鬼庭秀珍 柔肌情炎 |
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第二章 蔵座敷 1 亡父の一周忌法要を終えてまもなく質屋稼業を見限った八名瀬巌は、その後、JR飯田橋駅にほど近い雑居ビルに店舗を構えて商工ローン会社を営んでいる。いわゆる高利貸の一人に他ならないが、「顧客は生かさず殺さず」の巧妙なやり方で、日頃から運転資金の工面に頭を悩ませている中小企業や零細な商店の経営者から結構頼りにされていた。 もうじき還暦を迎える年齢になった八名瀬は寡夫暮らしである。といっても、小石川の大きな屋敷にたった一人で住んでいる訳ではない。 母屋の使用人部屋には先代から引き続いて屋敷内の雑務を任されている老夫婦が住み、先代が質屋を営むために母屋の東脇に建てた平屋の内部を居住用に改造した離れには吉村達也という三十五歳の秘書と大久保剛という二十九歳の運転手兼ボディガードがそれぞれ一室を与えられて寝起きしていた。 八名瀬自身はこれまで四度の結婚をしていた。が、子供はいない。最初の妻は結婚十三年目に膵臓がんで他界した。その後、周囲からの勧めもあって後妻をもらったものの、どの妻とも長続きしなかった。病死した妻への深い思いが後妻との関係をギクシャクさせたことも否めないが、むしろ八名瀬自身の変わった性癖に起因するところが大きかった。 その八名瀬が住む通称『けやき屋敷』には、母屋から五、六間離れた西側に大きな土蔵が二つ、出入り口を東に向けて並び建っている。 昭和三十年代に母屋が都の有形文化財に指定されてからは内部の造作を少し変えるにも許可が必要になったため、八名瀬の父は南側の広い庭に面する蔵を和風の蔵座敷に改造して居室とし、質草はすべて北の蔵に収めて管理するようにしていた。父の死後は八名瀬がその蔵座敷を専用の居室にしている。 ところが八名瀬は、四番目の妻に去られてまもなく北蔵に手を入れた。出入り口を密閉し、三間離れた南蔵との間に渡橋を架けて屋根裏をつないだのである。これによって北蔵への出入りは南蔵の屋根裏からでないと出来なくなった。北蔵を密室化したのである。 一方、母屋と渡り廊下でつながる南蔵には三十二畳の居間と二十四畳の寝間があり、板壁で仕切られているが北奥は襖になっている。その二つの和室の東側と南側を広縁のような一間幅の廊下が囲み、屋根裏への階段は緑豊かな庭に面する南廊下の突き当りにあった。 蔵座敷の中は密閉度の高い漆喰壁のお陰で冬は温かく夏は涼しい。特に、庭に面する部分を開放してある居間は風通しもよく、居心地がよかった。しかし、その開放部に分厚い一枚板の雨戸を立て込むことで外部から完全に遮断できるような工夫がしてあった。 三月末の土曜日夜――。 雨戸を立て込んだ南蔵の広い居間には、でっぷり太った目つきの鋭い初老の男と哀しみと羞恥の混じった色に包まれているように見える若い女性の他には誰の人影もなかった。 男の方は、勿論、この屋敷の主であり高利貸を生業とする八名瀬巌である。そしてうら若い美女は、誰あろう、神楽坂の老舗小料理屋『はなむら』の若女将・花村繭美だった。しかも、彼女が身にまとっているのは腰を覆う薄藤色の艶っぽい湯文字一枚だった。 素肌を露わに晒した上半身を前屈みに縮めている繭美の足許には、つい今しがた脱ぎ落とした淡い茶と白の格子縞が入った黄八丈の着物と薄紅桜の花びらを型抜きした濃紺の帯が弧を描き、水色の長襦袢と純白の肌襦袢が折り重なっている。八名瀬の視線を避けるように背を向け、胸前に交差させた両手で露わになった乳房をヒシと抱いて丸めた背中が滑るように白く輝き、羞恥の桜色に染まったうなじがほつれ毛を数本貼りつかせていた。 