鬼庭秀珍 仕立てられた闇 |
 第五章 けもの染め 土蔵に一人取り残された藤崎千鶴は、見事に均整の取れた雪白裸身を後ろ手に厳しく縛り上げられ、夜具の上に転がっている。 瑞々しく実った真っ白い乳房が菱に編み上げられた縄の枷に絞り出され、くびれた腰はさらに細く緊め上げられ、肥後ずいきの縄に股間を縦一文字に割られていた。 その痛々しい姿態を高い天井から蒼白い蛍光灯の光がぼおーっと照らし出し、閉ざされた空間に妖しい空気を充満させている。 （あんな男の思い通りにされていいの？ こんなことで負けちゃダメよ！） 千鶴は素肌を縛める縄をきしらせながら自分を叱咤した。が、頭の隅にすっと浮かび上がったもう一人の千鶴がそっと囁いた。 （そんなこと言ったって、あなた、もうあいつに従ってるじゃない） （違うわ！）と千鶴はかぶりを振った。（突然だったから、自分を失っていただけよ） （あら、そうかしら？ あそこをまさぐられてうっとりしてたのは誰？） （そ、そんな……。わたし、うっとりなんかしてないわ。ただ……） 老女フキの指に翻弄されただけだと言い切りたかった。が、なぜかしら自分のからだが肌に喰いこむ縄の刺激に微妙な反応を示している。そのことに千鶴は戸惑ってもいた。 初めのうちは縄が肌に喰いこむ痛みしか感じなかったのが、痛みが痺れに変わった頃に女陰の内部が熱を帯びてきて秘裂の奥で何かが蠢きはじめるのを感じた。 生まれて初めての、理解できない現象だった。 しかし、身じろぎをするたびに淫靡な縄の刺激が妖しい感覚を呼び起こしていることは隠しようのない事実だった。「そのうちにお前は、もっときつく縛って欲しいというようになるよ、ふふふっ」と嘯いた田沼の顔がふっと脳裏に浮かんだ。 「イヤっ」と小さく叫んだ千鶴は緊縛された裸身をよじり、背中高く縛り上げられている両手首の先の指で宙をつかんだ。と、その時、女陰にジワッと広がる掻痒感を覚えた。 「ああっ。か、痒いっ」 股間を縦真一文字に割った縄が千鶴に新たな責めを繰り出していた。 女陰に潜り込んだずいき縄のコブが、花肉の襞から涌き出てくる女の蜜液を吸収して、その成分を溶かし出しはじめていた。 腰を動かすと縄のコブが秘裂にググッと喰いこみ、そこから掻痒感が腰全体に広がっていく。太ももを繰り返しこすり合わせても痒みは治まらない。 「ああっ、お願いっ。だ、誰か……この痒みを……なんとかしてっ」 必死に訴える千鶴だったが、その悲痛な声を聞いて駆けつけてくれる者は誰もいない。おぞましいずいきの縦縄は、乱れ泣く千鶴の全身から脂汗を搾り出していった。 「な、なんでも……言う通りにするわっ。だ、だから……痒みを……」 うわ言のように繰り返す千鶴の切ない心の叫びは分厚い土蔵の壁が吸い消していった。 気が狂わんばかりに涙を流し続けて三十分も経ったろうか……。身も世もなく千鶴を哀泣させた掻痒感はすっーと治まっていった。 しかし代わって今度は、ずいき縄のコブを深く咥えこんだ女陰の奥で花肉の芯が妖しく疼きはじめた。 思わず腰をよじると、肛門に埋め込まれた縄コブが微肉を異様に刺激して官能の高まりを助長した。千鶴は頭の芯が痺れていくのを感じた。 田沼への反発心も千鶴を恥辱の奈落に突き落とした叔父への憎しみも薄れていく。屈辱感や強い羞恥心までが溶けていく。 一糸まとわぬ肌身をからめとり、尚かつ女の花肉を嬲り続ける縄の存在に意識を奪われている。千鶴は、肉体だけでなく心まで縛り上げてくる縄の魔力に屈しつつある自分をはっきりと知覚せざるを得なかった。 非情なずいきの股縄がジリジリと女の花芯を焼き焦がし、被虐官能の炎にあぶられながら狂おしい時が流れていった。 千鶴の意識は朦朧としてきていた。 その瞼の裏に、父の懐に抱かれ母に話しかけられてはしゃぐ幼い自分の姿が浮かんだ。