鬼庭秀珍   仕立てられた闇




               第一章 
蔵の中






 火事と喧嘩は江戸の華――。
 痩せ我慢と向こう意気の強さが粋を気取る男の生き方だったらしい昔、現在の東京下町にあたる地域では〈赤猫〉と呼ばれた類焼火災が実に多かった。原因は失火だけではなく盗賊による
放火(つけび)も多く、幕府は専門の捜査組織を立ち上げざるを得なかった。かの「鬼平」こと長谷川平蔵によって知られる火盗(かとう)(あらた)め方がそれである。


 それはともかく当時の大商人や豪農たちは、盗賊や火災から家財を守るために次々と屋敷内に堅固な土蔵を造っていった。瓦屋根で覆われた四方の壁を土と漆喰を分厚く塗り固めたそこは、賊も火炎も侵入しがたい、密閉された空間である。後年、太平洋戦争末期の焼夷弾(しょういだん)絨毯(じゅうたん)爆撃(ばくげき)で焼け野原となった都心部に古い土蔵がある屋敷はほとんど見られなくなったが、空襲から免れた周辺地区にはまだ幾つも残っており、その家の刻んできた歴史の長さと重みを象徴している。

 ところは三鷹市上連雀。五月晴れの空の下、木々の緑が鬱蒼(うっそう)としている八幡大神社の近くにひときわ大きな屋敷があった。広大な敷地の奥に渡り廊下で母屋とつながった古い大きな土蔵がある。
 内部に目を向けると、意外なことにガランとしていた。所蔵品はどこかへ移されたらしい。しかも、床一面に真新しい畳が敷き詰められており、その中央に夜具が延べられている。更に、夜具の真上の四メートル近い高天井を支えている太い梁に滑車が三つ、等間隔に取り付けられていた。薄暗い土蔵の中には、軽やかで明るい陽射しが降りそそいでいる外部とは対照的に、なにやら妖しい空気が充満していた。

 
その淫靡な空間を、高く昇った太陽がわずかに傾きかけた時刻になった頃、突然若い女の悲鳴が揺るがした。

「やめてーっ! やめてくださいっ。こ、来ないでっ!」

 怯え切った顔を引き攣らせながら逃げ惑う若い女を、でっぷりと太った五十がらみの男が脂ぎった顔に薄笑いを浮かべて追っていた。
 一つしかない出入り扉には内鍵が下ろされている。女に逃げ場はなかった。まるで捕えられた鼠が猫にいたぶられているようにじわじわと土蔵の隅に追い詰められていった。
 淡い黄色に白と薄茶の縞柄が清楚な着物の裾は乱れている。紫紺地に小さな桜の花びらを散らした品のいい丸帯の帯締めはすでにほどかれ、帯揚げも抜き取られていた。


「イヤっ、やめてっ。やめてくださいっ」

 懸命に男を制止しようとしている女の帯は畳の上を長く這っている。男は、その帯の端をつかんだ。

「こ、こないでっ」

 後ずさった女が立ち上がって逃れようとした瞬間に、男の太い手が帯を思い切り強く引いた。

「あっ、ああっ、イヤーっ!」

 千切れるような悲鳴が薄暗い土蔵の空気を震わせ、女は独楽(こま)のようにくるくると回転して畳の上に崩れ落ちた。支え帯を失った着物の下から淡い水色綸子の長襦袢が現われ、そのはだけた裾から白磁のような光沢を持つ脛が露出した。

 咄嗟に片手で裾を整えた女は、後ろに突いたもう片方の、震える細い腕で畳を引き寄せるようにして後ずさりした。が、(おび)えがからだを硬直させているのか、動きが鈍い。ふっくらと形よく結い上げていた黒髪は崩れ、端整な頬は白く凍りついていた。

