鬼庭秀珍  裏切りの代償





            第四章 奈落への道






 裏口の路地を静かに発進していったワンボックスカーの車影が遠ざかるのを見つめているママのそばに、ビジネススーツを着た若い男がそっと歩み寄って丁寧な会釈をした。

 それを見た鬼面のママは笑みを浮かべた。

「テツ、ご苦労だったね」
 若い男は倉田哲哉だった。

「へい。おやっさんと姐さんのご期待に何とか応えることが出来て、正直、俺もホッとしておりやす」

 ママに示した倉田の物腰と物言いは、礼子の前で見せていたエリートサラリーマンのそれとはまったく違っていた。明らかに、倉田哲哉が極道組織『亮和会』の一員であることを物語っていた。

「それにしても滅多に見られないような別嬪(べっぴん)だねぇ、あの女……。あれならきっと、うちの人も満足するよ」

「そう思われますかい?」

「ああ、間違いないね」

「そいつはよかった。姐さんからお墨付きをいただけりゃ、俺も仕掛けのし甲斐があったってぇもんでさあ」

「テツ。殊勝なことを言ってるけど、お前、あの女に惚れたんじゃないのかい? 未練がありそうな顔をしてたよ」

「め、滅相もねぇ! 仕掛けをやるたんびに相手の女に惚れてちゃ、こっちの身がもちませんや」

「そうだねえ、それならいいがね」

「姐さん。明日っからは、いよいよ姐さんの出番ですぜ」

「ああ、いつも通りに縄師の平助とっつぁんと二人でみっちり仕込んでやるさ」
 ふふっと、顔を見合わせて互いに含み笑いをした二人は店の中に戻っていった。

 そんなこととは露ほども知らない礼子は、スピードを上げたワンボックスカーの後部座席に横たわり、下から突き上げてくる振動と頭から被された麻袋の息苦しさに呻吟しながら意識を遠のかせていった。


             *


 高階(たかしな)礼子(れいこ)は、暖かく優しい朝の陽射しを浴びながら、色とりどりの花が咲き乱れる高原をゆっくりと歩いていた。肩をならべている倉田哲哉がにこやかに話しかけてくる。笑みを返しながらうなずく礼子は、爽やかな風に頬を撫でられて、少女の時と同じように胸をときめかせている自分が面映かった。忘れかけていた淡い初恋の日々が(よみがえ)り、中学時代に憧れた部活の先輩の弾けるな笑顔が浮かび上がって哲哉のそれと重なった。と同時に、胸の奥がキリッと痛んだ。

(いけない。わたし、夫以外の男に思いを寄せている……)

 不倫という罪の意識が礼子の胸をえぐった。途端に空が()き曇り、水平線の彼方に黒い塊が盛り上がった。黒い塊は急速に膨張し、大勢の人影に変わって、急速にその姿を露わにしていった。

 頭に角を生やした鬼の一群が双眸をらんらんと光らせて礼子を追って来る。思わず身をすくめた礼子は、そばにいる哲哉の後ろに隠れようとした。が、なぜか哲哉の姿は掻き消えていた。狐につままれた思いで呆然と立ちすくんでいる礼子に鬼たちが近づいてくる。群の先頭に立つ鬼は夫の慎司と同じ顔をしていた。

「ああっ、あなたっ。あなたが鬼に……」

 礼子は、自分の行為が夫の慎司を鬼に変えてしまったことを目の当たりにして、激しい後悔の念に駆られた。

(ごめんなさい、あなた)

 心底から許しを乞う気持ちとは裏腹に、礼子は鬼と化した慎司の凄まじい形相に怯えてその場から逃げようとした。が、両脚に野の草がからみつき、礼子は前にのめって両手を地面に突いた。
 すると、地中から姿を現したツタの蔓のようなものがにょきにょきと伸びて華奢な両手首にくるくる巻きつき、なおやかな両腕を背中に括り上げながら、瞬く間に全身を巻き緊めていった。
 礼子はうつ伏せのまま身動きを封じられ、頭に角を生やした慎司がそのかたわらに仁王立ちした。


「許してっ、あなた。もう二度とあなたを裏切ったりしません。ですから、あなた。お願いっ、わたしを許してっ!」
 礼子は額に脂汗を滲ませて懇願した。それを見て鬼の慎司の表情が変わった。

「分かったよ、礼子。キミだって、あんな危ない遊びをいつまでも続けるつもりはなかったはずだ。もう目が醒めただろう? そうだろう、礼子? このことは綺麗さっぱり水に流して、以前のように二人仲良く暮らそうよ」

 いつもの柔和な表情に戻った慎司は、耳元でそう優しく囁くと、礼子の唇を吸った。

(ありがとう、あなた……)

 夫の口づけに胸を熱くした礼子が切れ長な眼に嬉し涙を滲ませて重い瞼を開くと、障子のようなものが見えた。

 ぼんやりしていた格子状の
(さん)が次第に黒くはっきりと浮き出てきて、障子が陽の光に照らされているのが分かった。が、目の前に居るはずの慎司の姿がない。青畳が広がっているだけだった。礼子はいぐさの香りが清々しい畳の上にうつ伏せに眠っていた。


 ハッとして起き上がろうとした礼子だったが、手足の自由が利かない。礼子の両手は後ろに縛られ、両足も縄で束ねられていた。

(ど、どうして?)
 礼子は愕然(がくぜん)とした。頭にかかっていたモヤがさっと晴れ、伊勢佐木町のスナックで我が身に降りかかってきた忌まわしい出来事の記憶が戻ってきた。両目の粘着テープは取り去られていたが、口を封じたテープはまだ貼りつけられたままだった。

