鬼庭秀珍  裏切りの代償




          第一章 怒れる不動明王






 古谷(ふるや)(りょう)()、四十七歳。横浜港での港湾荷役と通関手続きを主たる業務としている『ハマ港運』の取締役会長である。が、それはあくまで表の顔であって、野毛から伊勢佐木町・馬車道へと続く歓楽街を縄張りとする『亮和会』の組長が彼本来の顔だった。

 その古谷の姿が、今朝は、丹沢山地の東の(ふもと)にあった。七年前に手に入れたこの別宅で彼が居室としている和室は、広い庭に面した十二畳と八畳の続き間である。奥に古風な床が切ってあり、そこに置かれた一輪挿しが小粋で落ち着いた風情をかもし出し、掛け軸の昇り龍が部屋全体に睨みを利かしている。

 この季節の晴れた朝には、部屋の障子も廊下のガラス戸もすべて開け放って、冷酒をちびちび()めながら庭の光景を一人静かに眺めるのが古谷の習慣である。殺伐(さつばつ)とした世界に身を置く男にとって、心を休めることが出来る大切な時間だった。

 今朝もまた、爽やかな風とともに、まばゆいばかりの緑の世界が迫ってきた。庭一面を青々とした芝がびっしりと覆い、芝生を見下ろすように立ち並んでいる樹木が若葉から変わったばりの青葉を茂らせている。好天続きのここ数日間は陽光が日を追って力を増してきているが、生い茂った木々の枝葉が強まった陽射しを和らげてくれている。そして、敷地全体を取り囲む黒板塀がこの場所を外界から遮断していた。

 古谷は、この別宅がいたく気に入っていた。しかし、二つの部屋の間の襖を取り払ってひと部屋として使っているせいで、中ほどにある鴨居(かもい)敷居(しきい)がいつも目についた。手を入れて目立たなくするのは簡単だが、自分の隠れた嗜好(しこう)を充たすには今の方が好都合だと思ってそのままにしてあった。

 ところが今朝は、その敷居も鴨居も(かす)ませる存在が古谷の目を()きつけていた。敷居の手前にワンピース姿の垢抜(あかぬ)けした女が一人、正座にかしこまっている。しかし、ミディアムロングのサラサラした髪に縁取られた端整な顔は白く凍りつき、揃えた膝を包む裾布を両手の指でつかんで全身を小刻みに震わせていた。

 桜の古木を磨き抜いた床柱を背にした古谷は、()(もた)れの大きな座椅子に胡坐をかいて、顔を斜めに伏せて縄の(あと)が痛々しい手首を揉みほぐしている女をじっと見つめている。その後方には若い手下が二人、捕えた獲物を取り囲むようにして控えていた。

 女の顔には怯えと後悔の表情が色濃く浮かんでいた。青畳からいぐさの甘い香りがほんのりと立ち昇り、息をするたびに鼻腔を軽やかにくすぐる。が、戸外の鮮やかな緑も部屋の中の爽やかな香りも、今の彼女には、束の間の安らぎさえ与えてくれない。むしろ、奈落の底に沈んで行こうとしている哀しい運命を尚更に思い知らせるものでしかなかった。

「さてと……」

 古谷が発した低い声に女が肩をビクッと震わせた。が、古谷は女の身じろぎには一瞥(いちべつ)をくれただけで女の後ろへ向かってよく通る声を発した。
「ヒデ、例のものをここに持ってきといてくれ」

「へい、わかりやした」

 女の頭越しに指示を出した古谷は、廊下を小走りしていくスキンヘッドのヒデに苦笑すると、すっと腰を上げて女の前に仁王立ちになった。屈強な上に上背もある。精悍(せいかん)な顔つきの双眸(そうぼう)には修羅場をくぐり抜けてきた人間特有の怜悧(れいり)な光が浮き沈みしている。女は、その古谷の顔をチラッと仰ぎ見て、再び肩をビクッとさせた。

 古谷は、節々に(はがね)を仕込んだような指でシャツのボタンを次々に外すと、派手な柄物のシルクシャツをふわっと浮かせて、無造作に座布団の上へ脱ぎ捨てた。引き締まった体躯の胸板の厚みが並外れている。
 その背中で不動明王がグリッと眼を剥いていた。肩から胸にかけて、そして二の腕にも怒りの炎が這っている。その刺青肌は、抵抗はおろか反発さえ許されないと思わせる威圧感があった。今は穏やかな表情を見せていても一度怒りを発すれば背中の不動明王と同じ形相になることを、女はすでに身をもって知っていた。


 今回の仕掛けをやらせた小頭のテツによれば、女の年は三十二歳、山の手に住む人妻だった。が、所帯染(しょたいじ)みたところはまったくなく、映画女優と見まがうほど美しい容貌とファッションモデル並みの見事に均整がとれた肢体をしている。ワンピースも高級なデザイナーブランドものをまとっていた。
 光沢を抑えたダークブラウンの布地に織り込まれた細かい柄がしっとりした落ち着きをかもし出し、浅い胸ぐりの優美な弧が品の良さを感じさせる。シンプルなデザインのボディラインが豊かな胸の隆起と引き締まった腰のくびれを目立たせているが、商売女が好んで着るボディコンものとは明らかに違った。