と同時に、その微笑ましい光景を柱の陰から覗いている男の影が見えた。 苦々しい表情を露わにしているその男は叔父の慎次郎だった。千鶴はハッと気づいた、何かにつけて出来のいい兄と比べられ愚弟とそしられて世をすねた叔父は千鶴の父を憎んでいたのだと……。 まもなく千鶴の意識は遠のいていった。 ＊ 土蔵の明り取り窓から陽の光が斜め上に射し込んで、天井の堅固な木組みをくっきりと浮かび上がらせていた。 その反射光が照らし出す床の上に美しい裸身を縄に縛められて夜具の上に横たわっている千鶴の姿があった。 白く柔らかく悩ましい両腿のつけ根には女の蜜液がじっとりと滲み出ており、クシャクシャになった敷布団の表布が吹き出た汗でぐっしょりと濡れている。股間にほどこされたずいき縄に悶え苦しんだことを物語っていた。 小さな窓から射し込む光の方形が天井から壁に移った頃、まだ深い眠りの中にいる千鶴の頬を指先でつつく者がいた。 「……んん？」 重い瞼を開けた千鶴のかたわらに田沼が腰を降ろしていた。後ろに片膝を突いた吉川が控えている。 「どうだね、ぐっすり眠れたかね？ ふむ、その顔じゃ、満足に眠れなかったようだな」ふふふっと含み笑った田沼はシタリ顔をした。「しかし、これだけ汗と脂にまみれているということは、夜っぴて愉しんだとみえる、ずいきの股縄を……」 虚ろな瞳で田沼の顔を見上げた千鶴は、半開きの口で何か呟くと再び瞼を閉じた。その目尻から涙がこぼれ落ちて敷布団に吸収されていった。 （夢であって欲しい……）と千鶴が願った哀しい現実は今も続いていた。 「股の縄を外してやれ」と命じられた吉川が横たわっている千鶴の脇に膝を落とす。手際よく股間からずいき縄を外し取ると、吉川はそれを田沼の目の前にかかげた。 「これを見てください、社長。こんなに膨らんで……ぐじゅぐじゅになってますよ」 「うん、効果があった証拠だ。この味をしっかり覚え込ませればどんな女でも素直になる」 ホクソ笑んだ田沼は、「そろそろ風呂が沸いた頃だな」と呟くと、吉川を見て顎をしゃくった。 うなずいた吉川が千鶴を抱き起こして座らせ、上半身を飾る菱縄をほどいていく。その間千鶴は、半開きにした口の端から涎を垂らし、虚ろな視線を宙に漂わせていた。 「さ、千鶴。風呂場へ行こう」 立ち上がって付いて来いと言われても千鶴の足腰は萎えている。腰を上げたが、すぐに膝を折ってその場に崩れ落ちた。 その素っ裸の上体を脇から抱きかかえた吉川が、千鶴を引きずるようにして風呂場へ連れて行った。 風呂場から土蔵に連れ戻された千鶴は幾分か生気を取り戻していた。が、何を話しかけられても小さくうなずくばかりである。 からだの芯に幾分か張りは戻って来たものの、頭の芯の痺れはまだ続いている。布切れ一枚与えられない恥ずかしい姿で正座をし、田沼と差し向かいに朝食を摂っている自分の姿が現実のものとは思えなかった。 「今朝も食欲がないか。ま、しばらくは仕方あるまい。それじゃ、千鶴。規則どおりに縄を掛けさせてもらうよ。さ、両手を後ろに廻しなさい」 （ああ、また……） 切れ長な眼の黒い瞳を潤ませた千鶴は、両手を静かに後ろに廻すと、背中の中ほどに両手首を重ね合わせて深くうな垂れた。 その両手首がキリキリと縛られ、艶を回復した豊かな柔らかい乳房の上下に二重三重に縄をかけられ、脇腹の左右に抜け止めの閂縄がほどこされる。そして、いたいけな細首にくるくるっと縄が巻きつけられ、うなじの上で結ばれた縄尻が梁の真ん中の滑車のフックにつながれてピンと張られた。 （うっ、ああ……） まるで飼い犬のように首輪でつながれた自分がいかにもみじめだった。 「さてと、千鶴……。こう見えても私は多忙な身でね。今日もこれから会社へ出かけなくてはならんのだよ。