2 花村繭美が小石川の『けやき屋敷』訪れる四日前の火曜日――。 一人で『はなむら』を訪れた八名瀬巌は、いつものカウンター席で旨い酒と洗練された料理に舌鼓を打ち、勘定を済ませるとそそくさと帰っていった。が、その日の営業を終えた店内が繭美一人になるのを見計らったように電話をかけてきた。 「若女将、いつ行ってもおたくの料理には感心させられるよ。大したものだ」 「ありがとうございます、いつも贔屓にしていただきまして……」 当たり障りのない礼の言葉を返した繭美の頬は緊張に白く強張っていた。 「あれだけ美味いものを手軽な値段で食べさせてくれる店は、当節、おたくぐらいなものなんだがなあ。やはり今の世の中が悪いということかね、大繁盛とはいかないのは」 「はあ、なかなか望むようには参りません」 繭美は下唇を噛み締めた。売上げが伸び悩んでいることを知っていながら、わざわざそれを話題に挙げて繭美の胸内を掻き混ぜようとする八名瀬が憎らしかった。 「そうだろうな、こうも不景気が長引いては……。しかし、若女将。事情はどうであっても約束の期限は守ってもらうよ」 二年前の三月半ば、『はなむら』は、振り出していた手形すべてを買い集めて決済を先送りしてくれた八名瀬によって倒産を免れたが、一千六百万円を高利貸の八名瀬から借りた形になった。しかしその後も八名瀬は、繭美が支払おうと持参した利息分の金を受け取ろうとはせず、金のことは店が立ち直ってからでいいからと優しい対応をしてくれていた。 その八名瀬が突然手のひらを返したように、思いがけない通告を繭美に突きつけたのは丁度一か月前のことだった。 電話をかけてきた八名瀬は冷たくこう言った。 「若女将。早いものであれからもう二年だ。そろそろ貸した金を返してもらいましょうか。私も慈善事業をやっている訳じゃないんでね」 「ま、待ってください、八名瀬さん。急にそうおっしゃられても……」 余りに唐突な借金返済の督促に、予想もしなかった八名瀬の豹変ぶりに、繭美は唖然とさせられた。そして、仮面をかなぐり捨てた八名瀬が告げた言葉に愕然とした。 「私としては、くたびれるくらい待ったつもりだがね、若女将。だからこの三月末には、元金と利息を合わせて三千万円、耳を揃えて払ってもらいますよ」 「ええっ! 八名瀬さん、何かの間違いではないでしょうか。お借りしたのは千六百万円ですから、利息を含めてもそんな金額には……」 「何を言っているんだね。勘違いは、若女将、そっちじゃないのかね。契約書をよく読んでみなさい。とにかく来月末までに三千万円、用意しておいてくださいよ」 暗然として受話器を戻した繭美は、早速契約書を取り出し、時間をかけて細心に隅々まで読み返した。 すると、あの時、藁をもつかみたい気持ちで署名捺印した契約書には、よほど注意して読まなければ分からない小さな文字で細々とした附則が書かれていた。約定の金利十八パーセントは年利率ではなく半年の利率だった。しかも複利計算がなされるために、利息を支払わなければ半年毎に元利合計がどんどん膨らんでいく仕組みだった。 (こんな馬鹿な……)と嘆息しても、憤ってみても後の祭りである。 世間知らずの繭美は騙されていた。好意的に見えた八名瀬の対応は、それについ甘えて利息の支払いも後でまとめてするように仕向けた罠だったのである。 今繭美の手元には、八名瀬が受け取ろうとしなかった利息分を貯めて置いた約六百万円があった。が、後はどう算段してみても、三千万円はおろか一千万円にも満たなかった。 誰かに相談したくても今の繭美にはその相手がいない。 ふっと吉村達也の顔が脳裏に浮かんだ。