鬼庭秀珍   呪縛の俘囚




      第四章 予期せぬ恥辱








 正木蘭子が中井啓二の元に身を寄せて三日目の月曜日朝――。
 中井は、蘭子が淡い水色のブラジャーとショーツをつけているのを見て、ブラジャーを外すように言った。


 中井の要求と行動が次第にエスカレートしていくことから、それはある程度予想していたことだった。
 中井は、羞恥心の強い蘭子が狼狽しながら頬を桜色に染める姿を愉しんでいる。縄目の恥辱に耐えている蘭子の切なげな表情に目を細め、身動き出来なくなった蘭子を一方的に愛撫することを好んだ。
 しかし、異様な営みが終るとすぐに優しさに溢れた男に戻り、不自然さのない行き届いた心配りをした。辛く切なく恥ずかしい思いを蘭子に強いる中井だったが、亡父の面影と重なる中井という男の愛を蘭子は信じていた。

 だからこそ蘭子は素直に中井の指示に従った。白く輝くしなやかな両腕を背中に廻してバックベルトのホックを外し、肩のストラップを二の腕に移動させて両腕を抜き、胸前で一つにからげた水色のブラジャーを床に落とすと両手で乳房を覆い隠した。

 中井はその裸の上半身を、昨日と同じように菱縄で飾った。この日の蘭子は、手のひらに包むと融けるように柔らかい二つの乳房を縄の枷で絞りだされ、水色のショーツ一枚の恥ずかしい姿で、夕食を終えるまでの長い時間を過ごした。



「蘭子。今夜は少し趣向を変えて、奴隷ゲームをしてみようか」

 夕食後に菱縄をほどかれた蘭子は、長い髪を後ろに結い上げ、温かい湯に首まで浸かってからだの凝りをほぐした。今まで髪の下に隠れていた白いうなじがほんのりと赤味を帯びていた。
 その艶っぽいうなじに見惚れていた中井が、寝室に戻るとすぐに、またも
可笑(おか)しなことを言い出した。

「えっ。それ、何ですか?」
 蘭子は内心、あの手この手で常に蘭子を拘束しようとする中井に呆れていた。

「言葉通りのゲームさ。奴隷役が蘭子で、僕がご主人様を演じるのはどうかな?」
 同意を求めるような言葉廻しをしても、中井はすでにそうすることを決めている。拒絶は勿論のこと、抵抗することも難しかった。

「中井さんがそうしたいのなら、わたし、構いませんけど……」

「そうか。きっと蘭子はそう言ってくれると思っていたんだ」

 満足そうな笑みを浮かべた中井は、クローゼットからなめし革の手提げバッグを持ち出すと、ジッパーを開いてベッドの枕元に置いた。そして、ニコッと笑うと、バッグから革製の黒い手枷を取り出した。
「これなら縄より楽なはずだよ。さ、両手を後ろに廻してごらん」

 優しい眼差しで促がす中井にうなずいて、蘭子は両手を後ろへ廻していった。

 黒いなめし革の手枷が、蘭子の白い華奢(きゃしゃ)な手首に吸いつくように(はま)って両手首の縄痕を覆い隠し、左右の手枷が短い鎖でつながれた。

 確かに縄でキリキリと縛られるようなきつさはない。しかし、両手の自由を奪われたことに変わりはなかった。胸の奥でまたモゾモゾと不安の欠片(かけら)(うごめ)いた。蘭子は、首を後ろに巡らせて腰をずらし、両手に嵌められた手枷を見つめた。

 その蘭子を抱き寄せた中井は、ようやく柔らかさを取り戻した二つの乳房をゆっくりと揉み上げた。赤味が増してきたうなじに口吻を注ぎ、膨らみを増してきた両の乳首を指先でつまんで弄んだ。
「ああ……」と小さく喘いだ蘭子は、大きく首を反らせた。

 中井は片手で乳房を揉み続け、もう片方の手をバッグに伸ばして革製の黒いブラジャーを取り出した。乳房を覆うカップ部分が透けている。それを見た蘭子は、一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに顔を横に背けて目を閉ざした。

