鬼庭秀珍    残り香、闇に溶けた女




          第一章 事 件






 平成八年(一九九六)十二月十七日夕刻――。
 
南米ペルーの首都リマにある日本大使公邸は互いの肩が触れ合うほど大勢の人で賑わっていた。ペルー各界の要人をはじめ、ペルー駐在の日本企業の代表者と日系移民の一世や二世など六百人近くが招かれ、数日後に訪れる天皇誕生日を祝うパーティが開かれていた。
 その最中の午後八時十五分(日本時間では十八日午前十時十五分)、黒っぽい戦闘服に身を固めた一団が自動小銃を空に向かって乱射しながら公邸内に侵入した。
 トゥパクアマル革命運動を名乗る彼ら過激派ゲリラは、逃げ惑う人々を銃器で制圧してあっと言う間に大使公邸を占拠した。彼らは獄中にいる仲間の釈放を求めたが、公邸へ向う途中で事件を知って難を逃れたフジモリ大統領は彼らの要求を強硬にはねつけた。


 その翌日、富士山麓で椿事があった。
 地元紙の『静岡タイムス』によると、三十代半ばと思われる女性が一人、寒空の下を長襦袢一枚という身なりでふらふらと青木が原樹海から出てきたのを、たまたま通りかかったハイカーたちが見つけて119番に通報した。女性は駆けつけてきた救急車で県内の救急精神医療センターへ運ばれたが、身元確認はおろか名前すら分からないらしい。
 男四人のグループハイカーが女性に遭遇した時、彼女は水地に白の大きな斜め格子が入った艶っぽい長襦袢の胸前をあられもなくはだけ、妖しい眼差しで五人の顔を見回しながら意味不明な言葉を口走ってケタケタ笑ったという。グループの一人の中年男性は、完全に気が狂っているとしか思えなかったけれども、スタイルが抜群で土埃に薄汚れた顔もゾクッとするほど美しかったと証言した。

               *

 ペルー事件勃発と富士山麓の椿事から一週間が経った――。
 十二月二十六日の夕刻。東京下町の玄関口のひとつであるJR神田駅はいつも通りに人波で溢れかえっていた。
 この駅の構内には今もあちこちに数十年前の面影が色濃く残っている。プラットホームは狭いし、階段や通路の天井も低い上に改札口近辺は雑然としている。
 しかし見方を換えれば、下町情緒豊かで往時の懐かしさに溢れているとも言える。そこに存在価値を認め、愛着を持っている人が多いのも事実である。
 また、駅の界隈には、懐が寂しくしかも年々小遣いが減っていく庶民派サラリーマンにとっては通いやすい、比較的安上がりな居酒屋やスナックが密集していた。


 今年四十三歳になった番匠孝子が仕切る居酒屋『たっちゃん』も駅の改札から歩いて三四分の場所にあった。
 母の
竜子が先の戦争が終わって間もなくはじめた間口二間奥行き三間半の小さな店だったが、大儲けはできない代わりに時代のうねりに呑まれることもなく、今日までずっと客足が途絶えることなく続いている。明るく朗らかで決して客の分け隔てをしない竜子の人柄が心に憂さを抱えている勤め人たちを呼び寄せ、片時の安らぎを得たい彼らが常連客になってきたからである。
 娘の孝子も、蛙の子は蛙というように、なかなかの商売上手だった。気遣いと心配りは銀座の高級クラブのママにもヒケは取らない。それには理由があった。
 体調を崩した母に代わってこの店を引き継いだ十年前まで、孝子はそこそこ名の通った辰巳芸者だった。その縁で昔の芸伎仲間もちょいちょい訪れてくれている。
 千円札が三枚もあれば事足りる上に花柳界の綺麗どころと肩を並べて呑めることも居酒屋『たっちゃん』の魅力のひとつになっていた。


 師走も押し詰まったこの日。カウンター席が七つと四人掛けの小さなテーブル席が二つあるだけの手狭な店は、一年の仕事納めを明日に控えたサラリーマンで賑わっていた。
 つい先ほど暖簾をくぐった客は近くの印刷会社に勤めている松島健司といって、常連客の中では一番の若手である。
 孝子の目の前のカウンター席に座ったその松島が、駆けつけ三杯、孝子に注いでもらったグラスのビールを
ってひと息つくと、なにやらいわくありげな面持ちで孝子に尋ねた。


「ママ。ちょくちょくここで見かけるママの友だちでさあ。粋で気風のいい、緋牡丹お竜の藤純子みたいな、綺麗なおさんがいたじゃない?」

「蔦ちゃんのこと? 尾上蔦子さん」

「そうそう、その蔦子姐さん」

「でも松島くん。あんた、若いのに藤純子さんをよく知ってたわね」

「いやね。若い頃のうちの親父が大ファンで、しょっちゅうビデオを借りてきて熱心に観てたんですよ。俺、その親父の膝に抱かれて一緒に観てたもんだから……」

「そうだったの。それなら印象に残ってるわね」

「それでそのう……。あのお姐さん、この頃ちっとも見かけないけど、どうしてるのかなぁと思って」

「どうしてるのかって……。あれっ、あんた、蔦ちゃんに気があったの?」

「と、とんでもない。俺ごときにあのお姐さんは……、高嶺の花ってんですかね。背伸びしたって手が届きませんよ」

「そうだろうねぇ、あんたに蔦ちゃんが口説けるとは思えないわよねぇ。あら、ごめんなさい。これって悪い癖だわね、思ったことがすぐ口に出ちゃうって……。でも松島くん、分かんないわよ。(たで)食う虫も好き好きっていうし、独り身の年増女から見たら若い男の子は可愛いっていうから、あんた、思い切って蔦ちゃんに告白してみたらどう?」

