見失った武田と落ち合って、二人で手分けしてキミを探したんだ。あいつ、今頃は多分、向うの山麓を探し回ってるだろうな。でも良かったよ。僕がキミを見つけることが出来て……」

 妹尾毬子は「武田さんが……」と小さく呟いたきり、押し黙って泣き濡れていたらしい。 武田は、藤田正弘の稚拙な作り話に呆れた。これでは二人が示し合わせていたと説明しているようなものである。毬子はそれを敏感に感じとったに違いない。(こいつはやっぱり世間知らずのボンボンなんだ)と、そっと苦虫を噛み潰しながら藤田の話を聞いた。

 そして眠つけない一夜が明けた――。

 武田は狭いワンルームマンションの洗面所に立って目の前の鏡を見つめている。尖った頬骨とエラの張った顎が目立つミイラのような顔を猫背の肩に載せた男が自分を見返していた。削げ落ちた頬が鼻梁をことさら高く見せ、充血した眼が卑しく濁っている。醜悪にさえ見えた。

(これが今の俺の顔なんだ……)
 そう思った瞬間、双眸に悲しい色が浮かびあがった。なぜか胸がしくしく痛んだ。

(悟郎、いつものお前らしくないぜ!)
 自嘲ぎみに叱咤してみたものの、心の底がチクチクと疼き、その疼きは一向に治まる気配がない。小さな棘が刺さっているのを感じた。

 あれは十日ほど前のことだった。野毛のカラオケバーで互いに二三曲歌った後、珍しく真顔になった藤田が武田の目を見据えた。

「ゴロウちゃん、俺、お前さんにたっての頼みがあるんだけど、やってもらえるかなあ」

(たっての頼みなんて大袈裟な……。どうせいつもの使い走りなんだろ?)
 武田は、頭の中でそう呟いていつもの見得を切った。

「どうしたんだよ、マーちゃんらしくないぜ。俺、マーちゃんの頼み事は何でもやってきたじゃないか。人殺し以外なら何でもやるから、遠慮しないで命令してよ」

 ところが、藤田の「たっての頼み」とやらを聞いて、武田は目玉が飛び出るほど驚いた。婚約者の妹尾毬子を人目につかない場所に監禁し、そこで裸同然の姿にして縛り上げておいて欲しいというのだ。なるほど、いつもふざけてばかりいる藤田が真顔になる訳である。

「マーちゃん、悪い冗談はやめにしようよ」
 笑顔で動揺を隠した武田は、軽くいなして片付けようとした。しかし、藤田は本気だった。
 結局、武田は藤田の頼みを引き受けた。


 武田と藤田が親しい間柄になったのは小学四年の時だった。もうかれこれ二十年近くの付き合いになる。しかし、二人の間には幼い頃からずっと一種の主従関係があり、今もそれは続いている。持つ者と持たざる者の違いは常にはっきりしていた。名門私立大学を金とコネで卒業した藤田は、父親が経営する会社の取締役をしている。それに対して、専門学校を出るのがやっとだった武田はいまだにフリーターをして食いつないでいる。社会的地位も収入も格段の差がある。
 しかし、藤田は今も武田を親友扱いしてくれている。我が儘で人見知りをする藤田には友人がほとんどいない。その藤田に付き従うことで、武田は人並みの青春を謳歌できたと言ってもいい。卑屈に振る舞うことも貧乏人の知恵だ、と割り切ってきた。
 学生の頃から、酒を呑む時はいつも藤田のオゴリだった。ソープランドで商売女を抱いた時も、SMクラブで真性マゾだという女を縛ってフェラチオさせた時も、すべて費用は藤田が払ってくれた。ある意味、武田は藤田を利用してきた。しかしそれは、常に追従することへの代償である。
 自分の感情を押し殺すことでおこぼれを頂戴することが男として恥ずかしい行動であることは、誰に言われなくても武田自身が一番良く知っている。しかし、自分に何かのチャンスが訪れるまでは致し方ないことだと思っていた。


 それなのに今朝の武田は、いつものように割り切れない自分に困惑していた。原因は、初めて感じた藤田に対する優越感にあった。あの日、武田は強い性衝動に駆られて藤田の婚約者の処女を奪ってしまった。しかし、藤田はそれを知らないし、今後もそれが露呈する怖れはない。改めてそれを確信できたことが武田の気持ちを高揚させていた。

 気だるい時が流れた。
 午後になると、武田の気持ちはますます乱れた。我ながら弱った心境になっていた。心が波打ち、左右に揺れて落ち着き場所がない。複雑な迷路に踏み込んで出口を見つけられない自分が情けなくもあった。


(俺、惚れちゃったかな?)

