第十三章 五里霧中
神奈川県警の熱血刑事・石踊俊介は憤懣やる方ない気持ちでいっぱいだった。
「チョーさん。それにしても酷い男でしたね、あいつは……」
辰巳芸者だった尾上蔦子が芸者を引く時のスポンサーでありその後七年間も閨をともにしていた棚橋良一のことである。
代々続いた老舗乾物問屋を潰しただけでなく家屋敷まで失って零落の憂き目に遭った棚橋は、金欲しさに、以前から蔦子に執心していた鬼頭仙八という男に彼女を売り渡したのと同様のことをしていた。
「人間、堕ちる先にゃ底がねーつう見本だよ。そのうち物証が出たらしょっ引いてやりてぇなあ、尾上蔦子のためにも」
後輩刑事たちからチョーさんと慕われている長田平吉警部補は、苦虫を噛み潰したような顔をして嘆息した。
棚橋によると鬼頭仙八は、箱根にある自分の別荘の地下室で、裸に剥いた尾上蔦子を縄で縛り上げて嬲り抜いていたという。それが事実だとすれば拉致監禁罪が成立する。しかし棚橋は、ひと月ほどして約束の残りの百万円を渡されたことから、鬼頭仙八と尾上蔦子の間に内縁関係ができたのだと思っていたと言った。そうであれば警察は介入できない。
ただ長田には、その後さらに二百万円もの大金を条件なしで用立てた鬼頭が、箱根の別荘で見たことは誰にも話すなと棚橋に念を押した点が引っかかった。真鶴岬に漂着したのが尾上蔦子であるとすれば死体遺棄罪あるいは殺人罪まで立件できるかも知れない。いずれにしても水死体の身元特定が急がれた。
長田も石踊も、鬼頭仙八がこの事件に深く関与している可能性がかなり高いと睨んでいたが、棚橋良一については、瑣末な悪事はやれても人を殺せるだけの度胸はないと判断していた。
棚橋良一から事情聴取した翌朝――。
長田は棚橋から聞き出した鬼頭仙八の会社に電話を入れた。が、鬼頭は建築資材買い付けのために海外へ出かけていて帰国は二週間ほど先になるとのことだった。尾上蔦子に関するかなりの新情報が得られると期待していた気勢を削がれた形だったが、鬼頭の身辺調査をするのに充分な時間があることは好都合だった。
元々は飛騨地方の山持ちの一人だった鬼頭家は、祖父の代に関東大震災の惨事で材木需要が高まった東京に拠点を設け、父の代に高度経済成長の波に乗って商いを広げた結果、本拠を東京に移している。現在は木材だけではなく多岐にわたる建築資材を扱っており、商いの規模も大きく、業績は安定している。鬼頭仙八はその材木問屋の当主だった。
同業仲間の評判は、「組合の決め事を守らない」「金に細かい」「平気で他人の仕事を取っていく」等などと芳しいものではなかったが、近所の住人たちの中に鬼頭を悪し様に言うものがほとんどいなかった。そのことに長田も石踊も意外な印象を持った。
ただ、その隣人たちは揃って、「お金は有り余るほど持っているのにねぇ」と首をかしげた。それは鬼頭仙八が五十歳を越えた今も独身を貫いていることを揶揄したい気持ちの表れだった。
暗に風采の上がらない容貌と小柄な体躯を蔑んでいるようにも取れる隣人たちの言葉には、持たざる者の安堵感が滲んでいた。これでもし、鬼頭が長身の美男子で美人の妻にかしずかれていようものなら嫉妬と憎悪の言葉が迸り出たに違いない、と長田は苦笑せざるを得なかった。
長田と石踊は再び門前仲町へ向かい、『吉兆』の女将や女将から名前を聞いた料理屋を訪ね歩いて丹念な聞き込みを続け、西隣りの浅草柳橋界隈まで足を伸ばした。
その結果分かったことは、鬼頭が無類の芸者遊び好きであることと、その鬼頭が去年の秋口からパタッと芸者遊びをやめていることだった。
長田も石踊も、鬼頭仙八は行方不明状態の尾上蔦子と必ず何か関係があるとの思いを強くして、三月の声を聞いた。
ペルーの日本大使公邸の過激派ゲリラによる占拠で人質とされた招待客の多くはその後順次解放されたが、日本人二十四人を含む七十二人がまだ人質生活を余儀なくされている。前代未聞の事件は、解決の目途が立たない膠着状態が続いていた。
三月六日木曜日――。
野村證券が総会屋に利益供与していたことが発覚した日に、長田警部補に鬼頭仙八から電話が入った。
