鬼庭秀珍  裏切りの代償




            第六章 身代り弁天






 連れ戻されてきた礼子に、古谷は苦虫を噛み潰したような険しい表情を見せた。その膝前に礼子が引き据えられるとすっと右手を伸ばした古谷は、礼子の頬を平手で軽く打った。そして左手も伸ばすと、捕えた獲物をなぶるように、色を失った左右の頬をパシッパシッと叩いては蛇のような冷たい眼で礼子の顔をねめつけた。

 後ろ手の高手小手に縛られ首縄までかけられて正座をしている礼子は、痛みが走り赤く腫れていく頬に幾筋も涙をしたたらせた。

「奥さん。あんたをここに連れて来たのは()きてえことがあるからだぜ。そいつが終る前にずらかろうなんつうのは、虫が良すぎるんじゃねぇのかい」

「……す、すみません」
 礼子は古谷への怯えを露わに示しながら、消え入るようにして詫びの言葉を口にした。

「おやっさん。二度と逃げ出せねーように、この阿女、裸に剥いちまいましょうや」
 スキンヘッドのヒデが忠義面をした口から泡を飛ばした。

「いや、そいつはまだ早え。悪い料簡は二度と起こしゃしねぇよ。なあ、奥さん……」

「…………」
 礼子はコクンとうなずいて蒼白の顔を伏せようとしたが、首を緊めつける縄がそれをさせてくれない。
 もはや涙も声も涸れてしまい、泣き濡れた瞳に観念の色を宿していた。


「ここから逃げようたってそうはいかねぇのは、素人のあんたも身に染みてよく分かっただろう? 命が惜しかったら素直に俺の言う通りにするんだ。それが嫌ならシャブ漬けにしちまう手もあるんだぜ。そうすりゃ、そのうち廃人同様になっちまう。だがな奥さん。あんたみてぇないい女にゃ、そういうひでぇこたぁしたくねぇんだよ、俺は」
 古谷は単刀直入に引導を渡した。

 礼子は古谷に底知れない恐怖を感じた。その恐怖感はたちまち大きく膨れ上がり、雪崩をうって礼子の胸を圧し潰していた。

 倉田哲哉と伊勢佐木町裏通りのスナックに足を踏み入れた時から、礼子は胸騒ぎを感じていた。ママの鋭い眼差しに内心怯えている自分に気づいていた。(あのスナックを早く立ち去っていさえすれば……)と今になって悔やんでみても過去に戻れるはずはない。すべては夫を裏切り続けてきたことの報いだと考える仕方がなかった。

 (ふる)えがとまらない礼子の、褐色に染めたミディアムロングの髪が揺れている。端整な顔立ちの切れ長の目が潤み、ほどよく膨らんだ頬から血の気が失せていた。

「奥さん、俺が言ったことは呑み込めたかい?」

「……は、はい」

 古谷は、礼子がうなずくのを見て満足げな笑みを浮かべ、座椅子に背中を預けた。

「おい、ヒデ。縄をほどいてやんな。出来るだけ穏やかに話をつけてぇんだ。縛られたまんまじゃ、この奥さんも素直にゃなれねぇだろうからよう」

 礼子は一瞬ポカンとした。前よりもっと酷い目に遭うことを覚悟していただけに、縄をほどくように命じた古谷の扱いに驚いていた。

 礼子の後ろに膝を突いたヒデが手際よく縄をほどいていくのを眺めながら、古谷は考えていた。

 古谷亮次は頭の切れる男である。折角手に入れた極め付きの上玉をどうすれば長く使えるか、と思案していた。

 ここに監禁して拉致事件にすることは避けた方がいいに決まっている。理想的には、今まで通りの生活をさせておいて、旦那が仕事で家を空けてる時だけここに来て客をとるようにさせることである。それであれば美貌や気品を損うこともないだろうし、嗜虐(しぎゃく)嗜好(しこう)の客たちの人気を長く維持できる。それに、裸の緊縛写真やエロビデオを撮っておけば警察に駆け込みたい気持ちは抑えられる。倉田哲哉との不倫もそれが罠だったとは知らずに隠し続けるだろうから、旦那に打ち明けとしまう心配もないはずである。
(慎重に事を運べは大丈夫だ。あとはどうやって俺を信用させるかだな)

