第十二章 なみだ雨
1
「八名瀬さん。この子の父親のことはご存知でしょうか?」
「はい。板前さんの世界ではこの人の右に出る者はいないだろうという高い評判を耳にしておりましたので、惜しい方がお亡くなりになったものだと思っておりました」
「ありがとうございます。そう言っていただいて主人も草葉の陰でさぞ喜んでいることと思います。あの人は大変仕事に厳しい人でしたが、普段はとても優しい人だったんですよ」
「そのように伺っています」
「特にこの子の可愛がりようといったら、一人娘ということもありましてね、それはもう大変でした。そんな父親からありったけの愛情を注がれて育った繭美が、八名瀬さん、亡くなった今も慕っている父親の温もりをあなたに感じるんだそうです」
「えっ、この私にお父上の……。そ、そうでしたか。いやはや、恐れ多いことです」
「八名瀬さん、この子を可愛がってやってくださいね。お頼みいたします」
「承知しました。お任せください。大切にさせていただきます」
二月中旬、八名瀬巌は、婚約の挨拶を兼ねて花村繭美の入院中の母・雅代を見舞った。その時、母と娘の内輪話を聞かされ、何とも形容しがたい感動を覚えた。それが母親を説得するために繭美が考えた作り話であったとは知らない八名瀬は、淫らな欲情に端を発した繭美に対する彼の執着がより純粋な愛情へと変化していくのを感じた。
その八名瀬の「一日も早く」という強い希望で、繭美は、二月末の吉日に入籍を済ませて八名瀬繭美となった。しかし、『けやき屋敷』に移り住む前に片付けておかなければならないことが多々あり、正式な輿入れはゴールデンウィークからと決まった。それまでの間は毎週土曜日に繭美が神楽坂から小石川へ通って、週末を二人で過ごすことになった。
ちなみに八名瀬の手元に保管されていた金銭消費貸借契約書と約束手形は、かねての約束通りに、入籍したその日に繭美の目の前で焼却処分された。
その夜、八名瀬が縄をまとわせた繭美の裸身を抱きしめて眠ったことは言うまでもない。
それからというもの、八名瀬は人が変わったように誰に対しても柔和な態度で接するようになった。戸惑ったのは『ヤナセ金融』の社員たちである。あの怖い社長が、仕事のミスがあっても以前のように怒鳴りつけたりはせず、筋道を立てて優しく諭す。ねぎらいの言葉をかけることも多くなった。彼らはしきりに首を傾げ、中には気味悪がる者もいた。唯一、管理部長の辰巳だけが主の変貌ぶりを呆れ顔で眺めていた。『はなむら』への貸金を帳簿から消すよう指示された時に事情を耳打ちされていたからである。
八名瀬は、一つ屋根の下で暮らすのはまだ先になるものの、繭美を妻に出来たことがとにかく嬉しくてたまらない。彼の胸の中はまさに春爛漫だった。
千鳥が淵の桜が満開になった四月初めの土曜日午後、八名瀬は自分と繭美にごく近い者だけを招いてささやかな宴を催した。言わば結婚の内祝いである。『ヤナセ金融』からは管理部長の辰巳義弘と秘書の吉村達也、『はなむら』からは調理長の木下善一と仲居頭を務めている木下の妻、そして屋敷内の管理を委ねられている老夫婦という顔ぶれだった。が、そこに大久保剛の姿はなかった。
八名瀬の送迎を吉村に任せて債権回収業務に専念することになった大久保は、『けやき屋敷』を出て西神田にある会社借り上げのマンションに移っていた。が、それは表向きの話で、その実は、繭美との新生活を憂いなく始めるために八名瀬がとった措置だった。
