鬼庭秀珍  残り香闇に溶けた女




        第九章 堕ちた男





神田駅前の居酒屋『たっちゃん』で聞き込みをした翌日――。
 神奈川県警の長田平警部補と刑事は、午前九時半にはもう、相模原にある病院の面会室で棚橋冨美子と向かい合っていた。

「奥さん。ご主人の名前は良一さんでしたよね」

 柔らかい口調で尋ねた長田だったが、棚橋冨美子は顔色を変えた。

「そ、そうですが、主人が何か……」

「ご心配なく。事件に関係しているというわけではなくて、ご主人なら尾上さんの近況をよく知っているはずだと教えてくれた人がいたもんですから……」

「そうでしたか……」

 ホッと胸を撫で下ろした棚橋冨美子は続けた。

「でも刑事さん。主人は最近のことを多分知らないと思います、蔦子さんとのことはもう三年前に終っていますから……」

「というと三年前までご主人と尾上さんは関係があったという意味ですか?」

「はい。誤解がないように詳しくお話ししておいた方が良さそうですね」

「ええ。そうしてもらえると私らも助かります」

「わかりました。お話しします」

 棚橋冨美子は、左目は長田の顔をしっかり見ていながら右目はどこを見ているのか焦点が合っていない、虚ろとも思える複雑な表情になった。左脳を活発に働かせつつ視神経にも気を配っているこの表情が、何かを視覚的に思い出そうとしていることを示していた。

「あれは十年ほど前のことでしたわ、主人に蔦子さんのお世話をして差し上げるよう、わたくしが勧めましたのは……」


「奥さんが……ですか?」

「はい。……虚弱体質というのでしょうか。わたくし、若い頃からからだが弱くてちゃんとした夫婦生活を送るのが難しかったものですから、主人にはずっと申し訳ないと思っておりました。それであの方とならと思いまして……」

「そうでしたか……」

「はい。幸いに蔦子さんは承知してくださいました。それからというもの、主人は、週のうち三日は蔦子さんの入谷の家に泊まって、あとの四日はわたくしのそばで過ごすという生活が余ほど嬉しかったのでしょうね。仕事にもずいぶん精を出してくれておりました。でも、好事魔多しと申しますでしょう? 何もかも順調なのがかえって主人を慢心させたようでして、知り合いの方に勧められた商品相場にのめりこんで、あっと言う間に借金の山をつくってしまいました。わたくしがそのことを知った時にはもうどうにも手の施しようがない状態になっておりまして……。お店は勿論のこと家屋敷も手放さなければなりませんでした。蔦子さんが蔦子さん名義にしてあった入谷の家を返してくださったお陰で何とか借金は綺麗に出来たのですけれど、結局、わたくしたち夫婦は日本橋から逃げるようにして本郷の知り合いのアパートへ移り住みました。それから一年余り経った頃でしたわ、わたくしのこの病気が発症したのは……」

 子供を授からなかったことがかえって幸いだったと語った棚橋冨美子は、深い翳りのある蒼白い頬にかぶさるよに長い睫毛を伏せた。

「子供に苦労はさせたくありませんものね」

 そう笑って見せた表情が痛々しかった。長田も石踊も質問を続けるのを躊躇った。が、棚橋冨美子は、沈黙の隙間を重い空気が漂うのを振り払うように顔を上げ、意外な言葉を口にした。

「今改めて考えてみますと、去年の秋口からの主人は、それまでとは少し様子が変わってきたような気がします」

 棚橋良一はいまだに定まった仕事にはついていない。金には不自由しているはずのその棚橋が去年の十月上旬に病院にやってきた時に滞っていた入院費をすべて清算した。その金はどこで工面したのかと冨美子が尋ねると、口を濁してそそくさと病院を後にしたという。その後は十二月末に訪れ、今度は向う半年分の入院費を前払いした。不審に思った冨美子が、もしかして尾上蔦子に無理を頼んだのではないのかと訊くと、顔色を変えて何やら後ろめたいような表情を見せながら否定し、逃げるようにして帰って行った。それ以来、病院を訪れていないらしい。

 長田も石踊も、棚橋良一は直接事件に関わっていないとしても必ず何か知っていると、直感した。珍しく眉間に皺を寄せて思案顔に耽る長田平吉のかたわらで、ようやく参考人たる男の存在が浮かび上がったことに若い石踊俊介の心は躍った。

 病院を出た後で石踊が棚橋冨美子に教わった番号に電話を入れたが、何度かけても電話がつながらなかった。棚橋良一に会える保証はないが、とにかく長田と石踊の二人は文京区本郷のアパートへ足を運ぶことにした。

