第十章 天女の柔肌
1
JR飯田橋駅そばの目白通り沿いには飲食店や細々とした日用品を扱う店が雑然と入り混じって軒を並べ、その裏の路地には様々な業種の会社が事務所を構える雑居ビルも多い。その一つに八名瀬巌が営む『ヤナセ金融』の店舗兼事務所はあった。が、白地に黒文字を載せた小さな看板が出ているだけだから、初めて訪れる人はよほど気をつけていないと通り過ぎてしまう。
八名瀬が店舗の場所として駅近くの裏通りを選び、看板も質素で目立たないものにしているのは、借金に訪れるお客の心理を考えてのことだった。加えて、亡父から引き継いだ質屋のノウハウを活かした独特の商法も功を奏し、かなりな繁盛をしていた。特に、担保が無くてもかなり高額な金をその場で用立てるので、主な客筋である小規模な会社や商店の経営者には頼り甲斐があるらしく、当座の運転資金が不足すると駆け込んでくる常連が多い。
しかし、返済が滞ると情け容赦のない取立てをした。そのための部門もある。元暴力団対策担当刑事の辰巳義弘が管理部長としてその任にあたり、運転手兼ボディガードの大久保剛も送迎以外の時間は辰巳の指揮下で動いている。
返済に窮した債務者から「血も涙もない冷血漢だ。鬼だ、蛇蝎だ」と罵られながらも、順調に商いを続けてきた八名瀬も年が改まれば還暦を迎える。にもかかわらず、まるでどこかに分別を置き忘れてきたように、親子ほど歳の離れた一人の女性に夢中になっていた。神楽坂にある老舗小料理屋『はなむら』の若女将・花村繭美がその相手である。
八名瀬には、裸の女を縄で縛り上げて愉しむ緊縛嗜虐者であるという、もう一つの顔があった。二年余り前に経営破綻寸前だった『はなむら』に助け舟を出したのも、繭美の美貌としなやかな肉体に狙いをつけたからに他ならない。資金面での関係が抜き差しならない状態になるのを待って繭美を心理的に追い込み、一糸まとわぬ素っ裸に剥き上げた柔肌に縄をかけて女盛りの肉体を弄ぼうと画策したのだった。
その目論見通りに八名瀬は、今年の三月、素肌を晒した羞恥に震えている繭美を後ろ手に縛り上げ、股間を嬲る淫靡な縦縄に狂おしく悶える妖美な姿態を堪能した。そして半年後の九月には、同好の士である恵俊和尚を招き、繭美を俎上に縄の宴を愉しんだ。
ところが宴の最中に八名瀬の気持ちに変化が起きた。情け容赦のない和尚の責めに泣き叫びながらも次第に恍惚としていった繭美に心を動かされたのである。口惜しさを奥歯で噛み締めて縄目を打たれていった繭美は、自由を奪われた裸の肌身を弄ばれる辛さを切ない吐息に替え、諦めとやり場のない悲しみを被虐官能の陶酔感に溶かして、妖美な快楽の淵に溺れていった。
妖しく移り変わっていく表情としなやかな肢体のうねりを見つめながら八名瀬は思った、(誰にも渡したくない、この女だけは……)と。
淫らな責めに悶え柔肌を緊めつける縄に甘えるように喘ぐ繭美は、八名瀬が日頃から追い求めていた通りの、いや、それ以上に妖艶で美しく、しかも愛らしい女だった。八名瀬にとって彼女は、まさに羽衣に替えて縄をまとった天女そのものだったのである。
2
本格的な秋が訪れた十月半ばの土曜日午後――。
まだ陽が高いのに花村繭美は『けやき屋敷』の蔵座敷で麻の葉鹿の子文様の艶っぽい緋色の長襦袢をまとった背中を八名瀬巌の胸に預けていた。無論、後ろ手に縛られ胸の上下にも縄をかけられている。部屋の隅を見ると、衣装盆にアンティークベージュのワンピースとえんじ色のカーディガンに下着類が綺麗にたたまれて載っている。繭美が身に着けている長襦袢は八名瀬が用意したものだった。
「繭美。私にはこのひと月の何と長かったことか、お前には分からんだろうね」
今までずっと「若女将、あんた」と呼んでいた彼女を八名瀬は「繭美、お前」と呼んだ。自分一人のものに出来たことが繭美に対する親密感を増幅させていた。
