第二章 あ〜イヤだイヤだ
春先から病原性大腸菌「O157」が猛威を振るった平成八年も盂蘭盆会を過ぎ、例年通りにクラゲが海水浴場の水際近くまで上がってきているらしい。もうじき九月の声を聞くというのに寝苦しい夜が続いていた。
ここ数年は天候不順のせいで季節の始まりが早かったり遅れたりするから、カレンダーを見る眼と風を感じる肌が頭の中で喧嘩する。いつまでも夏が終わりそうにない今年は、うだるような熱気が今日も東京をすっぽりと包んでいた。
その東京の下町、文京区根津の古い町屋の一角に三味線や長唄・清元などの芸事を教えている家があった。
縞柄の粋なひとえに身を包んでいるその家の女主は今、エアコンのよく効いた居間で、五十がらみのしみったれた身なりの男と向かい合っていた。
尾上蔦子、三十七歳。十年ほど前までは「吉兆の蔦吉姐さん」として深川界隈に通う好人たちを唸らせていた辰巳芸者だった。小股の切れ上がった佳い女であることは今も変わらない。
そのいい女が苦虫を噛み潰したような顔をして眉根を寄せている。昨夜神田駅前の居酒屋『たっちゃん』で気分よくいただいたお酒が少々過ぎてしまったせいもあったが、突然降って沸いたような無理難題に困惑して、端正な顔をしかめていた。
「蔦ちゃん、頼むッ! ひと晩だけでいいんだ。昔のように俺に抱かれたと思ってなんとか頼まれてくれないか? この通りだッ」
蔦子に向かって両手を合わせて拝むと額を畳にこすりつけ、「蔦ちゃん」とさも親しげに呼んだしみったれ男の名は棚橋良一、五十一歳。蔦子が芸者を引いた時のスポンサーだったが、己の分を超える商品相場に手を出し、三年前に身代を潰してしまった世間知らずの老舗乾物問屋の五代目である。いや、五代目だった男である。
「棚橋の旦那……。いくらなんでも理不尽、てもんじゃありませんか? 旦那にかけていただいたご恩は、あたしゃ今だって忘れちゃいませんよ。忘れちゃいませんけどさ……。それとこれとは、話の筋が違うんじゃありませんか?」
「その通りだ、蔦ちゃん。筋違いなことは、すっかり落ちぶれちまった俺にも分かってる。それを百も二百も承知で頼んでるんだ……。俺だって、出来ることならこんな非道いことを、お前さんに頼みたくはない。でも、どうしようもなくなっちまったんだよ……。万策つきちまって、蔦ちゃんに頼むしかなくなったんだ。そこんとこをなんとか斟酌してくれてさぁ。なあ蔦ちゃん、うんと言ってくれないか」
「なんであたしなんです? もうじき四十に手が届こうかという大年増ですよ。もっと活きのいい、若くて可愛い子がそこいらにいくらでもいるじゃないですか」
「あの人が……、鬼頭さんが、蔦ちゃんでなきゃ絶対にダメだって言うんだ」
「鬼頭さんて……材木屋の、あのイケ好かない鬼頭仙八のこと?」
「そう、あのイケ……」と、オウム返しに呼び捨てにしかけてハッと口に手を当てた棚橋は、「その鬼頭さんだよ」と言い直した。昔は「あいつが……」とか「あの野郎が……」と見下していた鬼頭を、今の棚橋は〈さん付け〉で呼んだ。蔦子はそれも気に喰わなかった。
鬼頭仙八というのは、棚橋がかつてそうだったように大きな問屋の主である。小柄で風采の上がらない、溝鼠を想わせる醜い容貌をしている。しかし、棚橋と違って商いにひいでていた。いまもその羽振りの良さが、時折り蔦子の耳にも入ってくる。
芸者遊びが趣味の道楽者で、五十を過ぎた今も妻帯せず、金にモノを言わせて女をとっかえひっかえしているらしい。その鬼頭の下卑ていて粘着質なところを芸者時代の蔦子は毛嫌いしていた。だからお座敷がかかっても、なんだかんだと理由をつけて断っていた相手である。
「蔦ちゃんが昔から鬼頭さんを嫌ってることは、俺も知ってる。知ってるだけに、俺も辛いんだ。だけど、鬼頭さんの助けがないと、今度こそ、俺は本当におしまいなんだよ。お願いだ、蔦ちゃん! 俺を助けてくれないか。頼む、この通りだッ!」
繰り返し畳に額をこすりつける棚橋に、蔦子は開いた口がふさがらない。
(なにが「俺も辛い」よ。あなたとあたしは、もう三年も前に切れてるんですよ。あの時に、あたしが住んでた入谷の家をあなたに返してあげて、義理は果たしたじゃありませんかっ!)
