鬼庭秀珍   仕立てられた闇




          第二章 捕われた蝶






(あの叔父が……どうして?)
 藤崎千鶴の脳裡(のうり)に疑問が渦巻いた。

 しかし、そのことを考えている
(いとま)は今の千鶴にはない。言い知れぬ戦慄が背筋を貫き、じりじりと後ずさりする全身を(手篭めにされる)恐怖感が締めつけていた。身震いが止まらない。

 ほつれた黒髪が血の気を失った白い頬に貼りついている。目に見えない罠にかかった可憐な蝶は、迫り来る毒蜘蛛におののき、涙の滲み出た瞳が懸命に助けを求めていた。しかし、美しい獲物を前にした毒蜘蛛に憐憫の情などあろうはずもない。田沼は、恐怖に震える千鶴の震える姿を見つめながら、脂ぎった顔に薄笑いを浮かべた。


梃子(てこ)ずらせないでほしいね。まぁ、私にはかえって刺激になっていいがね」

 くくくっと含み笑いをした田沼は、「こ、こないでっ」とからだを硬くする千鶴に、舌なめずりをしながら迫った。

「助けてっ、誰か助けてーっ!」

 土蔵の隅に追いやられた千鶴は両手で壁を掻き毟るようにして叫んだ。しかし、その悲痛な叫びはたちまち土と漆喰の分厚い壁に吸収された。

「無駄な抵抗はやめて、素直に従ったらどうだね」

 口の端をニッと吊り上げた田沼は、脂肪のつまった太い腕をさっと伸ばして千鶴の着物の襟をつかむと、その手をグイッと引いた。

 あっ! 着物を一気に引き剥がされた反動で前にのめった千鶴はその場にからだを縮め、長襦袢の襟元を両手でしっかりと押さえた。緋色地に白く藤の花を染め抜いた長襦袢が蛍光灯の青白い光に艶めかしく映えている。その脇にすっと腰を落とした田沼が唇を震わせている千鶴の両手をつかんだ。

「イヤっ、イヤっ」と顔を左右に振って抵抗を示す千鶴を、田沼は、引きずるようにして土蔵の中央に連れ戻すと、乱暴に夜具の上に投げ出した。


 ああっ! 華奢な両手を夜具に突いて投げ出されたからだを支えた千鶴だったが、そのなよやかな両腕は背後から手繰られ、強引に後ろへねじ曲げられていった。

「な、なにをなさるんですっ!」

 千鶴は激しく狼狽した。が、田沼は、千鶴の両手首を背中の中ほどで一つに重ね合わせると、交差させた部分を片手でギュッと握り締め、もう片方の手で素早く引き寄せた縄を千鶴の華奢な両手首にキリキリと巻いていった。

 田沼の手を振りほどこうと、千鶴は懸命に肩を揺さぶった。が、瞬く間に千鶴の両手首を縛り固めた縄は前に廻って、ほどよく盛り上がった胸乳の上下を二重三重に縛り上げていく。

「ど、どうしてこんなことを……」

 涙ながらに抗議する千鶴の上半身の自由を奪った縄は背中に戻されて手首の縄に結び止められた。過去に何人もの女の汗と脂を吸ってきたと思しき縄のどす黒い色と長襦袢の胸の部分の白い藤の花模様のコントラストが鮮やかだった。縄に緊め上げられて突き出した胸の隆起が悩ましく男心をそそり、ふっくらした白い頬を伝う涙が哀れみを誘った。
 その千鶴の前にデンと腰を降ろした田沼は、まるで
手活(てい)けの花を()でるように目を細めている。