半年前、当時はまだ繭美を嗜虐対象の一人に過ぎないと見ていた八名瀬が嫌悪感を覚えたほど、大久保は恵俊和尚と一緒になって繭美に淫虐の限りを尽くした。その大久保が同じ敷地内に住んでいることを繭美がどう思うかは聞くまでもない。
内祝いの宴は、母屋の表間を会場に、午後三時に始まった。祝膳に並べられた彩り鮮やかな料理は『はなむら』の花板である木下が腕によりをかけてこしらえた品々だった。
「社長、奥様、ご結婚おめでとうございます」
「よろしゅうございましたね、お嬢さん。八名瀬様、お嬢さんをよろしくお願い致します」
辰巳と木下がそれぞれの立場から祝いの言葉を述べると八名瀬は、柄にもなく照れながら、型通りの答礼をした。親子ほど歳の離れた若い女性を娶ったことが、しかも五度目の結婚であることがいかにも気恥ずかしいというその表情が皆の笑いを誘い、繭美の方は新妻らしい初々しい恥じらいを見せて皆を微笑ませた。
「今日は身内だけなんだから、そろそろ無礼講にしようじゃないか」
八名瀬がそう宣言してから、祝いの席は和気藹々とした雰囲気に包まれ、酒がすすむに連れて盛り上がっていった。
喜色満面の八名瀬は、腹心の辰巳義弘が唖然とするほど饒舌に話し、調理のプロの木下善一を相手に和食談議に花を咲かせた。身内として席を与えられたことに嬉し涙を流した老夫婦だけが黙々と箸を運んでいるのがかえって目立つ有様だった。
そうした中で繭美は、時折り目が合う吉村の視線が頬に突き刺さるように感じ、そのたびにすっと顔を伏せた。なぜ八名瀬に嫁いだのだと問いかけているような気がしてならなかったし、半年前のあの夜に淫らな牝獣と化した自分を見られたことが恥ずかしかった。
吉村の方は、繭美は結婚を強いられたに違いないと思っていた。
店を存続させるための犠牲になった繭美の胸の内にあるはずの、深い哀しみと心の痛みに思いを馳せながら、
(五年前のあの日に、自分が八名瀬を『はなむら』に案内してさえいなければ……)という、慙愧の念に駆られていた。
2
二時間余りの宴がはねた時、外は小雨がポツポツと落ちていた。
「社長。雨降って地固まるって言いますが、きっと恵の雨ですよ、この雨は」
「そうだな、辰巳。この雨の恵をこぼさないように、私も精一杯努力するよ」
「八名瀬様。今後とも繭美お嬢さんと『はなむら』をよろしくお願い致します」
にこやかに辞去の挨拶をした辰巳と木下夫妻は、呼び寄せた二台のタクシーにそれぞれが乗り込んで、八名瀬と繭美に見送られながら屋敷を後にした。
祝宴の席が設けられていた表間に戻った八名瀬は、宴席の片付けをしている老夫婦と吉村に「三人とも今日はご苦労だった。片付けが終ったら、ゆっくり休んでくれ」とねぎらいの言葉をかけ、そばに寄り添う繭美の肩を抱いて南蔵の居室へと移っていった。
それから一時間余りが経ち、『けやき屋敷』はそぼ降る雨に煙っていた。
吉村達也は、離れの自室の窓際に置いた一人掛けソファに沈み込むように座って、次第に雨足が強まっていく外の景色をジッと眺めていた。様々な思いが頭の中を駆け巡っている。何とかして繭美を八名瀬の縄地獄から救い出せないものだろうかと考えていた。
しかし、いくら考えても妙案は浮かんで来ない。やはり八名瀬巌という存在が消えてなくならない限りはどうにもならない、と吉村は頭を抱えた。
丁度その頃、一緒に入浴を済ませて浴衣に着替えた八名瀬と繭美は寝室にいた。延べられている夜具は、三つ折りにされた掛け布団が敷き布団の裾に押しのけられている。その夜具に正座をしている繭美の膝に八名瀬が頭を載せて寝そべっていた。