 棚橋夫妻が借りているアパートは、地下鉄銀座線の本郷三丁目駅を出て右手に東京大学のキャンパスを見ながら本郷通りを北に十分ほど歩き、細い路地を左に切れ込んだ先にあった。あたりには、『〇〇コーポ』だの『△△レジデンス』だのというシャレた名前をつけた学生向けのワンルームマンションと、昔ながらに何とか荘という表札を掲げた木造アパートが混在している。中でもひと際古びた印象の『寿荘』がそれだった。石踊は、棚橋冨美子の沈んだ表情を思い浮かべて、彼女が辿った皮肉な運命に胸を痛めた。

 あいにく棚橋良一は留守だった。管理人だという老婆によると、朝早くどこかへ出かけたという。

「奥さんが入院してからというもの、あの旦那さんはしょっちゅう家を空けるから、いつ帰ってくるか分かったもんじゃありませんよ」

 顔をしかめた老婆は二人に不満をぶちまけた。

 それを優しくなだめて引き下がらせた長田が、半ば呆れ顔で石踊に言った。


「折角ここまで出張ってきたんだ。棚橋が帰ってくるのを待つしかないな」

「そうですね。そうしましょう」

 石踊は、無駄足になるのを覚悟でそう答えた。





 辛抱強く待つこと四時間――。

 すっかり暗くなった路地に五十がらみの中肉中背の男が入ってきた。街灯に照らし出された背格好は聞いてきた棚橋の特徴と一致した。が、大きな老舗問屋の主人だった男とは思えない、しみったれた服装をしている。

 寿荘の玄関に足を踏み入れようとしたその五十男を電柱の陰からすすみ出た石踊が呼び止めた。

「棚橋良一さんですね?」

「そうだけど、誰だいあんたは……」

「こういうもんなんですがねぇ」

 背後から長田が声をかけると、棚橋は肩をビクッとさせて顔を引きらせた。が、二人が示した警察手帳を見てホッと深くため息をついた。

「け、刑事さんでしたか……。脅かさないでくださいよ、そうでなくてもこのあたりの夜は暗くて気味が悪いんですから……」

 棚橋は用心深い眼差しになって二人の顔を見回した。その棚橋に長田は念を押すような口調で訊いた。

「棚橋さん。あなた、尾上蔦子さんはご存知ですよね」

 途端に棚橋の顔がさっと蒼ざめた。明らかにうろたえている。後ろめたいことを何か抱えている人間に共通した反応だった。気が小さければ小さいほど顕著に表れる。

「し、知ってますが……。そ、それが何か……」

「これをちょっと見てもらえませんか?」

 長田は真鶴岬に漂着した全裸死体の似顔絵を取り出した。

「な、なんですか、これは……」

「いえね。ある事故の被害者の似顔絵なんですが、尾上さんによく似ているという通報がありましてね。その身元確認をしている途中であなたの名前を耳にしたものですから、こうやって伺った訳でして……」

 長田は事件と言わずに事故と言った。それを聞いて自分が追及されているのではないと思ったらしく、棚橋は少し落ち着きを取り戻した。

「どこかに尾上さんと一致する特徴はありませんか?」

「う〜ん、似てるような気もするけど似てないような気も……」

「尾上さんと一緒に暮らしたことのあるあなたなら、きっと見分けがつくと思ったんですがね」

「だ、誰がそんなことを……」

の道はというでしょう。私らも色々調べるのが商売でしてね」
 長田はニコッと笑顔を作って見せた。まだ余計なプレッシャーをかけてはならない。

「確かに昔はそんなこともあったけど……。あの女とはもう三年前に手が切れてますよ」
 ムスッと気色ばんで答えた棚橋の声がかすかに震えた。

(この男は何か知っている……)

「それも承知しています……。棚橋さん、もう一度よく見てもらえませんか?この似顔絵の女性が尾上蔦子さんだと断定出来れば私らの仕事も終わるんですがねぇ」

 長田は、あくまで事故の被害者の身元確認に来たのだと強調した。

「そういうことなら……」

 呟くように言って、棚橋は渡された似顔絵を手にとってじっと見つめた。その指がかすかに震えている。が、すぐにすっけた表情になって似顔絵を突き返した。

「写真があればはっきりしたことを言えるんだけど、これじゃどうもね……」

 若い石踊俊介は憮然とした。が、一計を案じた老獪な長田平吉は、にっこりと棚橋に微笑みかけて頭を下げた。

「いやいやお手数をとらせました。他を当たってみることにしますわ……。ところで棚橋さん。あなた、もう夕飯は済まされましたか?」

「今からだけど、それが何か?」

「いえね。棚橋さんの証言に期待していたものだから、正直なところ私、がっくりきてましてね……。今日の仕事はもうこれでお終いにして、この近くで一杯やってから横浜へ戻ろうと思うんですよ。あなたさえよければ私らの残念酒に付き合っていただいて、あなたの知っている昔の尾上さんのことを詳しく教えてもらえれば、明日からの捜査が大助かりなんですがね」