              *

 土蔵内部に若い女の悲鳴が響きわたった時刻から遡ること二時間余り――。

 和服姿が優美な妙齢の女性が、近年多くの若者たちが闊歩するようになった東京山の手の商店街・中野ブロードウェイを、大きな風呂敷包みを抱えて駅方向へ足を進めていた。
 彼女は、左右の商店の軒先から声がかかるたびに立ち止まって笑みを返し、腰を柔らかく折って挨拶をすることを忘れない。その愛らしい仕草と着物に包まれた見事に均整の取れたスレンダーな肢体が、擦れ違う若い男たちの目を惹き、しばし彼らの足を止めた。


 大和撫子という言葉を絵に描いたようなその女性は藤崎(ふじさき)千鶴(ちづる)、二十四歳。この商店街で最も大きな店を構えている呉服店の跡取り娘だった。週のうち三日ほど店を手伝うかたわら創作着物を研究している和装デザイナーの卵でもある。

 大正十二年に創業した藤崎呉服店は、昭和の激動時代をかいくぐって平成の今日まで商いをつないできた。創業者である千鶴の曽祖父信助の優れた商才で基盤を固め、多くを望まず本業に徹してきた祖父信吉の堅実さで暖簾を栄えさせてきた由緒ある呉服店である。
 その老舗を年号が平成に改まってすぐに千鶴の父信太郎が家業を継いだ。しかし、信太郎と妻の美鶴は、十五回目の結婚記念日に合わせて出かけた温泉旅行からの帰途、不運にも他人が引き起こした交通事故に巻き込まれてともに他界した。十年前、千鶴が中学三年生になったばかりのことだった。
 その時すでに古希を迎えようとしていた信吉は悩んだ。自分自身はもう昔のようには無理が利かない。だからといってまだ中学生の千鶴に店を継がせることも出来ない。思案の末に信吉は、千鶴が婿を迎えるまでという条件付で、勘当していた次男坊を呼び戻して店を任せることにした。


 千鶴にとって実の叔父にあたる藤崎慎次郎は以前から家内での評判が悪かった。その名前が出るたびに祖父は「自堕落な一人暮らしをするのが性に合っているんだろう。幾つになっても嫁のきてはないな」と苦虫を潰していた。
 しかし、その慎次郎も勘当を解かれて一二年の間はまめに働いていた。が、やはり身に染み着いた放蕩癖は抜けない。三年目からは信吉の眼を盗んで遊び歩くようになった。そのせいで藤崎呉服店は年々商いの幅を縮めている。それが、いまだに矍鑠としているとはいえ、八十歳を目前にした信吉の悩みの種だった。


 ふた月前、千鶴の二十四歳の誕生祝いの席で祖父の信吉は、「来年になれば千鶴も衆議院議員選挙に立候補出来る年齢になる。もう立派な大人だ。そろそろ慎次郎に替わって店を切り盛りしてもいい頃だな」と、真顔で言った。
 一刻も早く聡明な千鶴に店を任せて、自分が丈夫なうちに商売を教えることを決めた口振りだった。
 当惑した千鶴は、「お祖父さま。そんなの、わたしにはまだ早くてよ。叔父さまも頑張っていらっしゃるし……」と曖昧に答えたが、そばで聞いていた慎次郎の顔は蒼白になっていた。
 慎次郎の顔色を見て信吉は、「お前には暖簾分けをしてやるからな」となだめるように言葉をつないだが、小娘に取って代わられる慎次郎は当然面白くない。表立った異議は唱えなかったものの、夜遊びに拍車がかかった。


 その慎次郎が千鶴を店の応接室に呼んだ。昨日の夕方のことである。

「明日の午後でいいんだがね、千鶴ちゃん。済まないけど、私に代わって田沼さんに頼まれた仕立物を届けてくれないかな。明日が約束の納品日なんだけど商店会の急な会合が持ち上がってしまって、私はそっちへ出なくちゃならないんだ。田沼さんのところへは千鶴ちゃんに行ってもらえると助かるんだけど、都合はつくかな?」

 田沼というのは三鷹下連雀から牟礼にかけて広大な土地を所有する江戸時代からの豪農の家で、当代の栄作は八代目にあたる。今は、吉祥寺駅近辺に何棟もの貸しビルを所有し、輸入雑貨販売や消費者金融など手広く事業を展開している。以前からちょくちょく店に顔を出していたから千鶴にも面識はあった。五十代半ばのでっぷりと肥った体躯と脂ぎった顔が千鶴の印象にあった。が、その田沼栄作は叔父慎次郎が放蕩をはじめた頃からの親しい友人であることを千鶴は知らない。

