鬼庭秀珍   柔肌情炎


           第九章 雷 雨




               


 秋の長い夜が明けた――。

 一日中空が晴れ渡って風が爽やかだった前日と違って、この日は朝から空がどんよりと曇っていた。鉛色の雲が空一面に垂れ下がり、風も少し強く冷たい。こんな日にも先代から引き続いて屋敷内の雑務を任されている老夫婦は、朝早くから庭の掃除に余念がない。熊手(くまで)で落ち葉をかき集め、(にわ)(ほうき)をせっせと動かしていた。

 忙しく立ち働いている老夫婦から少し離れた場所にずんぐりした男の後ろ姿があった。この『けやき屋敷』の主、八名(やな)()(いわお)が腕組みをしてジッと雲の流れを眺めていた。

 八名瀬は、いつもよりかなり早く目覚めた。というよりも、神経が高ぶって寝付けなかった。壁時計の長針と短針が上下に別れて垂直になるのを待って床を出ると、疲れ切って熟睡している花村(はなむら)(まゆ)()を縛めている縄をほどき、眠りこけている彼女のあどけなさの残る寝顔に柔和な笑みを投げかけて居間へ移った。

 廊下の隅の郵便棚から毎朝爺やが置いておいてくれる朝刊五紙をとってきて、ひと通り目を通した。が、字面を眺めたに過ぎず、八名瀬の頭の中は繭美のことでいっぱいだった。

 しばらくして庭に出た八名瀬は、黒板塀の内側に植栽してある背の高い樹木を一本一本見つめながらゆっくりと足を運び、立ち止まっては曇り空を見上げ、繭美に思いを巡らせた。そこに母屋の朝支度を終えた老夫婦が現れて庭掃除を始めたという次第である。

「あのクソ坊主は呼ぶんじゃなかった……」

 八名瀬は、苦虫を噛み潰したような表情になって独り言を呟いた。クソ坊主とは、勿論、恵俊和尚のことである。
 繭美の羞恥心を(あお)り立てる目的で招いたのだったが、その和尚に途中から宴の主導権を奪われてしまったことが今も(しゃく)(さわ)っている。
 しかも和尚は、繭美を逆さ吊りにした状態でフェラチオを強制した上に、女の最も敏感な箇所を麻糸で縛って責め
(さいな)んだ。吊り責めと淫核(いんかく)(なぶ)りをしてみたいとは聞いていたものの、その残酷なやり方を目の当たりにして、八名瀬は和尚に嫌悪感を催した。

 ところが繭美は、和尚の冷酷非情な淫ら責めに喘ぎながらも被虐官能の炎に身を焦がし、次第に恍惚としていき、ついには妖婦のような笑みまで見せた。
 被虐官能に溺れていく繭美の姿態と表情は、八名瀬が日頃から思い描いていた通りに、いや、それ以上に美しく妖艶だった。しかも、その後風呂場で見せた健気さに心を動かされていた。


 八名瀬は思った、(この女だけは絶対に手放したくない……)と。

 緊縛嗜虐者の八名瀬巌にとって花村繭美という美女は、今や、何よりも得がたい特別な存在として心の内奥に根ざしていた。



 その繭美は、四方を古色(こしょく)蒼然(そうぜん)とした板壁に囲まれた狭く薄暗い場所に閉じ込められ、横たえた一糸まとわぬ裸身を様々な色をした細い蛇の群に捕らえられていた。

 華奢な両手は白い蛇に後ろに束ねられ、瑞々しく熟れた両の乳房はその上下に絡みつく金色の蛇に緊め上げられ、伸びやかな両肢は左右の足首に巻きついた黒い蛇に割り開かれている。その股間に、長い胴体を右に左にくねらせながら床を這う一匹の赤い蛇が不気味な赤い舌をチロチロさせながら迫ってきた。

(ああっ、イヤっ。こ、来ないでっ)と念じた繭美の総身が怖気に震えた。が、金縛りに遭ったようにわずかな身動きも出来ない。

 顔を引き攣らせた繭美は、必死に太ももを閉じようとした。その瞬間、すっと鎌首を持ち上げた赤い蛇が飛びかかり、繭美の女陰にぬるっともぐり込んだ。

「助けてっ! 誰か、助けてっ!」

 思わず上げた自分の悲鳴に驚いて繭美は飛び起きた。そこは蔵座敷の寝室だった。

(夢? 夢……だったの?)