「殿方のお気持ちは分かりかねますわ。わたし、世間知らずなものですから」
繭美は愛らしい声でか細くそう答えて、縄をまとった上半身をくねらせた。
「そうか……。でも、それでいいんだ。世間ずれしていない繭美のそういうところは何ものにも代えがたいと、私は思ってるよ。勿論、お前の美貌と縄栄えする体もそうだがね」
「イヤです、そんな風に明け透けにおっしゃっては……」
繭美は恥ずかしげにうつむいた。
そのうなじが桜色に染まっているのを目にした八名瀬は、皮下脂肪の厚い顔に満足そうな笑みを浮かべた。
「はははっ、恥ずかしいんだな。結構、結構。その羞恥心の強さもまた格別だ」
八名瀬は笑いながら長襦袢の八つ口から両手を差し入れ、縄に上下を緊めつけられている繭美の乳房を揉み上げた。
「あ、ああっ、んっ、ふうんっ、はあっ、あ……」
乳房を揉まれ乳首を刺激された繭美はうっとりと目を閉ざして甘い吐息を洩らした。
しばらく乳房嬲りに没頭していた八名瀬の両手が乳房から離れて長襦袢の胸前に廻り、つかんだ衿をグイッと引き開いて瑞々しく熟れた白桃のような二つの乳房を露出させた。
「あっ、イヤっ、恥ずかしいっ」
繭美は甘い声を出して肩をすぼめた。その両肩も露出させた八名瀬は、すべすべと光る肩に口吻を注ぎ、首筋へ舌を這わせていった。
そして、長襦袢の裾前を掻き分けた手をすっと繭美の股間に侵入させた。そこには女の茂みが露出している。が、茂みの真ん中を縄が縦に走り、花肉の秘裂に埋没していた。八名瀬はその縦縄をつまんで持ち上げた。
「あっ、イヤっ。ダ、ダメです、そんな意地悪したら……」
狼狽を示す繭美の甘えるような声音が耳に心地好いい。八名瀬は、指で縄をいじりながら淫らな縦縄をかけた先ほどのことを思い出していた。
*
長襦袢に着替えた繭美のなおやかな両手を後ろ手に縛り上げ、長襦袢の上から豊かな胸乳の上下にも縄をかけ終えると、八名瀬は繭美の耳元で囁くように言った。
「繭美。足を少し開きなさい」
「また、ですか?」と繭美は顔を曇らせたが、嫌がっている様子は見せなかった。
「ああ、まただ。その股に縄をかけさせてもらうよ」
淫蕩そうな笑みを浮かべた八名瀬は長襦袢の裾を後ろへからげ、剥き出しになった繭美の腰に縄を巻き緊めていった。
「恥ずかしいわ。それに、とっても辛いんですよ」
か細い声でそう言って頬を赤らめた繭美が開いた白い両腿の前で、八名瀬は揃えた縄に大きなコブのような結び玉をこしらえた。そして、女陰の入り口に縄のコブをあてがった時に繭美は思いがけない反応を示した。
「あっ、違うっ。そこは違うわ、八名瀬さん。もう少し右、右です」
「おお、的がずれてたか。これは申し訳ない」と苦笑いした八名瀬は、一旦縄を持ち上げると指先で位置を確かめながら改めて縄のコブを女肉の秘裂にあてがった。
「ここか? 今度はどうだ?」
「そ、そこ。そこでいいです」
縄のコブを花肉の花びらにしっかり咥えさせると、繭美は「あっ、ああ……」と半開きの口から甘い喘ぎ声を洩らした。蟻の門渡りを緊め上げた縄尻に白い双丘の狭間を駆け登らせて腰の縄に結び止めた時には、繭美の端整な瓜実顔はうっとりしていた。
八名瀬は、早逝した最初の妻との新婚当時以来の幸福感に浸った。
*
今もその幸福感に包まれている八名瀬は、幼い悪戯っ子に戻ったように繭美の股間を縦に縛った縄を持ち上げたり引いたりした。そのたびに甘い声で「イヤっ。そんな意地悪しちゃ、イヤです」とむずかって見せる繭美が、八名瀬にはいとおしくてたまらなかった。
しかし、繭美には別の意図があった。
自分の肌身を犠牲にして『はなむら』を守り抜く覚悟をしたからには、嫌々縛られるのではなく、自ら縄を求めることによって八名瀬を喜ばせようと決めていた。そうすることで引き寄せた八名瀬の心を翻弄してやろうと思っていた。