 黒革のトップレスブラが震える胸にあてがわれた。瑞々しい張りを回復してきた白い乳房の一つひとつが、本来カップがあるべきところに引き出されていく。黒革のブラジャーは乳房をいじめる枷に相違なかった。

「ううっ! ああっ」

 背中に廻されたバックベルトがぎゅっと引き絞られて蘭子は呻き声を上げた。
 その間にバックベルトが留められ、肩越しに背中を下った革のストラップも留め金に固定された。黒革のトップレスブラは、乳房の根元を緊め上げ、形のいい乳房に余計な膨らみを与えて前へ突き出させた。


「奴隷というのはね、蘭子……。どんなときでもご主人様に服従しなくちゃいけないんだ。屈辱に耐え苦痛も耐え忍ぶ我慢強さと従順さが大切なんだ。だから、キミも本物の奴隷になったつもりでしっかり演技をしてくれよ」
 中井は舞台監督さながらに注文をつけた。

 その中井が次にバッグから取り出したのは黒革の首枷だった。五センチ余りの幅広な首枷には前後に鉛色のリングがついている。それは蘭子の細い首をかっちり固め、うな垂れることすら出来ないようにするに違いない。蒼ざめた蘭子は、中井の提案をいとも簡単に受け容れた自分の甘い判断を後悔した。


「中井さん。このゲームはすぐに中止してもらえませんか?」
 蘭子は半ば涙声になって頼んだ。が、中井はその頼みを冷たく撥ねつけた。
「何を言ってるんだ。キミの気紛れで中止することが許されると思ってるのか」
 中井はすでにご主人様になりきっている様子だった。

「反抗の態度を示した罰として、キミの口を封じることにしよう」
 そう(うそぶ)いた中井は昨夜使った黒い革帯の猿轡を再び取り出した。後じさりする蘭子を捕まえると、嫌がる蘭子の口にゴム球を強引に咥えさせて蘭子から言葉を奪った。

「うぐっ、ぐうううっ!(イヤっ、もうやめてっ!)」
 蘭子は革帯の猿轡を装着された顔を激しく左右に振ったが、その頭髪を中井がわしづかみにして後ろに引いた。
「ぐうっ!」と仰け反った蘭子の首に素早く黒革の枷が嵌められた。

 ほっそりと白い首にぴたりと装着された首枷の後ろのリングに革紐が通され、左右の手枷をつなぐ鎖の中央を持ち上げる。蘭子の両腕はまたもや背中高く吊り上げられた。


 上下の顎を開き広げる猿轡に喘ぐ喉首に幅広の枷を嵌められ、黒革のトップレスブラに白い乳房を絞り出され、手枷を嵌められた両手は高手小手の位置に固定されている。蘭子は縄で縛られた時とは違う屈辱を感じた。
 その上、エアコンの風が女の恥丘に密生している繊毛をそよがせ、あられもない姿を晒している蘭子の羞恥心をさらに煽った。蘭子は、肉付きのいい太ももをぴったり閉じ合わせ、首枷に覆われた喉を震わせた。


「さ、蘭子。そこに立つんだ」という中井の命令に気持ちが抗った。が、もはや逆らいようがない。蘭子はおずおずとその場に立ち上がった。

 くびれた胴に黒いなめし革のコルセットが巻かれ、背部が革紐で編み上げられていく。白く柔らかい腹部が次第に強く(しぼ)られていく。
「うっ、んんっ、うぐっ」と呻く蘭子の呼吸が荒くなった。黒革のコルセットは蘭子の元々細い腰周りを更に細くし、蘭子の蒼ざめた顔と真っ白い胸は涙と涎でぐしゃぐしゃに濡れていった。