「笑われそうだが、お前のように美しい妻を相手にこうするのが私の長年の夢だったんだ」
ボソッと恥ずかしそうに言った八名瀬は、「繭美。お前の膝はとても柔らかくて気持ちがいいねえ。気持ちが良過ぎて眠ってしまいそうだ」と微笑みながら目をつむった。
「このままお眠りになってもいいですよ」
柔和な言葉を返した繭美が膝上の八名瀬の頭に片手を添えてゆっくりと撫でる。目を閉ざしている八名瀬の贅肉膨れの顔に、幸せを満喫している男の歓びが滲み出ていた。
「今日は朝から忙しかったから、お前、疲れていないか?」
「いえ、ちっとも。八名瀬さんこそお疲れになったんじゃありません?」
「繭美。その、『八名瀬さん』と呼ぶのは、そろそろ止めにしてくれないか」
「あら、そうでしたわ。でも、わたし、何とお呼びしたらいいか……」
「そうだなあ。『イワオさん』とか『あなた』とか、とにかく八名瀬さんと呼ぶのだけはよしてくれないか、他人行儀に聞こえて仕方がないから」
「はい、八名瀬さん」
「こらこら、またそう呼ぶ」
「ごめんなさい、八名瀬さん……じゃなくて、あなた」
「あははは、やっと『あなた』と呼んでくれたか。それでいい。それでいいよ、繭美」
「すみません、頭の切り替えが遅くて……」
繭美が首を竦めるのを見上げて苦笑いした八名瀬は、さっと起き上がって胡坐を組むと、「ここへおいで」と自分の懐に繭美を後ろ向きに抱き寄せた。そして、湯上りにふっくらと巻き上げた繭美の黒髪に鼻を埋めて「いい香りだ」と呟き、数本の後れ髪が色っぽいうなじに熱い口吻を注ぎながら浴衣の衿を引き下げていった。
繭美の浴衣の下はショーツ一枚である。ブラジャーは着けていない。剥き出しになった白桃のような両乳房を両脇から伸ばした八名瀬の手がむぎゅっとつかんだ。
「いやですわ、もうそんな意地悪を……」
繭美は鼻にかかった甘い言葉を洩らして首を仰け反らせた。その真っ白くしなやかな首筋に舌を這わせながら、八名瀬は形良く熟した柔らかい乳房を揉み上げていった。
「あ……、ああ……、はっ、はぁっ、ああっ、あ……」
手のひらに包むようにして乳房を揉み上げられていく繭美の、甘い吐息が次第に熱を帯びた喘ぎに変わっていく。
腰まで下げられた浴衣の袖から両手を抜いた繭美は、その手を自分の首の後ろに廻した。胸を突き出し、もっと強く揉んでくれとでも言っているようなその仕草に八名瀬の興奮も高まっていく。
一旦乳房から手を離した八名瀬は、繭美の帯をほどいて浴衣を脱がし取り、両手で胸乳を覆い隠している繭美を夜具に寝かせた。そして、腰のショーツを脱がせると、一糸まとわぬ姿になった繭美の上に覆い被さって唇を重ねようとした。
と、その時、繭美の両手が八名瀬の肩を柔らかく押し返した。
「いいんですか、縄をお使いにならなくても」
予想もしなかった言葉を投げ掛けられた八名瀬は、上半身を起こして繭美の顔をまじまじと見つめた。
入籍した日の夜は別として、八名瀬にはこの愛らしく美しい妻に縄をかけて虐めることは避けたいという気持ちが芽生えていたし、繭美の口から縄という言葉が出るとは考えたこともなかったからである。
「いいのか、繭美、縛っても……」
「ええ、遠慮なさらないでください」
「そうか、すまんなあ、かえって気を遣わせてしまって」
ニコッと顔を崩して立ち上がった八名瀬は、ずんぐり太った体を軽々と運び、床の間脇の戸棚から縄を持ち出した。
夜具の中央に正座をして待っていた繭美は、麻縄の束を手にした八名瀬がそばに戻ってくると、薄く目を閉ざしてしなやかな両腕を静かに後ろへ廻し、静脈が透けて見えるほど白く繊細な手首を自ら背中の中ほどに交差させていった。
