鬼庭秀珍  残り香闇に溶けた女




     第十一章 男の嫉妬






「刑事さん。わ、私は……ダメな男です。お金欲しさに昔の自分の女を……。蔦子を騙して売り渡してしまいました」

 棚橋良一は突っ伏したテーブルから顔を上げると、鼻をすすりあげながら蚊の泣くような声でそう言った。

「どういうことなんですか?」
 石踊俊介は思わず身を乗り出していた。

 神奈川県警の若手刑事きっての熱情タイプである彼にはすでに尾上蔦子への強い思い入れが出来ている。その石踊の背広の筒袖を引いて長田平吉警部補が制した。長田は、お銚子片手に穏やかな口調で棚橋に先を促がした。

「棚橋さん。さ、もうちょっと飲りましょうや。からだが温まって落ち着けたら、そのことを詳しく話してくれませんか?」

 長田に酌をしてもらった酒を棚橋がぐいっ飲み干した。立て続けに二杯飲んだ棚橋は、真剣な面持ちに変わって正座に直った。顔を上げたが目を伏せた。長田の顔を見ることが出来ないでいる。次第にうな垂れ、前に傾いてくるからだを膝に突いた両腕で支えた。

 大きく息を吸い込んでふうーっと吐き出した棚橋は、ようやく事の仔細を語りはじめた。

 金に困って借金を頼みに行った鬼頭仙八に冷たく断られた棚橋良一は、鬼頭が芸者の頃の尾上蔦子に岡惚れしていたことを思い出した。そこで蔦子が鬼頭にひと晩抱かれることを条件に金を貸してくれと提案し、鬼頭は喜んでその条件を呑んだ。しかし棚橋には尾上蔦子を説得出来るだけの自信はなかった。

数日考えあぐねた末に棚橋が考えついたのは、妻の冨美子を実の姉のように慕っている蔦子の男気にすがることだった。義理堅く情に厚い蔦子は冨美子に恩義を感じている。自分を助けてくれといっても蔦子は承知しないだろうが、冨美子を助けてやってくれと頼めば多分首を縦に振る。そう思ったという。

(なんてやつだ、この男は……)
 石踊は棚橋に強い憤りを覚え、広げた手帳とボールペンを持つ手が震えた。

 それを目ざとく見つけた老練な長田が目配せをしてまた石踊を制した。


「棚橋さん。それであなたは尾上さんにそのことを頼んだんですね」

「ええ、頼みました。勿論すぐに承知できるようなことじゃないから、すげなく断られました。蔦子は、芸者の頃から鬼頭さんを毛嫌いしてましたから、無理もありません。でも結局蔦子は、鬼頭さんの箱根の別荘へ出向くことを引き受けてくれました」

(いけしゃあしゃあとよく言うよ、金欲しさで尾上蔦子を売った男が……)
「ねぇチョーさん」と目顔で話しかけた石踊を、長田の目が「コラッ!」と叱った。

「それでその後、尾上さんは箱根の別荘へ行ったんですね」

「ええ。去年の八月末でした。たしか土曜日だったと思います。蔦子はひとりで鬼頭さんが待っている別荘へ行きました」

「そこで尾上さんに何があったのか、あなたは知っているんですね」

「はい。すべてじゃありませんが……」

「というと……?」

「週明けの月曜日に鬼頭さんに呼び出されて、あの人の車に同乗して私も箱根の別荘へ行ったんです」

「ほう、そこで何かを見たんですね?」

「…………」
 棚橋は急に黙りこくってまた鼻をすすり上げはじめた。肩が小刻みに震えている。

「棚橋さん。大事なところですから、出来るだけ詳しく話してください」

 長田になだめられ、棚橋はテーブルの上のおしぼりを手にとって顔の涙を拭った。

「あれは箱根へ向う車の中でした。私は『蔦子はまだ別荘にいるんですか?』と訊いたんです。そしたら鬼頭さんは、『しばらく逗留してくれることになったんだよ』と笑って答えました」

