鬼庭秀珍   柔肌情炎



            第五章 僧形の鬼




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 小料理屋『はなむら』は、皇居の西北方に位置する坂の町・神楽坂に腕のいい職人肌の板前だった花村喜(はなむらき)(すけ)が大正初期に暖簾を掲げた老舗である。「旨い料理をお安く提供する」ことに徹して評判を上げ、無謀な戦争によって国土を荒廃させた昭和の動乱期をくぐり抜けた後も代々喜助の遺訓に背くことなく、地道な商いで暖簾を守ってきた。

 しかし、年号が昭和から平成に変わってからこの方、苦難の時が続いた。バブル経済が弾けた影響で売り上げも利益も低下した上に四代目主人の花村(はなむら)良作(りょうさく)が不運な事故死を遂げ、女将として店を守ってきた妻の雅代(まさよ)も積み重なる心労から病に倒れていた。その母に代わって若女将として店を切り盛りしてきたのが、年若い一人娘の(まゆ)()である。
 彼女は、美貌の上に色が抜けるように白い肌をしており、しかも見事に均整の取れたしなやかな肢体をしていた。そのことが
(わざわ)いを招くとは、彼女自身、思いも寄らなかったに違いない。が、彼女の持って生まれた美しい容貌と肉体が現実に災いを引き寄せていた。

 繭美は、お店の倒産の危機に助け舟を出してきた八名(やな)()(いわお)姦計(かんけい)に嵌められ、小石川の『けやき屋敷』で露わに晒した肌身を縄で縛り上げられ、無体に(もてあそ)ばれた上に女の園を蹂躙(じゅうりん)された。半年前の、春の嵐が満開の桜を無残に散らせた日のことだった。
 その衝撃的な被虐体験の記憶は月日が経っても拭い去ることは出来なかった。若女将として多忙な日々を送っていても、ついついあの夜のことを思い出してしまう。そのたびに繭美は、悪い夢を見たのだと思って忘れようと自分に言い聞かせた。が、かえって記憶が鮮明になり、淫らな責めに喘ぎ泣いた自分の哀れな姿が脳裏に浮かんだ。
 ましてや、繭美を玩弄(がんろう)した当の本人が何事もなかったような顔をして『はなむら』に通ってくる。その八名瀬が向ける粘っこい眼差しが着物の下の肌を舐め、美味しそうに料理を食べる口があの淫らな言葉を投げかけているように思えて、繭美の胸は慄えた。

「若女将、あんたのそのからだには本当によく縄が似合うよ」
「あんたのからだは縄の緊めつけを嫌がっていない。縛られて辛く切ない思いをすればするほどからだの芯が熱くなってくるんじゃないのか?」
「あんたの心の奥底には縄で縛られると燃えてくる被虐の性がひそんでいるんだ」

(違う! わたし、そんな女じゃないわっ!)

 脳裏で懸命に否定する繭美の心は千々に乱れた。が、お客や従業員には勿論のこと、特に病床の母には絶対に、乱れた胸の内を悟られてはならない。繭美は、つい沈みがちになる心に鞭打って平静を装い、辛い日々を送っていた。

 しかし、そうやって気丈に、そして懸命に努力を続ける繭美に、天は味方してくれなかった。売上げこそ少し増えたものの、利益は思うようには上がらなかった。



 九月半ばの水曜日の夜――。
 暖簾を店の中に移して後片付けをしている時に帯の間に差し込んでいた繭美の携帯電話がブルブル震えて着信を告げた。八名瀬からだった。

「後はわたしがしておくから帰ってくれていいわよ。お疲れさま」

 繭美は当番の従業員にいつもと変わらぬ柔らかい声をかけて店の表に出た。月明かりのせいもあるだろうが、その顔色は蒼白に見えた。

「こんな遅い時間にお電話をくださって、何か急なご用でもおありでしょうか」

「そんなに邪険(じゃけん)にしなくてもいいじゃないか。まぁそれはいいとして、若女将、金の支度はできているのかね?」

 案の定、借金返済の督促だった。が、三千万円という大金を一括して返済できる状態ではない。利息分を用意するのが精一杯だった。

「八名瀬さん。もっと日にちをいただけないでしょうか、お借りしたお金は必ず返済させていただきますので。勝手を言って申し訳ありませんが、今回のお支払いは利息だけということにしていただけるとありがたいのですが……」