 (たくま)しい上半身を(さら)け出した古谷は、青畳に直接腰を落とすと再び胡坐(あぐら)をかき、心持ち身を乗り出して女に話しかけた。

「改めて念を押すまでもねぇだろうがな、奥さん。さっきあんたが誓った通りに、これからしばらくの間はすべて俺の指図(さしず)に従ってもらうぜ」

「は、はい。おっしゃる通りにします。ですから……」

「おっと、その先は言わなくても分かってるよ。一度口に出したことを反故(ほご)にして男を落とすような真似はしやしねえさ。だからあんたも約束はしっかり守るんだぜ」

「はい、守ります」

「よし、いい覚悟だ。それじゃ先ずは、あんたの綺麗な肌を拝ませてもらうとするか」

「えっ。い、今……こ、ここで……ですか……」

「そうさ。今ここで服を脱いで、俺たちの目を愉しませてくれよ」

「そ、そんな……」
 唐突に服を脱げと命じられた女は思わず両手でワンピースの胸を抱いて身をすくめた。

「どうしたい、奥さん? ははぁ、そうかい。大勢の目の前で素肌を晒すのは嫌だって顔をしてるな。なるほど、そこいらのズベ公と違って、生まれも育ちもいいあんたのような女は羞恥心が人一倍強いって訳だ。ますます気に入ったぜ」

「…………」
 女は、恥ずかしさと怖れがないまぜになった複雑な表情を浮かべると、その顔を隠すように深く頭を垂れた。

「おい、ヤス。お前やヒデに裸を見られるのは恥ずかしいってよ。どうするよ?」

「どうするって、おやっさん。俺たちゃ、ここに居ちゃいけねぇってことですかい?」
 ヤスと呼ばれたパンチパーマが口を尖らせて不平を鳴らした。

「ふふっ、そうくると思ったぜ……。どうだい、奥さん? こいつらにもあんたの雪肌を拝ませてやっちゃもらえねえかい?」

「…………」
 女はすぐには答えられなかった。しかし、黙りこくっていて無事に済むはずはないし、例えお願い口調であろうと古谷の言葉が命令であることも分かっている。女は、迷いを振り切ったようにさっと顔を上げ、うっすらと涙の滲んだ眼を古谷に向けた。

「わ、分かりました。い、居てくださっても……け、結構です」
 喉から搾り出すようにしてそう答えると、女は再びうつむいて下唇を噛んだ。

「そうこなくちゃいけねぇやな。これから先、あんたは何度も知らねえ男の前で肌を晒すことになるんだぜ。その支度だと考えりゃ、この程度のことは何てこたあねぇだろう」

 古谷の言葉が胸を鋭くえぐったらしく、美貌の女はさも哀しげな表情を浮かべた。

「さ、奥さん、そこに立ちな。座ったままじゃ服は脱げねぇぜ」

 せかされた女は、束の間、目の前の青畳を食い入るように見つめた。が、おもむろに膝を立てておずおずと腰を浮かせた。

 畳の上に立ち上がった女は、まるでファッション雑誌から抜け出てきたように見えた。均整がとれた伸びやかな肢体をクリスチャン・ディオールのワンピースが艶めかしく包んでいる。後ろから眺めていたヤスが生唾をゴクンと呑み込んだ。

 美貌の人妻は、細く伸びやかな腕を上げて両手を首の後ろへ持っていき、ワンピースのホックを外すと、片手を背中に廻してファスナーを引き降ろした。先ほどまで白く凍りついた頬を桜色に変えながら両袖から腕を抜くと、一気にワンピースを脱ぎ落とした。
 耐え難い羞恥に頬を真っ赤に染めた女は、乳白色に輝くなよやかな両腕を交差させてブラジャーに覆われた胸乳を抱いた。そして、二重瞼の切れ長な両眼に涙を滲ませて顔を伏せた。


「ほう、ずいぶん可愛い下着を着けてるじゃねぇか」
 今度は古谷が低く太い声を軽く弾ませた。
 女が着けていたブラジャーは淡いピンク色をしていた。刺繍柄が艶っぽい小さめなブラカップの中央に深い胸の谷間が覗いている。


 目を細めた古谷の視線はかすかに波打つ真っ白い腹部を舐めるように下り、キュッとくびれた細腰から豊かに実った臀部の女の秘所へと向かった。そこはまだ肌色に近いベージュのパンティストッキングに包まれている。恥丘を覆っている股上(またがみ)の浅いピンクのパンティが心細げに浮かび上がって見えた。

 丁度そこに戻って来たスキンヘッドのヒデは、大切そうに運んできた黒漆塗りの角盆を手にしたまま廊下に立ち尽くした。ダークブラウンから白に色調が変わった女の、美しく艶っぽい姿形に目を奪われて息を呑んでいた。

