鬼庭秀珍  残り香闇に溶けた女




     第七章 小股の切れ上がった女





 神奈川県警の長田平警部補と俊介刑事がJR神田駅に降り立った時、時計の針はすでに午後七時を回っていた。

 乗降客の雑踏を掻き分けて東口へ出て見当をつけていた方角へ歩むと、そこは刑事の勘の良さか、門前仲町の芸者置屋『吉兆』の女将に教わった居酒屋『たっちゃん』はすぐに見つかった。が、暖簾の隙間から中を窺うと、店内はもうすでに満席状態だった。

「俊介。どっかで腹ごしらえでもするか」

「えっ? すぐに入るんじゃないんですか?」

「今行ってどうするんだよ。書き入れ時だぜこの店は……。客がいっぱい座ってる中に入って行って、警察でございと言ってみな。営業妨害するようなもんだろう? 店にも客にも迷惑をかけるし、ちゃんとした話を聞けるわけがねぇやな。客が少なくなる時刻を待つほかにゃ手はねぇよ」

 長田は閉店間際に女将から話を聞くことにして、午後九時半頃に居酒屋『たっちゃん』を訪れることにした。客がいなければすぐに用件を切り出し、そうでなければ一見の客を装って午後十一時の閉店時間を待ってから話を聞くつもりだった。

 二人は駅の反対側の西口商店街に移り、手ごろな定食屋を見つけて入った。長田は好物のサバの味噌煮を注文し、若い石踊はとんかつ定食を頼んだ。

「俊介。ちょいと口を湿らせようぜ」
 悪戯っぽく片目でウインクした長田はビールの中ビン一本を追加した。

「ところでチョーさん。ペルーのあの人たちのことですがね。人質として監禁され続けてる人の気持ちってどんなものなんでしょうかねぇ。ま、普通に考えりゃ、精神的に相当参ってるでしょうし、いつ殺されるかと恐れおののいてるってことになるんでしょうがね」

「そうさなぁ。しかし、大勢いる人質の中にゃ豪傑が混じってて、ゲリラ連中を一生懸命に説得してるってことも考えられなくはないな」

「そんな豪傑が今回の人質の中にいましたっけ?」

「そいつは俺も知らねーけど。俊介、お前、なんでそんなこと訊くんだ?」

「いえね、チョーさん。例の真鶴岬のガイシャには縄みたいなもんで縛られてたような擦り傷が残ってたでしょ?」

「そうだったな。……それで?」

「それでですね。あのガイシャが仮に尾上蔦子だったとするとですよ。彼女、ものすごい美人じゃないですか、似顔絵で見ても話に聞いても……」

「ああ、かなりの別嬪さんだってぇことは間違いねぇな」

「だからジブン、こう思うんですよ」

「何をどう思ってんだ?」

「事件の発端は、彼女に惚れてた男がいて、その男には嗜虐趣味があったんじゃないかと思うんですよ。悪知恵の働くそいつが、計略をめぐらせて、彼女を拉致監禁したところから始まったに違いない……。とまぁ、こう考えたわけでしてね。そのサド男が、自分の欲望を満たすために、素っ裸に剥き上げた彼女を縄で縛って、手足の自由を奪った状態で日夜犯し続けた。ところが、そうやって彼女を責めんでいるうちに、何かの拍子につい過って、首を絞めて殺してしまった。そこで困った男は、どっかの港から夜中に船を出して、多分コンクリートブロックかなんかの重しをつけて、遺体を相模灘のどこかに投げ棄てた。しかし、それが何日か経ってから水面に浮かび上がって真鶴岬に漂着したんじゃないかって……」

「う〜ん、考えられねぇ話じゃねぇけどな……。俊介。お前さん、推理小説の読み過ぎじゃねーのか? それに、俊介の推理通りだとしてもだ。まだあの仏さんが尾上蔦子と決まった訳じゃねー。綺麗な女をそう簡単に殺しちゃいけねーよ」

「そう、そうですよねぇ、ははははは……」

 石踊俊介は照れ笑いをしながら頭に手をやり、いつも小ぎれいに整えている髪をぼりぼり掻いてぼさぼさにした。

 息子のような年齢の後輩刑事が見せる愛嬌あふれる仕草に頬をゆるめた長田は、(その線もあるかも知れんな……)と頭の中のメモ帳に一行書き加えた。

 そうこうしているうちに予定の時刻になり、長田と石踊は居酒屋『たっちゃん』の暖簾をくぐった。

「いらっしゃい!」
 威勢のいい言葉とはちきれんばかりの笑顔でカウンターの中から二人を迎え入れた。年恰好からしてどうやら、元辰巳芸者の孝蝶だったという、女将本人のようだった。ほかに二十歳前後の若い娘が一人と奥の方に白い上っ張りを着た板前風の中年男が立ち働いていたが、カウンターは客で埋まっているもののテーブル席には誰もいなかった。