「やはり金の工面はつかなかったようだな。それで、いつまで待てと言うんだね?」

「出来ましたらもう一年ほど……」

「ふ〜ん、一年ねえ……。待ってもいいが、その見返りはあるんだろうね?」

「そ、それは……」

「若女将。誠意には誠意で応えるのが大人の取り引きというものだよ。あんたも子供じゃないのだから分かるだろう、その意味は……」

(ああ、また……)
 胸騒ぎを感じた繭美の手がかすかに震えた。
 深呼吸を一つして気を張り、携帯電話を握り直した繭美はおずおずと尋ねた。

「どんなことなのでしょうか、八名瀬さんがおっしゃる誠意というのは……」

「ほう、それを私に言わせるつもりかね、電話で。録音しておいて後で何かの証拠にでもするつもりなのかな?」

「そ、そんなつもりは……ありません」

「ま、いいだろう。好きにすればいい。私が欲しい見返りはね、他でもない若女将、あんたがもう一回私に身を任せるということだよ」

 危惧した言葉が耳に飛び込んできた。電話の向うで舌なめずりしている八名瀬の姿が夜の闇に浮かび上がり、繭美の背筋を悪寒が走った。

 半年前の口惜しかったあの夜を、辛く切なく恥ずかしかったことを、そして狂態を演じてしまった自分の惨めな姿を、繭美は昨日のことのように鮮明に思い出していた。
 湯文字一枚のあられもない姿にさせられ、縄で縛って欲しいと無理やり言わされ、素肌に喰いこむ縄に
(なぶ)られ、淫らな責めに喘ぎながらいつしか狂おしく燃え上がってしまったあの忌まわしい体験が生々しく蘇っていた。

(また、あの日と同じように……)素っ裸にされて縄で縛り上げられ、その肌身を(なぶ)られて再び狂態を演じることになるのは火を見るより明らかだった。

 この半年の間、八名瀬は沈黙していた。何一つ要求して来なかった。それがかえって薄気味悪く、いつかはきっとまた牙を剥くに違いないと思いながら、繭美は緊張と怖れに心を苛まれてきた。

(いっそ何もかも投げ棄てて誰かの懐に飛び込んで、どこか遠いところで暮らしたい)

 何度もそう思った。が、たまに女友達と会うだけで青春のすべてを若女将の仕事に注ぎ込んできた繭美には、受け止めてくれる相手の男性がいなかった。

(あの人がいてくれさえすれば……)

 繭美は、今は夢の中でしか会えなくなってしまった結城(ゆうき)達哉(たつや)のことを思い起こした。
 結城は高校一年生の頃の繭美が憧れた二歳年上の先輩であり、彼の方も繭美に好感を持って接してくれていた。繭美が胸に渦巻く熱い思いを告白しようかどうしようかと迷っているうちに卒業していったが、繭美が女子大に進んだ年のゴールデンウィークに神田神保町の古書店で偶然の再会をした。
 その後、二人は急速に親しい間柄になり、翌年のバレンタインデーに繭美は処女を捧げ、ホワイトデーに結城がプロポーズをして返した。二人は、繭美が女子大を卒業するのを待って結婚することを約束した。
 しかし、不幸にも相思相愛の二人に喜びの日が訪れることはなかった。
 いつも「山は素晴らしいんだよ」と目を輝かせて登頂の醍醐味を語っていた結城は、繭美の卒業まであとわずかとなった年の正月に、学生時代からの登山仲間と登った冬山で予期せぬ雪崩に襲われて帰らぬ人になっていた。

 心から愛し信頼した結城はもういない。仮に結城以外の誰かが繭美を受け止めてくれるとしても、病床の母のことを考えると、何もかも投げ棄ててその人の元に走るなど出来ることではなかった。しかも、その行動は不運な事故死を遂げた父をも裏切ることになる。

 繭美は改めて認識せざるを得なかった、(このからだを張って代々引き継いできたお店の暖簾を守るのがわたしの宿命なんだわ)と。





               


