第四章 これで終わったわ
(終わったわ……。もう大丈夫よ冨美子姉さん。安心してっ!)
檜の浴槽にすっぽりと首まで浸かった蔦子は、切れ長な眼の長い睫毛を薄く閉じ合わせて病床の冨美子へ報告の思念を飛ばした。しかしすぐに、からだを隅々まで舐めまわした鬼頭の執拗な愛撫を思い出し、改めて全身に虫酸を走らせた。
(なにを落ち込んでるのさ。いっときからだを弄ばれただけのことじゃないか……)
そう自分に言い聞かせても、やはり心のどこかが傷ついている。心地好い黄白色の湯に温められた胸の奥がシクシク泣いた。その心の傷を癒すように温泉のほどよい熱が蔦子の柔肌に沁み透っていった。
ゆっくりと三十分近くも湯に浸かり、からだの芯まで温まった蔦子が、いつもそうするように上がり水を浴びて肌を引き締めると、まさに身も心も爽やかになった。
蔦子は、下穿きをつけ浴衣をまとって鏡の前に腰掛けた。ドライヤーで乾かした長い黒髪を丹念に梳いて後ろにふっくらと巻き上げていく。温泉の湯がからだの芯まで温めてくれたせいか、首筋や浴衣の下にじわっと汗が滲み出た。
その心地好い汗を豆絞りの日本手拭いで拭きながら風呂場を出て、蔦子は廊下を母屋へと向かった。
長い廊下の中ほどまで足を運んだその時――。離れと母屋をつなぐ天蓋橋の向こうでふらっと一つ、男の影が揺れた。
鬼頭仙八が迎えに出てきたのだろうと思ったが、鬼頭より遥かに大柄でがっしりした体型をしている。蔦子はハッと息を呑んで立ち止まった。
突然目の前に現われたその男は、芸者時代に何度か見かけたことのある武村亮次だった。顎のエラが張ったおむすび顔に無精ひげを生やして、いつも卑屈な笑みを浮かべて鬼頭の宴席の下座に侍っていた腰巾着である。その武村がつかつかっと橋を渡って近づいてくる。
蔦子は立ち止まっていた足を一歩後ろに引いた。と、背後でガラッと、和室の引き戸が乱暴に開けられる音がした。
ギクッと振り返った蔦子の前にまた一人、見知った顔の男が現われた。武村とつるんで鬼頭の腰巾着をしていた室田耕平が蛇のように細く冷たい目で蔦子を睨みつけている。相変わらずヤクザのチンピラ紛いの身なりをしていた。
その室田の後ろからもう一人、蔦子が初めて見る顔の男がぬーっと姿を見せた。スラッとした中肉中背で苦みばしった感じの顔立ちをしている。が、その細面の顔に表情がない。無表情なその男は麻縄を手にしていた。
「な、なんなのよ、あんたたちは!」
この別荘には今、蔦子の他は鬼頭しかいないはずである。そのはずなのに突然降って湧いたように現われた三人の男を目の当たりにして、蔦子は動揺した。思わず甲高く叫んでいた。
「久し振りだねぇ、蔦吉姐さん」
橋を渡って歩み寄ってきた武村は、その大きなからだで蔦子の前をふさぐように立ちはだかるとニヤッと笑い、猫なで声を出した。背筋に悪寒を走らせた蔦子は、思わず手にしていた日本手拭いを床に落とした。
「あんたたち、どうしてここにいるのよ!」
気丈に問いただす蔦子の背後を小柄な室田ともう一人の男がふさいだ。
「どうしてかだって? 昔俺たちをコケにしてくれた蔦吉姐さんに用が出来たからだよ。だからこそ、こうしてわざわざ出向いてきてやったんじゃねーか。なっ、そうだよなぁ耕平」
「そうさ。そうでなきゃ、この忙しい最中に箱根くんだりまで来たりするはずがねーやな」
武村に呼応して答えたチンピラ室田は「えへへっ」と厭らしい笑い声を出した。
蔦子は前後に目を配りながら少しずつ後ずさりした。背後に廻られないように廊下の板壁を背にして、浴衣の胸前を両手で抑えながら身構えた。
