鬼庭秀珍 裏切りの代償 |
第五章 消えた希望の灯 男たちの隙を見て庭に飛び出した高階礼子は、「この阿女、待ちやがれッ!」と叫ぶ手下たちの怒声を背に、芝生の上を右方向へ一目散に走った。屋敷の出入り口がどこにあるのかは知らないが、建物の周囲に沿ってゆけばどこかに外へ抜けられる場所があるはずだと信じて角を右に曲がった。 曲がった先は聳え立って見える三階建ての外壁と黒板塀に挟まれた薄暗い場所で、日照時間が少ないのか、じめじめした路面に苔が蒸していた。うっかりすると足を滑らせて転んでしまいそうである。礼子は、焦る心を抑え、建物の外壁に沿ってカニの様に横に歩いて次の角まで辿り着いた。 しかし、不思議なことに誰も礼子を追ってこない。そのことがかえって不安を掻きたてたが、後戻りすればやっと手にした逃亡チャンスは元の木阿弥になる。礼子は、大きな建物の角を更に右に曲がった。歩を進めるに連れて黒板塀が迫ってきて、その先は袋小路になっていた。 (ああ、どうしよう……) その場に立ち尽くして嘆息した礼子だったが、行く手に立ち塞がっている黒板塀の隅に腰を屈めればくぐれるような小さな戸があるのを見つけた。 (よかった。大丈夫、逃げられるわ。あと一息よ) 自分に言い聞かせた礼子は、そっとくぐり戸を開けて塀の外に足を踏み出した。そこは玄関横にある駐車場らしかった。 手前に黒いワンボックスカーが停まっていた。昨晩遅くに礼子をここに運び込んだ車だが、粘着テープに目をふさがれていた礼子はそのことを知らない。その向うにシルバーグレイの大型ベンツと高級国産車が並んでいた。 礼子はワンボックスカーの陰に一旦身を潜め、アスファルト舗装されている玄関前のアプローチ路面をそっと見渡した。五十メートルほど先が敷地の出入り口になっているらしく、路面が左に傾斜していた。 (あそこへ向かって走れば、きっと外へ出られるわ) ようやく安堵感を得た礼子は、深呼吸を繰り返して息を整え、周囲に人の気配がないか確かめようとした。その礼子の目の前にパンチパーマのヤスが、背後からスキンヘッドのヒデが、礼子を挟み込むようにぬうーっと姿を現した。 (ああ……)と空を仰いだ礼子はその場にうずくまった。見上げた青空には雲一つない。が、礼子の心の中にはたちまち分厚い黒雲が立ち込めた。 「奥さん、お待ちしておりやしたよ」 スキンヘッドが後ろからからかうように慇懃な言葉をかけると、前にいるパンチパーマが「ご苦労なこった、どうせここからは逃げられやしねーのによう」とせせら笑った。 「お願いです。ど、どうか、見逃してください」 沸き上ってくる哀しみの涙に濡れてぐしゃぐしゃになった顔を上げて、礼子は必死に懇願した。ムダなことは分かっていても、そうせずにはおられなかった。 「バカを言ってんじゃねーよ。さ、立ちなッ。おやっさんがお待ちかねだぜ」 礼子の華奢な右手首をむんずと掴んだスキンヘッドのヒデが、その手を逆手にひねって背中高くねじ曲げた。 「あっ、痛いっ!」と左手で右肩を押さえた礼子を容赦なくその場に立ち上がらせると、右肩を庇っている左手も後ろへ手繰った。 「ああーっ、イヤっ! 放してっ、その手を放してっ!」 礼子は叫んだ。が、しなやかな両腕は荒々しく後ろにねじ上げられ、上半身をワンボックスカーのボディに押し付けられた。太い指にぎゅっとつかまれた華奢な両手首は背中で重ね合わせられ、その両手首にキリキリと縄が巻きついてくる。 「お願いっ、もう許してっ」と涙声で訴えた時には、白く細い礼子の両手はかっちりと後ろ手に縛られていた。 肩に手をかけたパンチパーマのヤスが礼子の上半身をワンボックスカーから引き剥がすと、ヒデは両手首を縛った縄の縄尻を礼子の首に廻した。細首をくるりと巻いた縄がグイッと背中に引き下げられる。 「うっ!」と鋭く呻いた礼子は顔を大きく仰け反らせた。 「ぐううっ、うぐっ」と濁った呻き声を立てる礼子の肩甲骨の下でからめた縄を、ヒデは右脇に通して返し、二の腕を巻き緊めた。その縄尻を左へ走らせて、左の二の腕を同じように巻き緊め、背中の高い位置で縄止めした。 礼子の悲痛な叫びが「うっ、ぐううっ」と濁った。 背中に吊り上げられた両手のきつさをゆるめようとすると喉首がぎゅっと緊まった。 ヒデが礼子にかけた早縄は、前から眺めれば首にひと筋と左右の二の腕にふた巻きかけただけの簡単な縛り方だが、身動きを許さない厳しい縄がけである。 顔を仰向けた礼子の頬を涙が伝い、こぼれ落ちる口惜し涙が半開きの口に流れこんだ。 「逃げ出そうなんて馬鹿な料簡をお前が起こすからこうなるんだッ」 喉にかかっていた縄を首のつけ根まで引き下げたヒデは礼子をねめつけた。幾分か呼吸が楽になった礼子は涙に濡れた唇を噛んだ。 「さ、おやっさんのところへ戻るぜ」 ヒデとヤスは、「とっとと歩けッ!」と、きつい高手小手縛りの首縄に泣いている礼子の哀しい背中を情け容赦なく突いた。 庭に飛び出して逃亡を図ったのに誰も追ってこなかった理由がこれだった。この連中は、捕まえたねずみを痛ぶる猫のように、礼子を泳がせ待ち受けていた。 泥にまみれた足を拭かれて玄関ロビーに上がった礼子は、後ろ手縛りの縄尻で背中や尻をはたかれながら、あふれ出る涙をポロポロこぼして廊下を歩いた。 まるで江戸時代の咎人が役人に引かれていくようにうなだれて、廊下を左に右にと曲がって奥まった位置にある古谷の居室へと追い立てられていった。 つづく |