 強い屈辱感を味わい、トップレスブラとコルセットが緊めつける肌身の痛みに耐え、中井の手指と舌に性感帯を責め立てられて嗚咽を洩らす。拘束具に両手の自由を奪われ、言葉まで猿轡に奪われてしまっている。
 類い稀な美貌と見事に均整のとれた肢体の持ち主である蘭子にも、もはや被虐官能の妖しい炎に炙られて身を焦がすしか、他に術がなかった。


 小一時間の後にゲームを装った異常なセックスのひと時にピリオドが打たれた。途端に手のひらを返したように態度を一変させた中井は、懸命に蘭子を労わった。

「ごめんね、蘭子。少々やり過ぎてしまった。許してくれ。この通りだ」
 中井は土下座をして平謝りに謝った。


 蘭子は枷の苦しみから解放された細首をかすかに縦に振ったが、言葉は発しなかった。ただ呆然として窓の外の夜景を眺めていた。




 高輪台滞在が四日目を迎えた火曜日の朝――。
 蘭子は、用意してきた着替えのブラジャーとショーツの中から純白のものを選んだ。


「昨夜はごめん、図に乗ってしまった僕が悪かった。気を取り直してくれたかな?」
 中井は、爽やかな印象の白い下着に目を遣ってホッとした様子だった。

 朝食が済んでまもなく、中井に一本の電話が入った。

「会社からの急な呼び出しなんだ。折角の休暇中に迷惑な話だよな」と、珍しく蘭子の前で不満を鳴らし、中井は出勤の支度にとりかかった。

 スーツに身を包んだ中井は、なるほど大会社の副部長だと思わせる貫禄を備えていた。蘭子が中井に初めて出会った時に見たバーバリーのブリーフケースを片手に提げている。が、もう片方の手には麻縄の束が握られていた。

「僕が出かけてる間にキミが姿を消すんじゃないかと思って、とても会社へは行けそうもないんだ。だから蘭子、頼むよ。これで僕を安心させてくれないか」
 キミだけは絶対に失いたくないんだ、と中井は(すが)るような眼差しを蘭子に向けた。

「頼まれ仕事は午前中に済ませてお昼過ぎに帰ってくるよ。例え午前中に終らなくても、帰宅が一時より遅くならないようにするから」と、中井は語気を強めた。

「はい、わかりました」

 小さく短く答えた蘭子を後ろ手に縛り上げた中井は、蘭子を寝室に連れ入れると縄尻をベッドの足につなぎ、猿轡までほどこした。
 そして、丸めたシルクのハンカチを蘭子の口の中に詰め込み、細く折った長い白布で紅唇を割り、中ほどにこしらえた大きな結び目で口に押し込んだハンカチを押えてうなじで固く結ぶと、さらにその上を幅広に折りたたんだもう一枚の白布できつく覆った。
 そこまでしてやっと得心がいったのか、ようやく、中井は会社へと出かけて行った。


 蘭子一人が取り残された広いマンションの中は深閑としていた。しかも裸同然の姿で縛られ、猿轡で厳しく口を塞がれている。呻き声や嗚咽を洩らすことは出来ても、言葉を発することはできなかった。しかも、蘭子をベッドの足につないだ縄の長さが二メートル弱だったために動ける範囲も限定されていた。

 ふっと、頭に『拉致・監禁』という言葉が浮かんだ。理由を知らない他人が見れば、今の蘭子はまさにその状態である。誰かに救って欲しいと願う、あるいは自ら脱出するために縄抜けを試みる。それが当然と思われる状況下にいた。

(そうだわ。わたしもやってみよう)
 蘭子は縄抜けを試みた。が、中井がかけた縄は(ゆる)まなかった。背中に束ねられた両手首と二の腕の皮膚に痛みを感じたのみに終った。

(中井さんって、わたしを拉致・監禁した犯人で、助けにくる白馬の騎士でもあるのよね)
 そんな他愛ないことに思い当たった蘭子は、(なんだか、わたしも変だわ)と、心の中で苦笑した。が、そうした思考は中井を信じ切っている証しに他ならなかった。