しかし、元板前の彼は八名瀬に拾われて秘書になった男である。八名瀬の決めたことに異を唱えることが出来るはずがない。仮に吉村が返済猶予を提案してくれたとしても、八名瀬がそれを聞き入れるとは到底思えなかった。 3 このひと月の間繭美は、何度も銀行に足を運んだが一向に色よい返事はもらえず、焦燥感に苛まれる日々を送ってきた。そこに電話をかけてきた八名瀬は、真綿で首を締めるように繭美に迫った。 「金の支度は出来たかね」 「そ、それがまだ……」 ひと月やそこらで三千万円という大金を用意できるはずがない。繭美は口ごもった。 「工面できていないのか。それは困ったねえ」 語尾に同情感を滲ませた八名瀬は、何かを思案するように間を置いた。 繭美の心の動揺は激しさを増していった。すると、それを見定めたように八名瀬は唐突な提案を切り出した。 「どうだろう、若女将。今度の土曜日に小石川の我が家へ来ないかね、あんた一人で。私と二人で今後のことをゆっくり相談しようじゃないか」 (やはり……)という思いが繭美にはあった。開店後まもなく訪れた八名瀬はしきりに何か思案している様子で、チラチラ繭美を見る目に淫らな色が滲み出ていたからである。 「聞いているのかい、若女将?」 「はい。ちゃんと伺っています」 「もう一度言うよ。今度の土曜日にあんた一人でうちへ来てもらいたいんだ。まさか断ったりしないだろうね、若女将。ま、あんたが大事に守ってきた暖簾をたたんで商売を止めるというのなら、それでもいいがね」 「いえ、そんなこと、わたし……」 「そうだろう、そんな馬鹿な料簡を起こすような若女将じゃないはずだ。だからこそ今なんだよ、二年前にあんたが私に披露したことを証明して見せるのは……」 八名瀬が言う証明とは、繭美が我が身を投げ打つことに他ならない。牙を剥いた八名瀬は「お前の肌身を自由にさせろ」と言っていた。繭美は、血が滲むほど強く下唇を噛み締め、やりようのない憤りをこらえた。 「な〜に、ひと晩だけのことだ。それで『はなむら』が半年先まで安泰なら、悪い取り引きじゃないと思うがね。半年あれば情勢があんたに味方するかも知れないしな」 そう嘯いた八名瀬は、半年後の九月末日を期日とする額面三千万円の約束手形を持って小石川の『けやき屋敷』を訪れ、ひと晩泊まっていくよう繭美に迫った。 「学生時代の女友達からの急な誘いで一泊二日の温泉旅行に行ってくるとでも言っておけば、誰もあんたが私のところへ来ているとは思わないだろうよ」 家を空ける言い訳にまで立ち入ってくる八名瀬に繭美は怒りを覚えた。 しかし、『はなむら』の暖簾を守るためには、不運な事故死を遂げた父と病床の母を悲しませないためにも、八名瀬の要求を受け容れる他に繭美の選択肢はない。 それが自分の宿命なのだと意を決した繭美は、周囲に誰も従業員がいないのを確かめて小声で返事をした。 「何時に伺えばよろしいでしょうか」 「おお、承知してくれたか。それじゃ、こうしよう。うちに着いたら先ずは寛いでもらって、それから一緒に夕食を摂ろう。夕方の四時でどうかな」 「午後四時……ですね。分かりました」 受話器を置いた繭美の美しい双眸には悲愴な決意の色が浮かんでいたが、滲み出る涙がその決意の色を哀しみの色に変えていった。 4 腰に湯文字一枚を残すだけの姿になった繭美は、形のいい真っ白な乳房を両手でヒシと抱き締めてその場に身を縮め、八名瀬に背を向けて羞恥に震えていた。 「恥ずかしいのは分かるがね、若女将。こっちを向かなきゃダメだろう」 そう促がされておずおずと向き直った繭美の頬には赤みが差し、伏せた眼のあたりに切なさが色濃く浮かんでいる。 