「からかわないでくださいよ。大会社ならともかく、ちっちゃな会社に十年も勤めてんのにいまだにペーペーの俺なんか、とてもとても……」

「そう? でもあれだわね。言われてみると蔦ちゃん、もう四か月近く顔を出してくれてないわねぇ……」

 孝子の芸者時代の後輩であり良き朋輩でもあった尾上蔦子が、いつものように快活に振舞って常連客の鼻の下を伸ばさせたのはまだ残暑厳しい頃だった。
 確かにそれ以来パタッと音沙汰がない。少なくても月に二三度は顔を出してくれていた律儀で義理堅い性格を思うと腑に落ちなかったが、不義理をするような蔦子ではないことは孝子が一番よく知っている。


(なぜだか分かんないけど、きっとよんどころないことが出来たに違いないわ)
 そう考えて孝子の方から連絡することは控え、忙しさにかまけているうちに年の瀬を迎えていた。

「……で、松島くん。あんた、どこかで蔦ちゃんに会ったの?」

「会ったっていうか。このあいだ俺、会社の忘年会で熱海へ行ったんですよ。そこで見かけたんです、あの姐さんによく似た女の人を……」

「えっ、熱海で蔦ちゃんを?」

「いえ、ご本人かどうか分かんないんだけど、あの姐さんそっくりの人を……」

「ふ〜ん。松島くん、あんたまさか、あんたたちの宴席にあがった芸者さんの中に蔦ちゃんがいたなんて言うんじゃないだろうね」

「違いますよ、もしそうだったら俺としては大喜びだったんだけど……。それにあのお姐さんがお酌してくれたんなら、きちんと確かめてますよ」

「そうだわよねぇ。じゃ、どこで見かけたのよ、その蔦ちゃんのそっくりさんを?」

 松島健司は普段から根拠のない噂話を酒のにし、もない創り話をしてはひとはしゃぎして帰る。その松島が言うにはこうだった。

 その日の熱海は、珍しく風もなく、師走も半ばというのにぽかぽかと陽気が好かった。夜八時に宴会が終わってひと風呂浴びた松島は、火照ったからだを分厚い丹前に包んで旅館近くの商店街をぶらぶらしていた。そこにチンピラ風の若い男がすり寄ってきた。

「お兄さん。湯の町土産に珍しいものを観て帰るつもりはありませんか?」

「珍しいものって何よ」と聞き返した松島に男はあたりを憚りながら耳元で囁いた。

「いえね、お兄さん。こいつは……滅多にお目にかかれない、生唾もののショーなんですよ」

「ふ〜ん。本当かね」と首をかしげる松島に若い男はたたみかけた。

「いつもは一人一万円頂戴してるんですがね。今夜は七千円ぽっきりということでどうです? 絶対に損はさせませんから……。何だったら、お代は観てのお帰りてぇことでもかまいませんよ」
 男の自信たっぷりな言葉に松島は好奇心を掻き立てられた。

 連れて行かれた場所は、崖を背にして建つ古びた造りの割烹旅館だった。
 奥まった離れに案内され、チンピラに替わった厳つい顔の中年男に広い和室に招き入れられた。
 そこは、部屋の照明がぎりぎりまで落とされていて、互いの顔もはっきりとは見えないほど暗かった。並べられた座布団に胡坐をかいてショーの開演を待っている先客たちが続き部屋との間に立てられた
を見つめて息を殺している。
 そのシルエットから黒い陽炎のようなものが立ち昇って見え、異様に熱っぽい空気が部屋いっぱいに充満していた。


 最後列の座布団に松島が腰を下ろして数分後、静かに襖が開いてスポットライトに照らし出された敷布団が浮かび上がった。緋色の長襦袢をまとった女が一人、横座りの背中を向けて足を流している。その姿態の妖艶さに松島は息を呑んだ。
 まばゆいスポットライトの光に細めた目が慣れてくると、光の輪の外に苦みばしった顔の痩せぎすな男が一人、藍地に
縞柄の着流しに身を包んで立膝に控えているが分かった。

 静まり返った客の皆が息を呑んで見つめる中、長襦袢姿の女は客に背を向けたまま首だけ客の方へ巡らせて一礼した。
 それを合図に控えていた男が真剣な面持ちで光の輪の中に入ってきた。男は手にした麻縄をいったん敷布団の上に置くと、女の伊達巻きをするするとほどいて腰紐を抜き、長襦袢の襟に手をかけた。


