鬼庭秀珍  裏切りの代償




              第二章 闇のいざない






 高階(たかしな)礼子(れいこ)は、決して夫には打ち明けることの出来ない秘密を持っていた。大手流通チェーンの本部でチーフ・マーチャンダイザーとして重責を担っている夫の慎司が出張で家を空けるのを見計らっては夜の街へ繰り出し、留守宅を預かる妻として許されない行為をこっそりと愉しんでいたのである。礼子がそんな危険を冒し始めてもう一年が過ぎていた。

 多忙を極める慎司の帰宅はいつも遅い。たまに早く帰ってきても、夕食を済ませるとすぐにベッドにもぐり込む。晩酌のビール一本が疲労の溜まったからだに滲み込んで睡魔を呼び寄せ、礼子を抱き寄せて愛撫することなど念頭にないような日々が続いていた。正体を失って眠りこけている慎司の顔を隣りのベッドから恨めしげに眺めるのが礼子の日課のようなものだった。そんな夫への面当てのつもりで始めた夜遊びだった。

 礼子が行きつけにしているカクテルラウンジは、横浜の馬車道界隈ではかなり高級な店で、客筋もいい。当初抱いた懸念が杞憂(きゆう)に過ぎなかったと思えるほど、身の危険は微塵(みじん)も感じなかった。というより、礼子の方が夜の歓楽街の雰囲気に馴染んでしまったのかも知れない。

 一六七センチと上背のある礼子の四肢はスラリと伸びやかである。しかも胸乳が豊かに盛り上がり、きゅっとくびれた腰の下ではちきれんばかりの双臀がむんむんと熟れ切った女の色香を放っている。その見事に均整のとれた肢体をデザイナーブランドのシャレた服に包み、ハイヒールのかかとをコツコツ鳴らしながら夜の帳が降りた街路を歩いて目的のカクテルラウンジへ向かう。
 無地を基調としたおとなしいデザインを好む礼子の出で立ちは決して派手なものではない。が、すれ違った男たちは思わず立ち止まり、モンローウォークさながらに腰を揺らして遠ざかる礼子の後ろ姿をじっと見送った。背中に感じる男の視線が淫らな情欲をたぎらせたものであっても、礼子は男たちに注視される自分が心地好かった。


 馬車道の中ほどを右に切れ込んですぐのところに、七階建てのネオンきらびやかなビルがある。二十数店入っているテナントのほとんどが飲食関係で、礼子が行きつけにしているカクテルラウンジはその最上階にあり、ワンフロアすべてを使っていた。

 それぞれの店が工夫を凝らしたイルミネーションボードを並べている壁を横目にエレベータで七階に上がる。エレベータのドアが開くと、そこには日常とは異なる空間が礼子を待ち受けていた。
 ジャズのスタンダードナンバーが軽やかに流れる中を、忙しく立ち働いている若いウエイターたちの挨拶に笑みを返しながら数歩すすむと、左手のカウンターの中から痩せぎすな細面の中年バーテンダーが目尻に笑い皺を寄せて礼子を迎えてくれる。ここへどうぞと手のひらを上にして指し示された彼の目の前が礼子の指定席だった。


「いつものものでよろしいですか?」

「ええ。お願いするわ」

 短い言葉を交わし、ミディアムストレートの髪をかき上げて首を巡らせると一枚ガラスの大きな窓にベイブリッジが浮かび上がっている。一幅の絵画のような夜景を眺めながら礼子は出されたドライマティニを口に運んだ。椅子の背に軽くもたれて組んだ両脚の膝先からすらりと伸びた肢がかすかに揺れて男たちの眼を惹いた。

 初めのうち礼子は、好みのカクテルを舐めながらバーテンとの会話を楽しんでいた。そこに何人もの男が、興味深そうな表情を顔に浮かべて、あるいは卑屈な態度で媚を売りながら言い寄ってくる。しかし、そこは人妻の身である。礼子は、どの男ともラウンジ内での世間話に興じるだけで、閉店時間がやってくるとタクシーを飛ばして家に戻っていた。が、回を重ねるに連れて礼子の気持ちはゆるんでいった。