朝のうちに仕事を片付けて帰ってくるから、千鶴。お前はここで、ゆっくりからだを休めておくといい」 そう言い残した田沼は、吉川とともに土蔵を後にした。 カチャっと土蔵の外鍵が下りる。その冷たい金属音に、千鶴は囚われている身の哀しい現実を噛み締めた。頭にかかった霧が晴れていくに連れて縄の縛めがきつく感じられた。 （わたし、いつまでここにこんなみじめな姿で……） 答えは明らかである。田沼の意のままに従う女にならない限りはこの土蔵から出られそうもない。が、そんなはしたない女には死んでもなりたくない。 （でも、あの男は無理やりにでもそうするつもりでいる……） ということは、抵抗を続ければ今にも増して過酷な責めが待っているに違いない。 （表面だけでも田沼の望む女として振舞ったら……） もうこれ以上肌身を嬲られることはないだろう。 しかし、上手に面従腹背をやり通す自信はない。結局は見破られて酷い仕打ちを受けることになるだろう。 千鶴は懊悩する千鶴の下腹部がまたズキンと疼いた。 いまだに股間を縛られているような気がする。おぞましい縄のコブの存在を女陰に感じて、千鶴は激しく狼狽した。 ＊ 午後二時を少し過ぎた時刻に戻って来た田沼は、脂ぎった肉厚顔一面に淫蕩な笑みを浮かべた。 「いやはや、お前のことばかり考えていたものだから、仕事がはかどらなくて弱ったよ、ははは……。しかし、何とか明日から二三日は出社しなくてもいいようにして来たから、千鶴、もうお前に寂しい思いはさせないよ」 田沼の両目はすでに充血している。淫らな妄想をたぎらせていたことが容易に見てとれた。 「ところで、千鶴。私のここがムズムスして仕方がないんだ。どうだろう、ひとつ、お前の可愛い口でこいつをおとなしくさせてくれないか」 そう言うなり田沼はズボンのファスナーを下ろしてイチモツを引き出した。醜怪な肉の塊はすでに怒張している。田沼は唐突にそれを千鶴の紅唇に押しつけてきた。 咄嗟に顔を背けた千鶴は、横目で田沼の顔を睨むと、澄んだ黒い瞳に憎悪の色を滲ませてはっきりとした口調で言った。 「イヤっ、イヤです！ そんなことをするくらいなら、今すぐ舌を噛み切って死にます！」 「ほほう、まだそんな元気が残っていたのか……」と田沼は驚いて見せた。 「千鶴、お前にそれが出来るのならやってみるといい。簡単に舌を噛み切ると言うけれど、その痛みを知っているのか？ とてつもなく痛いはずだ。しかも噛み切っただけでは死ねない。千切れた舌先からダラダラと血が流れて、からだ中の血の三分の一を失うまで苦しみが続くんだ」 ネチネチとして念の入った説明に、千鶴は自分が吐いた言葉が怖くなった。田沼の説明通りだとしたらとてもやり果せることではない。 千鶴は顔を伏せて目を瞑り、黙りこくった。 その千鶴の顎がふっと持ち上げられた。「あ……」とわずかに開いた口に布の固まりが押し込まれる。吐き出そうとする舌を押さえ端整な白い頬をくびった太い紐状の布はうなじの上で固く結ばれ、瞬く間に千鶴は豆絞りの手拭いで猿轡を咬まされていた。 「さすがに吉川はよく分かっている。以心伝心とはこのことだな」 「畏れ入ります」 慇懃に頭を下げた吉川が、田沼に取り入るように促がした。 「社長。そろそろよろしいのでは……」 「そうだな。フキの指が保証してくれた名器をぼちぼち賞味させてもらうとするか……」 「では仕度を」と答えた吉川は、千鶴の首を巻き縛っていた縄をほどくと、その縄を背中の縄につないで肩越しに首の左右を挟んで前に渡した。 胸乳の上の縄に通して一旦結びとめると乳房の下の縄にからめて縄止めをし、その縄尻を梁の右側のフックにつないだ。 何をされるのかとおののいている千鶴の腰に吉川は縄を打った。