鬼庭秀珍   呪縛の俘囚



      終 章 妖女の門出








 縄師鬼善こと鬼束(おにづか)(ぜん)(ぞう)の縄に責められて四日目。
 
正木(まさき)蘭子(らんこ)は、闇のカンバスで(またた)いていた星々が輝きを失い始めた時刻に目覚めた。


 窓のない部屋に閉じ込められている蘭子は、壁時計が午前四時半を指しているのを見て空が白み始める夜明けの光景を想い浮かべた。昨夜は九時過ぎから泥のようになって眠りに落ち、思い切り熟睡できたことで気分がすっきりしていた。が、鬼善が姿を見せるいつもの時刻まで、まだ三時間近い暇がある。

 何もすることがなく何をさせられることもない状況は、それが当然の如くに、蘭子の意識を自分自身へと向けさせた。その自分は今、両手を縄で後ろに縛られ細い腰も縄にくびられている。素肌にまとわされた縄の存在が、「縛られて感じる女」・「被虐を悦ぶ女」という淫靡な言葉を蘭子の脳裏に大きく浮かび上がらせた。

「絶対に違う!」と断言し切れない自分が、蘭子は歯痒(はがゆ)かった。

 思い起こせば、初めのうち肌を緊めつける縄は痛いだけだった。しかし、その痛みが痺れに変わり、奇妙に甘い感覚が全身に広がっていったように思う。そしていつの頃からか、縄が肌に触れるだけで女陰の奥が疼くのを感じるようになった……
 後ろに廻して背中に重ね合わせた両手首を縛られると女陰の内部が潤い始め、乳房の上下に縄がかると花肉の(ひだ)蠕動(ぜんどう)するのを覚えた。縄が引き絞られるたびに鼻を鳴らして呻き、縄が柔肌に喰いこむたびに甘い喘ぎ声を洩らした。股間に縦縄をかけられ女陰と肛門に異物を咥え込まされた時には狂わんばかりに乱れ、(はした)ない言葉まで口にした……

 鬼善の言葉を否定し切れないはずだった。

(わたし、変わってしまった。いいえ、変えられてしまった……)

 蘭子は切れ長の美しい目を潤ませ、長い睫毛の間から大粒の涙をこぼした。その涙が白く冴えた端整な頬を伝ってしたたり落ちて震える乳房と柔らかな太ももを濡らした。




 午前八時が迫った頃、鬼善がトレイを両手に抱えて現れた。蘭子のそばに置かれたトレイにはおにぎりが二つと豆腐とワカメの味噌汁が載っていた。

「今朝はこんなものしか用意できなかったが、ま、我慢して食ってくれ」

 済まなさそうな顔をした鬼善は、くびれた腰をさらに細くしている腰縄をするすると外し、華奢な両手首を後ろに縛った縄もほどいた。

 渡されたウエットティッシュで両手を拭った蘭子はおにぎりに手を伸ばした。その目の周りが泣き()れているのを見てふうーっと何やら思案した様子の鬼善だったが、すぐに素知らぬ顔に戻って部屋の隅に控えた。

 朝食を食べ終えた蘭子を風呂場に引いて行った鬼善は、「ゆっくりでいいから、いつもより念入りに身体を清めるんだ」と素っ裸のしなやかな背中を押した。

 追われるように浴室に足を踏み入れた蘭子はハッと我が目を疑った。浴槽にたっぷりと熱い湯が張ってあったからである。蘭子は、嬉しさが込み上げてきた胸に手を置いて鬼善の心配りに感謝した。そんなこともあって、蘭子はこの朝の入浴を軽やかな気持ちで済ませることが出来た。

 身も心も爽やかさを取り戻した蘭子が笑みを浮かべて浴室を出ると、脱衣所の長椅子に腰を降ろした鬼善が目の前に置いた江戸指物(さしもの)の古い木箱を見つめていた。磨きと手入れが行き届いている木箱を鬼善は、蘭子がバスタオルを胸に巻いて濡れた髪をドライヤーで乾かしている間もジッと見つめていた。が、乾いた長い髪を後ろに結い上げ始めると、ついっと蘭子を振り返って呟くように言った。

「こいつは昔気質(むかしかたぎ)の腕のいい職人にこしらえてもらったものなんだが、今まで一度も使っちゃやれなかった。俺の棺桶に一緒に入れてもらう他はねーだろうと諦めてたんだがな」