「き、鬼頭さんは……あんたたちのことを知ってるのかい?」
怪訝な眼差しでそう訊いた蔦子に、武村も室田も返事をしない。ニヤニヤ笑っている。その顔つきから察して鬼頭仙八が呼び寄せたに違いないと思うものの、確信は持てない。そんなことより、とりあえずはこの囲みを破って逃げなくてはならない。蔦子は囲みのどこに隙があるかを探して、慎重に目を配った。
三人の男がじりじりと間合いを詰めてくる。板壁を背にした蔦子の左から武村、右から室田が迫り、麻縄を手にした新顔がすっと蔦子の正面に廻った。
(一体どういうことなのよ、こんな連中がここにいるなんて……)
閨房でのしつこさはともかく、鬼頭仙八は歳月を経て人が変わったように蔦子に対して優しい気配りを見せた。それだけに武村たちの突然の出現がすぐには鬼頭自身とは結びつかない。蔦子の頭は混乱していた。
しかし、こうやって取り囲み、しかもそのうちの一人が縄を手にしているということは、連中が蔦子を捕縛するつもりでいることは確かである。
(なんのためにあたしを……)
戸惑いを隠せない蔦子だったが、心の激しい動揺を悟られまいとキリッと気を張った。その瞬間に思わずブルッと、身震いが出た。
「ほう、蔦吉姐さん。震えてるのかい? 昔の威勢の良さはどうしたい?」
武村がねちっとした口調でそう言うと鼻先で笑った。
「あ、あんたたち……一体あたしをどうしようってんだい!」
廊下の壁に背中がつくほど間合いを詰められ、蔦子は激しい言葉を投げつけた。
「耕平。お前が話してやれよ。蔦吉姐さんが知りたがってるようだから」
「ああ」とうなずいた室田は、がっしりと大きい武村と比べると小柄で痩せぎすである。この囲みを破るには室田を突き飛ばして右へ走るより方法はない。
「蔦吉姐さん。俺たちゃあんたを捕まえてここから逃げ出せねーようにするのさ」
「な、なんだって!」
「あんたにゃ、鬼頭の旦那もずいぶん煮え湯を呑まされてきたからな。旦那はそのお礼がしたいんだってさ」
ようやく蔦子にも事態が呑み込めた。鬼頭仙八が見せた行き届いた配慮はあくまで蔦子を油断させるためのものだったのだ。
(やっぱり昔とちっとも変わっちゃいなかったんだ、あの溝鼠は……)
下唇を噛んだ蔦子は、薄い浴衣一枚に包んだ身を堅くして三人を睨みつけた。
「へへっ、やっと腑に落ちたようだなぁ、蔦吉姐さん。そうと分かったら観念しておとなしくすることだ。ははははは」
室田は勝ち誇ったように笑った。
その室田の構えに隙を見つけた蔦子は、武村のいる方向にすっと出した足をバネにして反転し、室田を思い切り突き飛ばした。
ドスンともんどりうって倒れた室田をさっと飛び越え、蔦子は風呂場の方向へ駆けた。が、つつつっと驚くほど俊敏な動きで、新顔の男が蔦子の前に立ちはだかった。
その新顔の男も突き飛ばそうとした瞬間に蔦子の左の手首を太い指がガシッとつかんだ。武村だった。
ああっ!
呼び戻されてタタラを踏み浴衣の裾を乱した蔦子の右手首を立ち上がってきた室田がつかんだ。左右の手首をつかんだ二人は、その手を振りほどこうとする蔦子の肩を両側から押さえつけ、腕を逆さにひねって背筋へねじ曲げようとした。
「な、なにすんのさ!」
蔦子は、後ろにふんわりと丸く巻き上げた黒髪を振り乱して激しく肩を揺すった。が、男たちの手は放れない。蔦子のしなやかな両腕はあっと言う間に背中にねじ曲げられ、強引に両手首を重ね合わされた。
「よしなよっ! 馬鹿な真似はよすんだよっ!」
前のめりになりながら二人を制止しようと激しい言葉を投げつけたが、蔦子の両腕はさらに背中高くググッと持ち上げられた。
ああっ、うっ!