「ヒデッ、そんなところに突っ立っていねえで中に入んな」

 古谷の声に弾かれたヒデは、「すんません、おやっさん」とツルツル頭を掻きながら照れ笑いをしてヤスの横に腰を下ろし、角盆を膝の前に置いた。

 ヒデが運んできた盆の上には艶のある黒い縄の束が幾つも載っていた。が、心を抑えつけられている女にそれを確かめるようなゆとりはない。ワンピースは脱いだものの、なかなか下着に手を伸ばすことが出来ずに逡巡を示していた。

「奥さん。自分じゃ脱げねーつうんなら、剥ぎ取ってやってもいいんだぜ」
 なあ、と女の背後に控えている二人に声をかけた古谷はニッと片頬を吊り上げた。

「待ってください! ぬ、脱ぎます。自分で脱ぎます。ですから……お願いします。もう乱暴はしないでください……」

 震える声で自ら下着をとると答えた女は、切れ長な眼の大きな瞳に観念の色を浮かべ、「ああ……」と、か細く哀しいため息を吐いた。

「あんたが素直に従ってりゃ乱暴はしねぇよ。さ、下着も脱ぎな」
 穏やかな口振りだが古谷の語気は鋭い。

 女は硬い表情で小さくうなずき、唇を真一文字に結ぶと、ベージュ色のパンティストッキングを足元に降ろしていった。ムチムチとして肉付きのいい真っ白な太もものつけ根から足首まで、女の伸びやかな二肢は白い陶器のような光沢を放っている。


(大した上玉が手に入ったもんだぜ……。無理はさせねぇで出来るだけ長く使う手だな。この女が相手なら、ひと晩三十万円や四十万円出す客はいくらでもいそうだ)
 古谷は、渋面を保ったまま心の中でそうホクソ笑んだ。

 パンティストッキングを脱ぎ終えた女は、再び直立姿勢に戻るとほっそりした両腕を背中へ廻し、震える指先でブラジャーのバックベルトのホックを外した。肩のストラップを一つずつ二の腕にずり降ろして腕を抜いて、ブラジャーを胸乳の上にたくし寄せる。そのまま腰をかがめて膝を突いて正座になると、名残惜しそうに淡いピンクの布を青畳の上に落とし、覆うものがなくなった胸乳を両手でひしと抱いた。

「奥さん、もう一枚残ってるぜ。腰のものもさっさと取っちまいな」

 古谷が顎で腰のパンティを指し示すと、女の紅唇がブルブル震えた。
「お、お願いです。せ、せめて、これだけは……」

「ならねえ。思い切ってそいつも脱ぐんだ」

「ご、後生です。どうか、これだけは……。ゆ、許してください……」
 女の長い睫毛の間から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ほほう、後生です、ときたか……。ま、いいだろう。差し当たり、そいつだけは勘弁してやろう。ありがたく思うんだな」

「あ、ありがとうございます」
 涙声で礼を言った女は、遅かれ早かれ腰の小さな布も取り上げられるに違いないと思いながら、ひとまず、両手で抱きしめている胸をホッと撫で下ろしていた。

「それにしても、肌の(つや)といい肉付きといい、本当にいいからだをしてやがる」と独り言を呟いた古谷は、女の後ろへ声をかけた。「ヒデ、そいつをこっちへ持ってきな」

「へ、へいッ」と声を上ずらせたヒデが黒漆塗りの角盆を古谷の脇に置いた。

 うつむいたままチラリと視線を横に走らせた女は、盆の上で黒光りしている縄の束を見て大きく目を見張り、顔面を蒼白にした。深い茶褐色の美しい瞳をおののかせ、胸乳を抱いた上半身をぶるぶると小刻みに震わせた。

「ほう、呑み込みが早いようだな、奥さん……。そうさ、今あんたが思ったように、この黒い縄であんたのむちむちした白い肌をもっと綺麗に飾ってやろうって算段さ」

「こ、こうして裸になったわたしを、何も縛らなくても……」

「そうはいかねぇんだ。(なわ)()えする女を身動き出来ねぇようにしといて可愛がるのが俺の趣味でな。さあ、つべこべ言ってねえで、素直に両手を後ろへ廻すんだ」
 古谷は、黒縄の束を一つ手にすると、背中の不動明王を揺らしながら立ち上がった。

「ああっ、イヤっ」
 思わず後ずさりをした女の唇から小さな悲鳴が洩れて出た。蒼ざめた顔の下で細く白い喉首がヒクヒク痙攣している。

「イヤもキライもねえやな。したいようにさせてもらうぜッ」
 吐き捨てた古谷の眼は鎌首を持ち上げた大蛇のそれのように冷たく鋭くなっていた。

「さ、奥さん。俺に背中を向けて両手を後ろで組みな」
 古谷の瞳の奥で一切の抵抗を許さない冷徹な青い炎がゆらゆら揺れている。

 肌に入れ墨をした極道者の凶暴さを改めて感じとった女は、為されるがままに成るより他はなかった。大きな黒い瞳に虚ろな風穴を開けた女は、瑞々しく実った白い乳房を抱き隠していた両手をふわっと胸前に浮かせた。



                                                        つづく