 花村繭美が再び屈辱と恥辱に耐え忍ぶことを決心して三日後の土曜日――。
 この日は朝から空が軽やかに晴れ渡って風が爽やかだった。しかし、「秋の陽はつるべ落とし」という。目に映るものを捉える感覚にまだ夏の余韻が残っているせいか、夕暮れ時の訪れが思いがけないほど早く感じられた。

 夕陽が山の端に沈み始めると山腹に闇が姿を現す。その闇が地上へと拡がり始めた時刻に繭美は、『けやき屋敷』から少し離れた場所に立つ電柱の陰に一人ポツンとたたずんで、身を隠すようにしながら遠目に屋敷の方角を見つめていた。

(世の中の景気がこんなに悪くなりさえしなければ……)

 砂を噛む思いだった。
 すぐにもここから立ち去りたい。が、立ち去れば、大正時代から四代に亘って引き継いできた大切なお店が潰れてしまう。それが動かしようのない現実だった。今はもう何をどう考えてみても取り返しがつかないことは分かっていた。

 急に暗くなってきた通りから人影が消えたのを確認した繭美は、白く冴えた端整な頬をキュッと引き締めて、小走りに、『けやき屋敷』の正門である長屋門をくぐった。

 その繭美を自ら母屋の玄関で待ち構えていた八名瀬は極めて上機嫌だった。すでに少し酒が入っているらしく、赤ら顔の薄い唇から吐き出される息が臭かった。

「よく来てくれたねえ、若女将。必ず来てくれると信じていても、こうして若女将の美しい顔を見るまでは心配なものだ。私もトシだな、はははっ」

 普段はこの様に好々爺(こうこうや)然とした表情を見せるこの初老の男が、裸に剥き上げた女を縄で縛って責め(さいな)嗜虐(しぎゃく)趣味者だとは誰も思わないだろう。が、八名瀬が陰湿なサディストであることは誰よりも繭美がよく知っている。

「今日は奥の蔵の方で(たの)しませてもらうよ、あそこなら誰の邪魔も入らないからな。さ、若女将、私のあとについて来なさい」

 そう言うと、八名瀬はさっと繭美に背を向けた。場所がどこであろうと辱めを受けることに変わりはない。繭美は下唇を噛み締めて八名瀬の後ろに従った。

 母屋の廊下は南の庭に達したところで西へ折れ、敷きつめられた高麗芝と植栽された木々の緑が美しい庭に沿って長く伸びている。南蔵の座敷へはその長い廊下の突き当たりから渡り廊下を通って入る。

 南蔵に足を踏み入れると、八名瀬はひとまず繭美を居間に連れ入った。まだ開け放たれている障子の向こうで、すでに点灯されている庭の常夜灯が立木の緑や芝生を黄色く照らし出している。繭美は、庭の隅で熟しかけた薄橙色の小さな実をたわわにぶら下げている一本の柿の木に目を惹かれた。

「何を見ているんだ? ああ、あれか。渋柿なんだが干柿にすると結構いけるんだ。それはともかく、若女将。早速だがここで帯を解いてもらおうか」

「ええっ?」繭美は怪訝な表情になった。まさかこんな開け放たれた座敷で、いつ誰が覗くかも知れないところで着衣を奪われるとは思っていなかったからである。

 繭美の胸の内を察したらしい八名瀬は、何気ない口調で言葉を添えた。
「長襦袢姿になってくれればそれでいいんだ」

 この日の繭美は、えんじ色の縮緬地菊模様型染め小紋の着物に菊流水模様の名古屋帯を締めていた。下には(とき)色の長襦袢、その下には白絹の肌襦袢と白い折鶴を散らした薄紅色の湯文字をつけていた。そして、和装用の薄いショーツを穿くことも忘れなかった。

 着物だけ脱いで長襦袢姿になればいいことに幾分かホッとした繭美は、(あの日も、ここで、わたし……)と思いながら、白く細い指を帯に添えた。

 帯揚げを抜き取ってから帯締めを外した繭美が、幾本もの腰紐をキュッ、キュキュッと抜き去り、菊流水模様の名古屋帯をくるくるほどき落とす。そして、裾前が乱れた菊模様小紋の着物の衿に両の手をかけた。
 その衿を後ろへずらして両手を横に垂らすと、えんじ色の着物は衣ずれの音を立てながら繭美の足元に折り重なった。