「田沼さん。お、お願いです。な、縄を……。この縄をほどいてください」

 不自由な上半身を揉むようにして訴える千鶴を、田沼はさも満足げに眺めてこう(うそぶ)いた。

「千鶴さん、よく似合うよ。縄が美しいあんたを一層美しく見せている」

「そ、そんな……」千鶴は一瞬戸惑いを感じた。が、すぐに哀訴を続けた。

「お願いです、田沼さん。な、縄を……。早くこの縄をほどいてください」


「何を言っているんだね。若々しいからだを縄で美しく飾って私の目を愉しませるのがあんたの今日の務めなのだよ」

「ど、どうして? どうしてそんなことをしなくちゃならないんです。そんなのイヤです! 帰してっ、わたしをうちへ帰らせてっ!」

「ああ、帰してあげる。必ず帰してあげるよ。ただし、私が満足してからになるがね」

「そ、そんなこと……」信じられないとかぶりを振った千鶴は、大粒の涙をポロポロこぼして号泣しはじめた。

「イヤっ、こんなのイヤっ! うちに帰らせてっ!」

 泣き叫ぶ千鶴の顔をニタニタと覗き込みながら田沼は、贅肉(ぜいにく)の塊のような顔に下卑(げび)た笑みを浮かべた。その淫蕩な目をキラリと光らせた田沼は、すっと立ち上がると、畳の上に投げ出されていた緋色の帯揚げを手にとった。

「さすがに新進気鋭のデザイナーだ。いい趣味をしている」

 帯揚げの細かい柄と色合いの微妙さに感心したように呟いた田沼は、その帯揚げをくるくるっと巻きからめて片方の端から五十センチばかりのところに結び目をつくった。そして千鶴のそばについと歩み寄ると、親指と人差指を千鶴の左右の顎に強く喰いこませた。

 うぐっ! 濁った声を出した千鶴の口をこじ開けた田沼は、その口に帯揚げの結び目を咬ませた。
 緋色の長い布を片方の耳脇からうなじに渡して反対側から前に戻し、結び目を咬ませた唇を上から覆って後ろにぎゅっと引き絞り、うなじの上で結び止める。長い帯揚げの余った部分で口と鼻の上を二重三重に巻き緊め、千鶴の顔の下半分を艶めかしい緋色の布で完全に覆った。


「口を縛られた気分はどうかな? ふふっ」

「う、うう……(こ、こんなことまで……)」

 帯揚げの猿轡に声をくぐもらせる千鶴の泣き濡れた瞳を覗き込んだ田沼は、ニンマリと頬をゆるめた。そして、つい先ほどまで身に着けていた帯揚げで言葉を奪われた屈辱にむせび泣く千鶴を見つめながら言った。


「千鶴さん。従順(おとな)しく私に従わないあんたが悪いんだよ。しかし、こうやって綺麗な布で猿轡をするのもオツなものだ。綺麗な顔が一段と引き立つ……」

 一人悦に入っている田沼は、改めて手にした麻縄の束をほぐしながら千鶴の背後へ廻った。両手首を縛った縄に新しい縄をつなぐと縄尻を梁の滑車にとりつけ、滑車の鎖を引いた。

 うっ! 後ろに縛られた腕が背中高く上がって肩のつけ根に痛みが走った。

 ううっ! 縄が二の腕を絞って乳房の下に喰いこみ、滑車の鎖が手繰られるにつれて後ろ手に縛られた千鶴のからだが少しずつ持ち上がる。

「うっ、うくぐっ(やめてっ、おろしてっ)」

 言葉にならない声で哀願を続ける千鶴は、爪先立つ高さまで引き上げられた。その千鶴の長襦袢の襟を、田沼はグイッと引き開いた。


「ぐうっ、ぐわっ(ああっ、イヤっ!)」
 思わず叫んだ口の下に瑞々しく膨らんだ真っ白い乳房がひとつ、ポロリとこぼれ出た。千鶴は猿轡にゆがめられた頬を紅潮させ、恥ずかしさに耐え切れないように固く目を閉ざした。


 田沼は、千鶴の長襦袢の襟をさらに引き開いて白く艶々しい左肩も露出させると、二三メートル後ろへ下がった。若く美しい女が羞恥に身悶えする姿に目を細め、肉の垂れた頬をさらに弛緩(しかん)させた。

 新しい縄を手にした田沼は、爪先をよろめかせている千鶴の前に屈んで長襦袢の裾を跳ね上げ、白く丸い右膝の上部を巻き縛った。その縄尻が梁の右側の滑車につながれて滑車の鎖が手繰られると、千鶴の右膝は易々と持ち上がった。その反動で畳についていた左足が浮き、胸の縄が乳房の下にぎゅっと喰いこんだ

 ううっ! 慌てて左足を畳に降ろして爪先に力を込めた千鶴だったが、長襦袢の裾を割って斜め上に吊り出された右脚の肉付きのいい太ももが白く妖しく輝き、その奥に暗い翳りがチラチラ姿を見せている。

