鬼庭秀珍  裏切りの代償





            第三章 鬼面の微笑







 約束の時刻にJR関内駅の北口近くで倉田(くらた)(てつ)()と落ち合った高階(たかしな)礼子(れいこ)は、いつものように馬車道のカクテルラウンジへ向かい、予約してあった窓際の席で、新鮮な魚介類をフレンチ風にアレンジした創作料理を楽しみながらハウスワインで喉を潤した。

 窓の外には濃い闇に覆われた横浜港にベイブリッジがくっきりと浮かび上がり、二人の逢瀬をロマンチックに演出してくれている。吸い込まれるように美しい夜景を眺めながら、今夜もまた礼子は楽しく弾む会話に興じた。

 そうして小一時間が経った頃、テーブル越しに身を乗り出した哲哉が礼子に囁いた。
「礼子さん。隠れ家というか、僕が一人で過ごしたい時に行っている店が一軒あるんだけど、今夜はまずそこに寄ってみない?」

「哲哉さんの隠れ家? 面白そうね。どんなところか、是非拝見したいわ」
 男の隠れ家と聞いて好奇心を刺激された礼子は双眸を輝かせた。

「じゃ、これからすぐにそこへ行きましょうか」と哲哉が礼子を促がした。

 カクテルラウンジを後にした二人は、馬車道に出て、通りを西南方向に、談笑しながらゆっくりと歩を進めた。JRと首都高速神奈川線のガード下を抜けた先はデパートや老舗の商店が軒を並べているイセザキモールである。
 その中ほどまで来ると路地に入って裏通りへ、哲哉は礼子を案内した。


「礼子さん、この店が僕の隠れ家なんですよ」

 哲哉が半ば照れながら指し示した店は、間口の狭い、うらびれた感じのするスナックだった。が、『アリス&マリオン』という可愛い店名が礼子の興味を高めた。日本語に意訳すれば『太郎と花子』とほぼ同じ意味である。

「あら、倉田さん、いらっしゃい。珍しいわね、ご婦人連れだなんて……」
 分厚い木の扉を開けて中に足を踏み入れると、四十歳半ばと思われる細面のママが笑顔で二人を迎えた。

 笑みを浮かべて軽く会釈をした礼子は、ママの眼が笑っていないことに気づいた。眼つきにどこか(けん)があり、ピリッとした立ち居振る舞いに気圧(けお)される思いがした。とはいえ、折角案内してくれた哲哉の手前、すぐにここを出ようとは口に出来ない。礼子は自分の思いとは逆のことを言った。

「落ち着けそうなお店ね。哲哉さんが自分の隠れ家だと言った意味が分かるわ」

 柔和な表情をこしらえた礼子は、いかにも興味深そうに装いながら店内を見回した。うなぎの寝床のように間口が狭く奥行きの長い店で、カウンターに止まり木が五つ六つある他は奥に一つボックス席があるだけである。見るからに殺風景だった。場末特有の薄汚れた感じはないが、何となく冷たい空気が漂っている。照明の数が少ないこともあって薄暗い。二人の他に客はいない。礼子は胸の底が波立つのを覚えた。

「お飲み物は何になさいます?」

 猫なで声で問われた礼子は戸惑った。それを見て哲哉が答えた。
「ママ。ビールをくれないか、まずは乾杯といきたいから……。いいよね、礼子さん?」

「ええ、結構よ」

 出されたグラスビールで乾杯した後、礼子は好みのドライマティニを注文した。が、いつもカクテルラウンジで飲んでいるものとは味が違った。しかし、こんな場末の店では致し方ない。そう諦めて礼子はカクテルグラスを口に運んだ。

 二杯目を飲んでしばらく経つと、からだが泥のように重くなっていくような気がした。グラスを持つ手がかすかに震え、からだの芯が萎えていくような感覚に襲われた。

「どうしたのかしら、わたし……」
 礼子は訝しげな面持ちでこの数日間のことを思い起こし、急な変調の原因を探ろうとした。が、思い当たる節は何もなかった。

「なんだか今夜は体調がよくないみたいだね、礼子さん」
 笑みの失せた礼子の顔を心配げな面持ちで哲哉が見つめた。

「ごめんなさい哲哉さん。わたし、急に気分がすぐれなくなって……」
 礼子は曖昧に答えた。が、舌がなぜかもつれた。からだが徐々に痺れていくように感じる。意識はしっかりしているのに全身から力が抜け落ちていくように思い、礼子は不安に駆られた。