 妹尾毬子に、である。

 彼女は、武田が今までに抱いたどの女とも違っていた。清らかで美しく汚れがない。まさに聖女だと思った。その聖女の素晴らしい肉体が生々しく、武田の脳裏に甦っていた。

 気を失っている毬子からグレイに細い白のストライプが走るツーピースを剥ぎ取り、パステルグリーンのシルクブラウスを脱がせた時、武田は、立ち昇る芳香に思わず鼻腔を広げ、晒け出された肌の美しさに生唾を呑みこんだ。サラサラと揺れるミディアムロングの髪からもいい香りが漂い、武田の分身は勢いづいた。が、それを何とかなだめて、藤田と打ち合わせた作業に入った。

 うつむけにした毬子の両腕を後ろへ手繰った時、艶やかで華奢な両腕の柔らかくてしかも弾力のあるしなやかさに武田の手は止まった。しばらく柔らかい腕の感触に溺れていた。我に返って縄を操ったが、両肘と両手首を縛り固めた縄尻をくびれた腰に喰いこませた時、毬子の腹部の透きとおるように薄く白い皮膚が武田の手に吸いついてきた。武田の額に興奮の汗を滲んでいた。そして、目覚めた毬子の哀しくも美しい声音を聞いて、ついにこらえ切れずに凌辱してしまった。

 再び縛り上げる時、後ろ手に縛った縄尻を前に廻して胸の上下にかけていくと、毬子はそれまでとは違う反応を感じた。口では「縛らないでっ!」と叫んでいても、彼女の肉体は素直に縄の緊めつけを受け容れているように思った。
 柔肌に喰いこむ縄が増えるたびに洩らす声の音色が変わっていった。彼女の心の奥底には被虐体験を快楽に換えられる性の官能が眠っているのではないだろうかと、武田は思った。


 武田悟郎の脳裏は妹尾毬子に占領されていた。時間が経つにつれて心が焼け焦げていく。こんなことはかつてなかった。欲情をたぎらせながらも、かけがえのないものを見つけた気がしていた。今の武田には、毬子へ傾斜していく熱い思いこそあれ、親友である藤田を裏切ったことへの反省はなかった。

(やっぱり、自分の気持ちに素直に従うべきだな……)
 武田は臍を固めた。

              *

 武田悟郎が邪な思いを膨らませていた頃、妹尾毬子は、やる瀬のない憤りと深い悲しみに心を撹拌されて苦悶にのたうつ日々を送っていた。

 秘密を抱えたまま自分はジューンブライドになっていいものだろうか、という迷いが彼女を苦しませている。拉致監禁されて縛られたまま犯された衝撃の事実は両親にはひた隠しにしている。あの日、家まで送り届けてくれた藤田がうまく説明してくれた。しかし、その藤田にも自分は秘密を持ってしまった。

 毬子は偽りに染まってしまった自分を恥じていた。しかも、あの忌まわしい日の出来事が片時も頭を離れない。
 裸同然の肌身を縄で縛り上げられた浅ましい姿を藤田に見られてしまった。それを思い出すだけで顔から火が吹くほど恥ずかしいし、処女を喪ったことを藤田に打ち明けることなど出来るはずがない。加えて、どうしても納得できないことが一つあった。


 あの日息せき切って廃屋に飛び込んできて毬子の縛めをほどいた正弘は、
「こんなことで僕のキミへの愛情に変わりはしないから、悪い夢を見たと思って早く忘れるんだ」
 と優しく囁いて、傷ついた毬子をしっかりと抱きしめてくれた。


(でも……正弘さん、どうやってこの場所を突き止めたのかしら?)

 素直な疑問が毬子の頭を一瞬かすめた。が、それも救われた喜びの中にすぐに埋もれた。武田に犯されたことだけは絶対に口にしたくないと思いながら、毬子は正弘の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

 しかし、その直後の「キミによく似た女性が黒いワンボックスカーに押し込まれる現場を偶然見かけた武田からの連絡で……」という話を聞いて、毬子は初めて正弘に不審を抱いた。毬子を酷い目に遭わせたのはその武田悟郎なのだから、藤田の説明に納得出来るはずがなかった。

 藤田との婚約は、毬子の父の友人が仲に立ってくれた一年前のお見合いがきっかけである。改めて考えてみれば、恋が結婚に結びついたのとは違ってお互いにまだ表面しか分かっていない心許なさがある。毬子の心に藤田正弘に対する微かな疑念が生じていた。


 妹尾毬子は、内なる孤独に苛まれつつ半ば鬱病のようになって、まとまりのない思考を繰り返していた。その一方で両家の結婚支度は着々と進んでいた。


                               つづく