(こ、ここは……)
 礼子が目覚めた場所は、丹沢山麓にある(ひな)びた建物の一室だった。

 このあたりにはいわゆる一軒温泉宿が散在している。以前はここもそうした宿の一つだったが、今は野毛から伊勢佐木町界隈を縄張りとする『亮和会』の組長・古谷亮次の別宅になっている。

 古くから湯治客に親しまれてきたこの温泉宿は、バブルが崩壊したから何度も経営の危機に直面し、七年前にはいよいよ経営破綻に陥った。そこにつけこんだ古谷が、違法すれすれの手段を講じて買い叩き、二束三文で自分のものにしていた。

 傾斜地も入れると千坪近い敷地は県道から山裾に向かう道が川を跨ぐ橋の先にあり、後ろは切り立った崖になっている。周囲に民家はなく、外部からの侵入者を発見するのは極めて容易である。自然の要害というか、守りやすく攻めにくい砦のような場所だった。
 しかし、夜陰に紛れて、しかも気を失った状態で、ここに連れてこられた礼子にそんなことを知る由はない。


 うつ伏せのまま首を立てた礼子の目に胡坐をかいた大きな膝が飛び込んできた。

「よく眠れたかい、奥さん?」
 ドスの利いた声が礼子にそう尋ねた。

「うっ、うぐぐっ、ぐううっ!」
 突然投げかけられた声に驚いた礼子は、まだ口を塞がれていることも忘れて叫んだ。
(誰っ、あなたは誰なの! どこっ、ここはどこなの!)

 勿論、言葉にはならない。眉間に皺を寄せた顔の表情が痛々しかった。

「おい、口のテープをとってやりな。この奥さん、何か言いたそうだ」

 胡坐をかいている壮年の屈強な四十男が礼子の後ろに向かって指示をした。礼子が首を後方へ巡らせると、そこには伊勢佐木町のスナックで倉田哲哉と礼子を襲ったスキンヘッドとパンチパーマが正座をしてかしこまっていた。

「へいッ」と立ち上がったパンチパーマが、礼子の口の粘着テープを手際よく剥がし、元の位置に控えた。礼子は二三度深く息を吸ったが、すぐに後ろ手に縛られたからだをエビのように丸めて全身を小刻みに震わせた。

「びっくりしたかい、奥さん? あんたが今いるのは俺の別宅だ。おいおい、そんなに怖がるなよ。厳つい顔をしてるが、これでも俺は女にゃ優しいんだぜ、特にあんたのような別嬪(べっぴん)さんにはな、はははッ」

 男の野放図な物言いの中にわずかながらも優しさが含まれているように礼子は感じた。が、言葉の内容からして自分の拉致を命じた黒幕はこの男に違いないと確信し、改めて恐怖心を抱いた。

「そうか、縛られたままじゃ、俺のどんな言葉も信用できねえってツラだな。ヒデ、この奥さんの縄をほどいてやりなッ」

「へいッ」と歩み寄ってきたスキンヘッドは、まず両足の縄をほどき、礼子の上半身を抱きかかえるようにしてその場に座らせた。縄止めされている結び目をほぐし、胸の上下に喰いこんでいる縄を外し、華奢な両手首を巻き緊めている縄をほどいて、礼子を縄の縛めから解放した。

 細い両手首と柔らかな二の腕に縄痕が浮かび上がっている。下肢を曲げて横座りになった礼子は、その縄の痕を白魚のような指先で揉みほぐした。

「奥さん、あんた、何つう名前だっけな」

「た、高階……礼子です」

 スナックのママの口から「例の女」という言葉が出たからには嘘は通用しない。礼子は正直に本名を名乗った。

「雰囲気通りのいい名じゃねぇか。俺は古谷といってな。極道の世界じゃ一目置かれてる男だ。その俺があんたにここに来てもらった理由は分かってるだろう?」

「…………」
 礼子は無言で首を横に振った。分かるはずがない。

「そうか、分からねぇってか……。ま、いい。おいおい思い出すさ」

(何かの行き違いで、わたし、大変なことに巻き込まれてる……。でも、それを言っても理解を示してくれるような相手じゃない……)

 縄の縛めから解放されたことが礼子に、冷静さを少し取り戻させ、脱出を考えさせた。が、その気配をわずかでも悟られてはならない。

 しおらしく顔を伏せた礼子は、視線をチラチラ走らせて周囲の様子を窺い、部屋の障子も廊下のガラス戸も開け放たれていることに気づいた。

「あんたは旦那の眼を盗んで倉田の若造と不倫をしてただろう。不義(ふぎ)密通(みっつう)は大罪だぜ。世が世なら三日の町角(さら)しの後で市中を引き回されて(はりつけ)獄門(ごくもん)だ」

(この連中はわたしと哲哉さんとのことを詳しく知ってる……)
 礼子は背筋を悪寒が駆け上った。
 が、気丈に唇を噛み締めてうなずいたり深くうな垂れたりしながら、前の古谷と後ろの手下二人と自分の位置との距離を慎重に目測した。


(さっと立ち上がって駆け出せば、誰にも阻まれないで庭へ飛び出せる……)
 礼子はそう確信していた。庭へ飛び出してから後のことは念頭になかった。

「うんともすんとも言わねえで首だけ振ってる相手にゃ、結構話しずれえもんだ。なあ、お前ら。そうは思わねえか?」

 古谷が苦笑いをして座椅子に背中を(もた)れかからせると、「へええ、そんなもんですかい?」と手下二人がさも不思議そうな表情で顔を寄せ合って、小声で何か話し始めた。

(今だわ!)

 咄嗟に脱出を決心した礼子は、さっと腰を上げて青畳を蹴った。障子とガラス戸をすり抜けるようにして裸足で庭に降り立った。


                                                        つづく