「それで?」

「それで私が『ひと晩という約束だったでしょうに……』と言うと、鬼頭さんは『いくら好いた女が相手だからといったって、たった一回抱かせてもらっただけで二百万円もの金を払う馬鹿がどこにいるんだ? それにな棚橋。お前その、蔦子と呼びすてるのはやめろよ。もうお前の女じゃないんだから……』と言って私を睨みつけました」

「ほほう。それであなたはどうしたのです?」

「お前の女じゃないと言われればその通りなんです。蔦子とは三年前に私が身上を潰しまった折に切れてますから……。でも刑事さん、蔦子は私の女房のためを思って嫌い抜いていたあの鬼頭に抱かれることを承知してくれたんです。でも……、でもですよ刑事さん。蔦子は女房を救うために決心してくれたに違いありませんが、少しくらいは私のことも考えてくれていたんだと思います」

 棚橋良一は、それまで〈さんづけ〉で呼んでいた鬼頭の名前を呼び捨てにした。しかし、いかに以前は自分が囲っていた女だとはいえ、今は関係の切れた尾上蔦子を騙して、昔の女衒が罪のない素人娘を女郎屋に売り飛ばすように卑怯な真似をしておきながら、身勝手で甘ったれた思い込みを披露するとは開いた口がふさがらない。

(こいつは腐ってる。まったく救いようがねーやつだぜ……。ぐうたらな上に他人の心を思いやることも出来ねーときてやがる。能天気で独り善がりなだけの最低な奴だ。こんな男が昔は大きな老舗問屋の旦那だったとはね……。人間、一度ちはじめるとどこまで堕ちるか分かんねーな)

 長田平吉は内心棚橋にほとほと呆れていた。が、〈落しのチョーさん〉だけに顔には出さない。

「それで?」

 長田は、穏やかな眼差しを棚橋良一に向けた。

「別荘に着いて、蔦子がいるという地下室に案内されてびっくりしました」

「何に驚いたんです?」

「あいつが……、蔦子が……」
 喉を詰まらせた棚橋は、またテーブルに突っ伏してすすり泣きをはじめた。

 石踊俊介は苦虫を噛み潰した。が、長田はすっと膝をすすめると、棚橋の方へ廻って大きく波打たせている背中を撫でた。

「棚橋さん。余ほど辛い思いをしたんでしょうが、思い切って、その地下室であなたが見たことを話してみてくれませんか?」

 再び長田に宥められて落ち着きを取り戻した棚橋は、話を続けた。

 棚橋が地下室に入った時、尾上蔦子は全裸にされていた。しかも丸裸に剥かれていただけでなく、両手両足に縄をかけられて二本の柱の間に大の字に縛り広げられていたという。

 縄で縛られていたと聞いて、石踊の脳裏に真鶴岬の漂着死体にあった索条痕が浮かんだ。と同時に胸を掻きられるような悲しみが熱情あふれる若い刑事を包んでいた。石踊俊介は親の仇を見つめるような激しい眼差しで棚橋良一を睨みつけた。

 その時。棚橋がキッと顔を引き締め、突然何かがとりいたような目つきに変わった。

「刑事さん。鬼頭が……、あの男が蔦子を殺してしまったんです!」

 棚橋が断定的にそう言うのを聞いて、石踊はまた身を乗り出した。が、落しのチョーさんは身じろぎすら見せない。

「棚橋さん、確認させてもらいたいんですがね。あなた……、その鬼頭という人が尾上さんを殺したところを見たんですか?」
 長田平吉は淡々と静かに、しかし鋭い口調で訊いた。

「そ、それは……」

「見た訳じゃないんですね」

「ええ。刑事さんたちと話していて、蔦子は鬼頭に殺されて真鶴沖に投げ棄てられたもんだと思ったもんですから……」

 これには石踊が呆れた。
 余りの短絡ぶりと発言のいい加減さに腹を立てていた。


「棚橋さんいいですか。落ち着いてよく考えてみてください。尾上蔦子さんが去年の秋口から行方不明なのは確かなようですが、真鶴岬の水死体が尾上さんだと断定できる物証はまだどこにもないんですよ。私らはそれを確かめるために歩き回ってる訳でしてね……。出来るだけ詳しく正確に、想像や憶測じゃなくて、あなたの知っている事実を教えて欲しいんでがねぇ」