鬼頭は、自分の海外出張中に神奈川県警の長田たちがあちこち聞き回ったことを知っている様子で、かなり立腹していた。
「何も悪いことをしてない一般人の私にどうしてそんなことをするんですか! 私個人もそうだが会社の信用にも関わるし、場合によっては名誉毀損で訴えますよ!」
興奮気味の鬼頭は、舌鋒鋭く一方的にまくし立てた。が、その程度のことに臆するチョーさんではない。
長田平吉警部補は、真鶴岬の件を棚橋に話した時と同様に事故と表現し、
尾上蔦子の知り合いの女性が被害者の似顔絵が尾上蔦子の容貌に酷似していると証言していること、
その尾上蔦子は去年の秋口から自宅に戻っていないこと、
それゆえに事故の被害者と彼女とを照合するために彼女が芸者をしていた頃の客に一人ひとり確認して歩いているのだと、
淡々と、ゆったりした口調で話した。料理屋や同業者を訪ねたのは当時の彼女を知っている人間を探していたまでのことだと説明した。
「それならまぁ仕方がないけど、気をつけてもらいたいもんだね。警察が身辺を嗅ぎ回ってるから鬼頭の会社はどうのこうのと、ありもしないことを大袈裟に言い触らしてタメにしようとする汚い連中がいないとも限らないんだから」
不満たらたらに矛を納めた鬼頭仙八に〈落しのチョーさん〉が問いかけた。
「ところで鬼頭さん。あなたは棚橋良一さんをご存知ですよね」
「…………」
虚を突かれて押し黙った電話の向うで鬼頭はゴクンと喉を鳴らした。
「……知ってますが、棚橋がなにか」
鬼頭の声が先ほどまでとは一変して細くなり、かすかに震えた。
「いえね。棚橋さんから、尾上蔦子さんはあなたの箱根にある別荘にいるかも知れないと聞いたものですから」
「あ、あいつ、そんなことを……」
「尾上さんはあなたの別荘に今もいらっしゃるんですか?」
「い、いるはずがないじゃありませんか。一度泊まりに来たことはあるけど……」
「そうですか。お忙しい中ご迷惑でしょうけど、鬼頭さん。参考人として事情聴取させてもらえると助かるんですがどうでしょう? あなたのよくご存知の尾上さんのことを詳しく聞かせてもらえると私らの身元確認作業もはかどるんですがねぇ」
今日これからすぐにそちらへ出向きたいと言った長田警部補に、鬼頭は声を上ずらせて難色を示した。会社のオフィスや自宅に刑事が訪れることはどうしても避けたいらしい鬼頭は、会社が休みの明後日土曜日の午後なら神奈川県警本部まで出向いてもいいと自分から申し出て、長田もそれを了承した。
二日後の土曜日午後二時――。
鬼頭仙八は約束通りに県警本部を訪れた。
「鬼頭さん申し訳ありません。あいにく今はここしか空いていないもんですから……。わざわざ遠くから足を運んでもらったのにすみませんねぇ。あなたのように立派な社長さんをこんな部屋にお通しするのは心苦しいんですが……」
持ち前のいかにも人の良さそうな笑顔と丁重な言葉遣いで取り繕いながら、長田は鬼頭を取調室に案内した。
畳六帖に満たない広さの、一つしかない窓に鉄格子が嵌っている殺風景な狭い部屋に通された鬼頭は明らかに怯えた。両手がかすかに震えているように石踊には見えた。
「チョーさん、これを……」
石踊が手渡した似顔絵を、長田が机の上に広げて鬼頭の方から正対して見えるように絵の向きをかえた。その瞬間、鬼頭は息を呑んだ。
「似てます。そっくりです、蔦吉に。いえ、尾上蔦子に……」
鬼頭はそう言ったきり押し黙ってうつむいた。
長田は、うな垂れている鬼頭の耳に真鶴岬に漂着した水死体のことを掻いつまんで聞かせ、背格好・年齢・血液型・顔やからだの特徴などを一つひとつ確認していった。
しかし、水死体が尾上蔦子であると断定できる決定的な情報は鬼頭も持っていなかった。
長田は棚橋良一から聞き出したことを切り出した。鬼頭が尾上蔦子を別荘の地下室に閉じ込め、裸に剥いた彼女を縄で縛って嬲っていたというあの話である。
途端に鬼頭は顔色を変えた。
「それでですね、鬼頭さん。これはマスコミには発表していないんだけど、あの水死体には、縄で首を絞められたような痕と手足もからだも縄で縛られていたような傷が残っていたんです」
ええっ!