 お前を疑っている訳ではないのだと言外に匂わせておいて、長田は親しみを込めた。
「これも何かの縁だと思ってお付き合いいただけませんか? 情報提供のお礼ということでご馳走させてもらいますから……」

 警察にもそのための予算があるから遠慮は無用だと言って長田はニンマリして見せた。

 案の定、棚橋良一は長田のその提案に乗ってきた。タダ酒が呑めると知って顔をほころばせ、舌なめずりをした。

 表通りに出たところの近くに見つけた小料理屋に入り、ちょうど空いていた奥の小部屋で三人は日本酒の熱燗を傾けた。

 長田平吉は、以前に新聞で報じられた警察不祥事の裏話だと言って面白おかしい作り話をして棚橋を笑いに引き込み、徐々に棚橋の警戒を解きほぐしていった。意図を悟った石踊も長田のすすめ方に舌を巻きながららかに笑った。

「尾上さんというのはすごい別嬪さんだそうですねぇ」

「ええ。確かにあいつは女優顔負けの美人で、心持ちもそりゃあい女でしたよ、別れて以来会ってないからどうなってるか知らないけど……」

「しかし、それだけの美人が一緒に暮らした人だけあって、棚橋さんもなかなかの美男子ですなぁ。ずいぶん女を泣かせたんじゃありませんか?」

「いやぁ、それほどのことはありませんよ。でもね刑事さん。今はこの通りしみったれて寄りつく女なんか一人もいやしないけど……」

 自嘲気味にそう前置きした棚橋は、遠くを見つめるような顔つきになった。

「昔は良かったな、門仲の料理屋に芸者を総上げしたりしてたあの頃は……」

 さすがに〈落としのチョーさん〉である。長田にとって棚橋良一は極めて扱いやすい相手だった。ちょいとくすぐってやればすぐに口を開く。ただ、このタイプの人間はありもしないことまでしゃべる。事実この後、棚橋は聞かれてもいない自分の昔の自慢話を、それも眉に唾をつけたくなるようなことばかりベラベラと喋った。

 小一時間が経ち、いよいよ核心に迫るタイミングだと判断した長田平吉は話を振った。

「棚橋さん。尾上さんと暮らしていた頃のことを是非思い出して欲しいんですが……。かかりつけの病院だとか歯医者だとか、覚えていませんか?」

「う〜ん、思い当たる医者はいないなぁ。なにせ蔦子は、病気一つしたことのない丈夫な女だったし、歯並びが良くってピカピカだったから……」

 棚橋は親しげに「蔦子」と呼んだ。意識が昔の旦那時代に戻っている。

「そうですか。背丈とか、からだのそのー、あちこちの特徴はどうでした?」

「背は一六〇センチちょっとだね。それに私が言うのもなんだけど、そりゃ見事に均整の取れたからだをしてたね。つくべきところにはちゃんと肉がついてて、腰がきゅっとくびれこんでて……」
 棚橋は両手を上に挙げて女のからだの凹凸をつくって見せた。

「ほう、それはすごい。棚橋さんも幸せ者ですなぁ、そんな美人の尾上さんと一緒に過ごすことが出来たなんて。しかしあなたの話を聞いていて、私はこの事故の被害者が尾上さんでなければいいのに……と、つくづくそう思います」

 長田が顔を曇らせるのを見て棚橋は昔の夢のような世界から現実に戻った。

「刑事さん。どんな事故だったんですか?」

「ああ、まだ話してませんでしたね。実は真鶴岬に水死体が上がりましてね。崖から落ちたのか船から落ちたのかはっきりしませんし、かなり長く海の底に沈んでいたようで、ひどい水脹れ状態になってましてね。その上、身元を確認できるものを何一つ持っていなかったものだから私らも往生してるんですわ」

 声をひそめた長田がそう言うと、棚橋は急に押し黙って目に涙を溜めた。

(この男は絶対に何か知っている……。いまだに尾上蔦子に惚れている……)
 長田はそう確信した。

「棚橋さん。尾上さんの人となりについて少し聞かせてもらえませんか? どんな方だったんです?」

 長田の言葉が尾上蔦子に想いをせさせたらしく、棚橋はすすり上げはじめた。からだを小刻みに震わせ、目に涙を滲ませながら何かを思い詰めている。

「棚橋さん。何か思い出したんですね?」


「刑事さん。わ、私は……。金欲しさにあいつを……、蔦子をしてしまいました!」

 テーブルの上に突っ伏した棚橋良一は号泣しはじめた。



                                              つづく