「哲哉さん。こ、今夜はこれまで……ということに、し、していただけない?」
 礼子はもつれる舌でたどたどしく、すがりつくようにして哲哉の顔を見た。

 と、その時突然、入り口のドアが荒々しく開けられ、鋭い目付きのパンチパーマ男と頭をツルツルに剃り上げたスキンヘッド男がどやどやと入ってきた。
 二人とも二十歳代半ばのチンピラヤクザ風の男だったが、哲哉はその二人を見て顔色を変えた。


「よく似た風体のヤツを尾行(つけ)てきたら、倉田ぁ、やっぱりお前だったな」
 パンチパーマ男がそう吐き出すと同時に、哲哉は止まり木から腰を浮かした。

「おい、逃げようたってそうはいかねーぞ!」
 つかつかと歩み寄るスキンヘッド男から逃げるように後ずさりした哲哉は、店の奥にある裏口らしい扉に背中をつけ、男に向かって両手を合わせた。

「勘弁してくれ。必ず償いはするから今日は見逃してくれ」

「とぼけたことを言ってるんじゃねーよ。申し開きをしたいんなら、うちのオヤっさんの前でしなッ」

 男たちと哲哉の会話に礼子は唖然とした。
 頭の中は真っ白になっていた。空恐ろしいことに巻き込まれたことは分かっても、何がどうなっているのかまるで理解できない。のみならず、痺れが下半身の力を奪って、止まり木から腰を上げることも出来ない。礼子は、カウンターにもたれかかって震えている他はなかった。


 その礼子の耳に、パンチパーマ男の思いがけない言葉が飛び込んだ。
「姐さん。この女ですかい?」

「ああ、例の女さ。間違いないよ」
 ママはニンマリと頬を吊り上げた。

(姐さん? 例の女? なんなの、この人たちは……)
 ママの不気味な表情を見上げた礼子は、鬼の面が笑ったように錯覚してゾクッと背筋に悪寒を走らせた。
(ぐずぐずしてちゃダメ。すぐにここを立ち去らなくちゃ……)

 焦燥感に駆られてもからだが言うことを利いてくれない。礼子は痺れが広がっていく全身を震わせながら首を巡らせて哲哉がいる店の奥を見た。

「首に縄をつけてでも引っ張って来いってえのがおやっさんの命令だ。腕づくでもお前を連れて行くから覚悟しな!」

 ペッと唾を床に吐き捨てたスキンヘッド男がいきなり哲哉の腹部に(こぶし)を叩き込み、グウッと鈍重な唸り声を上げた哲哉が鳩尾(みぞおち)のあたりを押さえて前屈みに崩れ落ちた。

「ああっ、哲哉さん!」

 礼子は思わず悲鳴を上げた。その瞬間に礼子は口をふさがれていた。
 いつのまにかそばに寄ってきていたママが幅の広い粘着テープを貼りつけたのだった。しかも、それだけではなかった。目を白黒させている礼子の後ろにすっと廻ったパンチパーマ男が礼子の両腕を後ろへ手繰った。


 咄嗟に「なにをするのっ!」と叫んだが、その叫び声は粘着テープにふさがれた口の中にくぐもった。
 礼子は、「うぐっ、ぐううっ」と呻きながら顔を左右に激しく振って、男の手を振りほどこうとした。が、礼子の両腕は強引にねじ上げられ、背中の中ほどで重ね合わされた華奢な両手首に縄がぐるぐると巻きついてきた。


(やめてっ! バカなことはしないでっ!)
 言葉にならない声で礼子は叫んだ。そして目の前のママの顔を見上げた。が、そのママの顔がすっと消えて視界が闇に変わった。礼子の切れ長な美しい目は粘着テープにふさがれていた。

(どうしてなのっ! なぜわたしにこんなことをするのっ!)