「初めてなんだけど、いいかな?」

「勿論ですよ。テーブル席の方でよかったらそっちへどうぞっ!」

 屈託のない明るく歯切れのいい応答に、長田は伝え聞いたこの店の繁盛振りがうなずけた。二人は二つあるテーブル席の奥の方に座った。そこなら店全体を見渡せる。

「俊介。今日はここが最後だから少し呑もうぜ、偉いさんたちにゃ内緒でな。その代わり俺のオゴリだ」

 石踊の顔がパッと顔を明るくなった。酒は決して嫌いな方ではない。

 注文を取りにきた若い娘に長田は、日本酒の熱燗二本と酢の物とモツ煮込みに刺身の盛り合わせを一皿頼んだ。

「チョーさん。ここ、結構いい雰囲気の店ですねぇ。いつもこの店のどこに座ってたんでしょうね、尾上蔦子は……」
 石踊が声をひそめて長田に聞いた。

「バカッ、まだその名前を出すんじゃねー。女将に聞こえたらどうするんだ」

「そうでした。すみません」
 石踊俊介はまた頭を掻いた。

 ゆるゆるとに箸を運び、ちびちびとお猪口の酒を口に移している間に午後十時半を過ぎた。カウンターの客は二人連れの中年サラリーマン一組だけになっていた。

「女将さん。カウンターに移ってもいいかな?」

「どうぞどうぞ。そっちじゃお相手出来なくて申しわけないものね」

 快活に答えた女将は飛び切りの美人ではないものの、英語で表現するとキュートな、笑顔の可愛い女性である。四十歳過ぎだと聞いてきたが、まだ三十半ばに見えた。

「お酌させていただくわね。ささ、どうぞ」と笑顔を膨らませて長田に酌をした女将は、「そちらのお兄さんもどうぞ」と石踊にも酒を注いだ。その何気ない仕草と親しみの持てる表情に、二人は馴染みの店に来ているような心持ちがした。

「女将さんは粋だねぇ。昔は柳橋あたりの気風のいい芸者さんだったんじゃないの?」
 父親が娘を見るような優しい色を双眸に滲ませた長田平吉は、生え際がうんと後退してしまった白髪頭を撫でながら探りを入れた。

「あら、どうして分かったの?」

「女将さんのからだからそんなオーラが出ているから……」

「オーラが? ふ〜ん、そうなの? もう十年以上経つのに一度飲んだ花街の水の色って抜けないのかしらねぇ。それにしてもよく分かったわね。そちらさんのお見立て通り、あたし、若い頃に芸者をしてたのよ。でも、柳橋じゃなくて深川だったんですけどね。門前仲町の置屋から『』って名前で出てたことがあるんですよ。それも遠い昔になっちゃって、今はシケた居酒屋の女将ですがね」

 元辰巳芸者の『孝蝶』こと番匠孝子は、照れ加減に笑って、再び長田に酌をした。

「孝蝶さんか。華のある、いい名前だねぇ。その頃にいっぺん上げてみたかったなぁ」

「ふふっ。お上手を言っても勘定は負かりませんよ」
 悪戯っぽく軽く睨んで見せた表情が成人前の若い娘のように可愛かった。

「ははっ、こりゃ参った」
 広い額をパーンと叩いた長田に店内がどっと沸いた。

「お客さん、お名前は何とおっしゃるの?」

「私の名前? 今日のところはとりあえずAということにしといてもらえないかな」

「ふ〜ん。Aさんねぇ……。じゃこちらのお兄さんはBさん?」

「はい、Bです」

「ふん。嫌な人たちね、名前を隠すなんて……。なんか悪いことしてるんじゃない?」

 概して刑事には刑事らしい匂いがあるものだが、長田平吉の場合はそれが感じられない。それは長田自身が、警察官という職業に生き甲斐を感じているものの一般の勤めより立派な仕事をしているとまでは思っていないからである。
 昇進栄達は望まず、税金から給料を貰っているからには出来るだけ心を砕いて人様の助けになるようにするのが自分の役目だと達観しているところに、長田に刑事臭さがないのは起因している。人あたりが柔らかく、どこかの商店街で小商いをしている家の愛想のいいオヤジというイメージがあった。