 石踊俊介は感心した。やはり落しのチョーさんである。参考人の性格や癖を見抜いている。なかなか出来ない芸当だと、石踊は改めて長田平吉への尊敬心を強くした。

「そうでした。そうですよねぇ、ははははは」
 棚橋良一は照れ笑いをした。鳴いたカラスがもう笑っている。

「何か思い出しませんか?」

「そういえば思い出しました。別荘から追い返されてひと月ほどしてから鬼頭さんに呼び出されたんです」
 棚橋は鬼頭をまた〈さんづけ〉で呼んだ。

 この男は心の中で鬼頭を恨んでいる、或いは鬼頭に嫉妬している、そしてまだ尾上蔦子に未練を残している……。その心象がこんなことを無責任に言わせているのだと、長田は思った。


「それはまたどうしてです?」

「残りの金ですよ、刑事さん。鬼頭さんはその時に約束の残りの百万円を渡してくれました。ですから私は、蔦子が鬼頭さんの女になることを承知したんだと思いました」

「……で、そのことをあなたは確認したんですか?」

「そんなことは聞けやしませんよ、いくら何でも口惜しくて……。ただですね、刑事さん。その後十二月が近くなってまた呼び出された時に、『箱根の別荘でお前が見たことは誰にも話すんじゃないぞッ』って念を押されて、『その代わりってわけじゃないけど、お前もカミさんのことやら何やらかんやら物入りだろうから……』と言って、二百万円ほど新たに用立ててくれました」

「ほう、さらに二百万円も……」

「ええ。だから私は、刑事さんからこの話を聞くまでは、てっきり蔦子は、鬼頭さんの女になってどこかに囲われているもんだとばかり思ってました」

「なるほど……」

 相槌を打った長田平吉は、もうこれ以上棚橋良一からの聴取は必要ないと思った。この男には、小さな悪事はやれても人を殺せるだけの度胸も腕力もない。そう判断していた。

「いやいや、お陰でずいぶん参考になりました。ご協力に感謝します」

 笑顔で頭を下げた長田は最後の質問をした。

「そうそう、棚橋さん。鬼頭さんの連絡先を教えてくれませんか? 鬼頭さんからも話を聞いてみたいもんで……」

 鬼頭仙八も取り調べられるのだと知った棚橋良一は、妙にニンマリした顔つきになり、すらすらと鬼頭の会社の住所と電話番号を、そして自宅のある場所を、石踊が差し出した紙の上に書いた。

「棚橋さん、ご協力に感謝します。それじゃこれで」

 慇懃に頭を下げて棚橋と別れてすぐに、若い熱血刑事は老獪な先輩刑事に言った。

「チョーさん。酷い男でしたね、あの棚橋良一というのは……」

「そうだな。いい加減な野郎だッ」

 温厚な長田平吉が今日初めて憤りを見せて吐き捨てた。

「あんな男のどこが良かったんでしょうね? ジブン、あいつと尾上蔦子が七年も一緒に暮らしてたなんて信じられませんよ」

「昔はああじゃなかったんだろうよ、きっと……。そうでなきゃ、囲われていた尾上蔦子が可哀相じゃねーか。それよりも俊介。明日っから鬼頭の方にかかるぞ」

「はい、チョーさん」

 鬼頭仙八が尾上蔦子を別荘の地下室に監禁して縄を使った嗜虐行為をしていたという。棚橋のその話が事実だとすれば、縄のようなものでからだを縛られていたと思しき索条痕があった真鶴岬の水死体は、尾上蔦子である可能性が十分にある。事件の捜査に予断は禁物だが、長田も石踊もいよいよ事件の核心に迫ってきたような気がしていた。



                                              つづく