 あれは夜遊びを始めて半年が経った頃だった、ゆるんだ女心に魔が射したのは……。

 礼子は、酒の勢いを借りて、商用で大阪から来たという四十歳過ぎの商社マンと一夜のアバンチュールを愉しんだ。出張が終われば横浜を去っていく相手なら後腐れがないはずだと、思い切って身を委ねた。事実その男とは再び顔を合わせることはなかった。

 しかし、ものの弾みだったとはいえ、不倫という罪悪感を伴うスリリングな行為によって一度火がついてしまった女の情念は、くすぶるだけに終わらなかった。知らず知らずに(おとこ)(あさ)りをするようになっていた。
 そして今、礼子は、五歳年下の独身男性と逢瀬を重ねるようになっている。


 高階礼子を夢中にさせた二十七歳の男は倉田(くらた)(てつ)()という。SMAPの稲垣吾郎によく似た顔立ちをしていた。身なりも言葉遣いも今どきの若い男とは違ってきちんとしている倉田は、会社の名前は明かさなかったが、名の通った証券会社に勤めていると自己紹介した。

「僕はね、礼子さん。ハイティーンの頃からずっと年上の女のひとに憧れてきたんです、幼い頃に母を亡くしたせいかも知れないけれど……」

 そう言って哀しい横顔を見せた哲哉は、「すみません、つまんない話をしちゃって」と謝った後で礼子を褒めそやした。「僕、こんなに心を揺さぶられたのは初めてなんです。礼子さんはとても優しいし、理知的だし、それに若々しくてすごい美人なんだもの」

 そんな哲哉を礼子は可愛く思った。哲哉の卒のない気配りに夢見心地を味わい、三度目に逢った時にはからだを許し、その後は逢う度に情事を愉しむようになっていた。

              *

「やっとホテルに辿り着いたよ。やはり長旅はくたびれるなあ、クタクタだ」

「お疲れさま。でも、ご無事でなによりでした」

「心配してくれてたのか」

「勿論よ、大切なあなたのことですもの。それにわたし、空の旅は安心できなくて……」

「そんなことないさ。電車なんかよりよほど安全だよ。それより明日からの時差ぼけの方が心配だ、ぼーっとしてちゃ仕事にならないからなあ」


「すぐに眠った方がいいんじゃありません?」

「うん。そうしたいんだけどこっちは夜の九時過ぎだっていうのに明るくてね。まだ夕暮れ前って感じなんだ。そのせいだろうけど、俺の脳が眠ろうとしてくれない」
 カナダのトロントと十四時間の時差がある日本は日付が変わった翌日の昼前だった。

「まあ大変。おなた、お酒でも召し上がったら?」

「そうするよ。これからラウンジバーで一杯やれば間違いなくバタンキューだ」

「うふっ。でも、飲み過ぎないでくださいね。明日は早いんでしょう?」

「ああ。朝の九時から取引先との会議だ。この頃の海外出張は決まってタイト・スケジュールだからたまらないよ。せめて着いた翌日くらいはゆっくりさせて欲しいよな」


「男の人って本当に大変ね。申し訳ありません、あなたがこんなに苦労なさってるのにわたしだけ楽をさせてもらって……」

「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだ。キミを相手に愚痴をこぼしてみたかっただけなんだから……。会社の連中にこんなことは言えないもんな」

 気だるい口調で話す夫の愚痴に付き合いながら高階(たかしな)礼子は別のことを考えていた、今夜のことを……。

「ああそうだ、礼子。滞在が二日延びるよ。訪問先の予定が変わったらしいから」

「えっ。それじゃ、お帰りは……」
  六日後だと聞いて礼子の頬がすっとゆるんだ。「分かりました。お帰り前に電話をくださいね」

「ああ、いつも通りに帰国便に乗る前の日に電話するよ。それにしても会議や接待が目白押しで、ホテルでゆっくり(くつろ)げる時間もないんだもんなあ」

「あなた、無理はなさらないでね」と、夫を気遣う優しい言葉を返した礼子はかすかな笑みを浮かべた。慎司の習慣からして今日から四日間はもう電話はかかってこない。例えかかってきてもこちらの昼前後だから、その時間は家に居るようにすればいい。