 繭美の背後にすっと立った八名瀬は、いつの間にか麻縄を手にしていた。

「さ、両手を後ろに廻しなさい」という八名瀬の指示に素直にうなずいた繭美は、二重瞼が美しい目を薄く閉ざし、両手を静かに後ろへ廻していった。
 覚悟した来たこともあるだろうが、繭美自身は意識していないものの、縛られることへの抵抗が薄れていた。

 繭美が背筋へ廻した両手をつかんだ八名瀬が、長襦袢の袖を二の腕にたくし上げながら肘を深く折らせ、伸びやかな両手をグイッとひねり上げていく。繭美の華奢な両手首は、肩甲骨近くで高手小手の形に重ね合わされた。
 その両手首にキリリと縄がかかると、繭美の下腹部で何かが(うごめ)いた。

(もう感じてくるなんて……。もしかしてわたし……)

 縛られることに慣れてしまったのではないかとハッとして、繭美の胸はざわついた。
 縄がその胸に渡されたが、長襦袢の胸前を膨らませている乳房の上部を二重に巻き縛って縄止めされ、この日の縄がけは半年前の菱縄に比べれば至って簡素なものだった。

「これでよしっ。それじゃあ、奥の蔵へ行こうか」

 縄尻をしっかり握った八名瀬は、高手小手に縛り上げられた白い両手が痛々しく交差している繭美の長襦袢の背中を押した。

 繭美は、八名瀬に追い立てられて西日が斜めに差し込んでいる廊下へ出た。広い庭いっぱいに敷きつめられた芝生の上に立木の陰が長く尾を引いている。そんな長閑(のどか)な情景の中を自分は、後ろ手に縛られて羞恥と恥辱の奈落へと引き立てられようとしている。繭美はそのことが哀しくてならなかった。

「庭はいつでも眺められる。さ、行こう」
 八名瀬は足を止めている繭美を()かした。





               


 庭に面する広縁のような廊下は西の壁に突き当たる手前から屋根裏へ通じる階段になっていた。右上に寝間の明り取り窓を見ながら一間幅の階段を五段上がると畳一枚の踊り場があり、そこからは北方向へ半間幅の階段が昇っている。
 繭美は、両手がX字を描いている長襦袢の背中を押されながら、その階段を一段一段踏みしめていった。


 屋根裏とはいえそこは四人家族がゆったりと暮らせるくらいの広さがあり、繭美はふと足を止めて首を巡らした。中央の通路部分を除いて質屋時代の質草と思われる品々が所狭しと積まれており、東西の壁にある土蔵特有の鉄格子が嵌った通気窓は閉じられていた。

「珍しいかね、こんな屋根裏部屋は。ここは今、雑品庫として使っているんだ。雑然と積んであるが、中には貴重品や珍品も結構あるんだよ。ま、それはともかく、早く奥の蔵へ行こうじゃないか。さ、歩いた、歩いた」

 再び背中を押されて繭美が足を踏み出した前方では、淫獄の入り口である架橋が縦長方形の口を大きく開けて待ち構えていた。膝が固まり、繭美の足は鉛のように重くなった。

(ああ、足が……、この足が、ここから先へは行くなと言っている……)

 とはいえ、もはや引き返せるはずもない。しなやかな細首を切なげに振った繭美は、重い足を引きずるようにして、屈服を強いられ恥辱に(まみ)れる淫獄への架橋を渡っていった。

 薄暗い洞穴のような架橋をくぐり抜けた先のロフトは蔵座敷の居間と同じくらいの広さがあった。
 鉄格子付きの通気窓の前にソファとテーブルが一組置かれている他には何もなく、通気窓も板戸で閉ざされている。壁についたランプ灯の黄色い明かりが端にある粗い格子状の手摺りを照らし出し、左端に下り階段がついているのが分かった。
 その先は吹き抜けになっており、下からの反射光がぼうーっと
古色(こしょく)蒼然(そうぜん)とした太い梁を浮かび上がらせていた。
 それより何より、北蔵の空気が妙に
(よど)んでいることを肌で感じた繭美は、背筋が寒くなるのを覚えると同時に改めて全身に緊張を走らせた。