度重なる恥辱と無体な仕打ちに耐えてきた繭美がその程度の仕返しを考えたとしても不思議ではない。が、羽衣の代わりに縄衣をまとわせた天女に夢中になっている八名瀬はそのことに気づいていなかった。
翌十一月にも一度、八名瀬は繭美の美しい裸身を縄で縛って愛撫し、甘く喘ぐ口に熱く怒張した肉茎を突っ込んで自らの嗜虐趣味を満喫した。
しかし、繭美が神楽坂へ帰ると強い寂寥感に襲われる。すべすべした肌と柔らかな乳房の感触が、甘くかすれた声が、切なげに震わせる唇が、陶酔した眼差しが、見事に均整の取れた真っ白い肌に黒ずんだ縄をまとった繭美の姿が、今も目の前にあるような錯覚を覚えて分身を勃起させた。
「格好をつけるんじゃなかった」
自嘲気味に独り言を呟いた八名瀬は、「八名瀬さんがいらっしゃってると、わたし、気持ちが上ずってしまって仕事が手につかないんです」と言う繭美に、『はなむら』へ顔を出すのは週一回にすると約束したことを後悔した。
しかも、その週一回の『はなむら』での酒食中も、繭美がそばにはべってくれる訳ではない。忙しく立ち働く繭美の姿を目で追うだけに終わり、かえって苛立ちが増した。
「これが老いらくの恋というものかも知れんな」
八名瀬の繭美を思う気持ちは日を追う毎にどんどん強くなっていき、日がな一日悶々とするほど深まっていった。
3
師走上旬の土曜日午後――。花村繭美はJR御茶ノ水駅そばの聖橋の南詰めにいた。
神楽坂でタクシーを拾って小石川へ向かえばいいようなものだが、それは八名瀬が許さなかった。また、このところ繭美が骨休めと気分転換を兼ねて月に一度一泊二日の小旅行に出かけていると信じている住み込み従業員の手前もあって、神楽坂や飯田橋で迎えの車に乗り込む訳にはいかなかった。
神田川を挟んだ対岸に湯島聖堂が望める。が、初夏から秋にかけて鬱蒼とする緑社はその傍観を変え、樹木の多くが木枯しに葉を散らして枝や幹を露わにしていた。
(変わったわ、わたしも……)
哀しいため息を吐いた繭美の足元を寒風が吹き抜けたのとほぼ同時に吉村達也が運転する迎えのベンツが本郷通りの坂下から姿を現し、まもなく繭美のそばに横付けされた。
さっと車から降りてきた吉村は、後部座席のドアを開けながら繭美を気づかった。
「寒かったでしょう。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、ついさっきここに着いたばかりですのよ。ご心配なく」
にっこり微笑んだ繭美が乗り込んだベンツは聖橋を渡り、湯島聖堂を右手に眺めながら明神下を左折して、本郷通りを疾走していった。
本郷三丁目の交差点を左折して春日通りに移り、八名瀬が待つ小石川の『けやき屋敷』に到着したのは午後三時になる少し前だった。
その間吉村は、いつものようにバックミラー越しにチラチラと繭美の顔を窺うだけで、繭美が声をかけない限り自ら話しかけることはなかった。
この日の繭美は、瑠璃色の霞を背景とした南天文様の手書き友禅に白花色の名古屋帯を締めていた。南天は冬に果実をつける目出度い花木であり、その文様は吉祥文とされている。繭美の出で立ちを見て、八名瀬は大いに喜んだ。今の八名瀬との関係を前向きに受け容れている証拠だと思ったからである。
しかも、会う度に美しさを増していく繭美の着物姿が余りにも艶やかに映って、八名瀬は褒め言葉に窮したほどだった。
そして小一時間の後、蔵座敷の居間では、淡い水地に明るい青の斜め格子が爽やかな長襦袢姿になった繭美が八名瀬の胸に背中を預ける形で懐に抱かれていた。
「繭美。そろそろあれしてもいいかな?」
太く短い猪首を伸ばして繭美の顔を覗き込んだ八名瀬がそう問いかけた。