(ああ……)

 千鶴は帯揚げにすっぽり覆い隠された頬を真っ赤に染め、さも恥ずかしげに顔を伏せた。まだ誰にも見せたことのない乙女の秘所が露わにさらされた恥辱が縄に絞り出された豊かな胸を緊めつける。和装の時は着物の下に何も着けない自分の習慣が恨めしかった。

 しかし、田沼はなぜか千鶴の花園には手を伸ばそうとはしない。後ろ手に縛り上げ、片足を吊り上げて股間をさらけ出させるというあられもない格好にしておきながら、肌を嬲ろうとはせずに離れた場所から眺めて悦に入っている。
 そのことがかえって気味悪い。千鶴の頭を漠然とした不安がよぎった。このまま土蔵の中に監禁され続けるのではないかという怖れである。それが次第に形を成してくる。肌身に喰いこむ縄目のきつさに呻く千鶴の心の中を恐怖の波がうねりはじめた。と、その時、田沼がすっと腰を上げた。


「しばらくそうしていなさい。分かったね」

 思いがけずも田沼は、片足吊りに立ち縛られて乳房も露わに晒している千鶴を一人残して、脂肪太りの重そうなからだを左右にゆらゆら揺すりながら土蔵から出て行った。

 千鶴は、爪先立つ左足をもつれさせては「うっ、ううっ」と優美な眉をゆがめ、胸乳に喰いこむ縄に呻いては忌まわしい猿轡に姿を変えた自分の帯揚げを噛み締めた。

 田沼屋敷を訪れるよう仕向けた叔父の慎次郎は、「ジイさんには内緒にしておいてくれないか」と頼んだ。その言葉の裏にこんな意図があったとは夢にも思わなかった。千鶴は、誰にも行き先を告げずに家を出たことを後悔した。

 それにしてもあの叔父がなぜ姪の自分にこんなことをしなければならないのか? それが千鶴には分からなかった。


 麻縄が喰いこむ乳房の上下が痛い。後ろ手に縛り上げられた腕の痛みは痺れに変わっている。思考力も鈍ってきていた。


              *


 片膝吊りの立ち縛りにされた千鶴が土蔵に放置されて小一時間が経った頃、三重顎の下膨れ顔をほろ酔いに赤らめた田沼が戻ってきた。

「さぞ辛かったろう、千鶴さん。待ってなさい、すぐに楽にしてあげるよ」
 上機嫌な田沼は、千鶴を縛り上げている縄をほどきにかかった。


 膝の縄が外されて右足の裏が畳を踏みしめる。上体を吊り上げていた梁の滑車が降ろされ、両膝を畳に突いた千鶴の胸の上下にかけられた縄に続いて両手首の縄もほどかれた。千鶴は、長襦袢の襟を肩に戻して胸前を閉じ合わせ、露わに晒していた乳房を隠した。
 田沼は、最後に口を縛った緋色の帯揚げを取り去りながら、千鶴の耳元でこう囁いた。