 鬼善の口調が意外にしんみりしていることに軽い驚きを感じた蘭子だったが、当の鬼善はそこから急に声のトーンを明るくして話を続けた。

「ところが、神さんはあんたという()い女に俺とこいつを引き合わせてくださった。『捨てる神あらば拾う神あり』てぇのは本当だな」

 人懐こい笑みを浮かべた鬼善が空けた木箱の中には艶光りしている白い縄の束が二つと真紅の細長い布が入っていた。髪を後ろにふっくらと結い上げ終えた蘭子は、引き込まれるように白と赤のコントラストが目映い箱の中を見つめた。

「こいつは上質な絹糸を何本も()って編み上げた特別な縄でな。あんたのようにはんなりした風情があって高い教養も兼ね備えた女のために大事にとっておいた縄なんだ」

 鬼善は木箱から取り出して掲げた白い縄に己の純真を注いできたらしかった。その一途さと自制心の強さを改めて知った蘭子は、なぜか微笑を浮かべていた。心とからだが鬼善とその絹の縄に反応したようだった。

「今日は昼頃に啓二坊ちゃんが帰ってくる。その前にこいつで縄化粧だ。あんたのような汚れのない女が一番綺麗になる縄をかけてやるよ。さ、そこに立ちな」

 抵抗する意思のない蘭子は、コクンとうなずいて立ち上がると、絹縄の白さに負けず劣らない艶を放っている優美で伸びやかな腕をいつものように静かに後ろへ廻し、左右の手首を自ら背中の中ほどに重ね合わせた。

 蘭子が自ら重ね合わせた両手首に巻きついた白い絹縄は、引き絞られるときゅきゅーっと鳴いた。抜け止めの(かんぬき)(なわ)を隙間に通して両手首を縛り終えた絹の縄は、肩甲骨の間に出来た溝を這い登ってほつれ毛が艶っぽいうなじの上で一旦結ばれ、左右の首のつけ根を挟み込んで前に廻った。

 艶っぽく浮き立つ鎖骨の中央で結ばれた白い縄は、胸前に垂れて二重に揃えられると、くるくると小さな環を描きながら繰り返し絡められていった。そして、それぞれの間隔が異なる結び目が三つ作られ、その下にコブのような形状をした結び目が大小二つこしらえられた。

(ああ、やはり……)
 蘭子は、その縄のコブが股間の前後に埋め込まれることを察して顔を赤らめた。

「もう分かったようじゃないか。あんたが思った通りにしてやるから、股を広げな」

 そう決めつけられて薄く目を閉ざした蘭子は、足の(かかと)を少しずつ左右にずらして、ぴっちり閉ざしていた吸い着くようにねっとりと白い太ももの間をゆるめた。

 幾つもの結び目を施された絹の縄は、白い光を放って太ももの隙間をくぐり、張りのいい双丘の狭間を伝い登った。そして、手首の縄に結び止められたが、まだこの時点では縄はまだどの部分も素肌に触れているだけである。蘭子に緊縛感はなかった。

 続いてもう一本の絹縄がうなじにかかる縄に絡んで結ばれた。

 二本目の白い縄はふた手に別れて左右の腋の下をすり抜け、鎖骨のそばの結び目のすぐ下で縦の二重縄を左右に広げて背中に戻った。そして、交差すると肋骨の上部から前に廻り、乳房の谷間に近い結び目の上の縦縄を左右に引き広げて後ろに戻り、肋骨の下部を通って乳房の下に垂れている縦縄を引き広げた。さらにからだの前後を何度も往復して、二つの瑞々しく熟れた乳房と縦に形よく切れたヘソを取り囲んだ。

 二重の縦縄が引き広げられていくにつれて柔肌が次第に強く緊めつけられていく。蘭子は恥ずかしい声を立てないよう口を真一文字に結んでいたが、つい「う……」と小さく呻き、ついつい「あ……」と感情が昂ぶり始めたような喘ぎ声を洩らした。

 その蘭子が「ああっ!」と叫んだ。恥骨の脇を走った縄が上から三番目の結び目とコブ状の結び目の間の縦縄を引き広げ、剥き出しにされた女陰の花唇に縄のコブがもぐり込んだからである。最後の結び目が微肉の筒口に(ふた)をすると、蘭子は「イヤっ」と小さく叫び、「ああ……」と縄をまとった全身をくねらせた。