 ホッと胸を撫で下ろした繭美のそばに八名瀬の姿はなかった。後ろ手に縛られていた手の縄も胸の縄もいつの間にかほどかれている。

 気だるさの残るからだを起こして浴衣の胸前と裾をつくろった繭美は、寝間と居間の間の襖をそっと引き開いた。が、居間の方にも八名瀬の姿はなかった。

 怪訝な表情で首をかしげる繭美の目に、庭に面した廊下の内側の障子と外側のガラス戸が開け放たれているのが入った。
 障子のそばに足を運び、半身を乗り出して庭を窺うと、「干柿にすると結構いける」という実がたわわに生っている渋柿の木の近くに曇り空を見上げている八名瀬の後ろ姿があった。何やら思案している様子だった。


 障子の陰の繭美を目敏く見つけた婆やが小走りに八名瀬の脇に寄って何かを告げた。軽くうなずいて振り向いた八名瀬の双眸にはいつになく優しい光がたたえられていた。

「若女将。少しは疲れがとれたかな?」

 柔らかい微笑みを浮かべて歩み寄ってきた八名瀬が、繭美には昨日までとは別人のように感じられた。

「ええ、何とか」と答えた繭美だったが、その顔にはやはり疲れの色が浮かんでいる。

 顔の疲れに気づいた八名瀬は、昨夜の仕打ちは自分の本意ではなかったとでも言いたげな表情を見せ、その埋め合わせをするように優しく気遣った。

「シャワーでも浴びてさっぱりしたらどうかね。その間に朝食の支度をさせるから」

「はい。そうさせていただきます」

 八名瀬の態度の変化に気づいた繭美は、にこやかに答えて寝間に戻ると化粧道具を携え、昨夜は額に脂汗を滲ませてやっとの思いで辿り着いた八名瀬専用の風呂場へ足取り軽く向かった。





               


 熱めのシャワーを浴びると頭がシャキッとして、からだに芯が通ったような気がした。繭美は、いつもそうしているように、シャワーをお湯から水に切り替えて火照った肌を引き締めた。そして、浴室を出ようとしたその時、ふっと胸が騒いだ。

(八名瀬さん、もしかすると外で待ち構えてるんじゃないかしら、縄を持って……)
 まるで縛られることを期待しているような自分の心の動きに、繭美の頬は赤らんだ。
「イヤねっ、わたしったら……」

 妙に気持ちが弾んでいる自分をおかしく思いながら浴室の出入り戸をそっと引いた繭美は、念のために首だけ出して脱衣所の中を見渡した。が、八名瀬の姿があるはずもない。風呂場の出入り口には内鍵がかかっている。

「うふっ」と笑って繭美は浴室を出た。

 乾いたバスタオルで全身の水気を拭った繭美は、何かを思いついたように、裸のまま洗面台の大鏡の前に立った。そして、華奢でしなやかな両手を後ろへ廻していき、左右の手首を背中に重ね合わせ、鏡に映る自分の裸身をジッと見つめた。

 かなり目立たなくなっているものの乳房の上下と二の腕に縄の痕が残っているのを見て、繭美は薄く目を閉ざした。
 すると、肌に刻まれた縄痕はたちまち麻縄に姿を変えて繭美の裸身を縛り上げていった。と同時に、女陰の奥が小さくズキンと脈打つのを感じてハッと目を見開いた繭美は、妄想を振り切るように冷たい水で顔を洗った。
 そして、浴衣に袖を通して縄痕の残る肌身を隠し、落ち着かない気持ちのまま化粧を済ませた。