それを見た八名瀬は細い目をさらに細め、贅肉で膨れている頬とは対照的な薄い唇を舌で舐めながら、繭美の羞恥心を更に煽る言葉を吐き出した。 「腰のものも取ってもらいましょうか」 途端にすうーっと血の気がひいた顔を左右に振りながら繭美は声を震わせた。 「お願いです、八名瀬さん。こ、これだけは……許してください」 「困るなあ、若女将。私は今度も借金返済の先延ばしを快く引き受けたんだよ、今夜ひと晩、あんたが私の言う通りになるのと引き換えに……。それを忘れたのかね」 「そ、それは……」 「憶えているのなら、潔く腰のものをとったらどうだね」 突き放された繭美は下唇を噛んだ。いまにも涙がこぼれ落ちそうだった。 「どうしたね? 自分でとれないのなら私が取ってやってもいいんだよ」 「八名瀬さん、後生です。後生ですから……こ、腰のものだけは堪忍してください。お願いします、許してください」 正座に直った繭美は、両手で胸乳を抱いたまま上半身を深く前に折って懸命に頼んだ。その長い睫毛の間から大粒の涙がポロポロとこぼれて畳表を濡らした。 「若くて綺麗な別嬪さんに泣きつかれると、冷血漢を自認している私もほとほと弱ってしまうよ。それによくよく考えてみれば、初っ端から生まれたままの姿になれというのは無理かも知れんな、特にあんたのように育ちの良い女には……」 「お、お願いします。他のことなら何でもおっしゃる通りにしますから」 「分かった。腰巻きはそのままでいい」 「ありがとうございます」 「その代わりと言ってはなんだが、ちょっと変わったことをさせてもらうよ」 そう言って立ち上がった八名瀬は、床の間脇の戸棚から黒ずんだ色をした何かの束を幾つも持ち出してきて繭美の前に置いた。それは麻縄の束だった。 (縛られる!)と直感した繭美の顔はたちまち蒼白になった。 「ほう、もう分かったようだな。賢い女はさすがに呑み込みが早い」 「…………」喉が詰まって言葉を発することが出来ない。繭美は、胸乳を抱いていた両手を後ろに突いて身を震わせながらじりじりと後じさりした。縄による縛めから逃れたい一心で、形よく熟れた二つの乳房が剥き出しになっていることすら忘れていた。 「若女将、まさか逃げ出そうと思っているんじゃないだろうね。短慮は禁物だよ。それにその恰好だ。外へ飛び出す訳にもいくまい」 ふふっと笑った八名瀬は、「それにしても肌理が細かいし、乳房の形も申し分ないな」と呟いて、肌も露わな繭美の上半身を舐めるような眼差しで見つめた。 八名瀬の淫らな視線にハッとした繭美は、後じさりを止めてその場に腰を落とし、改めて両の乳房を抱き隠して前屈みに身を縮めた。薄藤色の湯文字の裾からはみ出た足許の足袋が白く震えている。 「若女将。あんたはついさっき、腰巻を残してくれれば何でも私の言う通りにすると言ったばかりじゃないか。さ、その可愛い口で言ってごらん、これが何をするものか」 八名瀬が意地悪く繭美を言葉で嬲った。それが繭美の反撥心を刺激した。 「八名瀬さん。あなたもひと角の人物なら、死ぬほど恥ずかしい思いをしているわたしをもうこれ以上辱めないでくださいっ」 「ほほう、そんなあられもない姿でこの私にお説教かね。ま、いいだろう、その気の強さもあんたの魅力の一つだから。しかし、腰巻きをつけていたいのなら素直に従うことだ。さ、ぐずっていないで答えなさい、この縄が何をするものかを」 八名瀬のネチネチした言い回しが繭美に鳥肌を立たせる。 「ど、どうしてなんです? 何のために、わたしにそんなことをするんです? なぜ、わたしがそんなことを言わなきゃならないんです?」 「なるほど、自分では口にしたくない訳だ。それじゃ、先にあんたの疑問を解いておこう。