しかし、繭美の背後に膝を突いて「それじゃ、縛らせてもらうよ」とわざわざ断ったように、八名瀬にはまだ遠慮があった。
以前は両手首を縛った後でその両手首を背中高く持ち上げる高手小手縛りにしていたのだが、この夜はそうすることを避けた。乳房の上下を巻き縛った時も、縄を引き絞って緊め上げることはしなかった。
そうした八名瀬の気遣いを嬉しく思いながらも繭美は、縄が肌に喰いこんでこないことに物足りなさを感じずにはいられなかった。
(もっと厳しく、ヒシヒシと縄をかけて欲しい)
緊縛の快美感を覚えてしまった女の肉体がそう望んでいた。
「ねえ、あなた」と、繭美は縄止めをしようとしていた八名瀬を振り向いた。
「んん? どうした? やはり嫌か、縛られるのは」
「いえ、違います。もっときつく……」きつく縛ってくださいと言おうとした繭美は、その恥ずかしい言葉を和らげた。
「きつく縛ってくださってもいいんですよ」
そう言うと、ポッと赤らんだ頬を隠すように顔を伏せた。
「本当だな、本当にきつく縛ってもいいんだな?」と問い直した八名瀬に、繭美は蚊の鳴くような声で「ええ」と答えて小さく首を縦に振った。
思いがけない繭美の反応が八名瀬は嬉しかった。
罠に嵌めて誘い込んだ上でのことだったとはいえ、繭美に縄の味を教え込んできたのは他ならぬ八名瀬自身である。繭美の心の奥底に被虐の性が潜んでいることを見破った自分が誇らしくさえ思えた。
「よしっ、それじゃ、縛り直しだ」
声を弾ませた八名瀬は、満面に笑みを浮かべて今かけたばかりの縄をほどいていった。
3
午後八時半。夕暮れ時にポツポツ落ち始めた雨は、次第に勢いを増して一時は篠突くほどになったが、今は霧雨に変わっている。
しとしとと雨が降り続ける暗い夜景を、離れの自室の窓から吉村達也がジッと見つめていた。雨のカーテンの向こうには母屋があり、さらにその先には南蔵がある。奥歯を喰い締めながら一点に視線を集中している吉村の双眸では、何かを思い詰めた人間に見られる暗い紫色の炎がチロチロと燃え上がっていた。
その吉村が遠く凝視している南蔵の寝間では、先ほどから、還暦間近な八名瀬が親子ほど歳の離れた若く美しい新妻を相手に淫靡な緊縛性戯を繰り広げていた。
「繭美。本当に思い切りきつく縛ってもいいんだな?」
「ええ、遠慮なさらないでください」
「分かった。でも、あれだよ。きつ過ぎるようだったらすぐにそう言うんだよ」
「はいっ」とうなずいた繭美は、乳房を覆っていた左手をすっと横に下ろすと同時に股間に押し当てていた右手をふっと浮かせ、白絹のようなぬめりのあるしなやかな両手を静かに後ろに廻していった。そして、長い睫毛が魅惑的な瞳を閉ざすと、左右の手首を自ら背中の中ほどに重ね合わせた。
繊細さを感じさせる白く細い両手首に縄が巻きついてくる。くるくるとふた巻きした縄がキリッと緊められると、繭美の胸はキュンと時めいた。
次に、華奢な両手首をかっちり縛った縄が背筋を上って首のつけ根をくるりとひと巻きすると、繭美の女陰の奥がヅキンと疼いた。
そして、首から背中に戻った縄が重なり合った左右の小手の間をくぐってググッと引き上げられていった。
首を緊めつけながら一つに束ねられた両手首を次第に高く持ち上げていく縄の厳しさに、「ううっ」と小さな呻き声を洩らした繭美のからだの芯は急速に熱を帯びてきていた。