 その繭美が蔵座敷の居間に戻ると、すでに朝餉の品々が大振りな座卓に載せられていた。八名瀬はその座卓の端に両肘を突き、ぶよぶよっとした顎を両手で抱えて待っていた。

「遅くなってごめんなさい。わたし、すぐに着替えますので」

 繭美は急いで寝間へ入ろうとした。が、八名瀬に「浴衣のままでいいじゃないか」と呼び止められて、そのまま座卓に向かった。

 八名瀬と差し向かう位置に腰を降ろした繭美は、朝餉に用意された品々を見て驚いた。そこにある料理のすべてがプロの調理人がこしらえたもののようだったからである。

「八名瀬さん。こちらの賄いをしてらっしゃる方はお料理がとてもお上手なんですね」

「うん、それなんだがね、若女将。いつもは婆やが支度してくれるんだが、今朝は吉村が腕を振るってくれたんだよ」

「まあ、吉村さんが……」

「そうなんだ。昨夜遅く婆やに、明日の朝は自分がやると伝えておいたらしい。知っての通りあいつは元板前だから、時々こうして旨い物を食わせてくれるんだ」

 八名瀬は孝行息子を自慢するように鼻の穴を広げて笑った。

(あの吉村さんがわたしのために……)
 繭美は、調理場に立つ吉村の姿を想像しながら、彼の心が尽くされている朝食をにこやかに摂った。

 傷んだ心を癒してくれた吉村達也手製の朝食を終えた繭美は、帰り支度のために一人で寝間に移った。
 そこには、昨夜北蔵で脱ぎ落とした長襦袢と下着類がすでに運び込まれて衣装盆の上に載せられていた。汚れの目立つ和装用の薄いショーツはビニール袋に入れられている。
 それをバッグに仕舞ってから繭美は、浴衣の前をはだけて白い折鶴を散らした薄紅色の湯文字をつけた。
 そして、浴衣を脱ぎ落とすと、純白の肌襦袢と
(とき)色の長襦袢をまとって藤紫色に白と黄色の細い縞が入った伊達巻を締めた。その時、繭美はようやく暗闇から抜け出せたような気持ちになった。

 ホッと安堵のため息を吐いた繭美は、えんじ色の縮緬地菊模様型染め小紋の着物の袖に手を通し、幾本もの腰紐を巻き締めて身頃(みごろ)を整えた。
 菊流水模様の名古屋帯を締め終え、手鏡を覗き込みながら唇に紅を引き直した繭美は、老舗小料理屋『はなむら』の若女将の顔に戻っていた。





               


 続き間の襖を開けてキリッと顔を引き締めた繭美が姿を見せると、またも座卓に肘を突いて待っていた八名瀬は、凛としてあでやかな繭美の着物姿に細い目をさらに細めた。

「本当に良く似合うなあ、着物が……。誰も敵わないくらい綺麗だよ、若女将」

 感嘆の声を洩らした後で八名瀬は、「何も着てない時はもっと綺麗だけどな、ふふふっ」と(いや)らしい笑みを浮かべた。
 が、繭美が
気色(けしき)ばんだのを見て、「すまんすまん。若女将の着物姿があんまり綺麗なものだから、つい口が滑ってしまった。気を悪くしないでくれ」と手前勝手な(ことわり)を入れ、座卓を挟んで反対側に敷いてある座布団を指し示した。


「若女将、あんたに話しておきたいことがあるんだ。ささ、そこに座ってくれないか」

 今までにない八名瀬の低姿勢ぶりをおかしく思いながら、繭美は腰を下ろして座布団に正座をした。その目の前に八名瀬が中味の分厚い茶封筒をすっと差し出すのを見て怪訝な表情を示した。

「若女将。これを受け取ってくれないか。恵俊さんからだ。五十万円入ってる」

「ええっ?」と八名瀬の顔を見上げた繭美は、愛らしい小鼻をむっと膨らませるのと同時にさっと顔を伏せた。和らいでいた顔が険しくなり、膝の上でこぶしに握った左右の手が震えている。明らかに憤っていた。

 しかし、繭美の表情の変化を見逃した八名瀬は、同じような茶封筒をもう一つ、座卓の上に差し出した。

「これは私からだ。同じ額が入ってるから資金繰りの足しにでもしてくれ」

 鷹揚(おうよう)にそう言った八名瀬だったが、すっと顔を上げた繭美の形相に驚いて、ポカンと口を開け細い目を大きく見張った。

 切れ長な美しい目に涙をいっぱいにたたえた繭美が、さも口惜しげに下唇を噛み締めて、八名瀬をキッと睨みつけている。

(昨夜あれだけわたしを辱めておきながら、まだ足りないんですか! これじゃまるで、お金で身を売る娼婦同然の扱いじゃないですか!)と、今にも叫び出しそうだった。

 昨日までの八名瀬ならここで「ふんッ」と鼻先で笑い、居丈高に「言いたいことがあるんなら、言ってみればどうかね。ただし、私を怒らせるとどうなるかは判ってるよな」とねめつけるところだが、この朝の八名瀬は違った。