 しばらくして、蘭子はおもむろにベッドにうつ伏せになって目を瞑った。背中に括り上げられた両手首の先の指を握り締めたり開いたりしているうちに睡魔が蘭子を襲った。



 うつらうつらしていた蘭子の耳に、入り口のドアの鍵が外からカチャカチャっと開けられる音が届いた。壁の時計に目をやると、まだ十二時半を少し回った時刻だった。

(中井さん、約束より早く帰ってきてくれたんだわ)

 蘭子の顔が輝き、自然に笑みがこぼれた。後ろ手に縛られている不自由なからだを起こしてベッドの端に腰掛け、蘭子は中井を待った。

 その中井が寝室のドアを開けて顔を見せた。待ち侘びていた蘭子は、猿轡を咬まされていることを忘れて「お帰りなさい!」と声をかけた。勿論、「うぐぐっ」と、くぐもった声が猿轡から洩れ出たに過ぎない。

 しかし、次の瞬間、蘭子は顔色を一変させた。中井の後ろから見知らぬ熟年男が顔を覗かせたからである。
 蘭子は、縄をまとった裸身を揺すってさっとベッドから降りた。その場に小さく身を縮め、予期せぬ訪問者の視線を避けるように背を向け、前屈みに丸めたからだを小刻みに震わせた。


(ど、どうして? こんな恥ずかしい姿を晒しているわたしの前に、どうして他所(よそ)の人を連れてきたの?)

 無神経な中井の振る舞いを(なじ)ってやりたかった。が、猿轡が蘭子にそれをさせてくれない。言葉を奪われている自分が哀れだった。
 今はそのこと以上に、中井以外の男に痴態を見られたことの衝撃は大きかった。今すぐ死んでしまいたいほど辛かった。蘭子の羞恥心は否が応でも高まり、動揺は激しさを増していった。


 それにも関わらず、中井は平然と蘭子に伴った男を紹介した。
「蘭子。この人は鬼束(おにづか)(ぜん)(ぞう)さんといってね。僕が最も信頼してる人の一人なんだ」

「鬼束です。突然のことでさぞ驚かれたでしょうが、こちらの中井さんとはかれこれ四半世紀のお付き合いをさせていただいている者です。お見知りおきください」
 鬼束善三は、震える蘭子の背中を見つめながら慇懃(いんぎん)に挨拶をした。中井と比べると小柄だが、胸板の厚い頑丈な体躯をしていた。

「ゼンさんとの付き合いが始まったのは、僕がまだ中学生の頃だもんな」
「ええ。まだ年端もいかない若造の頃に放浪旅に出ていた私が、坊ちゃんのお父上のご厚意でふた月も長逗留させていただいた時がそうでしたね」
 中井と鬼束は、親しげに「ゼンさん」「坊ちゃん」と呼び合って、二人の信頼関係を誇示するような短い会話を蘭子に聞かせた。

「そうそう。実は、蘭子に話しておかなきゃいけないことが出来たんだ」
 急に改まった口調になった中井が、今日ここに鬼束を伴った理由の説明をし始めた。

 それによると、出勤して小一時間が経った頃に営業本部長から、身内に不幸のあった部長に代わって二泊三日の関西出張をするよう命じられたという。今日の夕方五時までに大阪に入ることを約束させられたということだった。

「他に代われる人間はいなんだって頼み込まれると断れなくてさ。ムシャクシャして屋上でひと休みしてたら携帯が鳴って、それがたまたまゼンさんだったんだ」

 予定の仕事をおざなりに片付けた中井は、オフィス近くの喫茶店で鬼束と旧交を温めた。その時に蘭子のことを鬼束に相談したらしい。
「ゼンさんが私で良ければって、僕が留守中のキミの話し相手を快く引き受けてくれたんだ。それで一緒に来てもらったって訳なんだよ」