絶句した鬼頭は顔面を蒼白に変え、ブルブルと小刻みにからだを震わせた。
「そんなわけで私らは、事故じゃなくてどこかで殺された後で海に投げ捨てられたと思ってるんですが、あなたに何か心当たりはありませんか?」
「け、刑事さん。まさか私が殺したと……」
「いやいや、そう決めつけているわけじゃありません。でも鬼頭さん、その可能性も否定できませんよね?」
丁寧に言葉を使っている長田平吉の口調が次第に厳しくなっていく。
「ま、待ってください刑事さん! わ、私は確かに蔦吉に……、尾上蔦子に酷いことをしました。彼女を別荘の地下室に閉じ込めて酷いことをしてしまいました。で、でも……、決して殺してなんかいません。信じてください! お願いです!」
「そうまで言うのなら鬼頭さん。あなたの知っていることを包み隠さず全部話して、私らを信じさせてくれませんか?」
真綿で首を緊めるようにじわじわと、〈落しのチョーさん〉は鬼頭を追い詰めていった。
「分かりました。何もかもお話しします」
まなじりを結した鬼頭は、遠い過去を思い浮かべるような顔つきになってぽつぽつと、尾上蔦子との関わりを話しはじめた。
最初に鬼頭は、自分が芸者時代の『吉兆の蔦吉』こと尾上蔦子にどれだけ惚れていたかを語った。
しかし芸者蔦吉は、鬼頭がどんなに胸を焼き焦がしても振り向いてくれなかったという。振り向いてくれなかったばかりか、ある日突然、日本橋で乾物問屋を営んでいる棚橋良一に芸者を引かされたと聞いて地団太を踏んだ。
胸を引き裂かれ未練ばかりが募る日々は、鬼頭の尾上蔦子への熱い思いを恨みと憎しみへと変えていった。行き場のないその憎しみはまずこの世の春を謳歌しているような棚橋良一へ向けられた。鬼頭はそれまで付き合いのなかった棚橋に近づき、巧みな話術で危険な商品相場に誘った。それが元々商才のない棚橋に後々老舗問屋を潰させるきっかけとなっていた。
「酷いことするねぇ、あんたは……。ま、棚橋も一皮剥いて見れば結局自分ひとりが大事なだけの男で、あんたと同じ穴のムジナだから、同情するつもりはないけどね」
長田は「あんた」と呼んで鬼頭へのプレッシャーを高め、箱根の別荘で裸に剥いた尾上蔦子を縄で縛り上げて嬲っていたということの確認へと話をすすめた。
「お恥ずかしいことですが……」
ぽっと顔を赤らめた鬼頭は、家業を引き継ぐための厳しい修行を押し付ける父親への鬱憤晴らしに、こっそり出かけた夜の街で裸の女を縄で縛って愉しむことを覚えたと告白した。
その遊びが次第に嵩じて、肝硬変で他界した父親の後を継いだ頃にはもう普通のセックスでは満足出来なくなっていたと、か細い声で話した。芸者遊びのかたわら、あちこちの性風俗店に一人で出入りしていたらしい。
そんな性癖が鬼頭にある思いを募らせた。
いつまでも未練を断ち切れないでいた元辰巳芸者の蔦吉だった尾上蔦子を、素っ裸に剥いて縄で縛り上げ、自分の意のままに弄びたいという邪悪な想念がそれである。
丁度その頃、金に詰まって借金を申し込みに来た棚橋良一から尾上蔦子を差し出すという条件ならどうかと持ちかけられ、小躍りした鬼頭は自分の取り巻きに支度をさせ、プロの縄師まで雇った。尾上蔦子を箱根仙石原の別荘に誘い出して地下室に閉じ込め、一糸まとわぬ姿を縄で縛り上げて、淫らな責めで彼女の心を捻じ曲げてでも自分の女にすることを計画したことを話した。鬼頭はそれを実行していた。
「でも刑事さん。嫌々だったかも知れないけど蔦吉は……、尾上蔦子は私の女になってくれたんです。その愛しい女を私が殺す訳がないじゃありませんか」
「ふ〜ん、本当かね? それじゃ訊くが、あんたが尾上さんを殺して海に投げ棄てたんじゃないとしたら、尾上さんは今、どこでどうしているんだね?」
「け、刑事さん。そ、それが……。蔦子は突然消えてしまったんです……」
鬼頭仙八は半月前の棚橋良一同様に机に突っ伏してすすり泣きをはじめた。
つづく
|