「そ、そんな怖い顔をしなさんな。恵俊さんはどうか知らないが、私は昨夜の行き過ぎを詫びておきたいだけなんだ」

 うろたえた八名瀬は、太い手を首の後ろにやって盆の窪を掻きながら、さもバツが悪そうな顔をした。そして、「信じてくれ、若女将。本当だ。決して悪気はないんだから」と、金を差し出したことに繭美を侮蔑(ぶべつ)する気持ちは一切ないと懸命に説明した。

「だから若女将。あの和尚を呼んだのは約束違反だった。申し訳ない。そのペナルティだと思ってこの金を受け取ってくれないか。頼む、機嫌を直してくれ。この通りだ」

 繭美の肌身と心を縛り上げて無体な仕打ちの限りを尽くしてきた男が頭を下げている。その姿がまるで夢か幻のように感じられ、繭美の胸内になぜか可笑しさが無性に込み上げてきた。先ほどまでの憤りはどこかへ消えていた。

 自分は金で身を売る娼婦ではないと憤ってみたところで、無理やり強いられたのだと言い訳をしてみても、金と我が身を引き替える結果になった事実に紛れはない。どこが娼婦と違うと言えるのか。ましてや、素肌に縄をかけられて感じ、きつく縛り上げられた肌身を(なぶ)られ(いじ)められて燃えるようになってしまった今の自分に人並みのプライドを主張する資格があるだろうか……。
(そんな資格、ありはしないわ、ここまで堕ちてしまったわたしには)

「分かりました、八名瀬さん。ありがたくいただいておきます」
 繭美は冷静な口調でそう答えた。

「おお、分かってくれたか」

 八名瀬は、やれやれという面持ちで安堵のため息をつき、二つの茶封筒を重ねて繭美の側にそっと押した。が、数瞬後にいつもの冷徹な高利貸の顔を取り戻していた。

「今から話すことが本題なんだがね、若女将。なあに、他でもない、これから先のことだ。あんたには、月に一度は必ずこの屋敷に足を運んでもらいたいんだ」

「はあっ?」と繭美は首をかしげた。
 胸が早鐘を打ち始めていた。動揺を悟られないように気を張った繭美は、冷静を装いながら八名瀬に新たな提案の理由を尋ねた。

「月に一度だなんて、八名瀬さん、一体どういうことなんですか?」

「おたくに金を貸してもう二年半だよ。多少の余裕はあると言っても、私も零細な金融業者に過ぎないんだ。いつまでものんびりと構えてはいられないのは分かるだろう?」
 諭すような説き伏せるような口調で話す八名瀬は、ひと呼吸置いて繭美の顔を見据えた。
「だから今後は、毎月一度、ここで利息の受け取りと返済計画の確認をさせてもらうよ」

「そ、そんな……」

 唖然とした繭美の、端整な白い頬に暗い翳が射し、脳裏にこの朝の空のように鉛色の雲が立ち込めていた。





               


 相手の弱みを突いて無理難題を押しつけてくる八名瀬の卑劣さに、繭美の嫌悪感は高まった。しかし、それをあからさまに示すことは火に油を注ぐようなものである。気持ちを切り替える時間が欲しい。
 繭美は、顔を伏せて八名瀬の視線を避けた。

 ところが、次の瞬間、思いがけない言葉が繭美の耳朶(じだ)を打った。

「ま、それは口実だ。恵俊さんは半年後を楽しみに帰って行ったが、私はそんなに長くは待てないんだ。どうやらあんたに惚れてしまったらしい」

(ま、まさか、そんなこと……)繭美は八名瀬の顔をまじまじと見つめた。

 その繭美の切れ長な美しい目を見つめ返しながら八名瀬は言葉を続けた。
「私はね、惚れた相手の気持ちをないがしろにしてまで無理を押し通したくはないんだ。だからどうだろう、こういう条件では……」

 八名瀬は、繭美が月に一度この屋敷を訪れて八名瀬の相手をすれば、その月の利息は無かったものとするという条件を提示した。
「悪い話じゃないと思うが……どうかね、若女将」

 繭美は、八名瀬が毎月の利息をからだで払えと迫ってきたと解釈していた。
「あんたに惚れた」と言いながら、今の繭美が金で買われる女の一人に他ならないことを悟らせようとする卑劣さと狡猾さには
虫酸(むしず)が走る。しかし、利息分の捻出(ねんしゅつ)にも四苦八苦しているお店の現状では即座に断ることも出来ない。
 またも追い詰められた繭美は虚ろな視線を庭の方角へ向けた。