(ほほう、思った以上に敏感だ。客あしらいが上手いのは伊達じゃないな)

 そう思いながら八名瀬は、またも足を止めてあたりを見回している繭美を叱咤した。
「またかね。物見遊山に来たわけじゃないだろう? さっさと歩きなさい」

「すみません。わたし、初めて目にすることばかりなので……」と気もそぞろに返事をした繭美が、ロフトを斜めに横切って階段に足を下ろそうとした時、後ろ手に縛られている上半身を反らすように足を踏ん張って大きく目を見開いた。
 彼女の切れ長な美しい眼に飛び込んできたのは、板床の中ほどに敷かれた畳とその上に延べられた敷布団だった。そこだけがスポットライトが当たっているように明るく、周りは薄闇の中に沈んでいる。

「こ、これは……」

 まるで演劇の舞台を見るような光景に、繭美の脳裏を「演じさせられる」という言葉がよぎっていた。確かめるまでもなく、これから繭美が演じさせられるのは縄で縛られた裸身を悶えさせる狂態である。繭美はブルルッと身震いをした。

「どうした、若女将。何かおかしなものでも見えたのかな」

「や、八名瀬さん。あの、あそこの照明は……」

「ああ、あれか。この広い蔵の中を隅々まで明るくする訳にはいかないから、必要なところだけ照らしているんだ」

 平然とそう答えた八名瀬は、万一繭美が足を滑らせても瞬時に引き止められるよう片手に縄尻をしっかりと持ち、もう片方の手で階段の手摺りを握りながら繭美を追い立てた。

「さ、若女将。早く下に降りて愉しい時を過ごそうじゃないか」

 後ろ手高手小手に縛られて両手の自由を奪われている繭美は、足許を見つめながら薄暗い階段を一段ずつ慎重に踏み降りていった。その丸まった背中には囚われた女の悲哀があふれ、長襦袢の鴇色が場違いな色と艶を放っていた。



 階段下に降り立った繭美があたりを見渡すと、蔵の内部はガランとしていた。
 所蔵品の類いは一切なく、奥に色彩のくすんだ絵屏風が立てられている。繭美は、板床に並べ敷かれた十二枚の青畳の上に伴われ、その中央に延べられている敷布団の脇に引き据えられた。

 腰を落として改めて内部を見回した繭美は、上を見て、後ろ手に縛られている上半身をブルッと震わせた。灯りの陰に入っていてそれまでは分からなかったが、ロフトを支える太い梁に滑車がついているのが目に留まったからである。
 それが何を目的としたものかは説明されなくても解る。繭美はブルルッと身震いをして美しい茶褐色の瞳を潤ませた。

 その時、蔵の奥の空気が揺れた。
 繭美はハッとして首を巡らせた。その眼に人影が飛び込んできた。

(こ、これは……)と息を呑んだ繭美の顔は瞬時に凍りついた。

 なんと、奥に立てられた絵屏風の陰から人影が三つ、ぬっと現われたのである。

 ゆったりした足運びで歩み出てきた小柄な初老の男は(すみ)(ごろも)を着ていた。すぐ後に八名瀬のお抱え運転手の大久保が付き従っている。
 大久保が背丈も大きく横幅のあるがっしりした体躯をしているせいか、墨衣の初老は子供のように小さく見えた。そしてもう一人付き従っている男は、大久保の陰に隠れてよく見えなかった。

 その三人が墨衣の小男を先頭に近寄ってくる。繭美は息を呑んで後じさりした。

「や、八名瀬さん、約束が……」

「違うと言いたいんだろうがね、若女将。私は前に言ったはずだよ、あんたの心の奥で眠っている被虐(ひぎゃく)の情念を呼び覚ましてあげるとね」

「でも、わたし……」
 八名瀬以外の男がこの場にいることなど承知した覚えはない、と繭美は言いたかった。が、八名瀬の鋭い眼差しに威圧(いあつ)されて口に出来ない。

「そうか、恥ずかしい訳だな、大勢の男の眼に晒されることが……。でもな、若女将。それでいいんだ。あんたの羞恥心の強さが隠れた被虐官能の花を開かせるんだから」

「そ、そんな……」

「これも避けて通れない道だと思って観念することだ。それにこちらにも事情があるんだ。なにせ、おたくへの貸し金の半分はこの人に用立ててもらっているもんでね」

 八名瀬がこの人と指先を向けた(すみ)(ごろも)の男が慇懃(いんぎん)に名乗った。
「ワシは(けい)(しゅん)といってな。ご覧の通り、お寺の坊主じゃよ」

 八名瀬をふた周りも小さくしたような矮躯(わいく)の初老は、そう言って綺麗に剃り上げた坊主頭を片手でつるりと撫でた。その風体からして僧侶であることは嘘ではなさそうだが、とても仏に仕える者とは思えないほどギラギラ光る三白眼をしていた。