肩のつけ根に走った痛みに呻きながら、蔦子は思いつく限りの激しい言葉を口にした。しかし、どんなに激しくとも、言葉に男の手を払いのける力があるはずもない。後ろにねじ曲げられた両手は浮き上がった肩甲骨の下で両手首が交差する形に固められ、蔦子は瞬く間に身動きを封じられた。
眉をしかめて奥歯を噛み締める蔦子の背後に、新顔の男が音もなくすり寄った。そして素早く、手にした縄を高手小手に重ね合わされている蔦子の両手首にキリッとひと筋巻いた。縄のザラッとした感触が蔦子の反発心を掻き立てた。
「あ、あたしをどうしよってんだいっ!」
両手首をキリキリ縛られながら、蔦子は男たちに向かって吼えた。
その蔦子の細くしなやかな首に、新顔の男は両手首を縛り終えた縄尻をすっと廻した。
ああっ、うっ!
蔦子は喉首にかれられた思いがけない縄に驚き、一瞬言葉を失った。
男の縄さばきは驚くほど早かった。蔦子が呻き声を洩らしながら次の言葉を探している間に、男は、蔦子の細首にくるっとひと巻きした縄尻を背中に戻し、ぎゅーっと引き絞った。
うっ、ぐうっ!
濁った呻き声を立てて顔を仰け反らせる蔦子の顔はひどくゆがんだ。が、新顔の縄がけに躊躇はない。背中に引き下ろした縄を肩甲骨の上辺りでからめると浴衣の右脇を通して返し、袖の上から二の腕を巻き緊めた。さらに縄尻を左へ走らせて左の二の腕を同じように巻き緊め、背中の高い位置で縄止めをした。
新顔の男がさばいたのは『早縄』という縄がけで、江戸時代の岡引きや捕り方が逃亡しようとする咎人に素早くかけた捕縄術の一つである。両手首を縛ってから縄止めをするまで三十秒足らずの早業を見せたその男は縄がけの達人と言っていい。
ううっ、あっ、ああっ……。
背中で一つに束ねられた両手首が浮かび上がった肩甲骨の間にめり込むほど厳しい縄がけをされた蔦子が、その腕のきつさをゆるめようとすると首が緊まった。
前から眺めれば首にひと筋と左右の二の腕にふた筋かかっただけの簡単な縄がけに見えるが、身動きを完全に封じる厳しい縛り方だった。
顔を仰向けて苦悶の表情を見せた蔦子の頬を大粒の涙が伝う。そのこぼれた涙が喉の苦しさに半開きになった口に流れこんだ。
「おとなしくなさってりゃ、こうはしなかったんですがね……」
新顔の男は蔦子の喉の上にかけた縄を首のつけ根まで引き下げながら感情の希薄な口調でそう言った。
呼吸は幾分か楽になったものの、厳しい後ろ手縛りの首縄がけにからだのバランスを失った蔦子は廊下に片膝をついた。その胸には屈辱感よりも激しい怒りがこみ上げている。
蔦子は、口惜し涙に濡れた唇をわなわなと震わせて、武村と室田の顔を交互に睨み据えた。
「こ、こんな真似して……。あんたたち、タダじゃ済まさないからねっ!」
らんらんと目を怒らせて痛む喉からかすれ声を絞り出したが、武村も室田も返答をしない。乱れた浴衣の裾前に覗いているふっくらと丸く輝く膝と白磁でこしらえたように艶やかな脛をじっと見つめている。目がギラついていた。
二人の厭らしい眼差しに、蔦子はハッと身を縮めた。が、今にも挫けそうになる自分を叱咤して武村たちを睨みつけた。
「黙ってちゃ分からないじゃないかっ! 寄ってたかって手篭めにしようって魂胆かい? 縄で縛らなきゃ何も出来ないっていうのかい? 卑怯じゃないか、こんなことをするなんて……。ぼーっと突っ立ってないで早くこの縄をほどきなよっ!」
伝法口調で面罵されて我に返った武村が苦々しい顔つきに変わった。
「相変わらず口が減らねーアマだなぁ。おい、耕平!」
顔を赤く膨らませた武村が顎を床に向けてしゃくった。
武村の指図にうなずいた室田は、蔦子が床に落とした豆絞りの手拭いを拾い上げ、くるくるとねじって真ん中に大きな結び玉をこしらえた。
その手拭いを受け取った武村は腰を屈め、手拭いの結び玉をかがみこんでいる蔦子の口に押し込もうとした。
蔦子は咄嗟に口を真一文字に結んで顔を背けた。が、さっと床に膝を落とした室田が、蔦子の顔を武村のいる方へ押し戻しながら、小鼻を強くつまんで捻り上げた。
うっ、ううっ!