 提案を拒絶すれば八名瀬は手形を交換に回すだろう。銀行融資が期待できない今、そうなればお店はたちまち倒産する。お店を存続させるためには、八名瀬に手形交換の口実を与えずに、出来るだけ時間を稼いでお店の業績が上向くのを待つ他に方法がない。その時間稼ぎが出来るのは繭美の他には誰もいない。

 しかし、八名瀬の意に従えば、縄で縛られた裸の肌身を(なぶ)られる恥辱と心を(もてあそ)ばれる屈辱を毎月味わわなくてはならない。それを思うと耐え難い気持ちで繭美の胸は痛んだ。と同時に、込み上げてきた切なさに下腹部が反応していた。

(ああ、またからだが……)

 繭美は、両手を背中にねじ曲げられて縄がけされていく自分の姿を思い浮かべた途端に女陰の奥が熱を帯びてきたことをはっきりと知覚した。

(そうよ、これが今のわたしなんだわ。この淫らなからだを八名瀬のしたいようにさせてお店の暖簾を守る。それがわたしの宿命なんだわ……)

 繭美が頭の中でそう呟いた時、にわかに外が暗くなって遠くの空が鳴いた。

 ゴロゴロと雲を(きし)ませる轟音が近くなってきたと思うや否や、ピカッと戸外が強いストロボライトを浴びたように光り、ザザーッと強い雨が降り始めた。

 雷鳴が轟き、稲妻が走る。廊下のガラス戸越しに見える庭は篠つく雨に霞み、上空に停滞する不気味な黒雲から一条の閃光がサササーッと走り落ちた。

 暗い空を次々と走り落ちる稲妻の光に目を洗われた繭美は、八名瀬の提案を受け入れることの他にある一つの決意をした。それは我が身を賭しての仕返しだった。

 八名瀬は轟き渡る雷と地面を打ちつける雨に耳目を奪われていた。その八名瀬がハッとして振り向いたほど声を高めて、繭美は矢継ぎ早に質問を投げかけた。

「八名瀬さん。二度とわたしを、逆さに吊り下げるような怖い目には遭わせないと約束していただけますか?」

「勿論だ。あれは恵俊さんの好みで、私は絶対にあんなことはしない」

「今後はもう、あの和尚さんをお呼びになることはないと思っていいですね?」

「ああ、決して呼びはしないよ。約束する」

「それに、吉村さんや大久保さんに立ち合わせることもやめていただけますね」

「当然だ、これからは私とあんたの二人だけだ」

 二人の立場は再び逆転していた。それほど八名瀬の繭美への執着は強まっていた。

「ありがとうございます、無理を聞き届けていただいて……。そういうことでしたら、わたし、毎月一度、必ずこちらへ参ります」

「そうか、承知してくれたか。若女将、よく決心してくれたねえ」

 八名瀬は、突き出た腹を撫でながら、まるで欲しかったおもちゃを与えられた子供のように贅肉(ぜいにく)(ふく)れの脂ぎった顔を輝かせた。

「若女将、この雨だ。大久保に神楽坂まで送らせるよ」

 声を弾ませた八名瀬の目を見返しながら繭美は優美な眉をひそめた。

「わたし、大久保さんはどうも……」

「大久保じゃ……」嫌なのかと言いかけて昨夜のことを思い出した八名瀬は、「嫌だろうから吉村に送らせるよ」と言い直し、床の間の内線電話で吉村を呼び出して指示を与えた。



 十五分後、吉村達也がハンドルを握るベンツの後部座席に乗り込んだ繭美は、八名瀬に見送られて雨に煙る小石川の『けやき屋敷』を後にした。

 ベンツが大通りに出ると、運転席の吉村が前方をジッと見つめたままで後部座席の繭美に話しかけてきた。

「若女将さん、昨夜は大変申し訳ありませんでした。お助けしなくてはいけないのに、それも出来ないで、ボクは若女将さんにあんなことを……」

 吉村達也の弱々しくかすれた声には涙の色が滲んでいた。彼の気持ちが痛いほど分かった繭美は優しくこう言った。

「気になさらないでっ。それより吉村さん、今朝いただいたご飯はとても美味しかったわ。ありがとうございました」


                                               つづく