 縄化粧が終った蘭子を洗面台の大鏡の前に立たせた鬼善は、「さ、しっかり見るんだ」と蘭子の後頭部を押えて顔を鏡に正対させた。

(これが……今のわたしなのね。でも……)
 鏡に映った自分の姿の妖艶さに蘭子は思わず見惚(みと)れた。

「どうだい、綺麗だろ? 亀甲(きっこう)縛りといってな。いい女を益々いい女にする縄がけだ」
 蘭子の裸身の前面に亀の甲模様が縦に三つ描かれていた。

「よく似合うぜ。俺の絹縄とあんたの雪肌が競り合ってるみてぇだ。しかしあれだな。あんたのように縄栄えする別嬪さんに会えるのは、後にも先にもこれっきりだろうな」

 一抹(いちまつ)の寂しさを語尾に滲ませた鬼善は、木箱の中から真紅の絹布を取り出し、蘭子の傍らに片膝を突いた。

 幅十センチほどの細長い布の片端を紐のようにねじった鬼善は、その布紐を蘭子の腹部に巻きつけて後ろの腰上で結ぶと、尻の狭間に引き降ろして股間に喰いこむ縦縄を覆うようにして前に引き出した。
 そこで真紅の布を幅いっぱいに広げ、縦縄に割られた剥き出しの恥丘を隠しながらヘソの下の布紐に差し入れて返し、余りを前に垂らした。


「よしっ。これで出来上がりだ」
 満面に笑みを浮かべた鬼善は、鋭かった目を優しく細めて真紅の(ふんどし)をした蘭子をみつめた。幅の狭い真紅の褌の下では縄のコブが女の急所を(なぶ)っている。
 鬼善の視線に赤面した蘭子は全身を紅潮させていった。


「それじゃ、行こうか」
 縄尻を握った鬼善は、調教室にではなく、蘭子を寝室へと引いていった。




 寝室に連れいれた蘭子をベッドのそばに横座りにさせた鬼善は、急に姿勢を正して言葉遣いを替えた。
「お嬢さん。これで私はお嬢さんとお別れさせてもらいます」

「ええっ?」蘭子は唖然とした。

「正直、後ろ髪を引かれておりますが、中井の坊ちゃんの想いびとにこれ以上かかわる訳にゃ参りません。その坊ちゃんのことを二つ三つお願いして置きたいんですが、よろしゅうございますか?」

「…………」目を逸らした蘭子はしばらく口を開かなかった。
 が、深呼吸をして縄に絞り出された胸乳を揺らすと、視線を鬼束に向けて「どうぞおっしゃってください」と答えた。鬼束善三の真摯な態度に
胸襟(きょうきん)を開いた様子だった。

「それじゃあ申し上げます。以前にもお話ししたと思いますが、坊ちゃんは素っ裸になった女の方を縛りたがる性癖を持っておられます。考え方次第ですが、私から見ればセックスの前戯(ぜんぎ)みたいなもんです」

「…………」蘭子は小さくうなずきながら耳を傾けた。肌身を縄で(さいな)み続け、今もこうして一糸まとわぬ蘭子を亀甲縛りにした縄師鬼善こと鬼束善三の話を。

「ただ、時折行き過ぎてしまうことがあるようです。当人に悪気はございませんが……」

(そうかしら?)と蘭子は考えつつ鬼束の話を聞いた。

「縄を扱う者には、相手の女性に対する尊敬の念というか、個人の尊厳を認める心構えと愛情が必要です」

(そうよ。そうでなくちゃ女は耐えられないわ)

「坊ちゃんにもその心構えは出来ております。しかし、お嬢さんへの熱い気持ちが時としてあらぬ方向へ走らせてしまうようです。ですから、お嬢さんには、そこのところを上手にいなしながら坊ちゃんと付き合ってあげていただきたいんです」

「わかりました。鬼束さんのおっしゃることは、わたし、よく理解できました」

「それはありがたいお言葉を頂戴しました。お嬢さんのお陰で私も中井の旦那さんから受けたご恩を少しお返し出来そうです。最後にもう一つ。坊ちゃんがお帰りになったら、優しく迎えてあげていただけないでしょうか?」

「はい、努力してみます」

 蘭子のきっぱりした返答に、相好を崩した鬼束は何度も頭を下げて立ち去って行った。
 その後ろ姿を見送った蘭子は、鬼束が縄師鬼善と同一人物だとは到底思えなかった。が、彼がかけた亀甲縄に今も蘭子は囚われている。


 中井が帰ってくるという正午まで、まだ二時間ほど間があった。

 蘭子は、好々爺に変わった鬼束善三に頼み込まれたことを考えながら、その鬼束が縄師鬼善として目前に現れた時から今までの記憶を辿(たど)っていった。
 その日々は時間が止まっているように長く感じられたが、実際はあしかけ四日、正味三日間に過ぎなかった。にもかかわらず、自分は大きく変貌した。蘭子は改めて鬼善の凄さを悟った。