「美味い夕飯を仕度するようフキに言いつけてきたから、千鶴さん、今日はここで二人水入らずに舌鼓を打とうじゃないか」

 そんな言葉は耳に入らない。千鶴は、目の前に転がっている帯揚げをじっと見つめている。つい今まで千鶴の言葉を奪っていた帯揚げは唾液を吸ってぐっしょり濡れていた。

「田沼さん。どうして、どうしてわたしにこんなことをなさるんですか?」
 やおら顔を上げた千鶴は田沼に尋ねた。

「ほう、難しい質問をするねぇ。う〜ん、そうだな。縄でぎりぎり縛り上げた女の姿をゾクゾクしながら眺めるのが私の趣味だと言ったらどうするね?」

「そ、そんな……」と絶句した千鶴は、二重瞼の切れ長な目を大きく見開いていた。

(いや)らしいと思うかね? 構わないよ、こんな悪趣味を持つ私を軽蔑すればいい。どの女も最初はそうだった。しかし、そのうち縄の味が分かってくる」

(バカな……。そんなバカなことがあるもんですか)
 千鶴は頭の中で呟いた。


「ま、それはそれとして、あと三十分もすれば夕食の仕度が整うから、その前に一緒に汗を流そうじゃないか」

 田沼は優しく千鶴を抱き起こすと肩に腕を廻して土蔵の出入り口へ伴った。内鍵を外して扉を開けたその時、田沼の横顔に油断が見えた。

(今だわ!)
 咄嗟に逃亡を決心した千鶴は、間髪を入れずに、田沼の腰を両手で思い切り突き飛ばした。

 不意をつかれた田沼が横倒しになりながらからだの向きをかえてドスンと尻餅をついたのを尻目に、さっと土蔵の外へ飛び出した千鶴は廊下を駆けた。
 しかし、長時間吊り縛られていた脚がもつれる。廊下の中ほどまで来ると両膝が笑って床に崩れ落ちた。それでも千鶴は、必死の思いで立ち上がり、脚にまとわりつく長襦袢の裾をからげて再び床板を蹴った。
 と、その時、長い廊下の先に人影がゆらっと現われた。吉川武だった。


「吉川さん、お願い、助けて!」

 藁をも掴みたい思いでそう叫んだ千鶴だったが、田沼の飼い犬である吉川が千鶴に助けの手を伸ばしてくれるはずもない。吉川は千鶴の行く手を阻むように立ちふさがった。

「吉川、その女を捕まえろ! 逃がすんじゃないぞ!」

 千鶴の背後から田沼のだみ声が鳴り響いた。と同時にうなずいた吉川が小走りに千鶴に近寄ってくるのを見て、逃亡の失敗を悟った千鶴はくしゃくしゃっとその場に崩れ落ちた。

 板床に突いた千鶴の両手が背後に腰を落とした吉川に手繰られ、グイッと背中にねじ曲げられていく。千鶴は廊下の床に後ろ手の前屈みに組み伏せられた。


「放してっ。お願いっ。お願いだから、わたしを自由にして」

 弱々しく哀訴する千鶴のそばに、ドスドスと床板を踏み鳴らして追いついてきた田沼が立った。ゼイゼイと息を切らしている手には麻縄が握られていた。

「社長。しばらくは、縄をほどかない方がよろしいのでは……」

「そうだったな、吉川。小娘だと思って油断してしまったよ。まさか、私を突き飛ばして逃げ出すとはな」

 苦々しい顔をした田沼は、縄を吉川に手渡し、ギロッと千鶴をねめつけた。


「千鶴っ。いけない娘だな、お前は……。どうやらまだ、逃げ出したらお前の叔父さんが困ることが解かっていないようだ」

 醜く膨らんだ腹でまだ荒い息をしているが、「千鶴っ」と呼び捨てた語調は厳しかった。

(わたしを罠に嵌めた叔父がどうなろうと知ったことじゃないわっ)

 背中にねじ上げられて重ね合わされた両手首にキリキリと縄をかけられながら、千鶴は険しい眼差しを田沼に向けた。が、両手首を縛り終えた縄が喉首に廻され、グイッと引き下げられた瞬間に息が詰まった。

 あっ、ううっ! 強い痛みが喉を襲い、千鶴は長い睫毛の間から大粒の涙をボロボロとこぼした。

な、縄を……。ゆ、ゆるめてください。お、お願いです……」

「素直に従わないともっと痛い目に遭うことになるがそれでもいいんだな!」

 田沼の鬼のような形相に千鶴は縮み上がり、唇をわなわな震わせた。

「返事をしろ! 私の言う通りにするのか、それとも痛い目に遭いたいのか、どっちにするのか返事をするんだ!」

「し、します。田沼さんのおっしゃる通りにします。ですから……ら、乱暴なことは、もう、しないでください」

 千鶴は暴力の恐怖に慄えた。と同時に絶望感に囚われていた。

よしっ、分かればそれでいい。それじゃ、吉川。千鶴を土蔵まで連れてきてくれ」

 吉川にそう命じた田沼がさっと踵を返して土蔵へ戻っていく。
 その後ろを、両手首と細首を厳しく縛りつなぐ早縄をかけられた千鶴は、あふれ出る涙に頬を濡らしながら美しい眉をゆがめ、縄尻で尻を叩かれて土蔵へと追い立てられていった。



                                                つづく