そう言ってやりたいのは山々だった。が、そうも出来ないところが歯痒い。芸者の頃の蔦子なら「バカをお言いでないよ!」と、一も二もなく跳ねつけていただろう。
辰巳芸者の蔦吉は、半玉の頃から芸の修行に励んだ甲斐あって、踊りはもちろんのこと三味線も鳴り物も、謡曲は長唄から清元・常磐津まで何でもこなした。芸達者で気風がいいものだから、あと口がひきもきらないほどのうれっ伎だった。
ただ、向こう意気が強く無手勝流のやり方に目くじらを立てる先輩芸者も多く、うれるほどに妬まれて、誹謗中傷されるようになった。
さすがの蔦子も花柳界に嫌気がさしてきていた頃に思案を急がなくてはならないあることが重なった。その時だった、日本橋の老舗乾物問屋の主だった棚橋良一が引かせてくれたのは……。
置屋に借金がなくとも芸者の引き祝いには金がかかる。棚橋良一はその費用のすべてを負担してくれたばかりか、蔦子が住む家を浅草の先の入谷に用意してくれた。
棚橋は羽振りがいいだけでなく、女の扱いがいつも丁寧だった。遊び好きでも実のある客だと芸伎仲間でも評判のいい男だった。すらっと上背があって柔和な面持ちの好男子でもあった。
その棚橋が、特に蔦子に対しては優しい気配りを欠かさず、初座敷の時からずっと心を砕いて蔦子を引き立ててくれていた。そのことも蔦子が棚橋に引かせてもらうことを決心した理由のひとつだった。
実はその裏に棚橋の妻の存在があったことを蔦子は後になって知った。
棚橋良一は入り婿であり、棚橋家の当主は妻の冨美子である。冨美子の許しがなければ夫といえども良一は何も出来ないというのが実情だった。
しかし冨美子は生来病弱で、夫の良一が満足出来るような夫婦生活は送れず、そのゆえに夫の女遊びを奨励するようなところがあった。その棚橋冨美子のお眼鏡にかなったのが吉兆の蔦吉だったという次第である。
「吉兆の蔦吉が引きたいらしい」という噂を聞きつけた棚橋冨美子は、「お世話してあげなさい」と夫の尻を叩いた。
蔦吉に岡惚れしていた良一に否応があるはずもない。自分のものになれば閨の楽しみもある。その気になって話をまとめて蔦吉の引き祝いをしたのが十年前、芸者蔦吉こと尾上蔦子が二十七歳の時だった。それなのに……。
(あ〜、イヤだイヤだ……。いくら落ちぶれたといっても元は代々続いた大店の主じゃないか。その大旦那が、縁が切れてから三年も経つのに、昔自分が囲ってた女に不見転芸者と同じことをしてくれと頼みに来るなんて……。しかも、よりによってあたしが毛嫌いしてた鬼頭仙八とひと晩、閨をともにしてくれないかなんて、一体どんな口があれば言えるんだろう? この人は結局あたしのことなんか何ひとつ分かっちゃいないし、今だってあたしの気持ちを爪の先ほども考えちゃいない。それにしてもここまで堕ちてるとは……)
口には出さないものの、蔦子の腸は煮えくり返っている。婿養子の棚橋良一は先代が大きくした身代を潰してからも遊び惚けるばかりで働かず、妻の冨美子が重病で入院した半年後には、蔦子の名義になっていた入谷の家を返してもらえないかと言ってきた。その家もすでに人手に渡っている。
その棚橋の、蔦子を使ってまで金策しようとする腐りきった性根にはヘドがでる。出来ることなら蹴飛ばしてでもこの家から叩き出してやりたい。しかし、そうはしなかった。いや、出来なかった。
筋の通らない繰り言を聞き流しながら、蔦子は棚橋良一の妻・冨美子のことを考えていた。