 恵俊和尚の不気味な眼差しに怯えた繭美は八名瀬にすがった。
「八名瀬さん、後生です。この人たちを……」

「今更ここから追い出す訳にはいかないだろう。それは若女将、あんたにも分かるだろう? とにかく今の自分の立場を素直に受け容れることだ」

 細い目を吊り上げてねめつける八名瀬に、繭美はむずかる子供がイヤイヤをするように小さく首を横に振ることしか出来ない。

「嫌かね? 私としては、あんたが思い切り(たの)しめるようにと思って和尚さんたちを同席させたんだが、どうしても嫌かね?」

 八名瀬は言葉で(なぶ)ることを(たの)しんでいた。繭美がイヤだと答えれば、またお店が潰れても文句はないということだなと冷たく突き放して、心を緊めつけてくるに違いなかった。

 繭美は、どこまでも屈辱を与え続け羞恥心をあおり立てようとする八名瀬のやり方に強い憤りを覚えた。しかし、だからといって今ここで席を蹴るわけにもいかない。後ろ手に縛られていては物理的にも不可能である。繭美は弱々しく顔を左右に振った。





               


「やっと分かってくれたようだな。そうそう、あとの二人も一応紹介しておくか。あんたも見知った顔だから今更改めて紹介する必要もないだろうが、私の部下の吉村と大久保だ」

(ええっ! 吉村さんが、なぜここに……)

 大久保の後ろに隠れるようにして立っているのが吉村(よしむら)達也(たつや)だと知った繭美は、激しく動揺した。自分が辱めを受けるこの場に姿を見せたことが信じられなかった。

 八名瀬とともに店を訪れる吉村が東京大学中退の元板前という特異な経歴の持ち主であることを知って、当初、繭美は好奇心を駆られた。達也という、繭美が愛した結城達哉と同じ響きの名前も彼に興味を持った要因かも知れないが、時々一人で訪れる吉村の心の裡に料理人としての気骨がまだ残っていることに気づいてから好奇心は好感に変わった。そして、純朴さと明晰な頭脳に裏打ちされた男らしい配慮を見せる吉村に惹かれるようになっていただけに、繭美の衝撃は大きかった。

「ほほう、吉村を見てそんなに驚くとはなあ」

 何やら含みのありそうな笑みを浮かべた八名瀬は、吉村を振り返って「お前も、一応挨拶をしておけ」と命じた。

 名指された吉村は、和尚の横に出て筋肉質な痩身を前に折り曲げて型どおりのお辞儀をすると、いたたまれない様子ですぐに控え位置へ下がった。

「ふふふっ。見知った人間に恥ずかしい姿を見られると感情の昂ぶりも違うというが、どうやらそうらしいな、若女将。しかし、今の驚きようは、もしかしてあれか? 私の知らないうちに二人は出来ていたのか?」

(な、何ということを……)と繭美は憤慨した。吉村も身を乗り出しかけている。

 咄嗟に吉村の胸中を察した繭美は、キッと八名瀬の目を見据えた。自分でも意外なほど冷静になっていた。

「八名瀬さん。吉村さんとわたしが出来てるだなんて、頭のどこをひねればそんな考えが浮かんでくるんですか? わたしのことは何から何まで、あなたが一番よく知ってらっしゃるはずでしょ?」

「うん、確かにそうだ。こりゃ参った。若女将に一本取られた」
 あははははっ、と八名瀬は破顔一笑した。そして、その笑み崩した顔を引き締めると冷たい眼差しに戻り、改めて繭美の顔を覗き込んで念を押した。