「分かってる。勤め人はからだが資本だからな。そうそう、戸締りと火の元にはくれぐれも用心するんだよ、この頃は何かと物騒だから」

「はい。きちんとしますから安心してください」

「頼んだよ。それじゃあ、土産を楽しみにしていてくれ」

「まあ嬉しい!」と声を弾ませた礼子は、「あなたのお帰りが待ち遠しいわ」と甘い言葉を返して国際電話の受話器をそっと置いた。

 大手流通チェーンの中堅幹部である夫の慎司は、景気の低迷が続くここ数年、多忙を極めていた。夫婦の夜の営みはもう二年近く途絶えている。そのことと子宝をまだ授からないことを除けば、礼子は他人が羨むほど幸せな境遇にあった。
 結婚七年目を迎えた今も夫は優しく気を配ってくれている。とはいえ礼子も生身の女である。三十路に入って間のない女盛りの肉体を持て余していた。そこに魔がさして――あるいは内奥に眠っていた淫蕩な血が目覚めたのかも知れないが――宵闇に誘われるようになっていた。


(あなたがいけないのよ、わたしをこんなに長く放っておくから……)

 それが礼子の言い訳だった。勿論、夫への裏切り行為を正当化出来るはずはない。が、今の礼子は後ろめたさが助長する異様な昂ぶりの中で覚えた新たな性の悦びに捕らわれている。いけないと思う自制心の薄膜を抑えきれない欲望が突き破る日々が続いていた。

 受話器を戻した礼子の意識は、まもなくトロントの慎司から離れ、今夜八時にいつもの馬車道のカクテルラウンジで待ち合わせている倉田哲哉の元へと移って行った。若々しい手が乳房を優しく包む感触を思い出してキュンと胸をときめかせた瞬間に、礼子は貞淑な妻の座から飛び降りていた。

              *

 いつもより長く感じられた午後を過ごした礼子は、壁時計の長針と短針が垂直に並ぶ前に夕食を済ませ、身支度にとりかかった。

 青葉がその色を濃くしていくこの季節は、ひと月前に比べれば、陽が落ちてからもずいぶん暖かくなっている。今夜、礼子はワンピースを着ていくことにしていた。光沢を抑えたダークブラウンの色合いと胸ぐりの浅いシンプルなデザインが落ち着きを感じさせ、女らしい柔らかなボディラインを美しく見せてくれるところが気に入っている。

 全身をくまなく清めた礼子は、仕上げに冷たいシャワーで身を引き締めた。寝室に戻ってドレッサーに向かって念入りな化粧を済ませると、羽織っていたバスローブを脱ぎ捨てて姿見(すがたみ)の前に立った。

「わたし、まだこんなに綺麗なのに……」


 鏡に映る全裸の自分が光り輝いて見え、夫の慎司への愚痴が口を突いて出た。が、すぐに気分を切り替え、淡いピンクのブラジャーに手を伸ばした。

 左右の肩ストラップに腕を通してカップを胸に当てると上半身を少し前に傾け、両腕を背中に廻してバックベルトのホックをはめた。映画『アイズワイド・シャット』の中で主演女優の二コール・キッドマンが見せていた着け方である。


 次第に気分が高揚してくるのを覚えながらショーツを横に広げて腰をかがめ、足を通した。白磁のようなまばゆい光沢を放つ脛を滑らせ膝頭をくぐらせ、白く柔らかい肉が実った太ももへ引き上げて女の恥ずかしい場所を覆った。そしてパンティストッキングを穿くと、ピンク色の小さめなショーツが恥ずかしげに浮かび上がって見えた。姿身の中から自分を見返している半裸の女の頬がポッと赤らんでいた。

(こんなこと、わたし、いつまで続けるのかしら?)

 いつも着けるスリップはやめにして直接ワンピースをまとった礼子は、ハッと我に返っっていた。出かける前にはやはり気が(とが)める。
(今日でお終いにしよう、哲哉さんに別れを告げよう)と毎回思う。が、それを倉田哲哉に切り出すことが出来ないでいた。哲哉が耳元で囁く心地好い言葉と指や舌での巧みな愛撫が与えてくれるめくるめくような快美感が別れの言葉を封じ、(もう一度だけ)という甘い判断を礼子にさせていた。

 
夫への裏切り行為を咎める自分と密かな愉悦感を求める自分が絶えず闘っている。しかし、すでに不倫の道に踏み出してしまった礼子の自制心は、図らずも根づいてしまった肉体の欲望の前では、無力に等しかった。今日もまた礼子は、哲哉との逢瀬に胸をときめかせて家を出た。


                                                        つづく