こう言えば納得がいくかな、あんたが今思ってることが私の趣味だと。世の中にはね、裸に剥いた女を縄で縛り上げておいてから可愛がるのが好きな人間もいるんだ、私のようにね」 八名瀬は、自分が緊縛嗜虐を好む者であることを何の衒いもなく口にした。 (ああ、わたし、こんな男に……)身を任せる約束をしてしまった繭美は、今更ながら世間知らずの自分の甘さを悔いた。 八名瀬の心の奥底にあった特殊な性癖を目覚めさせたのは二人目の妻だった。 先代が亡くなってまもなく八名瀬は、家業の質屋を発展解消させる形で街金融の会社を興した。どんな商売でも新会社が軌道に乗るまでは多忙を極める。その多忙な折に彼女は八名瀬の目を盗んで取引のある証券会社の若い営業マンと浮気をしていたのである。 信じていた妻の不倫を知った八名瀬の怒りは凄まじく、彼女を縄で縛り上げて日夜折檻した。隙を見て逃げ出した彼女は警察に訴え出たが、痴話喧嘩の類いと解釈され、八名瀬が罪に問われることはなかった。 それ以来、彼の縄を使う嗜虐志向は次第に強まっていった。結果、三人目の妻は三年足らずで八名瀬の元を去り、四番目の妻も彼の異常な性癖に耐え切れずに二度目の結婚記念日を迎える前夜に逃げ出していた。 そうした暗い過去を知る得る由もない繭美は、八名瀬の緊縛嗜虐趣味を(汚らわしい!)と心底思った。が、その嫌悪感を口にすれば八名瀬を逆上させかねない。口を固く結んだ繭美は、美しい眉をゆがめ眉間に皺を寄せて顔を斜めに伏せた。 「分かっただろう、若女将。今夜はその絹のようにすべすべした真っ白な肌にこの縄の味をたっぷり味わわせてあげるから、悩み事も世間の諸々もすべて忘れて精一杯愉しむことだ。それとも私の縄を拒んで『はなむら』を潰すかね」 「そ、そんな……」 繭美は、幼子がイヤイヤをするように顔を左右に振った。 素肌に縄目を打たれる恥辱と屈辱は考えるだけで気が遠くなる。一方、お店が潰れることを思うと胸が張り裂けそうになる。繭美はいよいよ進退窮まった。 「若女将。縛られるのが嫌なのか、『はなむら』が潰れるのが嫌なのか、どっちなのかをはっきりしてくれなきゃ困るじゃないか」 八名瀬はここぞとばかりに繭美の揺らぐ心を攻め立ててきた。 繭美は、『はなむら』の暖簾を守り通すために我が身を投げ打つ決意でこの屋敷にきた。しかし、八名瀬に抱かれる覚悟はしていたが、裸の肌身を縄で縛られることまで覚悟してきた訳ではない。 (ああ……) 天を仰いだ繭美の美しい瞳に、追い詰められた女の悲哀の色が滲んだ。 5 きちんとした躾けを受けて育った女性にとって、人目に肌を晒すことは顔が火を噴くほど恥ずかしいに違いない。ましてや、晒した素肌を縄で縛られるとなれば、いっそ我が身を儚みたくなるほど耐え難いであろうことは想像に難くない。 病床の母に代わって実家の小料理屋を気丈に切り盛りしているとはいえ、花村繭美もそういう普通の女性の一人に過ぎない。いや、礼節を重んじる真面目一徹な料理人だった亡父の背中を見て育った彼女の羞恥心の強さは人並み以上だった。 八名瀬巌の異常な性癖を知った今、繭美の心は千々に乱れた。 当然ながら、相手の弱みを突いて巧妙に追い込む卑怯な八名瀬の意のままになりたくはない。きっぱりと断りたかった。しかし、そうすれば、大正時代から四代にわたって受け継いできたお店は間違いなく終焉に向かう。それだけは何としても避けたい。しかも、すでに素肌を晒している繭美を八名瀬がおとなしく解放する保証はなかった。 天を仰いでいた顔を元に戻した繭美の深い茶褐色をした双眸に悲痛な観念の色が宿った。奥歯をグッと噛み締めた繭美は、淫蕩さを厚い顔肉に滲ませている八名瀬を見上げ、震える紅い唇を開いた。 