悋気の欠片も見せず、嫌味ひとつ口にせずに、七年間も面倒を見てくれた冨美子を蔦子は実の姉のように慕っている。冨美子にだけは返し切れない恩義を感じていた。
その棚橋冨美子が大病に冒され、もう一年半も病院暮らしをしている。蔦子は毎月一度見舞っているが、夫の良一はとんと姿を見せないと聞いていた。入院費も大分滞っているらしい。あと一二回支払いがなければ強制退院させられることになるだろうと、担当の看護士からこっそり耳打ちされていた。
その矢先だった、憔悴しきった棚橋が訪ねてきたのは……。
蔦子にとって棚橋良一がどうなろうと知ったことではない。しかし、冨美子のことだけはないがしろに出来ない。
さてどうしたものか……と思案に暮れる蔦子の目の前で、棚橋は大粒の涙をボロボロこぼした。
「蔦ちゃん。情けない話なんだが、俺いま、冨美子の入院費も払ってやれない状態なんだ。何とかしようと駆けずり回ったんだが何ともならなくて……。なぁ、分かってくれないか。俺のためじゃなく冨美子のために頼むッ! この通りだッ!」
パタッと畳の上に這いつくばった棚橋の言葉は、蔦子の急所をとらえていた。
姉と慕う棚橋冨美子は血液のガンといわれる白血病に冒されている。治癒の見込みはなく、先も長くないらしい。
(だからこそ何とかしてあげたい)
とはいえ、今の蔦子に金銭的な余裕はない。蓄えてきた金は根津のこの家を手に入れる時にほとんど費やしていた。
それでも蔦子は、冨美子が入院することになった時に金を借りにきた棚橋になけなしの貯金をはたいて百万円の見舞金を渡した。月に一度病院に冨美子を見舞った時にもわずかながら金を入れた封筒を枕元に置いて帰るようにしてきた。
それなのに滞っている冨美子の入院費が百数十万円、今後のことを考えると四百万円近い金が必要だという。その全額を肩代わりする約束を鬼頭仙八がしてくれたのだと棚橋良一は言った。
(命の続く限りは手厚い看護を受けさせてあげたい。あたしがこの身を鬼頭に差し出しさえすれば、冨美子姉さんは当面安心して病院生活を送れる……)
そう思い詰めた蔦子の脳裏を鬼頭仙八の厭らしい溝鼠顔がよぎり、虫酸が走った。
*
一週間後の土曜日――。この日もまるで夏の盛りのように暑かった。
まだ照り返しのきつい夕刻、尾上蔦子はJR御殿場駅から箱根仙石原へ向かうタクシーの中にいた。
銀鼠に光琳の菊を染め抜いた着物に朱と金の菊唐草の帯を締めている。その姿はなるほど粋であでやかだが、顔に暗い翳りがさしていた。しかし、年増と呼ばれる年齢になっても少しも衰えない容姿は、まさに女盛りの色香を漂わせている。
タクシーは、御殿場から国道一三八号線を乙女峠に向い、トンネルを抜けてヘアピンカーブを通過した。
曲がりくねった坂道を下りはじめた時に蔦子の胸はざわついた。あの鬼頭に肌を晒さなくてはならないのかと思うと心の中に黒雲が立ちこめた。今夜はあの溝鼠に抱かれるのかと思うと胸の奥がキリキリ痛んだ。
しかし、引き返すわけにもいかない。
(ひと晩よ。ひと晩だけの辛抱よ)
嫌がる心にそう言い聞かせる蔦子を乗せたタクシーは、仙石原の温泉町に至る手前の脇道を登った。その坂道の途中に小さな山の一部を切り通したような二間幅の取り付け道路があった。
そこから別荘の敷地内に乗り入れて玄関に横着けしたタクシーから降り立った時には、蔦子は迷いを振り切っていた。
「ごめんください」
玄関に足を踏み入れて訪問を告げた蔦子の目の前に、鬼頭仙八本人が揉み手をしながら現われた。浴衣に湯上り半纏を羽織っている。