しなやかで女を感じさせる柔らかな肉付きの両手を後ろに縛り上げた縄が、左の二の腕をひと巻き縛ると水平に走って右の二の腕も同じように巻き縛り、背中を縦に走る縄にからんで引き絞られていく。
きつい。確かにきつかった。
が、自らきつく縛られることを望んだ以上、弱音は吐けない。
繭美は切れ長な美しい目を閉ざして「はっ、ああぁ……」と切ない吐息を洩らした。
縄は左右の二の腕を背筋に引き寄せながら両手首のすぐ上で縄止めされた。
上質な白磁の輝きを放つ繭美のすべるような背中に黒ずんだ縄が太い十字を描いている。その上に肘を深く折った左右の真っ白い腕が斜めに交差する厳しい後ろ手高手小手縛りに、繭美の花肉の芯はズキズキと疼き始めていた。
(ああ、これでもう、わたし、何をされても抵抗できない……)
八名瀬が繭美にかけた縄は、江戸時代から伝わる捕縄術の一つである早縄を応用した縛り方だった。前から見ると縄は首と左右の二の腕に一筋ずつかかっているだけの簡素な縛り方だが、高手小手の形を加えたこの縄がけはかなり厳しく、緊縛感の強いものである。きっちり縛られた繭美が一切の自由を奪われたと感じるのは当然とも言えよう。
しかし、繭美への縄化粧はこれで終った訳ではなかった。
二本目の縄を首縄の喉下部分につないだ八名瀬は、その縄を二重に揃えてからめ、胸の谷間で一つ、その二十センチほど下にもう一つ、結び目をこしらえた。
「それじゃ、繭美。膝を突いて立ってくれないか」
「はい?」と閉じていた目を見開いた繭美は、縄に二つの結び目があることに一瞬戸惑いを見せた。が、八名瀬の意図を悟った繭美は、正座の腰をすっと上げて後ろ手縛りの裸身を立てると、夜具に揃えて突いた膝頭を自ら左右にずらして股を開いていった。
「そうだ、それでいい」
ニコッとした八名瀬は、二つの結び目がついた縄を繭美の股間に通し、たるみを残して後ろの白い双丘の狭間に引き上げたところで三つ目の結び目をこしらえた。
そこから縄を左右に振り分けて豊かに実った尻の柔らかな肉に埋め込むようにして前に廻し、恥骨の間にたるんでいる二重の縄をググッと左右に引き開いた。
その瞬間、「ああっ……」と小さな狼狽の声を洩らした繭美の太もものつけ根は縄にきつく緊め上げられていた。
くびれた腰に深く喰いこんで後ろに戻った縄が、斜めに交差して左右の脇腹から前に廻って二つの結び目の間の二重縄を左右に開く。その縄が瑞々しく熟れた二つの乳房の下にもぐりこんで後ろに引き絞られていく。
「あっ、ああっ」と思わず女肉の喘ぎを声にした繭美は、桜色に染まった細首をのけぞらせるようにして顎を突き出していた。
再び背中で交差した縄が、今度は左右の腋の下に喰い込みながら前に廻って胸乳と首の間でまだたるみを残している二重縄を引き開いていく。ギュギュッと後ろに引き絞られた縄が乳房の上のゆるやかな胸の傾斜に溝を掘り、「ううっ!」と、鋭く呻いた繭美の背中で高手小手の縄につながれて結び止められた。
一糸まとわぬ繭美の柔肌に縄が綺麗な三つの菱形を描いている。菱股縛りの完成である。女の秘裂にこそ縄が喰い込んでいないものの、太もものつけ根をえぐる股縄と乳房を絞り出す菱縄によって繭美の緊縛感は否が応でも高まった。
女体への縄がけに通暁している八名瀬がこの縛り方を選んだのには二つの理由があった。一つは見事に均整の取れた繭美の裸身を縄で美しく飾ることであり、もう一つは股間を縛ったまま交わることが出来るようにと考えてのことだった。
(ああ、からだが、からだの奥が燃えてくる……)