「吉村のことはともかく、若女将。さっきも言った通り、隠れた被虐官能の花を開かせるにはうんと恥ずかしい思いをすることも必要なんだ。それに、その身のすべてを私に任せる約束をしたあんただ。私のすることに文句を言える筋合いはないのを忘れては困るよ」

 確かに今の繭美には、どんなに恥ずかしい目に遭わされようともそれを耐え忍ぶ外に術はない。この淫狼たちの思うままになるしかなかった。繭美は、口惜し涙で潤む瞳で弱々しく八名瀬を上げて観念の言葉を口にした。

「分かりました、八名瀬さん」

 そう答えた途端に鴇色の長襦袢に包まれた繭美の全身からすっと力が抜け落ち、その場に崩れるように腰を落とした。斜めに流した肢先の足袋の白さが目にまばゆく、男たちの心を惹いた。

 繭美は後ろ手に縛られた両手の指を固く握り締めてじっと目の前の畳を見つめている。白く冴えた頬にはそこはかとない哀しみの翳りが射し、切れ長の美しい目から溢れ出た涙が長い睫毛を濡らしてこぼれ落ちた。

 長襦袢姿を後ろ手の高手小手に縛られて屈辱と羞恥にたえている繭美の全身から切なさと憂いを含んだ女の色香が匂い立ち、かたわらで眺める男たちの心を痺れさせる。生唾をゴクッと呑みこんだ恵俊和尚が目を血走らせた。

「八名瀬さん。早いとこ、綺麗なお肌を拝ませてもらえませんかな」

 矮躯ながらもコロッと太った胴体の上にテカテカとツヤ光りしている坊主頭を載せている恵俊和尚は、艶っぽい鴇色の長襦袢の上から麻縄で後ろ手に縛られている繭美の優美な姿態を目の当たりにして嗜虐(しぎゃく)(しん)を昂ぶらせていた。

 和尚が『はなむら』への融資金を云々という話は口実に過ぎない。八名瀬同様に裸に剥いた女を縄で縛り上げて嗜虐することを好むこの生臭(なまぐさ)坊主は、八名瀬がふと洩らした、若くて美しい女が縄に酔い痴れるという話に淫らな欲情をたぎらせてこの席への参加を頼み込んでいたのだ。

「若女将。和尚さんが()れてきたようだ。可哀相だが、裸になってもらうしかないな」

 白々しくも裸にさせるのは自分の本意ではないという意味を言葉に含ませた八名瀬は、繭美の背後に膝を突いて後ろ手縛りの縄をほどいていった。

 一旦縄の縛めを解かれても長襦袢を脱ぎ落とせばまた縄をかけられる。
 それも今日は、八名瀬一人ではなく他の男たちが見ているところで、しかも吉村の目の前で露わに晒した素肌に縄をかけられていくのだ。

(ああ、できることなら、このままここで死んでしまいたい……)

 奈落の底に突き落とされた繭美がそう思ったのも無理はなかった。しかし、病に冒されている母や苦労をともにしてきてくれた従業員たちのことを考えると、決して許されることではない。

「若女将。さ、襦袢を脱ぎなさい」

 後ろ手高手小手の縄をほどき終えた八名瀬に急かされ、涙をぐっとこらえた繭美は、小さくうなずいてその場に立ち上がった。

 下唇を噛み締めた繭美は、羞恥と屈辱に震える白く細い指を藤紫色に白と黄色の細い縞が入った伊達巻に添えて結び目をほぐし、するするとほどき落とした。そして、支えの腰紐を抜き落としていった。
 両手を長襦袢の白衿に持っていった繭美は、大きく吸い込んだ息を止めて胸前を開き、鴇色の長襦袢に背中を滑らせた。さらに白絹の肌襦袢を一気に脱ぎ落とすと、こぼれ出た乳房を両手でヒシと抱きしめ、畳に膝を突いて身を縮めた。

 前屈みに丸めた白くすべすべした背中が羞恥に震えている。白い折鶴が散る薄紅地の色っぽい湯文字に覆われた双臀の張りのある膨らみが男の欲情をそそり、乱れた裾に妖しく光っている白い(すね)が男の目を釘付けにした。

 淫らな欲情をたぎらせる八名瀬と恵俊和尚の目は血走って真っ赤になっていた。


                                                 つづく