息がつまってわずかに開いた口の左右の顎に室田の指が差し込まれ、蔦子は口を縦に大きく広げさせられた。その口の中に武村が手拭いをねじってこしらえた結び玉を素早く押し込んだ。
つい先程まで火照った柔肌に滲んだ汗を拭っていた手拭いは、猿轡となって蔦子の白く柔らかい頬の肉をくびり、耳の脇から後ろへ廻ってうなじの上で固く結び止められて蔦子から言葉を奪った。
蔦子の瞳に口惜し涙が滲んだ。
口惜しさに歯を噛み締めると、生乾きの手拭いからヌルッとした液体が滲み出てきて舌をゾッとさせる。と同時に屈辱感が蔦子をさいなむ。
切れ長の眼に口惜し涙が滲んだ。その時新顔の男が初めて口を利いた。
「蔦吉姐さん。鏑木という半端もんです。以後お見知り置きを願います」
慇懃に名乗った鏑木は、無表情な顔の真ん中の眼をキラッと光らせた。
「それじゃ姐さん。立ってもらいましょうか」と鏑木が引こうとした縄尻を横から奪った室田が、勝ち誇ったように引き上げた。
「さ、立つんだよ蔦吉ぃ!」
腰をよろけさせながら立ち上がった蔦子の浴衣の尻を、今度は武村の手がピシッとはたく。
くっ、くくーうっ。
猿轡から呻き声が漏れ、蔦子の長い睫毛の間から溜まった口惜し涙が粒になってこぼれ落ちた。
(くっ、口惜しいーっ! 溝鼠の猿芝居にたぶらかされちまうなんて……。あの卑怯者は初端っからあたしをこうするつもりだったんだ。ああ、それを見抜けなかったなんて……)
蔦子は易々と罠に落ちてしまった自分が情けなかった。
その口惜しさをぶちまけたくても口はふさがれている。口惜しさを噛み殺そうとすると湿った手拭いが屈辱感を増幅し、両手の自由を奪い首まで緊めつけている縄が、蔦子に囚われた現実に従えと促す。
今はもう、この下司な男たちの指示に従うほかに術はなかった。蔦子は震える足を踏み出した。
「ぐずぐずしてねーで、とっとと歩きな!」
後ろ手の高手小手に縛り上げられた蔦子の背中を武村が小突いた。
蔦子は、まるで江戸時代の咎人さながらに足をふらつかせ、浴衣の下の豊かな乳房をゆらゆら揺らしながら離れの廊下を母屋へと追い立てられていった。
*
母屋と離れとをつなぐ架け橋のような渡り廊下は錦鯉が悠然と泳ぐ庭池を跨いでいる。が、すでに夜の帳が降りた今、月明かりに池面がゆらゆら揺れているだけで周囲は闇に包まれている。
所々にある電灯の薄明かりで闇の中に浮かび上がって見える架け橋を渡って左へ折れると正面に地下に通じる階段が口を開けている。その前まで来た蔦子の肩を武村がポンと叩いた。
「さ、下へ降りるんだ」
縄に縛められている不自由な身では足許が覚束ない。蔦子は、腰をひねり浴衣の裾を揺らしながら、暗い階段を一段ずつ慎重に踏み降りていった。
地下室の扉がギイーッと開けられ、その先には漆黒の闇が待ち受けていた。
背中を押されてその闇の中に蔦子が足を踏み入れるのとほぼ同時に天井の蛍光灯がともった。
「昔は卓球場だったらしいぜ、ここは」
蔦子を後ろ手に縛った縄尻をしっかり握っている室田に武村が囁いたそこは、天井の高い十坪足らずのガランとしたスペースだった。
クロスの剥げかけた薄汚れた壁が四方を覆い尽くしている。天井に近い位置に幾つか換気口があったが、外側から何かで塞いであるらしく、月明かりも洩れてこない。完全に閉ざされた薄気味の悪い空間だった。
奥の方が格子状に組まれた頑丈そうな木枠で仕切られていた。木枠の先の床には畳が敷き詰めてあり、六畳の広さがあった。まるで時代劇に見る座敷牢のようである。その手前の板床には太い白木の角柱が二本、等間隔に立って天井を支えている。角柱の上部に渡された梁の中央と両端に大きな鉄環が取り付けられ、小振りな鉄環が二本の柱の中間と下の方にも打ち込まれている。横の壁には幾つもの麻縄の束がぶら下がっていた。
木枠の向うの座敷牢に連れ入れた蔦子は、畳の上に仰向けに転がされた。
うっ、ぐうっ!