「明日の午後なら大丈夫よ、叔父さま。わたし、特に予定はないから」

「そうかい。それは助かった」

 顔色を窺うような硬い表情をふっとゆるめた慎次郎は、快く引き受けてくれた千鶴に向かって、今度は両手を合わせた。

「それから千鶴ちゃん。このことはジイさんには内緒にしておいて欲しいんだ。私はどうもジイさんには信用がないみたいでね。例によって、『自分の仕事を姪に押し付けるとは何事だ!』とか何とか叱られそうだから……。なっ、千鶴ちゃん。よろしく頼むよ。叔父さんは明日、本当に商店会の会合があるんだから。ああ、そうそう。田沼さんはね。千鶴ちゃんの今度の新作発表会のスポンサーになってもいいと言ってくれているんだよ」

 
千鶴はこの秋に新作発表会を計画している。そのスポンサー探しをはじめた矢先だっただけになにやら心が弾むのを感じていた。

             *


 午後二時を回った頃、藤崎千鶴は田沼家の表門をくぐった。
 真っ直ぐ伸びている石畳を進むと、右手の駐車場で高級外車の埃をせっせと掃っている三十過ぎの男姿がいた。秘書の吉川武である。背が高くてがっちりした体型をしている。


(秘書さんだと聞いてたけど、ボディガードみたい……)

 興味深げに見つめている千鶴の視線に気づいた吉川は、あわてて埃掃いの手を止めて振り返り、笑顔で軽く会釈をした。が、その笑みにどこか下卑たものがあるのを千鶴は感じた。

「フキさん、社長にお客さんがいらしたよ」

 千鶴を玄関まで案内した吉川が奥に向かって呼びかけると、玄関ホール脇の小部屋の扉が開いて、コロコロとよく肥った小柄な老婆が出てきた。
 顔の皺から察すると七十は超えていると思われるその老婆は、上がり框に降りて三つ指を突いた。


「ご足労をおかけしました、藤崎さま。坊ちゃんは応接間でお待ちです」

 篠塚フキというこの老婆は田沼栄作が幼少時の乳母である。今も田沼家に住み込んで栄作の身の回りの世話と食事の賄いをしている、と千鶴は叔父から聞いていた。「田沼さんは気の毒な人でね。二十年前に奥さまをガンで喪ってるんだ。それ以来独身を通してるそうだ」と叔父が話してくれたことを千鶴は思い起こしていた。

(田沼さんって、五十を過ぎてもこの人にとっては坊ちゃんなのね、ふふっ)

 千鶴は、内心滑稽さを噛み殺しながら篠塚フキの後ろに付き従った。

 伴われた応接間は二十畳余りある広い和室で、奥に立派な床が切ってある。枯山水の掛け軸と品のいい一輪挿しが千鶴の眼を惹いた。その床の間を背にして大きな黒檀の座卓に膝を突いて、田沼は千鶴を迎え入れた。ぶよぶよと肉のついた顔を真ん丸くほころばせている。その眼差しが、以前に店で見かけた時よりも優しいと千鶴は思った。

「わざわざご苦労さんだったね。二三日遅れても、こちらは一向に構わなかったんだが……」

 田沼は苦笑いを見せて、いつも約束の期日を違えない慎次郎の生真面目さを自分は信用しているのだと言った。千鶴は意外に思ったが、身内を褒められて緊張が解けた。

「千鶴さん……だったね」

「はい。慎次郎の姪で、千鶴と申します」

「うん、いい名前だ。『名は体を現す』と言うが、まさにその通りだな」

 田沼栄作は、千鶴をじっと見つめながら独り言を呟いた。先ほどとは眼の色が変わっていた。

(嫌な目付きだわ、わたしを品定めしてるみたいで……)