「いらっしゃい。よく来てくれました。さ、さ、どうぞ。どうぞ上がってください」
満面に笑みを浮かべた鬼頭は、蔦子の視線が自分の着ているものに注がれていることに気づいて、昔より生え際が後退して白髪が増えた頭をかいた。
「蔦吉さんに失礼だと思ったんだけど、えらく汗をかいてしまったものだから、お先にひと風呂浴びさせてもらいましたよ」
「鬼頭さん……。蔦吉というのは昔のあたし。今のあたしは尾上蔦子なんですよ」
「やぁ、これは失敬。ですがね蔦吉さん……じゃなくて蔦子さん。今日のところは昔のように蔦吉さんと呼ばせてもらえませんか。その方が私としては話し易いもんだから、是非そう呼ばせてください」
そう言ってペコリと頭を下げた鬼頭は、昔どおりの貧相な小男だった。が、愛想の良さや言葉遣いの丁寧さは蔦子の以前の印象とは違った。
(人間、十年の歳月を経ればそれなりに成長するもんだわ)
蔦子は頭の中でそう呟いていた。
「どうしてもとおっしゃるのなら、蔦吉と呼んでくだすっても構いませんわ」
「ああ、よかった。それはありがたい」
蔦子の返答に相好を崩した鬼頭は、いかにも嬉しそうに足取り軽く先に立ち、蔦子を母屋の南側にある客間へと案内した。
入り口のドアを開けると畳三帖の上がり間があり、右側に手洗いとトイレがある。正面の襖を引くと広さ八畳のこざっぱりした和室になっていた。床の間の隣りに荷物棚があり、蔦子はそこに着替えの入った旅行バッグを置いた。
そのあと蔦子は、鬼頭に促されて、鬼頭の間へ移った。
鬼頭が自らいれてくれた熱い緑茶はコクがあった。
「おいしいお茶ですね」とすすりながら眺めた居間の南側は、下半分に擦りガラスが嵌めこまれた障子戸が立っている。開け放された障子の先の板敷きにロッキングチェアが置いてあった。その向うのガラス戸が夕陽に赤く映えている。
「こんな大きな別荘に鬼頭さん、おひとりですの?」
「ええ、今日はそうです。食事の支度も終わったので賄いの婆さんには帰ってもらいました。大した料理はありませんけど、旬の食材を使ってるから結構いけますよ」
蔦子は今、広い別荘の中に鬼頭と二人きりでいる。そのことがかすかな不安を抱かせた。しかし、自分と上背が大して変わらない貧弱な鬼頭一人が相手なら、たとえ乱暴を働かれても跳ね飛ばして逃げることが出来る。
(腕っぷしなら、この鬼頭なんぞに引けはとらないわ……)
蔦子の男勝りな気性が、ふっと心に抱いた不安を打ち消していた。
「そうそう。蔦吉さんも食事の前にひと風呂浴びたらどうです? ここの湯は泉質がよくて、なかなかのもんですよ。浴衣を用意しておきましたので、それに着替えていったらどうです? もっとも、蔦吉さんのお気に召す柄かどうかは自信がありませんけど……」
そう言って照れ笑いを見せた今日の鬼頭はどこまでも手回しがよかった。昔のあの下品さも影をひそめている。
「そうさせていただこうかしら」
なんとなく打ち解けてきた蔦子は、居間の東隣りの、浴衣が置いてあるという八畳間へ移った。そこは鬼頭の寝室のようだった。
(この部屋であたし、今夜この男に抱かれるのね……)
そう思って嫌な気分になったが、ここまで来て躊躇しても致し方ない。蔦子は三つ折り屏風の陰に隠れて着物を脱ぎ、鬼頭が用意してくれた浴衣に着替えはじめた。
「蔦吉さん、浴衣に着替え終わったら声をかけてください。私が風呂まで案内しますから」
