鬼庭秀珍 残り香闇に溶けた女




       最終章  闇に溶ける






「確かに無理強いされて嫌々だったかも知れないけど、蔦吉は……、尾上蔦子は私の女になってくれたんです」

 長田平吉警部補の顔をすがるような眼差しで見つめながら鬼頭仙八は、その愛しい女を自分が殺すわけがないと主張した。

「それじゃ訊くが、あんたが尾上さんを殺して海に投げ棄てたんじゃないとしたら、尾上さんは今、どこでどうしているんだね?」

「刑事さん。そ、それが……。蔦子は、突然ふっと消えてしまったんです」

 そう言った途端に机に突っ伏してすすり泣きをはじめた鬼頭は、長田の顔を上目遣いに見て悲痛な声を上げた。

「本当なんです。私が武村と室田を連れて別荘に戻った時には影も形もなくなっていたんです。本当です! 信じてください刑事さん。お願いします……」

 いくら「信じてください、お願いです」と泣きすがられても、それを鵜呑みに出来る状況ではない。
 しかし鬼頭は、尾上蔦子を締め殺してしまったと思ったがそれは自分の勘違いで、彼女はきっと今でもどこかで生きていると、懸命に自分を弁護した。
 そうは言っても、肝心の尾上蔦子が行方不明であり、真鶴岬に漂着した全裸死体の似顔絵が彼女に酷似しているからには追及の手をゆるめる訳にはいかない。長田は鬼頭を被疑者として拘留し、その間に鬼頭の供述の裏をとることにした。


 翌日。長田と石踊は、鬼頭仙八の腰巾着である武村亮次と室田耕平に任意出頭を求めて事情聴取をした。

 二人の証言は、別荘に戻り着いた時にはもう尾上蔦子の姿はどこにもなかったという鬼頭の供述を裏付けた。が、それ以前に鬼頭自身が遺体を別の場所に隠した可能性もある。その点について二人は思い当たる隠し場所はないと口を揃えた。

 いずれにしても、武村と室田が別荘を後にした日の夕刻から翌日の夜までの鬼頭のアリバイを証明するものは何もない。遺体を海中に投棄する時間はたっぷりあった。

 鬼頭は引き続き拘留されることになったが、拘留期限が来て釈放された。

 どんな角度から攻められても鬼頭の説明は、尾上蔦子を(なぶ)り抜いたやり方こそより詳細になったものの、尾上蔦子が突然別荘から消えたという供述は変わらなかった。
 鬼頭仙八には、尾上蔦子を殺していないことを証明するものはないが、尾上蔦子を殺して海に投棄したという証拠も見つからなかった。
 さらに、真鶴岬の全裸死体が尾上蔦子本人であるという確証も出てこない。捜査は完全に行き詰まった。


 思案投げ首のチョーさんと顔を見合わせている時、石踊俊介はあることを思い出した。ペルーの人質事件が報じられた翌日にあった富士山麓の椿事がそれである。
 寒空の下を長襦袢一枚という身なりで、ふらふらと青木が原の樹海から出てきた女性の年齢は三十代半ばと思われるということだった。尾上蔦子と年齢が似通っている。
 また、その女性を見つけたハイカーの証言によると、彼女は水地に白の大きな斜め格子が入った艶っぽい長襦袢の胸前をあられもなくはだけ、妖しい眼差しでハイカーたちの顔を見回しながら意味不明な言葉を口走って、気が狂ったようにケタケタ笑っていたという。
 しかも、スタイルが抜群で
土埃(つちぼこり)に薄汚れた顔もゾクッとするほど美しかったらしい。
 和服の長襦袢を着ていたことと伝えられた顔の容貌が、石踊が思い描いてきた尾上蔦子に重なった。
 青木が原は仙石原からそう遠くない。
 石踊俊介は、矢も盾もたまらず、静岡の県立精神医療センターへ向かった。どんな形であっても尾上蔦子がまだ生きている証拠をつかみたかった。


 しかし、名前すら憶えていないその女性と実際に会ってみると、彼女は一六〇センチを越える上背のある尾上蔦子と違って、かなり小柄だった。石踊俊介はガックリと肩を落として帰途に着いた。



 数日後の平成九年四月二十二日――。
 依然として七十二人の人質が閉じ込められているペルーの日本大使公邸に突如ドカーンという爆発音が轟き、続いて激しい銃撃音が響いた。
 ペルー陸海空軍百四十人余りの特殊部隊が公邸に突入し、約三十分後、公邸屋上に掲げられていたトゥパクアマルの旗が引きずりおろされた。
 人質たちは百二十七日目にしてようやく解放されたが、人質の一人だったペルー最高裁判事と特殊部隊員一人が犠牲となり、公邸を占拠していたゲリラのメンバーは全員が死亡した。