柔肌を徐々にきつく緊め上げてくる非情な縄に、繭美の被虐官能は妖しい炎を燃え上がらせた。切なさが胸を突き上げ、繭美の花肉の芯は疼きを速めていった。
繭美は、嫌々縛られるのではなく自ら縄を求めることによって八名瀬の心を惑わせ、自分の肌身のみならず心まで縛り上げて弄んできた八名瀬を翻弄してやろうと思っていた。ところが今、その報復心は悦虐の波に押し流されてどこかへ消えてしまい、淫靡な被虐官能がもたらす愉悦感に浸っている自分がここにいる。
そう思った繭美の緊縛裸身がその愉悦を表すようにうねり、菱縄に絞り出された透けるように白い二つの乳房が妖しく揺れた。白いぬめりが官能味を感じさせる両もものつけ根を緊め上げている縄がギシッと鳴いて目を惹きつける。その縄の間で漆黒の繊毛が切なげに震え、問わず語りに男の欲情をそそった。
4
後ろ手高手小手の菱股縛りをほどこされた繭美は、夜具の上に肢を横に流して座り、女の秘所を隠すように、つけ根を縄に緊め上げられている真っ白い両ももをぴっちり閉ざしてうな垂れている。その姿態はどこから眺めても妖艶そのものだった。
余りの美しさに喉の渇きを覚えた八名瀬は、水差しの水を喉に流し込むと夜具の上に胡坐をかき、縄栄えする繭美の妖美な裸身を後ろ向きにして再び懐に抱き寄せた。
後ろ手縛りの背中を預けた繭美の、菱縄に絞り出された瑞々しい乳房を下から手のひらに包み、その手をゆっくりと握り締めるようにして揉み上げていく。
「あっ、ああっ、あ……」
すでに膨らみを増していた繭美の乳首が尖っていく。
ひとしきり乳房の柔らかな感触を愉しんだ八名瀬は、マシュマロのような乳房の頂点で上を向いた赤い乳首を指先でクリクリとこねながら熱い息を繭美の耳に吹きかけ、耳たぶに軽く歯を立てた。そして、ほんのりと桜色に染まってきたうなじから艶々と光る肩先にかけて舌を這わせていった。
「んっ、うんっ、う……」
感じやすい場所を丹念に攻められ、繭美の感情は急速に昂ぶっていった。
繭美の感情の昂ぶりにあわせて股間の分身を逞しくしていった八名瀬は、繭美を夜具の上に仰向けにして覆い被さろうとした。
丁度その時、床の間の電話がけたたましく鳴り響いた。
「チッ、誰なんだ、こんな時に……」
憮然とした八名瀬は、繭美から離れて立ち上がると、「この番号にかけてきたということは……」と、ぶつぶつ独り言を呟きながら鳴り続けている電話を取った。
「なんだ、お前か。一体どうしたっていうんだ、こんな日に……」
八名瀬の第一声は怒気を孕んでいた。
「なに?……私に頼みがある? 月曜日じゃダメなのか? ん?……今から聞いて欲しい? 玄関まで来ているのか……、しようのないヤツだなあ。分かった、すぐ行く」
苦虫を潰したように不快な表情になった八名瀬の顔を見て、繭美は胸騒ぎを覚えた。
八名瀬は、受話器を置いて繭美の緊縛裸身に掛け布団をかぶせると、「すぐに済ませてくるから、このまま待っていてくれないか」と言い残して母屋へ向かった。
しかし、十五分余りが経過しても八名瀬は戻ってこない。
耳を澄ましても物音ひとつ聞こえてこない。
夜具の中に後ろ手に縛られた裸身を横たえている繭美は不吉な予感に囚われた。が、朝からずっと緊張が続いていたせいか睡魔に襲われ、つい、うとうとと眠り込んでしまった。
消防車のような、パトカーでもあるような、緊急車両が鳴らす音が次第に高くなるのを耳にして繭美は目覚めた。
首を傾けてかたわらを見ると八名瀬の姿はない。まだ戻ってきていなかった。