小さくうなずいた繭美は、その場に立ち上がって長襦袢の伊達巻きをするするとほどき落とし、肌襦袢の腰紐も抜き取った。
そして、両手でつかんだ長襦袢と肌襦袢の衿を後ろにずらして肩を抜き、重なり合った水色と純白の布をなめらかな背中に滑らせていった。残るは淡い紅地に白い折鶴が散らされた艶っぽい腰の湯文字と足の白足袋だけである。
頬を赤らめ露わになった乳房を両手で覆い隠した繭美は、その場に腰を落として正座になると八名瀬を見上げながらなおやかな両手を後ろに廻していき、自ら左右の手首を背中の中ほどで交差させて八名瀬の縄がけを待った。
繭美が自ら重ね合わせた両手首を縛った八名瀬は、形よく熟れた真っ白い乳房の上下に二重三重に縄をかけた。更に左右の二の腕と脇腹の間で胸縄に閂縄をほどこして乳房を絞り出した八名瀬は、縄止めをして再び懐に抱き寄せた繭美の耳元で囁いた。
「どうだろうね、繭美。今後は毎週一度、ここへ泊まりに来るようにしてくれないか」
その言葉に繭美は、艶やかな肩をビクンとさせ、後ろ手に縛られた不自由なからだをよじって八名瀬の懐から離れた。
打診するような言葉であっても、八名瀬の場合は命令に他ならない。それを百も承知の繭美は、乱れた紅色の腰布の裾から白く輝く下肢を覗かせて横座りになると、悲しみに打ちひしがれたように顔を伏せ、か細い声で答えた。
「もしもイヤですと答えたら、八名瀬さん、わたしが承知するまで折檻するおつもりなんでしょう? こうして自由を奪っておいてから話を持ち出されたのですから……」
今にも泣き出しそうな繭美に八名瀬は慌てた。
「違うんだ、繭美。悪かった、お前を縛ってから話した私が悪かった。それは謝る。だから私の話を聞いてくれないか」
でっぷり太った体が縮まってひと回り小さくなっていた。
今の八名瀬には無理やり屈従を強いるつもりがないことを確信した繭美は、八名瀬を見上げてコクンとうなずいた。
「そうか、分かってくれたか」
ホッと胸を撫で下ろした八名瀬は、繭美を縛めた縄の結び目に手をかけた。そして、結び目をほぐしながら自分の思いを語った。
「今の私にはひと月という時間がとてつもなく長く感じられてね。いい年齢をしてと笑われそうだが、四六時中繭美の顔が頭に浮かんで仕事も手に着かない始末なんだ」
珍しく照れた顔を見せた八名瀬は、「だから、週に一度はここでお前と会えるようにしておきたいんだよ」と言うと、後は無言で縄をほどいていった。
乳房を緊め上げていた縄が外された時、うつむいていた繭美が顔を上げて口を開いた。
「お妾さんになれということですか?」
「いや、そうじゃないんだ。そういうことではなくて、出来るだけ頻繁にお前と二人だけの時間を持ちたいんだ。承知してくれるのなら借金の半分を今すぐ棒引きにしてもいい」
「八名瀬さん。お金と引き換えに、わたしが休息をとれる週末のすべてをあなたに捧げるとしたら、お妾さんとして囲われるのと一緒じゃありません?」
繭美にそう切り返されて八名瀬は言葉に詰まった。
「ま、そういう解釈も出来ないではないが……」と口を濁した八名瀬が背中高く吊り縛っていた両手首の縄をほどき終えると、繭美はか細い声で呟くように言った。
「同じことですわ」
自由を取り戻した両手を胸前に交差させて乳房を覆い隠すと、繭美は悲しみを滲ませた端整な顔を伏せて言葉を続けた。
「わたしには暖簾を守り続ける責任があります。だからこうしてあなたのおっしゃる通りにしてきました。でも、わたしも普通の女なんです。三十歳になるまでに綺麗なからだのまま嫁ぐことを夢見てきました。なのに、その夢は奪われてしまいました……」
繭美の長い睫毛の間から大粒の涙がこぼれ落ちて、畳の上を八名瀬の方へ跳ねた。その飛沫が「お前のせいだ」と言っているように感じて、八名瀬は太い猪首をすくめた。