襖を隔てた鬼頭のかけ声に昔のねちねちした厭らしさはない。とはいえ、あれだけ毛嫌いしてきた鬼頭仙八である。その鬼頭に肌を許すことを思うと虫酸が走る。
にも拘らず、まるで温泉宿に来たように気持ちが軽やかになっている自分を蔦子は訝しく思った。
別荘に着いてからの運びが蔦子の想定していたものとはまったく違った。その予想外な展開に虚を突かれ、警戒心がゆるんでいた。ともあれ蔦子は、白地に百合の花を藍で染め抜いた若い娘が着るような浴衣に着替え、鬼頭の後ろについて風呂場へと向かった。
*
箱根仙石原にあるこの別荘は、数年前までは名古屋の土木建設会社の持ち物だったが、長引く不景気のあおりを受けて換金を急いでいたのを、昨年鬼頭が買い叩いて手に入れていた。
小山の斜面を削って整地した三百坪余りの敷地に母屋と宿泊棟が建てられている。が、その建物は坂道を登っている間は見えない。山の一部を切り取って取り付けた平坦な道路に入ってやっと姿を現す。
いかにも土建の専門会社が安い山林を買ってこしらえたような、外部から遮断された場所にそれはあった。
五十坪余りの平屋建ての母屋は玄関ホールから真っ直ぐ西に伸びる一間幅の廊下で南北に振り分けられている。
南に面して東側から八畳の寝室、十二畳の居間、そして八畳の客間と続き、西側の端が応接用の広い洋間になっている。
北側は留守居と賄い人が寝泊りする小部屋が一つある他は娯楽室を兼ねた食堂になっており、廊下の突き当たり右手に下り階段がある。食堂の真下が地下室になっている様子だった。
西に傾いた陽射しが届かない階段下は薄暗い。そこをチラリと覗き見て突き当りを左に折れると、瓢箪形の大きな庭池を跨ぐように架けられた天蓋付きの架け橋が渡り廊下となって母屋と離れの宿泊棟をつないでいた。
離れの方も一間幅の廊下を挟んで左右に四つずつ部屋があり、右側は少人数用の洋室、左は家族向けの和室になっている。その先に小休憩所と手洗いがあり、風呂場は小休憩所の南側にあった。
「それじゃ蔦吉さん。ゆっくり温泉を楽しんだら居間に戻ってきてくれませんか。一緒に夕飯をとりましょう」
風呂場の出入り戸を引き開いた鬼頭は、愛想笑いをすると、さっときびすを返して母屋へ戻って行った。
蔦子は、鬼頭の後ろ姿が渡り廊下にさしかかるのを確かめてから風呂場に足を踏み入れた。
脱衣所の広さは十二畳ほどあり、檜の香りが立ち込めている浴室内も同じくらいの広さがあった。床面をうがってつくられた浴槽は一度に六七人がゆっくりと浸かれそうである。薄い湯気を立ち昇らせているその大きな浴槽から湯が溢れていた。
黄白色に濁った硫黄泉は心地好かった。意に染まない一夜を前にして硬くなっている蔦子の心を幾分か和らげてくれたが、思いの外ねっとりと肌にからみつく。全身の毛穴と言う毛穴から体内に浸透してきて、まるで蔦子のからだの芯を縛り上げようとでもしているように感じた。
とはいえ、温泉湯は蔦子の雪白肌をすべすべにしてくれた。
蔦子は、湯上りの火照ったからだを再び浴衣に包んで居間に戻った。
鬼頭と差向かいにとった夕食の料理は海山の旬の食材をふんだんに使っているだけにことのほか美味しく、専門の料理屋顔負けの味に感心させられた。
しかし、旨い料理と地酒に舌鼓を打ってひと息入れると、いよいよ肌を晒さなければならない、その時がきた。
居間の隣りの寝室へ導かれた蔦子は、鬼頭に抱かれる覚悟はしてきたものの心が震えた。十年の歳月を隔てて大きく印象が変わったとはいえ、鬼頭仙八は蔦子が嫌い抜いてきた相手である。惚れた男の前に身を投げ出すのとは訳が違う。出来ることなら今すぐにでもここを立ち去りたい。