 そんなニュースを耳にしながら、老練な長田平吉警部補と新進気鋭の石踊俊介刑事は互いの額をつき合わせて押し黙り、それぞれがどうにも割り切れない気持ちに囚われていた。

「チョーさん。鬼頭は本当にシロなんですかねぇ」

「そう思うしか、しようがねーやな。新しい証拠が出てこねー限りはな」

「出てきますかね?」

「望み薄だな」
 ポツンとそう答えた長田は思った、鬼頭の女になると誓った尾上蔦子がその鬼頭に自分の首を締めさせたのは彼女の鬼頭への復讐だったのだ……と。
 しかし、
(よう)として姿を現さない彼女の口から聞かない限り、それも憶測に過ぎない。


「チョーさん。あの男をどう思います、プロの縄師だという鏑木四郎(かぶらぎしろう)を……」

「う〜ん。その線もなかぁないが、雇われ縄師にゃ動機がねーよ。仮に鏑木四郎がこの件にからんでたとしても、死んじまった尾上蔦子を不憫(ふびん)に思ってひっそり遺体を始末したってえいう死体遺棄罪が関の山だな。第一、あいつらは口を揃えてるが、鏑木四郎なんて縄師が本当にいたのかどうか、そいつも証拠がねー」

 鬼頭仙八は取り調べの途中で鏑木四郎という縄師の名前を出した。その鏑木が犯人に違いないと、鬼頭はしきりに強調した。が、そう思う根拠を問うと、鬼頭の説明は曖昧模糊(あいまいもこ)とした内容になった。

 武村と室田の二人も鏑木四郎の名前を口にしたが、二人とも鬼頭とは逆に、あの男が殺して遺体を棄てたとはとても思えないと供述した。

 鬼頭が別荘を空けていたという数時間の間に一人の男がタクシーで乗りつけたことはタクシー会社の記録で判明しているが、その男が彼らの言う鏑木だとの裏は取れていない。

 しかも、長田がマル暴担当に依頼して裏の筋を探ってもらった結果では、そんな名前の縄師は関東地区に存在していなかった。
 鏑木四郎というのは関西の人間かも知れないと思ってそちらも当たってみたが、 俗に言う『緊縛師』の中に鏑木四郎という男は存在しなかった。


 棚橋良一はシロ、鬼頭仙八とその手下たちもシロ、残る鏑木四郎はその存在さえ定かではない。
 とすると、誰が死体を遺棄したのか。それも真鶴海岸まで運び、船に積んで沖合いに出て海に放り込んでいる。誰がそんなことをしたのか。誰にそんなことが出来たのか。まるで狐に摘まれたような状態だった。


 長田平吉も石踊俊介も真鶴岬に漂着した全裸死体は尾上蔦子ではなく、別人なのかも知れないと思いはじめていた。



 一か月後。神戸の須磨ニュータウンで悲惨な事件が起こった。小学六年生の男児が何者かに殺害され、しかも男児の切断された首が近くの中学校の正門に置かれていた。残忍にも人目に晒された生首の口に咥えさせられていた紙片には次の文が書かれていた。

《さあゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君。ボクを止めてみたまえ。ボクは殺しが愉快でたまらない。人の死が見たくてしようがない。汚い野菜共には死の制裁を。積年の大怨に流血の裁きを。SCOOL KILLER、学校殺死の酒鬼薔薇》

「この野郎、警察を小馬鹿にしてやがる!」と石踊刑事は憤った。

「俊介。そんなに熱くなるなよ。出る知恵も出なくなっちまうぞ」

〈落しのチョーさん〉こと長田警部補が石踊をなだめたが、どう考えてもどう動いてみても真鶴事件の展望は
(ひら)けない。二人は歯軋(はぎし)りをした。


 その数日後、神戸事件の犯人は神戸新聞社に犯行声明を送りつけた。

《ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造りだした義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。ボクがなぜ殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得ることができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげることができるのである。ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名前が読み違えられたり、自分が汚されたりすることには我慢ならないのである。ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってボクを追跡したまえ。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら間違いである。ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている》

 なんとも憎らしい犯行声明だった。
 それは事件解明の糸口すら失って
苛立(いらだ)つ長田と石踊の焦燥感を煽った。しかし、尾上蔦子と鏑木四郎という縄師は、二人にとってもはや透明な存在になりかかっていた。


 小学児童を惨殺した犯人の酒鬼薔薇聖斗が十四歳の少年だったことが判明しても真鶴岬の件は一向に進展しない。そのまま夏を過ぎ、秋を迎え、季節は冬へとまっしぐらに突き進んで行った。



 平成九年十一月二十四日。証券業界の老舗・山一證券が自主廃業を決定した。戦後最大の倒産劇を苦渋の顔で発表した山一證券の社長は、「私らが悪いんです。社員に責任はありません!」と悲痛な声で叫んだ。

 その月の終わりに、神奈川県警捜査第一課の長田平吉警部補は定年退職の日を迎えた。
 長田は返すがえすも無念だった、真鶴岬に漂着した全裸死体事件を解決できなかったことが……。