「それでもやはり一度は結婚したいと思っています。八名瀬さん、今のわたしには、あなたに肌身を縛られてきたわたしには、その資格がないとおっしゃるんですか?」
「いや、そんなことを言うつもりはない」
「そうでしょうか。本妻にとおっしゃるのならまだしも、お妾さんにだなんて……」
繭美は喉を詰まらせた。
が、八名瀬は驚きの目を見張って身を乗り出した。
「繭美。い、今の言葉は、本心なのか!」
「えっ、なにがですか?」
「ほ、本妻になら……、と言ったじゃないか!」
「ええ。でも、お妾さんになれと言われるくらいならという意味ですが……」
繭美は八名瀬の問いの意味が理解できず、怪訝な表情で首をかしげた。
その繭美の前に八名瀬は正座をした。
「繭美。改めて申し込みたい。私の、私の妻になってくれないか」
「ええっ!」思いがけない八名瀬のプロポーズに繭美は唖然とした。
切れ長の美しい眼を見開き、自分の耳を疑うように小首をかしげて八名瀬の顔を凝視している繭美の目の前で、八名瀬は畳に両手を突いて深々と頭を下げた。
「同じ屋根の下で一緒に暮らせればそれでいいんだ。若女将の仕事も続ければいい。ここから神楽坂に通えばいいんだ。だから頼む、うんと言ってくれ」
予想もしなかった展開に繭美は困惑した。
どう返事をしたら良いものか、分からなかった。が、とにかくこの場を取り繕っておく必要があると思いながら言葉を返した。
「八名瀬さん。余りに急なお話なので、わたし、今は何もお答えできません。ですから、しばらくお時間をいただけませんか、よく考えてみますので……」
本来ならば、三十歳も年齢の離れた初老の男に、しかも自分の肌身を縛り上げて弄んできた張本人に嫁ぐことなど考えたくもないはずである。しかし、過酷な責めに耐えた後に自ら縄を求めて八名瀬を翻弄してきたことが繭美の心に微妙な変化をもたらし、それが新たな足枷になっていた。
「いつまで待てばいいんだ?」
「正直に申し上げて、わたしにも判りません。とりあえず、新年のご挨拶にこちらへ伺う時まで待っていただきたいのですが……」
「分かった。それまで待とう。いい返事を期待してるよ」
声を弾ませた八名瀬は、繭美を再び懐に抱き寄せると、耳元で囁いた。
「お前が私の妻になってくれたら、当然『はなむら』への貸し金はすべて棒引きだな」
4
翌日曜日は朝からぽかぽかと陽気のいい小春日和だった――。
吉村が運転する車で神楽坂へ帰る繭美を玄関で見送った八名瀬は、一抹の寂しさを感じたが、心に明るい光が宿ったような気がしていた。
「八名瀬巌ともあろう者が……」
冷酷非情と言われるほど決して情に引きずられることのなかった男が、まるで純情青年のように心をときめかせている。その自分が、八名瀬は不思議でならなかった。
昨夜は、繭美と初めて縄を使わないセックスをした。裸に剥いた女を縄で縛り上げて愛撫することを好む八名瀬としては物足りなさが残ったが、それはそれで新鮮だったし、何よりも自分に甘えてくる繭美の愛らしさと絶頂に至るまでの身悶えがたまらなかった。
縄をまとわせれば更に妖艶さが増すことは誰よりも八名瀬がよく知っている。が、当面、それは避けた方がいいと判断していた。
(それにしても、また馬鹿な約束をしてしまったな)
八名瀬は、時間が欲しいという繭美の気持ちに配慮して、年が明けるまでは『はなむら』へ出向くのも控える約束をした。当然、繭美の顔は見られない。
そうなることが分かっていながらつい、繭美の歓心を買う言葉を口にしてしまったことを悔やんでいた。しかし、それも男としての優しさと度量の大きさを示したい気持ちが強く働いたからだった。借金をカタにとって結婚を迫るという卑怯な振る舞いをしている意識は八名瀬にはなかった。