 そう結論した古谷が縄をほどかれた礼子の顔を覗くと、綺麗な瞳にわずかながらも古谷を信じる気持ちが芽生えているような色が見て取れた。

 縄ほどきを終えたヒデは、すでに後方に下がって正座をし、パンチパーマのヤスと並んで控えの姿勢をとっていた。

「ヒデ。ヤス。二人ともご苦労だったな。膝を崩していいぜ」

 古谷にねぎらわれて嬉しそうな顔を見せた二人は、「それじゃ、おやっさん。お言葉に甘えやして」と殊勝に頭を下げて青畳に胡坐をかいた。『亮和会』が組長の古谷亮次を頂点に統率がとれている証しである。
 古谷は、さも可愛げに二人の手下に目顔でうなずくと、視線を目の前の礼子に向けた。

「さてと、奥さん。じゃあ、さっきの話の続きだ」

 改めてそう切り出した古谷は穏やかな表情に戻っていた。この、手のひらを返したような穏やかさが不気味なのである。

「他でもねえ、倉田の若造のことさ。あの野郎、俺の金に手をつけやがったんだ」

 古谷が礼子に話して聞かせたところによるとこういう経緯だった。

 中堅証券会社の営業マンをしている倉田哲哉は、初め『ハマ港運』社長の田代三郎に投資話を持ちかけた。古谷の妹婿である田代は元からカタギの男だが、古谷の信頼を得て会社を任されていた。その田代が倉田の熱意に負けて二百万円ほど買った株が半年で二割の値上がりをし、「いい小遣い稼ぎが出来ました」と田代から古谷に報告があったという。
 それからしばらく経って倉田は田代に、近々上場を予定しているというベンチャー企業の未公開株に関する秘密情報とやらを持ち込んだ。上場後は株価が三倍になるという話だったが、如何せん、一株が二百万円もする。しかも十株まとめて購入できることが条件だったから、田代はこの話を義兄の古谷に話を振った。二千万円が六千万円になるのなら、年々シノギが難しくなってきている『亮和会』にとっていい話だし、二千万円程度の金はいつでも用意できる。古谷は『ハマ港運』の社長室で倉田と会って購入を決めた。

「ところが、それからぷっつりと倉田からの連絡が途絶えたんだ。慌てた田代が調べてみたら、俺名義の株はどこにもねぇ始末さ。『亮和会』の組長ともあろう者が年端のいかねぇ若造に手玉にとられたとあっちゃ、この世界は渡っていけねぇやな」

 間違っても事を表沙汰には出来ない古谷は、田代や手下たちに命じて隠密裏に倉田を探させた。その網に引っかかったのが美人の人妻と倉田らしい若い独身男の不倫話だったという。

(わたしたち、ずっと見張られていたんだわ……)
 礼子は彼らの情報網に少なからず怖れを抱いた。

「ようやくとっ捕まえて、ゆうべから金をどうしたか問い詰めたんだがな。あの野郎、全部使っちまったと抜かしやがる。あんたとの逢引きに使った残りは競馬でスッちまったんだとよ。叩いても蹴っても同じことを繰り返しやがる。半殺しの目に遭ってるつうのに強情な野郎だぜ」