 蘭子は、縄も猿轡も外そうとしないで一方的に話す中井の説明に納得がいかなかった。
 中井が信頼を寄せている相手でも、蘭子にとっては見知らぬ男である。その鬼束に蘭子のことを話したのみならず、わざわざ連れ帰って来た中井に憤りさえ感じていた。
 この一週間は二人だけで過ごす計画だったはずである。止むを得ない事情が出来たのなら計画を中止すればいい。
仮に説明通りであったとしても、中井はなぜ、一人で先に帰宅して蘭子の縄をほどいて服を着せなかったのか、どうして鬼束を外で待たせておかなかったのか……。中井には説明とは別の意図があるように蘭子は感じた。

 中井への疑念が次から次へと湧いて来て蘭子の脳裏に渦巻いた。その蘭子の耳に意外な言葉が飛び込んできた。
「ゼンさんはね、僕のお師匠さんでもあるんだ」

(えっ、お師匠さん? 何の? もしかして……)
 蘭子は、漠然とだが、中井啓二と鬼束善三のつながりに淫靡なものを直感した。悪寒を催させたその直感が正しかったことを、蘭子はまもなく知ることになる。

「しかし、それにしてもずいぶん綺麗な方ですねぇ、ぼっちゃんが惚れ込んだというこちらのお嬢さんは……」
 ふうーっと感嘆の息を吐いた鬼束は、油断のない目付きに変わり、依然として身を縮めている蘭子を見つめ直した。

 その鬼束の視線が尖った針になって素肌に刺さるのを感じた蘭子は、思い切って振り向いて中井の顔を睨みつけた。
(なぜなの? こんな姿のわたしを人目に晒して恥辱するのはなぜなの? これもあなたの言うゲームなの?)
 勿論、厳しい猿轡をほどこされている蘭子の問いかけは言葉にならない。「ぐっ、うぐっ、うううっ」と呻き声に似た音が連なっただけである。

「蘭子。さっきも言ったようにゼンさんは全幅の信頼を置ける人だから、その辺の熟年オヤジと違って、まかり間違ってもキミの操を汚すようなことはないから安心していいよ」

「そうですよ、お嬢さん。啓二坊ちゃんの大切な方に懸想(けそう)をするようじゃ、この鬼束の男が(すた)ります。安心してください」
 鬼束善三は分厚い胸板を拳でポンと叩いた。

「そんな訳で、後はゼンさんに任せて、僕は大阪と神戸を回ってくるよ」
 収納棚から旅行用のバッグを取り出した中井は、慣れた手順で替えのスーツに下着類を詰め込んでそそくさと旅支度を済ませた。

「それじゃ出かけるよ、蘭子。あっちの美味しい物をお土産に買ってくるから楽しみにしててくれ。それじゃ、ゼンさん。後はよろしく」
 中井は目顔で鬼束に何かを伝えたが、立ち上がって縋りつこうとする蘭子は無視して出かけて行った。



「それにしても、白装束とは……。お嬢さんもそれなりの覚悟をしてたんですか?」

 二人だけになると蘭子の正面に腰を下ろした鬼束善三は、純白のブラジャーとショーツに、白布の猿轡にまで舐めるような視線を這わせた。

(何を言っているの、この人は……)
 蘭子には鬼束が問いかけたことの意味が解らなかった。仮に理解できたとしても、猿轡が外されない限りは答えようがない。蘭子は、切れ長の美しい目の大きな瞳にうっすらと涙を滲ませて顔を斜めに伏せた。

「なるほど……。しかし、いけないなあ、何も説明していないのは……」
 蘭子の目の色から状況を読み取った鬼束はそう呟くと、改めて蘭子を見つめた。

「私は、坊ちゃんからお嬢さんの写真を見せられた時は久し振りに心が躍りましたね。時代が変われば美しさの基準も変わるようですが、私のように還暦が近い男にとっちゃ、お嬢さんは理想の美女に他なりません。その類い稀な美貌の持ち主をこうして目の前で拝むのは、六十年足らずの人生で後にも先にも今日が初めてです」
 鬼束は、自分の美女鑑定に間違いはないと胸を張ってから言葉を継いだ。