 半狂乱になっている礼子の手を後ろで縛り上げた縄が、二の腕の柔らかい肉を噛んで前に廻る。おぞましい縄が礼子の豊かな胸乳の上下に喰いこんで背中に戻り、かっちりと結び止められた。

 前もって打ち合わせが出来ていたような彼らのあまりの手際良さに、礼子は抵抗する暇もなかった。というより、まどろっこしい動きしか出来なくなっている礼子は、俊敏に動く鬼面の相をした女と不審な男たちの、為すがまま成るよりどうしようもなかった。

 声を張り上げて助けを求めたい。が、口は封じられている。その上に目までふさがれ、両手の自由を縄に奪われた。礼子は、粘着テープに覆われた切れ長の眼から涙をあふれさせ、クリスチャン・ディオールのワンピースの上から縄が喰いこんでいる胸を荒々しく波打たせてその場に膝を突いた。

「さっさと連れていきな! 早くしないとこの女、倒れこんじまうよ」

「へい、姐さん」と緊張して答えた声とは違う方向から、「さあ、倉田ぁ、おやっさんがお待ちかねだぜ」という、どこか間延びをした言葉が礼子の耳に届き、裏口の扉が開けられたような音がした。

(ああ、哲哉さん……)
 哲哉の身を案じた礼子だったが、その礼子にもすぐに冷たい言葉が降りかかってきた。

「おい、お前も立つんだッ」

(イヤっ! やめてっ!)

 両手を背中に縛り上げられた縄の縄尻が引き上げられ、前のめりになった礼子は萎えた両脚を必死に突っ張った。ふさがれた口の中に悲痛な叫びをくぐもらせながら激しく肩を揺すった。が、それも儚い抵抗に過ぎない。礼子は易々と細長い店の裏口へと追い立てられていった。裏口にはワンボックスカーが停まっている。勿論、礼子にそれは見えない。

(どこへ連れて行くの? わたしをどうするつもりなの!)

「大丈夫だねっ」
 先に裏口を出たらしいママは、誰かに人目がないことを確認すると、小声で鋭く指示をした。
「さ、早いとこ行きなっ!」

 ママの指示とほぼ同時に、スライドするドアが開けられた音が礼子の耳に届いた。

「さ、車に乗るんだ」

 後ろ手に縛られている両腕の腋の下へ両脇から太い腕が差し入れられ、抱きかかえられて浮いた足が車の床を踏ませれ、礼子はワンボックスカーの中に突き入れられた。

(ああっ!)
 驚きの声を粘着テープの猿轡にくぐもらせた礼子は後部座席に横倒しになって両脚を投げ出した。その両足首がつかまれ、一つに揃えられて縄がかけられた。

 両足を縛り固められた礼子は一旦座席に座らされ、用意してあったらしい大きな麻袋を頭からすっぽりと被せられて、再び座席の上に押し倒された。

「サツの検問に引っ掛からないように気をつけるんだよ」

「ご心配にゃ及びませんや。俺、いつでも安全運転ですから」

 連中の会話がまるで映画かテレビドラマの台詞(せりふ)のように礼子には感じられた。自分の身に起こっていることがとても現実のものとは思えない。が、自由を奪われた手足が鉛を詰め込んだように重くなっていく。そのことが礼子に非情な現実を認識させた。

(どうしてこんな目に遭わなければならないの? わたしをどうしようというの? 哲哉さんはどうなったの?)
 意識はまだはっきりしているだけに礼子の不安は募った。

 車のドアが音を殺して閉められ、ワンボックスカーは静かに路地を発進した。が、車通に出るとスピードを上げ、闇に溶け込むように疾走した。

 カーブを切るたびに揺れるワンボックスカーの中で礼子は呻吟していた。後部座席に寝かされたからだを車体の振動が下から突き上げてくる。その小刻みな振動がからだの痺れを増幅していき、意識が朦朧としてきた。
 まもなく礼子は気を失った。


                                                        つづく