 千鶴は内心そう思ったが、笑顔はくずさなかった。その千鶴に田沼は唐突に訊いた。

「ところで千鶴さん。あなたは今日、何のためにここに来たのか、慎次郎さんから聞いているかね?」

 千鶴が紫色の風呂敷包みをほどいて届け物の(あつら)え箱を差し出した直後だった。

「はい?」

 千鶴は首を傾げた。
 田沼の発した言葉の意味が分からなかった。
 叔父の慎次郎は田沼が千鶴の新作発表会のスポンサーになってくれそうだと言ったが、今日はそれを頼みに来た訳ではない。叔父に代わって特別注文の品を届けにきたのである。


「わたし、お仕立物のお届けに……」

「おお、そうそう。そうだったね」


 ぎこちなく笑った田沼は、軽く身を乗り出して千鶴の瞳を覗きこんだ。

「千鶴さん。あなたにと思って支度しておいたものがあるんだよ。気に入ってもらえるといいんだがね」

「はぁ?」

 千鶴は戸惑いを感じた。田沼が自分のために支度したというものが何なのかは知る由もないが、それが何であれ、受け取るいわれはない。田沼の意図が呑みこめないでいた。

「これからそれを見てくれないかね、土蔵の方で……」

 田沼はにこやかにそう言うとすっと腰を上げた。他家を訪れている身で相手が示した好意を断るのは難しい。千鶴は素直に従わざるを得なかった。

「はい、わかりました」と答えた千鶴の心の中は期待と不安が綯い交ぜになっている。

「ああ、それから千鶴さん。手間をかけて申し訳ないが、その箱を土蔵まで運んでくれないか」

 促がされて「はい」と立ち上がった千鶴は、誂え箱を両手で捧げ持つようにして田沼の背に従った。

 母屋の南側に広がる庭に面して一間幅の廊下が長く伸びている。庭に張り巡らされた芝と入念に手入れされた樹木の緑につい見とれてタタラを踏み、千鶴は頬を赤らめた。箱の中でなにか硬いものがずれた音がしてハッとしたが、別に気には留めなかった。

 田沼に付き従って廊下の中程を右に折れ、短い階段を下った先は古風な板壁に囲まれた薄暗い廊下になっていた。その突き当りに土蔵の入り口があった。

「歳をとるにつれてこの扉が重く感じるようになってしまってねぇ」

 田沼は苦笑いをしながら分厚く頑丈な扉を半分ほど引き開いた。

「さ、どうぞ。先に入ってください」

 田沼にそう言われて千鶴は、胸前の誂え箱を両手で捧げ持つようにして土蔵に一歩足を踏み入れた。その瞬間、強い力が千鶴の背中を押した。

「あっ! な、なにをなさるんです!」

 不意を突かれた千鶴は、両手に抱えていた誂え箱を床に投げ出し、前倒しに土蔵の中に転がり込んでいた。両手を突いた千鶴のそばにフタが飛んだ誂え箱がある。その中から麻縄の束がぞろりとこぼれ出ていた。

(なにこれ? ど、どうして?)

 千鶴は眼を大きく見張った。狐につままれた思いだった。

 箱の中身は新調の羽織と袴のはずだった。それが、いつのまにか、どす黒い麻縄の束に変わっている。
 信じられなかった。だが、自分は確かに店を出た時からこの箱を大切に抱えてきた。途中で別の箱と入れ替わることなどあり得ない。
 ということは、自分は、元々麻縄の束が入っていた箱を後生大事に運んできたのだ……。


 そう気づいた途端に千鶴の頬は引き攣った。

「千鶴さん。どうやら分かったようだね。キミはね、叔父さんに代わって借金の利息を払いにここに来たんだよ」

 田沼のねっとりとした物言いに、畳に両手を突いた千鶴の顔は蒼白になっていた。

(計られた、あの叔父に……。でもなぜ? なぜなの?)

 誂え箱に入っていた縄といい、田沼の言い草といい、叔父はこのことを承知していたに違いない。すべてが周到に用意されていたと思うほか千鶴にはなかった。


                                               つづく