 次の瞬間、一気に着衣を剥ぎ取られ女は、こぼれ出た豊かな真っ白い乳房を両手で抱いて縮こまった。
 女の背後に片膝をついた男は、その
せぎすなからだには似つかわしくない太くて筋肉質な腕を女のからだの両脇から前に伸ばして女の両手を後ろへ手繰った。
 白くたおやかな女の両腕を滑るように艶やかな背中にねじ上げると、高手小手に重ね合わせた
華奢な両手首にキリキリと縄をかけ、縄尻を二の腕から前に渡して豊かに実った白桃のような乳房の上下を二重三重に緊め上げていった。


 女は素肌にひしひしとかかる縄目のきつさに呻き、縄化粧された柔肌を責められられて喘ぎ、最後に男のイチモツで下腹部を貫かれて嗚咽を洩らしたという。

「そりゃもう、ぞくぞくするほど色っぽくて綺麗なひとでしてね……」

 遠い眼差しになった松島は、その女の肢体や顔立ちはテレビや映画で見る女優たちより遥かに美しかったし、甘く切なげに顔をゆがめた妖艶な美女の厚化粧の下に尾上蔦子の素顔を見たような気がした、と言った。

「何を馬鹿なことを言ってるんだい! 怒るよ、松島くん……。あの蔦ちゃんがそんなことをしてるわけがないじゃないのさ。あんた、どうかしてるんじゃないの!」
 孝子は本当に怒っていた。普段の柔和な表情が剣呑になっていた。

(いくら顔立ちがよく似た女を見かけたからといっても、よりによってそんなお座敷ショーをしてるのが蔦ちゃんだったかも知れないなんて……。この青二才、何を考えてるんだろう)

 眼を三角にして睨みつける孝子の眼光に恐れをなした松島は、首を縮めて小さくなり、さすがに居づらくなったらしく、そそくさと勘定を済ませて店を出て行った。

(でも蔦ちゃん。どうしたんだろうねぇ、こんなに長く顔を見せないなんて……)
 番匠孝子の胸に不吉な何かを感じさせるさざ波が湧き立っていた。


               *

 安室奈美恵が史上最年少でレコード大賞を獲得し、例年通りに紅白歌合戦のから騒ぎが終り、各地の神社仏閣が初詣での人々でごった返す中を除夜の鐘が鳴り響いて新しい年が訪れた。が、ペルーの人質事件は膠着状態が続いている。

 年末年始の特別警戒も終わった一月五日――。
 ようやく非番の日が巡ってきた神奈川県警刑事部捜査第一課の係長・
長田は厚木市郊外の自宅にいた。
 定年後に庭いじりと盆栽づくりを楽しむことを考えて四年前に移り住んだ一軒家である。十坪ほどの広さの、まだ造りかけの庭があった。その未完成の庭に面した居間で、長田は妻と二人だけの遅い正月をささやかに祝っていた。


 長田は、今年の十一月に定年退官の時を迎える。
 一年前に刑事部長と直属上司の植松捜査一課長の二人から、「もっと楽な部署で定年を迎えたらどうだい?」と職場の移動を勧められた。しかし職人肌の長田としては、現場の刑事のまま警察官人生を終わりたかった。そのことを上司二人に懇願し、幸いに長田の願いは受け入れられた。


「罪を犯した人間を泥ん中から引き上げて、罪を償わせることで綺麗なからだにしてやるのが俺たち刑事の仕事だ。やり直しをさせてやるために捕まえるんだ」
 長田平吉は後輩刑事たちととの酒の席でよくそう語った。

 キレイごとや強がりを言っているのではない。若い頃からその信念で幾つもの難事件を解決してきた長田の言葉には説得力があった。決して途中で諦めることのない無類の粘り強さが長田の身上であり、その一途な捜査振りから〈スッポンの平吉〉と
揶揄された時期もあったが、警部補に昇進してからは〈落としのチョーさん〉と呼ばれている。

 好きな日本酒の熱燗を一本空け、妻の幸枝が二本目のお銚子を運んできた時に居間の隅で電話が鳴り響いた。事件の知らせだった。長田は着古して皺だらけになったバーバリーのコート袖に腕を通し、苦笑いを浮かべながら玄関を出た。

 翌六日の朝――。
 神奈川県足柄下郡真鶴町の真鶴岬に女性の死体が漂着したことを、地元紙『デイリー神奈川』が数行のベタ記事で報じた。
 漂着死体は全裸だった。
頚部が残っており、それも喉笛の下にあったことから、縄のようなもので絞め殺されたものと警察は断定した。首を吊って死んだ縊死の場合、索条痕は喉笛の上の顎のすぐ下の部分に残る。

 真鶴署と県警捜査一課が合同捜査をすることになり、植松捜査一課長指揮のもと、県警からは係長の長田平吉警部補が、真鶴署からはようやく三十歳になったばかりの俊介刑事が専任担当者に指名された。

 長田は残り少ない在職期間中に何としても解決したいと意気込んだが、ことは容易ではなかった。被害者の身元を特定できるものもなければ、事件解決の糸口になりそうなものも何もない。どこから手を着けてよいものやら、正直なところ、思案投げ首状態だった。




                                                 つづく