後ろ手の厳しい高手小手に縛られた両腕に縄が食い込み、二の腕に痛みが走ったが、首に縄を巻かれて猿轡まで咬まされている蔦子にあらがう術はない。この連中がするがままになるより仕方がなかった。
仰向けに横たわる蔦子のそばに膝をついた鏑木は、蔦子の浴衣の胸前を整え裾の乱れを直してから、伸びやかな両脚に新たな縄をかけた。意外な気遣いを見せた鏑木は、膝の上下を巻き緊めた縄を伸ばして足首を縛り固め、さらに余った縄で左右の足先の拇指をかけてひとつに束ね、足の甲で縄止めした。
終始無言で蔦子の下肢への厳重な縄がけを終えた鏑木は、武村と室田に(これでどうです?)と目顔で確認し、ひとりだけ先に地下室を出て行った。
(なにもこんなにまでしなくたっていいじゃないのさ……)
歩くことはおろか立ち上がることすら出来ないように縛られた蔦子は、連中の用心深さに舌を巻いた。これだけ徹底して蔦子の逃亡を阻もうとするからには、様々な企みを用意しているに違いない。その張本人の鬼頭仙八が姿を見せないことが不気味に感じられ、思わず心が慄えた。
「ひひひひ。どうでい蔦吉姐さん、お前さんがバカにしてた俺たちに捕まっちまった気分は?」
身動き出来ない蔦子のそばに腰を屈めた武村がからかうように顔を覗き込む。蔦子は顔をさっと横に傾けて視線を避けた。と、首の縄がきゅっと締まった。
ううっ!
わずかな身動きも許さないような腕と首の縄の緊めつけに、蔦子は小さな呻き声を洩らした。
「はははっ、こいつはいい。さすがの蔦吉姐さんもグウの音もでねー有様だぜ」
武村はカラカラと笑ってかたわらの室田を振り返った。
「ざまーねーやな。うひひっ」
卑猥な含み笑いを洩らした室田は、芋虫のように転がっている蔦子を見下ろしながら悦に入っている。
彼ら二人にとって高嶺の花だった吉兆の蔦吉姐さんのあられもない姿が嬉しくてたまらない。出来れば素っ裸に剥いた蔦子を嬲りながら交わってみたいと情欲をたぎらせている。しかし、鬼頭の許しがなければそれも出来ない。
二人は喉から手が出ているような面持ちで、縄に縛められた浴衣姿を切なげによじる蔦子の悩ましい姿態を眺めていた。
しばらくすると何か閃いたらしく、武村が眼をハッと見開いて横たわっている蔦子の上半身を抱き起こした。
武村は、鏑木が整えた浴衣の胸前に手をかけると襟をグイッと左右に引き開いた。いまだに瑞々しい白い乳房がポロッとこぼれ出た。
ああっ!