「啓二ぼっちゃんが何で臆病風に吹かれてるのかは、こうしてお嬢さんに会ってみると何の説明もいりません。見かけが綺麗なだけの女と違って、胸の奥から滲み出てる清らかな心根が私には見えます。しかし、選りによってそのお嬢さんをこれから私が……」

 急に口をつむいだ鬼束は、遠いところを見つめるような表情を見せた。気持ちに迷いが出ている様子だった。が、まもなく、すっと顔を上げて蘭子の目を見据えた。

「どうせすぐに分かることだから、お嬢さんには、今のうちにちゃんと説明しといた方が親切ってもんでしょうね。それに坊ちゃんのことをよく理解してもらうためにもね」

 真剣な眼差しを蘭子に向けた鬼束は、自分がここに招かれた事の次第と中井から頼まれた仕事の内容を語り始めた。

「私が中井の旦那さんに世話になったことも啓二坊ちゃんとの長い付き合いもすべて本当の話です。ただ、お嬢さんもうすうす気づいてると思いますが、私はお天道様をまともに拝めるような男じゃないんです」

 鬼束善三は、ヤクザや暴力団の組織とは一線を画しているものの、裏の世界では「鬼善」と呼ばれている縄師であり、蘭子の調教を頼まれたことを打ち明けた。そして、中井には素っ裸に剥き上げた女を縄で縛りたがる性癖があり、そうなった原因を淡々と語った。幼い頃に偶然覗き見た両親の営みがきっかけらしかった。

「う……。うう……。ううーっ」
 余りの衝撃に蘭子は長い睫毛の間から大粒の涙をこぼして泣き崩れた。猿轡に口を塞がれていなければ狂ったように泣き叫んでいたに違いない。

「お嬢さん。この際、思い切り泣くことです。そうすりゃ、少しは楽になります」

 優しい言葉をかけた鬼善は、号泣し嗚咽を繰り返す蘭子の姿を眺めながら、「啓二坊ちゃんも罪作りなことを……」と独りごちた。そして、そっと寝室から出ていった。しばらくは蘭子一人にしておいた方がいいと判断したらしかった。

 鬼善が寝室に戻ってきたのは小一時間の後だった。
 蘭子はすすり泣きに変わっていた。その肩に手を添えて「少しは気が済みましたか?」と顔を覗き込んだ鬼善に、蘭子は力なく
首肯(しゅこう)した。「それなら良かった」と目で笑った鬼善は、蘭子の顔の下半分を覆っている猿轡を外した。

「さて、お嬢さん。こっからは縄師鬼善として仕切らせてもらいますぜ」
 そう宣言した鬼束は言葉遣いをガラッと変えた。姿勢にも凄みが出てきたのを目の当たりにして、気圧された蘭子は「は、はい」と答えていた。

「最初に断っとくが、先ずは、俺を信じてあんたの肌身を任せることだ。といっても手篭めにする訳じゃねーからその心配はしなくていい。とにかく俺の言うことを素直に聞いて命令された通りにすることだ。でなきゃ、不本意ながら、少々手荒な真似をすることになる。そいつを忘れちゃいけねーよ」

 まだ後ろ手に縛られている蘭子は、鬼善の迫力にたじろぎながら、「わ、わかりました」と返事をした。

「いい返事だ。だがな、観念した振りはいけねーぜ。こう見えても俺にとっちゃ、肩や腕の関節を外したり股関節をずらしたりするのは朝飯前だってぇことを肝に銘じておかなきゃ、泣きを見ることになるからな」
「…………」
「ほう、そんなことは信じられねぇって面をしてるな。ちょいと試してみるかい?」

 ニヤッと笑った鬼善は、右手をすっと伸ばして指先で蘭子の鳩尾を軽く突いた。その瞬間に蘭子はくらくらくらっと眩暈(めまい)を覚えた。
 鬼善がその節くれ立った手指に秘めた恐ろしい技を自分の身をもって知った蘭子は、まだ縄に縛られている胸を恐怖に震わせた。


                                    続く