 一方、長田のパートナーだった石踊俊介刑事は真鶴署から県警本部捜査第一課へ転任となり、引き続き真鶴事件の捜査を担当することになった。長田の強い要望を上層部が聞き入れた結果の人事異動だった。



 翌月の師走半ば――。
 元神奈川県警の警部補・長田平吉は、長年連れ添った妻の幸枝と二人で熱海の温泉宿にいた。犯罪の前線を飛び回る刑事の妻として心配と苦労をし通しだった妻をねぎらうための二泊三日の湯治である。

 引退した長田は、やり残した仕事はあったもののようやく晴れ晴れとした気持ちになれていた。しかし妻の幸枝の方は、ホッとしたのか、温泉の湯に温められたからだから今まで溜まっていた気疲れがドッと噴き出したらしく、夕食を済ませると早々と床に就いた。

 夜八時半。
 もうひと風呂浴びた手持ち無沙汰な長田は、火照ったからだを分厚い丹前に包んで旅館近くの商店街をぶらぶらした。そこにチンピラ風の若い男がすり寄ってきた。


「旦那さん。湯の町土産に珍しいものを観て帰るつもりはありませんか?」

「珍しいものって何だい?」と聞き返した長田に、男はあたりを憚りながら耳元で囁いた。

「いえね、旦那さん。こいつは滅多にゃお目にかかれない生唾もののショーなんです」

「ふ〜ん。本当かね」と首をかしげる長田に若い男はまた囁いた。

「いつもは一人一万円頂戴してるんですがね……。今夜は七千円ぽっきりってことでどうです? 旦那さんに絶対に損はさせませんから。何だったらお代は観てのお帰りてぇことでもかまいませんよ」

 チンピラ男の自信たっぷりな言葉に、余程おかしなショーをやっているに違いないと、まだ抜け切らない刑事魂が頭をもたげた。このあたりは指定広域暴力団の根城でもある。

「面白そうじゃないか。あんたの話に乗せてもらうよ」

 長田平吉は、わざとスケベェたらしい顔をこしらえて男の誘いに乗った。
 連れて行かれた場所は崖を背にして建つ古びた造りの割烹旅館だった。奥まった離れに案内され、チンピラに替わった厳つい顔の中年男に広い和室に招き入れられた。長田には、一目でその男がその筋の人間だと分かった。

 部屋の中は照明がぎりぎりまで落とされていた。縦横五列に並べられた座布団はすでにほとんどが埋まっていたが、互いの顔もはっきりとは見えないほど暗かった。先客たちは皆、座布団にに胡坐をかいてショーの開演を今か今かと待っている。続き部屋との間に立てられた襖を見つめて息を殺していた。そのシルエットから黒い陽炎のようなものが立ち昇って見え、異様に熱っぽい空気が部屋いっぱいに充満していた。

 最後列の座布団に長田が腰を下ろして数分後、静かに襖が開いてスポットライトに照らし出された敷布団が浮かび上がった。

 緋色の長襦袢を着た女が一人、横座りの背中を向けて足を流している。その姿態の余りの妖艶さに長田は思わず息を呑んだ。

 まばゆい光に細めた目が徐々に慣れてくると光の輪の外に、苦みばしった顔の痩せぎすな男が一人、濃い藍地に縞の入った着流しに身を包んで立膝に控えているが分かった。

 静まり返った客たちが息を呑んで見つめる中、長襦袢姿の女が客の方に背を向けたまま首だけ巡らせて一礼した。それを合図に、控えていた男が真剣な面持ちで光の輪の中に入ってきた。

 男は束にした麻縄を数本敷布団の上に置くと、女の長襦袢の伊達巻きをするするとほどき、腰紐を抜いて襟に手をかけた。
 次の瞬間、緋の長襦袢を一気に剥ぎ取られて真っ白い肌を晒した女は、両手を胸前に交差させて縮こまり、からだを小刻みに震わせた。

 女の背後に片膝をついた男が、その痩身には不釣合いな太くて筋肉質な腕を女のからだの両側から前に伸ばして女の両手を後ろへ手繰る。
 男は、白くたおやかな女の両腕を滑るように艶やかな背中にねじ上げると、高手小手に重ね合わせた華奢な両手首にキリキリと縄をかけ、縄尻を二の腕から前に渡して豊かに実った白桃のような乳房の上下を二重三重に緊め上げていった。


 妖艶な女は、素肌にひしひしとかかる縄目のきつさに呻き、縄化粧された柔肌を責められ(なぶ)られて喘いだ。

(もしや……)と長田は思った。テレビや映画で見る女優たちより遥かに美しいその女の肢体や顔立ちが、長田の頭の中で、探し続けてきた尾上蔦子と重なっていた。

「まさか……」

 小さく呟いた長田平吉の脳裏で、真鶴岬に全裸で漂着した死体の似顔絵と、目の前で切なげに顔をゆがめる妖艶な美女の厚化粧に隠れている素顔が、いつまでも重なったり離れたりした。



                                             ― 完 ―