蔦子はたちまた手拭い紐にくびられている頬を赤く染めた。
続いて白磁のように艶々と輝く両肩もむき出しにされると、蔦子は両目を潤ませて顔を伏せた。
「ほほう、男勝りの蔦吉姐さんでもおっぱいを晒すのは恥ずかしいと見える。でもよう。この方がずっと色っぽくていいぜ。まあ、そうやって朝まで、ここでゆっくりしてろや」
捨て台詞を投げかけた二人は、再び蔦子を畳の上に転がしてから、座敷牢の外に出た。
武村が牢格子に錠を降ろす間。その横に立つ室田は露わに晒された蔦子の真っ白い乳房を見つめて眼を血走らせた。
チィッと舌打ちした二人は、後ろ髪を引かれているような顔つきで出入り口へ向かった。
*
出入り口の扉がギイーッときしんでピタッと閉ざされた音と同時に部屋の灯りが落ち、漆黒の闇が蔦子を包んだ。
まさに一寸先も見えない。その闇の深さが横向きに姿勢を変えて丸まった蔦子の心を緊めつけた。
両眼いっぱいに口惜し涙を滲ませた蔦子は、なんとかしてここから逃げ出さなくてはいけないと思った。が、手足の自由を奪われていてはそれも容易ではない。たとえ縄抜けが出来たとしても牢格子を破って地下室から抜け出ることは出来そうもない。そうと分かっていても蔦子は逃げ出したかった。
んっ、んんっ、うっ、うぐっ、ぐううっ。
暗闇にひとり残された蔦子は、猿轡の中でわめきながら体勢を変え、身をよじって縄抜けを試みた。ひと休みしては試み、諦めかけてはまた試みた。しかし何度やっても、どうやってみても縄はゆるまない。鏑木がかけた縄はそのおぞましい感触を蔦子の肌身に憶えさせるだけだった。そればかりか、蔦子のからだの内奥に妙な疼きを生じさせた。
(こんなひどい目に遭わされてるのに……。一体あたしどうしちまったんだろう?)
異様な感覚に襲われた蔦子はうつ伏せになって動きを止めた。麻縄で一つに束ねられた下肢を投げ出し、顔を横に傾けて左の頬を畳につけた。上を向いた右頬がほんのりと赤く染まっているが、この闇の中では誰もそれを窺い知ることはできない。
うっ、うぐっ、ぐううっ、くうーっ。
誰にともなくぶつける怒りの声が猿轡にくぐもった。
蔦子は、豆絞りの手拭いが憎らしかった。しかし、口に咥えさせられた結び玉が舌を押さえ紐状にねじられた両端が端整な頬をくびるその手拭いは、囚われてしまったというまぎれのない現実を蔦子に教えた。
蔦子は、口惜し涙が溢れ出る瞳を薄く閉じ、手拭いの結び玉を咥えた口で荒い呼吸を繰り返した。うつ伏せの背中に高く吊り縛られている両手の指が空をつかんで助けを呼んだ。
(ち、ちきしょう! 諦めちゃいけないよっ!)
蔦子は、ともすれば挫けかける心を叱咤して再び縄抜けを試みた。
両手両足を縛り固められ、足の拇指までひとつに束ねられている身では起き上がるのも難しい。座敷牢の畳の上を右へ左へと転がり、仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返して、蔦子は懸命に両腕の縛めをほどこうとした。必死によじるからだの毛穴から玉の汗が噴出してきて、薄い浴衣地を肌に貼りつかせた。
しなやかな背中をうねらせ、弓反りになって手首の縄をゆるめようと試みた。しかし、巧みにかけられ固く結ばれた縄目はゆるむどころか、ますますきつく手首に喰いこんだ。身をよじる度に剥きだしにされた柔らかで弾力のある乳房が揺れ、思いがけずも乳首を膨らませて赤くツンと屹立させた。
未明近くまで続けた縄抜けの努力は結局徒労に終わった。
疲れ果てた蔦子は、涙に濡れた長い睫毛を閉じ合わせ、何もかも諦めてしまったように身動きを止めた。その蔦子をすっぽりと包みこむ漆黒の闇が深い眠りの底へと引き込んでいった。
つづく
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