その縄尻が梁の真ん中の滑車に通されて鎖が引かれた。 ああっ！ 千鶴の腰が持ち上がり、後ろ手に縛られた上半身が水平に吊られた。が、それだけで終りではなかった。 さらに千鶴の右膝を縛った吉川は、その縄を梁の左の滑車のフックにかけて戻し、縄尻で左脚の足首を縛った。 「イヤっ！ 降ろしてっ！ こ、こんな酷いこと、やめてっ！」 必死にそう叫んだが、猿轡に阻まれて言葉にはならない。 仰向けの宙吊りにされた千鶴は、紅唇を割った豆絞りの手拭いを噛み締めてほろほろと涙を流した。その涙が伝い落ちる頬は真っ赤に染まっている。 うっ、ううっ、と呻きながら千鶴は空中を泳いだ。 その千鶴の宙に浮いた両肢を押し開いた田沼が、目をギラつかせて「吉川。お前、千鶴のおっぱいを吸ってやれ」と言うと千鶴の股間に沈んだ。 ああっ！ 吉川のヤニ臭い口に乳首を含まれて首を仰け反らせた千鶴の秘所を覆う繊毛の茂みが掻き分けられた。と思うや、花肉の花びらに生温かいものが触れた。 ひいっ！ 宙吊りの総身を震わせた千鶴の秘裂に淫らな舌先が侵入し、チロチロと肉壁を舐め回し、敏感な肉芽を刺激する。 「ぐううっ（やめてっ）！」と必死に訴えても濁った呻き声にしかならない。そのもどかしさに、千鶴は梁の滑車につながれた縄をギシギシときしませて空中で号泣しながら悶え狂った。 そして千鶴が最も恐れていた時がきた。 香しい女の秘裂をいたぶり終えた田沼は、醜く膨れ上がった肉棒を女陰の入り口にあてがうや否や、容赦なくズブッと突き刺した。 ひいーっ！ 絹を引き裂くような千鶴の悲鳴が土蔵の壁にこだました。 この後千鶴が様々に責め苛まれて心からの服従を迫られたことは言うまでもない。 しかし、千鶴は容易に屈服しなかった。その故に身動きできないように縛り上げられた柔肌を繰り返し嬲られ、吉川にまで凌辱されて窓の外が暗くなるのを見た。 とっぷりと日が暮れたのに珍しく鴉が鳴き騒いでいる。神社の大木の枝に作っている巣を何者かに襲われているらしい。 （わたしと同じように助けを求めている……） そう思った千鶴は、両腕を真上に高くかかげ、爪先立つ両肢の足首も縛られて梁に吊られている。 しかも口に猿轡を咬まされ、柔らかな繊毛に覆われた恥丘を縦に走る縄にこしらえられた二つのコブに前の秘裂と後ろの微筒をふさがれていた。 もう一時間もこうしている千鶴の愛らしい富士額には脂汗が滲み出ていた。 （ああ、わたし一体、どうなるの？ どうすればいいの？） 千鶴のこぼした涙が頬をくびった豆絞りの手拭いを濡らした時、土蔵の扉が開いて男の影が二つ入ってきた。 一人は言うまでもなく田沼である。が、もう一人は秘書の吉川ではなく、なんと、叔父の藤崎慎次郎だった。猿轡を咥えた千鶴の顔は引き攣った。 「ふふふっ、いい姿にされているじゃないか、千鶴ちゃん……」 田沼と顔を見合わせて含み笑いながらゆっくりと近寄ってきた実の叔父は、とんでもない言葉を吐いた。 「私はね、前々からキミを、一度はこんな風にして嬲ってみたかったんだ」 （な、なんてことを……） 目を丸くした千鶴を見つめながら慎次郎は続けた。 「キミを見ているといつも美鶴さんを思い出すんだ。キミの亡くなったお母さんは素晴らしい美人だったよ、立ち振る舞いも女らしくしっとりしていて……。私はその美鶴さんに惚れていたんだ。そもそも彼女とは私が先に彼女と知り合ったんだ。それを兄貴が、キミの父親が私から奪い取ったんだ。それからだ、私が遊び惚けはじめたのは……」 「…………」 「いつか復讐してやろう、兄貴を苦しめてやろうとずっと思っていたんだ。美鶴さんを今のキミのように素っ裸に剥いた肌身に縄の味を覚えさせて、身も心もすっかり私のものにしてやろうと何度も計画を立てたもんだ。ところが憎い兄貴も美しい美鶴さんも偶然の事故で亡くなってしまった。