「悪いこと……ね。そうかも知れないよ、女将さん」

 ニコッと笑って答えた長田につられて笑った番匠孝子だったが、若い方はともかく、年配の男はどうにも扱いにくいタイプだと直感していた。
 尾上蔦子同様に、元辰巳芸者の孝子はもってまわった言い回しや気取った態度の男は大嫌いである。その大嫌いセンサーに長田平吉は引っかかっていた。


 素性を隠すところが胡散臭い。小ばかにされているようでに触る。しかし、気になって仕方がなかった。もう一組の二人連れの前に移ってもついそっちに目が行った。
 孝子とは父子ほど年が離れていると思われ、額の
ハゲ上がった白髪頭をしてどこといって大した魅力はない。そこここに掃いて捨てるほどいるオヤジ風貌をしているのだが、話し方に独特の風味がある。何やら心に深い奥行きがありそうに思った。
 加えて、自分が二十歳を過ぎたばかりの頃に燃えるように激しい恋をした相手に、結局は別れてしまったその十歳年上の男と同じ匂いを持っている、と番匠孝子は感じていた。


 神田明神を氏神とするチャキチャキの江戸っ子である番匠孝子は、滅多なことでは男にかない。というより、易々と心を許すようでは江戸っ子の名折れだと考えていた。

 自分の気持ちが少しでも傾くとムキになって、気持ちとは正反対の言動をする。芸者を引いてまもなく一緒になった亭主と三年経たないうちに別れたのもその性格が災いしたと言っていい。
 とにかくちょっとでも曲がったものを見ると許せない。どこかの水商売らしい女とイチャついている亭主の姿を見かけた途端に愛想をつかしてしまい、自分から離婚を切り出した。気丈夫というか、ある意味潔癖症であり、言い換えれば我が儘でもある。
 古くから呼ばれてきた「小股の切れ上がったいい女」というのは、スタイルのいい美貌の女性よりもむしろ孝子のように「キッパリ、あっさり」したタイプを言ったのかも知れない。


 結局女将の孝子は閉店時間になって他の客が店を出るまで長田と石踊の前には戻ってこなかった。

「Aさんとお連れの方。閉店時間なんで今日はこれくらいにしておいてくれませんか?」

「わかりました。その前に女将さん……」
 背広の内ポケットから出した警察手帳を見せて、「お知り合いの尾上蔦子さんのことで少し伺いたいのですが……」と、長田は切り出した。

「刑事だったの、あんたたち……」わたしを騙したわねっと、番匠孝子は今にも叫び出しそうに顔を赤く膨らませた。が、すぐに「蔦ちゃんになんかあったんですか?」と心配そうな表情に変わった。

               

 尾上蔦子の写真を入手することこそ出来なかったものの、神田駅前の居酒屋『たっちゃん』での聞き込みは収穫があった。
 尾上蔦子が芸者を引く時のスポンサーであり、彼女と深い関係があったのなら、尾上蔦子に関する詳しいことを知っているはずである。その棚橋良一から糸を手繰り寄せていけばいい。ようやく一人の男が捜査線上に浮かび上がってきた。
しかも、真鶴署に通報してきた婦人の苗字も棚橋だった。

 それを思い出した石踊は、その棚橋冨美子が「私どもがいっときお世話して差し上げたことをいつまでも恩義に思ってくださって……」と語ったことを長田に告げた。棚橋良一の存在がにわかに精彩を帯びてきた。


「俊介。どうやらその棚橋冨美子にもう一回会ってみる必要がありそうだな。よしっ、明日の朝一番で相模原の病院まで足を運ぶんだ、俺も一緒に行くからよう」
 そう言うと、長田は腕組みをして眼をった。

 最終前の京浜東北線大船行きが、心地好く揺れながら、夜の闇の中を横浜へと向う。その車窓を流れていく夜景に、石踊は焦点の定まらない目を向けた。門前仲町の芸者置屋『吉兆』の女将から聞いたことが頭にこびりついていた。

 尾上蔦子は、由美子という母親の違う妹を大学へ上げるために棚橋良一の世話になることを決心したという。その彼女の心根の美しさに若い刑事の心が熱く反応していた。


 石踊俊介は、いまだ会ったことのない、あるいはもう会うことは叶わないかも知れない尾上蔦子に想いを馳せた。



                                               つづく