 プロの縄師だという鬼善は、縄以外の拘束具は使わなかった。縛ってはほどき、ほどいては縛るの繰り返しである。
 その間、鬼善は蘭子の羞恥心を
(あお)り続けた。身動き出来ないように縛り上げて女の恥部をさらけ出させ、鏡を使ってあられもない姿を蘭子自身に見せつけた。
 鏡の中の淫靡で妖艶な女は蘭子の目を釘付けにして、蘭子を異妖な感覚世界に引き込んだ。
 女の急所を縄で緊め上げて女の花肉を喘がせ、女陰や肛門に異物を呑み込ませて肉の花芯を疼かせた。


 そうした鬼善のやり方は、緊めつける縄の刺激に肌身を馴染ませ、緊縛された己の姿を目に焼き付けさせていく。屈辱と羞恥に心が千々に乱れ、辛く切ない思いが感情の昂ぶりにつながっていくように誘導していく。
 そしてもう一つ、鬼善は常に蘭子の心を和らげる気配りと心配りをした。そのせいか、あれだけ
酷な仕打ちをしていながら、鬼善は蘭子に嫌悪感を抱かせなかった。

(そうだったわ。わたし、いつの間にか鬼束さんを信頼してた……

 蘭子は、この短い期間に自分が変わったのは他の何ものでもなく、縄師鬼善が示した優しさが蘭子を自身が置かれた環境に順応させた結果なのだと得心した。




 鬼束善三が蘭子に別れを告げて立ち去って小一時間が経過した頃、中井啓二が関西出張から戻ってきた。が、都内のどこかのホテルで鬼善から進捗報告を受けていたに違いないと、蘭子はすでに見破っていた。

「ただいま!」と玄関で大きな声を出した中井は迷わず寝室に入ってきた。鬼束から状況の説明を受けていたが故の行動だが、中井は蘭子の妖艶な姿態を見て固唾(かたず)を呑んだ。

「き、綺麗だ……。蘭子。ほ、本当に、綺麗だよ」

 口をもつれさせた中井は、提げていた旅行バッグを放り出して蘭子の脇に腰を降ろした。

「お帰りなさい」

 蘭子は亀甲縛りにされている裸身をくねらせ、慈愛に満ちた優しい眼差しで中井の顔を見つめた。その蘭子の唇に中井は早速自分の唇を重ねた。


「うっ、んんっ」と鼻を鳴らした蘭子の白絹の亀甲縄に飾られた乳房を鷲づかみにして揉み上げた。蘭子の紅唇から放れると今度はしなやかな首筋とすべすべと丸い肩先に口吻を注ぎ、乳房を揉んでいた片方の手を鳩尾から下に向かってゆっくりと這わせていった。

「あっ、ああっ、あ……」と心持ち顎を上げた蘭子の股間に這い下りて行った手の指先が真紅の褌の下をまさぐった。
「イヤっ! そこは触らないでっ!」と蘭子は狼狽を示した。


「ふふふっ。蘭子の大切なところは綺麗さっぱり剃り上げられちゃったんだね」

 あからさまな言葉に顔を真っ赤に膨らませた蘭子は、怒りのこもった眼差しで中井を睨むと、叫ぶように言った。

「あなたが鬼束さんにさせたことなんでしょ!」


「おいおい、そんなに怒るなよ。その方が素敵だと思ってさ。とにかく後でゆっくり見せてもらうよ。今夜は思いっ切り可愛がってあげるから機嫌を直してくれよ」
 そう言い訳をした中井は、「汗を流して着替えしてくる」と言って、逃げるように寝室を出て行った。


 慌てふためく中井の後ろ姿に、蘭子は「ふふふっ」と含み笑いをした。
 そして、中井が姿を消した方向へ余裕たっぷりな笑みを投げかけ、白く輝く縄に縛められた肢体を艶めかしく揺らした。



                        


 一週間後。正木蘭子は成田空港で、シドニー行き直行便の乗務に就いていた。

「お待たせいたしました。よいご旅行を」

 制服に身を包んだ蘭子は、くびれた腰を四十五度に折ってひとり一人の搭乗客に丁寧な挨拶をした。
 タイトスカートの下のショーツが覆う女の恥丘を縦一文字に縄が走っていることは誰も知らない。腰を折るたびに女陰に喰いこんだ縦縄のコブが女の花唇と花肉の襞を刺激して、感情を昂ぶらせた。が、蘭子はいつもの笑顔を保った。
 そして、離陸時の搭乗員シートで薄く目を閉じた蘭子は、中井啓二ではなく、縄師鬼善こと鬼束善三の顔を瞼の裏に呼び起こして、そっとひそやかな笑みを浮かべた。


                                   −完−