「わかりました。八名瀬さんの、お好きなようになさってください」 「やっと自分の立場が理解できたようだな、若女将。それじゃ、始めようか。さ、両手を膝の上に置いて背中をピンと伸ばしなさい」 有無を言わせない強い命令口調で促がされた繭美は、顔を伏せたまま正座になった。そして、羞恥に震えながらおずおずと背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いた。 八名瀬は、これ見よがしに繭美の膝前に麻縄の束を置くと薄い唇を舌で舐め、その縄を指差して再び執拗な言葉嬲りを始めた。 「若女将、この縄は何をするためのものかね?」 顔を背けている繭美の頬は屈辱に強張り、肩先と膝頭が口惜しさに震えた。が、まもなくその震えも止まった。 膝前の縄にチラと視線を落とした繭美は、口の中に溜まった苦い唾をぐっと呑み下して、紅唇を開いた。 「し、縛るためのものです」 「そうだ、その通りだ」と満足そうに頬をゆるめた八名瀬は、手にとった縄の束をほぐしながら更に言葉で嬲った。「若女将、何か私にお願いすることを忘れていないかね?」 「は、はい。返済のことはどうか……」 繭美の返答を聞いて八名瀬は、ふふっと鼻先で笑って長い縄を二つ折りにしていった。そして、揃えた縄の先端が丸くなっている縄頭の方を握って繭美の目の前にかかげた。 「そうじゃないだろう、若女将。これからこの縄でどうしてもらいたいのか、私に頼まなければダメだろう」 「そ、そんな……」とたじろいだ繭美は、八名瀬の手にある縄からさっと顔を背けた。 「イヤかね。イヤならイヤでいいんだよ、返済先延ばしの件はなかったということで」 平然と突き放す八名瀬の言葉に繭美はあわてた。 「ま、待ってください、八名瀬さん。言います、ちゃんとお願いをしますから……」 「やっと覚悟が出来たようだな。それで若女将、私にこれでどうして欲しいんだね?」 「わ、わたしをその縄で……」 「縄でどうしてもらいたいんだね?」 「縄で……。わたしを、し、縛って……ください」 言い終えると同時に繭美の頬に涙が糸を引いた。 「そうかね。お願いされたのでは仕方がないな。よしっ、若女将の願いを叶えてやるとしよう。さ、両手を後ろで組みなさい」 (なにが願いを叶えてやるなのよ、無理やり言わせておいて……) 歯軋りするほど口惜しかった。 しかし、今は八名瀬の命令に従うほかはない。繭美は、溢れ出た口惜し涙を人指し指の背で拭って美しい二重瞼を閉ざすと、湯文字に包まれた膝に置いていた両手をおずおずと背後に廻していった。そして、静脈が透きとおって見える肌理細かい皮膚が白く哀しい両手の手首を腰の上に交差させた。 それを見てすっと背後へ廻った八名瀬は、繭美が自ら重ね合わせた華奢な両手首をつかんでいきなりグイッと高く持ち上げた。 「い、痛いっ!」と、思わず前にのめった繭美の顔がゆがんだ。 両肩のつけ根に太い針で刺されたような痛みが走っていた。眉間に皺が寄り、美しい瞳に涙が滲み出ている。 しかし、八名瀬に容赦はない。前に逃れようとする繭美の上半身を呼び戻すと、両腕の肘を深く折らせ、華奢な両手首を改めて背中に高く肩甲骨近くで交差させた。そして、重ね合わせた両手首をキリキリと縛ると左の柔らかな二の腕を二重に巻き緊め、右の二の腕も同じように巻き縛って、縄をグググッと引き絞った。 「あうっ、ううっ……」 高手小手の縄目のきつさに呻いた繭美の細くしなやかな腕は滑らかな背中に横広なX字を描いた。うな垂れた顔の後ろで桜色に染まったうなじが切なさを訴えている。そのうなじに八名瀬は新しい縄をかけた。 |