「て、哲哉さんは……、いえ、倉田さんは今どこに……」

簀巻(すま)きにして離れの納屋に押し込んである、いつでもコンクリート詰めにして海に沈める支度をしてな」

「そ、そんな、ひどい……」

「ひでぇのはあいつの方じゃねぇか。俺の金を二千万円もネコババしといて、全部使いましたごめんなさいはねぇやな。それ相応の償いをするのが物の道理っつうもんだぜ」

「…………」
 礼子は何と言葉を返せばいいのか分からなかった。が、哲哉がまだ生きていることを知って、ひと安堵していた。

「あいつが強情を張り通すっつうことはどっかに金を隠し持ってるに違いねぇんだが、奥さん、あんたが預かってるんじゃねぇのかい?」

「ええっ! まさか……。そ、そんなもの、わたし、見たこともありません」
 礼子はさっと蒼ざめた顔を激しく横に振った。

「そうかい。あんたもしらばっくれるってぇ訳か」

「わ、わたし、本当に何も知らないんです。信じてください」

「そんなはずはねえだろう、あいつと二人で派手に遊びまわってたあんたが……」

「本当です。お金のことは、わたし、今初めて聞いたんです」

「そうかい。俺としちゃあ、金さえ返してくれりゃそれでいいんだが、あの野郎もあんたも金を持ってねーのなら、別の思案が必要だな」

「よしッ」と後ろの手下二人に顔を向けた古谷は、ドスの利いた声で言った。
「倉田の野郎はもう用無しだ。ぶっ殺して、今夜にでも海に沈めちまいな」

「ま、待ってっ! 待ってください」

「待てだと? 奥さん、今更何を待つんだ?」

「お、お願いです。哲哉さんに、倉田さんに危害を加えるようなことはやめてください」

「そうはいかねえよ。よりによってこの『亮和会』の古谷亮次を(だま)しておいて、無事に済むとはあいつも思っちゃいねえはずだぜ」

「で、でも……。たとえそうであっても……。い、命だけは、命だけは助けてあげてください。お願いします」

「ほう、(かば)うのかい、あいつを……。それほどいい思いをさせてもらったってことかい?」

「…………」

「それとも、あんたがあいつに代わって二千万円を払ってくれるってえのかい?」

「そ、そんな大金、わたしには無理です」

「そうでもねーぜ。あんたのその綺麗な顔とからだがありゃ、なんとでもなるさ。ここで客を取るなりビデオに出るなりして思い切り働きゃ、ま、一年もありゃ返せるさ」

「そ、そんな……」

「あんたにそれが出来ねえっつうんなら、今日があいつの命日さ。そうでもしなきゃ、こっちは腹の虫が納まらねぇや」

「そ、それを……。あなたが今おっしゃったことをわたしが承知したら、あの人の……」

「ああ、命は助けてやってもいいぜ」

「ほ、本当ですねっ。哲哉さんを助けてくださるんですねっ」

「俺を見損なっちゃいけねぇぜ、奥さん。嘘は吐かねぇよ」

「わかりました。わたし、あなたのおっしゃる通りにします。ですから、哲哉さんを解放してあげてください。それから……」

「まだ他に頼みがあるのかい? ま、いいだろう。言ってみな」

「わたし、家にはいつ……」

「帰してもらいてぇのか? そいつは奥さん、あんた次第だ」

「しゅ、主人が……、五日後に出張先のカナダから帰ってきます。お願いします。それまでには必ず家に帰すと約束していただきたいんです」

「だから言ったじゃねぇか、あんた次第だと」

「わたし、どうすれば……」

「なぁに、簡単なことだ。ここで四日間、今こっちへ向かってるその道のプロの言いつけ通りにみっちり修行を積んで、女に磨きをかければいいのさ」

「そ、それは……、ど、どんな……」

「色の修行に決まってるじゃねぇか。あんたはこれから自分のからだで金を稼いで、倉田がネコババした二千万円を肩代わりしなきゃならねぇんだぜ。俺はあんたに、そのための支度をさせてやると言ってるんだ」

 ふっと冷酷な笑みを浮かべた古谷は、ミディアムロングのサラサラした髪に縁取られた端整な顔に暗い翳を宿した礼子を睨み据えた。

「…………」
 血が滲むほど唇を噛み締めた礼子は心底から後悔していた。が、すでに取り返しのつかない事態を招いてしまっている。些細な欲求不満からはじめた夜遊びが、かまってくれない夫のせいだと自分を正当化して不倫を続けた結果がこれだった。しかも、この窮地から逃れられる望みは一縷(いちる)もない。恐怖と絶望、そして虚無感に包まれた礼子は泣き叫ぶことすら忘れていた。

「そんじょそこらにゃいねぇ美貌と見事なからだをしたあんただ。ここでみっちり仕込まれりゃ、引く手数多(あまた)は間違いねぇ。俺が選りすぐった上客だけで秘密クラブを作って、身元もバレねぇし実入りも多い仕事が出来るようにしてやるよ。それならあんたも早く自由になれるってもんだぜ」

「…………」
 口を真一文字に結んで聞いていた礼子は、「身元がバレない、早く自由になれる」という古谷の言葉に一筋の希望の光を見出していた。が、娼婦同然のことを強いられることに変わりはない。それに古谷の言う「実入りの多い仕事」がどんなものか、想像がつかなかった。しかし、否応なしに古谷の命じることを受け容れなければならない。