その思いと(なんとしても冨美子姉さんを救わなければ……)という使命感が葛藤し、蔦子に唇を噛ませた。
「灯りを、部屋の灯りを暗くしてください」
夜具のかたわらに膝を落とした蔦子は鬼頭にそう頼んだ。
「そうですね」
夜具の反対側に座った鬼頭は、蔦子の恥じらいあらわな横顔に目を細めてうなずいた。が、立ち上がろうとはせず、正座に直って蔦子の眼を見つめた。
「ひとつお願いがあるんです、蔦吉さん。灯りを暗くする前に蔦吉さんの綺麗なからだを私に拝ませてもらえませんか?」
顔の前に両手を合わせた鬼頭に、蔦子は一瞬ムッとした。自分を『俎板の上の鯉』にしておきながら哀願して見せる鬼頭のわざとらしさが鼻についたのである。
しかし、ここで尻をまくっては何のために決心したのか分からなくなる。小さく首肯した蔦子は静かに立ち上がった。
浴衣を脱ぎ落として木綿の下穿き一枚になった蔦子は、いまだに瑞々しい二つの乳房を両手でしっかりと抱きかかえた。
内巻結いをおろした長い黒髪が端正な卵形の顔をふんわりと包み、柔らかく温かみを感じさせる面立ちの凛とした切れ長な眼が蔦子らしい。肌理の細かい肌が艶々として、鋭くきゅっとくびれた腰が柔らかく膨らんだ尻の量感をより高め、スラッと伸びた下肢は陶器のように白く輝いている。
「綺麗だ……。本当に綺麗だ。私があれからずっと、この時を待っていたのは間違いじゃなかった……」
感慨深げな面持ちになった鬼頭は、溝鼠顔から笑みをこぼして声を上ずらせた。
「ありがとう、蔦吉さん。あなたが承知してくれたお陰で私は長年の思いをとげることができます」
(なに言ってんのさ、あたしを無理やりここまでおびき出しといて……)
脳裏にすっと立ち上がった蔦子自身の影がそう吐き捨てた。いかにも男の実を貫いてきたような鬼頭の台詞に蔦子の心の中の歯が浮いていた。
鬼頭の前戯は執拗だった。
夜具に身を横たえた蔦子の裸身を、鬼頭は口と舌でむさぼるように愛撫した。つい背けてしまう蔦子の顔を追いかけて口を吸い、仰け反って反って逃げる首筋から胸へと舌を這わせた。
蔦子の全身を足の爪先に至るまで舐めまわす鬼頭に、蔦子は昔の鬼頭の粘っこく下卑た性格を思い起こしたが、熟れ切った柔らかい乳房を揉みしだかれて喘ぎ声が洩れそうになる。それを必死にこらえて心を宙空に漂わせた。
しかし、鬼頭のイチモツが恥毛を掻き分けて秘裂に侵入してきた時に「ああっ!」とひと声、蔦子は驚きの悲鳴を上げた。鬼頭のそれは小柄な体格に似合わず逞しかったからである。
長い前戯から鬼頭が果てるまでの小一時間、蔦子はさながら人形のように肉体だけを鬼頭にあずけ、忌まわしい時間を耐え抜いた。
「蔦吉さん、もう一度温泉に浸かって汗を流したらどうです? その方がゆっくりやすめるんじゃないですか? ささ、遠慮なくどうぞ」
鬼頭は優しくそうすすめた。思いを遂げて満ち足りたという表情をしている。
「そうさせていただくわ」
笑みを返した蔦子は、これ幸いと風呂場に向かった。一刻も早く素肌についた鬼頭の臭いを洗い落としたかった。
「ゆっくり浸かってきてください」
その蔦子の背中にそう声をかけた鬼頭の片方の口の端がニヤリと吊り上がったことに蔦子は気づかなかった。
つづく
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