がっかりしたね、その時は……」 千鶴は、この叔父の凄まじくゆがんだ心に唖然とした。 「しかし神様は私を見捨ててはいなかった……。チャンスは巡ってくるものだね。成長するに連れてキミは母親そっくりになってきた。近頃のキミはあの頃の美鶴さんとそれこそ瓜二つだ。お陰で私もようやく長年の思いが遂げられるよ、ふふふふふ」 実の叔父があからさまに見せた邪悪で淫蕩な笑みに千鶴は愕然とした。 （なんという理不尽なことを……。ああ、いっそここでこのまま死んでしまいたい……） 猿轡の手拭いを噛み締めてすすり泣く千鶴に、慎次郎は追い討ちをかけた。 「しばらくは毎晩田沼さんと一緒に愉しませてもらうよ。なに、心配には及ばない。あの頑固ジイさんには、旅先から今朝電話があって『京都から金沢を回って友禅づくりの現場を見てきます。黙って飛び出してしまったことをお祖父さまに謝っておいてください』とキミが言っていたと伝えたら、ホッとしていたよ」 千鶴は暗然とした。 すべては卑劣で淫蕩な中年男二人によって用意周到に仕組まれていたことを知り、絶望の淵を奈落の底の闇へと滑り落ちていった。 ＊ 一週間が経った――。 この日も空が抜けるような五月晴れだった。 陽射しはきついが爽やかな風が暑さを感じさせない、そんな昼下がりに和服姿の美しい女性が中野ブロードウェイを北へ向かって歩いていた。藤崎千鶴その人だった。 左右の商店の軒先から声がかかるたびに足を止め、幾分かやつれた端整な顔に笑みを浮かべ、柔らかに腰を折って挨拶を返しては歩をすすめている。その優美な物腰に目を奪われた若者たちが立ち止まって振り返った。 熱い視線を背中に浴びながら千鶴は、通りに面して広い間口を構えている藤崎呉服店の前まで来た。瞬時躊躇したように見えたが、パッと微笑みの仮面をつけると、店の敷居を跨いだ。 「ただいま！」という千鶴の声を聞いて、店の奥から祖父の信吉が飛び出してきた。 「何がただいまだ、千鶴……。この年寄りに寿命が縮まる思いをさせおって」 「ごめんなさい、お祖父さま。すぐに見ておきたいものがあって居ても立ってもいられなくなったものだからすぐに飛び出してしまって……。でも、行く先を誰にも告げていないことに京都で気づいて連絡を入れたのよ」 「それは慎次郎から聞いた。それにしても一週間だぞ、千鶴……。せめて二日にいっぺんくらいは電話をくれてもよかろうに」 「すみません、行く先々で夢中になっていたものだから……。本当にごめんなさい」 千鶴は深々と頭を下げ、消え入るようにして謝った。そこに叔父の慎次郎が顔を見せた。 「おかえり、千鶴ちゃん。お祖父さんがえらくご心配だったよ」 「あら、叔父さま。いらしたんですか」 「いらしたんですかとはご挨拶だね、はははっ。ま、とにかく千鶴ちゃんが無事に帰ってきてよかった。ねえ、お父さん」 「そうじゃな。無事でなによりだった。しかし千鶴。これからは、旅に出るなら出るで行く先をキチンと告げてから出なさい。それに、頻繁に連絡してこの年寄りを安心させてくれんか。なっ、千鶴。頼んだぞ」 「はい、分かりました。これからは必ずおっしゃる通りにしますから、今回だけ大目に見てください。お願いします、お祖父さま」 千鶴は無軌道な行為を恥じ入るように頬を朱に染めてペコリと頭を下げた。 その愛らしい仕草を見て安心できたらしく、信吉は自室へと戻って行った。店の者たちもそれぞれ持ち場に戻り、千鶴の周囲から人影が遠のいた。 それを確認した慎次郎が千鶴の耳元で囁いた。 「今度の定休日の午後、三鷹でなっ」 「分かってますわ、叔父さま」 藤崎千鶴は、これがあの清楚な乙女なのかと、目を疑いたくなるほど妖艶な笑みを叔父の慎次郎に返した。 仕立てられた闇 完 |