「俺の言う通りにしてりゃ、家にも帰れるし、表ヅラは今までと変わらねぇ生活が出来るってもんだぜ。ま、ここに通ってこなきゃいけねぇのも一年だ。金を返し終えりゃ、晴れて自由の身に戻れるさ。それまでの辛抱だ。だからな、奥さん。何はともあれ、色の修行に励むことだな」

(ここに監禁され続ける訳じゃなさそうだわ。一年辛抱すれば元の生活に……)

 礼子は信じてみようと思った。
「わかりました。あなたのおっしゃることに従います」

 古谷の言葉を信じようと信じまいと、今の礼子には過去の自分と訣別する以外に選択肢はない。覚悟を決めた高階礼子は、切れ長で睫毛の長い魅惑的な目を古谷に向けた。

「それにしても、肌の(つや)といい肉付きといい、本当にいいからだをしてやがる」
 独り言を呟いた古谷は、手下のヒデに命じて、黒漆塗りの角盆を脇に持って来させた。

 チラリと視線を横に走らせた礼子は、盆の上で黒光りしている縄の束を見て大きく目を見張った。美しい瞳をおののかせ、胸乳を抱いた上半身をぶるぶると小刻みに震わせた。

「ほう、呑み込みが早いようだな、奥さん……。そうさ、今あんたが思ったように、この縄であんたのむちむちした白い肌をもっと綺麗に飾ってやろうって算段さ」

「こ、こうして裸になった私を、な、何も縛らなくても……」

「そうはいかねぇんだ。(なわ)()えする女を身動き出来ねぇようにしておいて可愛がるのが俺の趣味でな。さ、つべこべ言ってねえで、素直に両手を後ろへ廻すんだ」
 古谷は、黒縄の束を一つ手にすると、背中の不動明王を揺らしながら立ち上がった。

「ああっ、イヤっ」
 思わず後ずさりをした礼子の細く白い喉首がヒクヒク痙攣している。

「イヤもキライもねぇやな。したいようにさせてもらうぜッ」
 吐き捨てた古谷の眼は鎌首を持ち上げた大蛇のそれのように冷たく鋭くなっていた。

「さ、奥さん。俺に背中を向けて両手を後ろで組みな」

 古谷の瞳の奥で一切の抵抗を許さない冷徹な青い炎がゆらゆら揺れている。肌に墨を入れた極道者の凶暴さを改めて感じとった礼子は、為されるがままに成るより他はなかった。大きな黒い瞳に虚ろな風穴を開けた礼子は、瑞々しく実った白い乳房を抱き隠していた両手をふわっと胸前に浮かせた。

 震える睫毛の間から涙をしたたらせた礼子は、おずおずとからだの向きを変え、古谷に言われた通りに豊かな胸の隆起を覆っていた両手を静かに後ろへ廻した。哀しい色が滲む涙をこぼしながら左右の手首を腰の上で重ね合わせた。

「もっと高くだ。背中で組むんだよ」

「は、はいっ!」
 弾かれたように答えた礼子は、両肘(りょうひじ)を深く折って手首を重ね直した。滑らかな背筋をうねらせながら重ね合わせた両手首を背中高く持ち上げると、がっくり首を折って瞼を固く閉じ合わせた。

「よし、それでいい。ところで挨拶はどうした?」

(ええっ?)
 眼を開けて訝しげな面持ちで振り向いた礼子の鼻先を縄が撫でる。そのサラリとした触感が不思議に優しかった。

「この縄は、黒く染めた絹糸を丹念に()った細紐を編んで作った縄でな。お前さんのように格別いい女のために俺が特別に(あつら)えたものさ。だからな、礼子。先ずは、これからこの絹の縄でどうして欲しいのかをちゃんとお願いするのが礼儀つうもんだぜ」

 古谷は初めて「礼子」と呼び捨てにした。自分の意に従うことを誓った女には名前で呼び捨てた方が心を支配し易いことを知っている。古谷は、縄の端で礼子の艶やかな肩を軽く叩いて、縛ってくれと口に出して頼めと目顔で促がした。

(イヤよっ。どうしてそんなことをわたしがお願いしなくちゃいけないの? 縄で縛って欲しいなんて言えないわ。縄で縛って……、縄で……)

「そ、その縄でわたしを……、し、縛ってください」


                                                        つづく