何はさておいても好いた女と交わした約束を破る訳にはいかない。それ故しばらくは顔すら見られないことが八名瀬の繭美への思いを日々募らせていく。
巷では誰もが師走の寒空の下を忙しく飛び回っているというのに、何もかもがまるで上の空で仕事が手に着かない。八名瀬一人が停止した時間の中で深い物思いに沈んでいた。
そんな八名瀬を心配してか、ある日、管理部長の辰巳が尋ねた。
「社長。もしかして、どこか体の具合が悪いんじゃありませんか?」
辰巳義弘、四十六歳。以前は警視庁の暴力団対策担当刑事だったが、被疑者として収監中だったヤクザの情婦に手を出して警察を追われた。
妻にも三行半を投げつけられて自棄になっていた彼に働き場を与えたのが八名瀬であり、借り手が悲鳴を上げるという厳しい取立てはこの辰巳と部下数人が行っていた。
「そんな風に見えるか?」
「ええ。皆も心配してましてね、ここんとこ社長が優し過ぎるって。いつものようにビシッと叱ってくれないと気合が入らないなんて言ってるんですよ」
「そうか……。でもな、辰巳。病気してる訳じゃないから心配はいらないよ」
「それならいいんですが、少し痩せられたようなので、私も少々気になってましてね」
「痩せて見えるか? そうか、辰巳がそう思うんだから皆が気にするのも無理はないな。しかし、本当に何でもないんだ。考え事があるだけだから」
「考え事が? そうでしたか、それを聞いて安心しました」
辰巳は顔に笑みを浮かべて引き下がったものの、社長室を出るとしきりに首をひねった。それほど八名瀬の繭美に関する心の病は進行していた。
師走も中旬。神楽坂の小料理屋『はなむら』は、以前ほどではないものの、年忘れに来る客で賑わっていた。仕事の苦労話に花を咲かせ酒食に興じる客たちの喧騒に包まれて忙しく立ち働きながら、若女将の繭美は心の中で葛藤を続けていた。
動かしがたい事実が目の前に横たわっている。大正時代から掲げ続けてきた暖簾の危機がそれである。
八名瀬のプロポーズを断れば三千万円余の手形はすぐに交換に回され、たちまちお店は倒産する。その最悪事態を回避出来る方法を模索したが、八名瀬の意に沿うこと以外には、いくら考えても方策は浮かばなかった。
その上にもう一つ、繭美の悩みを深めていることがあった。
被虐官能の妖しい快美感を覚えてしまった今、年相応の相手と結婚できたとしても普通の性生活を営む自信が繭美には持てなかったのである。
(わたし、からだの中に魔物が棲みついてしまった……)
自ら衣服を脱ぎ落としていく時の恥ずかしさとやるせなさ、素肌を晒して両手を後ろに廻していく時の切なさ、背中に重ね合わせた両手首にキリッと縄がかかった時の胸のざわめき、乳房の上下を縄に緊めつけられた時の女陰の疼き、緊縛された肌身を愛撫されながら燃え上がる時の快美感……。
お店の暖簾を守るためにと耐え忍んできた結果、繭美の意思に反してからだが求めるようになってしまった異妖で甘い性感覚のすべてが恨めしかった。
そして師走も下旬に入ったある日の夜のこと――。
上機嫌で腰を上げた客たちを店先まで送り出し、にこやかな笑顔で来年も引き続きご愛顧くださいとお願いし、深々と頭を下げた。
そして、この日最後の客を見送って暖簾を仕舞おうと手を伸ばした時、背後から吹き寄せてきた木枯しが繭美をくるりと巻いて抜けていった。その瞬間、繭美は冷たい縄に全身を縛られたように思った。と同時に、ズキンと、下腹部が疼くのを感じていた。
(わたし、もう、元のわたしには戻れないのかも知れない……)
手にした暖簾を見つめる繭美の切れ長な美しい目の大きな瞳が潤んでいた。
つづく
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