電話をかけてきた誰かと会うために母屋へ向かってからすでに一時間余りが経っている。繭美は、八名瀬の身に何か起こったことを直感して強い不安と言い知れぬ恐怖を感じた。
まもなく緊急車両の音は鳴り止み、しばらくすると母屋の方角からかなりの人数が屋内を動き回っているような物音が聞こえてきた。
しかし、裸の肌身を縄で縛られていては、何が起こっているのかを確かめに行くことは勿論のこと夜具から抜け出すことも出来ない。繭美には、八名瀬の無事を祈りながらジッと夜具に身を埋めて、何事もなかった顔をした八名瀬が戻ってくるのを待つ他になすべき術はなかった。
それから十分も経っただろうか。
突然、ガラッと襖が開けられた。が、寝間に入ってきたのは八名瀬ではなく、顔の険しい二人の見知らぬ男たちだった。
「ど、どなたなんですか、あなたたちは!」
思わずそう叫んだ繭美の目に、彼らの後ろに立っている吉村達也の姿が映った。
「吉村さん、これは一体……」と繭美が状況を確かめようとするのを遮って、黒革の手帳を開いて右手にかかげた年配の男が繭美に尋ねた。
「小石川署の者です。奥さんですね」
「はい、そうですが……」と夜具から首だけ出して不安げに答えた繭美の胸は今にも張り裂けそうだった。
「そのまま落ち着いて聞いてください。先ほどご主人が何者かに殺害されました」
「ええっ!」と絶句して起き上がろうとした繭美は、そう出来ないことにハッと気づき、真っ青になった顔を布団に埋めて号泣した。
掛け布団を波打たせるばかりで起き上がってこようとしないのを見て事情を察知した吉村は、素早く繭美のそばに移動して、夜具の中の繭美の全身をしっかりと包み隠そうとした。
「おい、ちょっと待てっ!」
若い刑事が鋭い声で吉村を制止し、「凶器がまだ見つかっていないんだよ。その布団の下にあるんじゃないのか」と猜疑心の強い眼差しで吉村の顔を睨んだ。
「言うに事欠いて、何てことを言うんだ!」と、吉村は憤った。
その吉村を年配の刑事が、「まあまあ、そんなに怒らないで落ち着いてくださいよ。私らも役目柄、確かめておかなきゃならないものでしてね」となだめ、若い刑事を振り返って叱った。
「お前も言葉に気をつけるんだ」
「刑事さん、五分でいいですから、隣りの部屋で待っていてもらえませんか」
とにかく早く繭美に衣類を着せたい吉村は、年配刑事にそう頼んだ。
しかし、「な〜に、すぐに済むことだ」と嘯いた若い刑事が、つっと夜具に埋もれている繭美のそばに寄ると、いきなり掛け布団をめくりあげた。
繭美は、咄嗟に寝返りを打って横向きになった緊縛裸身を小さく丸く縮めた。
「何をするんだ!」と叫んだ吉村の怒気が直撃したが、若い刑事は愕然として立ち尽くしていた。ゴクッと生唾を呑み込む音が妙に大きくその場の皆の耳に届く。
裸の肌身を縄で縦横に縛り上げられている繭美の姿態は、若い刑事にとって、この世のものとは思えないほど美しく妖艶だった。
強い羞恥心に身を震わせながらすすり泣き、身じろぎをしては素肌を縛める縄をギシギシ鳴らす、繭美の妖美な被虐姿態を若い刑事のみならず年配刑事までが口をポカンと開けて見惚れた。
「奥さん、ご主人の遺体は我々が引き取って司法解剖させてもらいます、殺人事件の場合はそれが決まり事ですので」
衣服をまとっても羞恥に顔を上げられないでいる繭美に、居間で向かい合った年配刑事は言葉をこう継ぎ足した。
「それから、事情聴取をしたいのでこれから署まで同道願います」
夫を殺されたばかりの妻の気持ちなど一切考慮せず、自分たちの仕事だけを忠実に進めようとする彼らの態度に吉村は激しい抵抗を示した。
「今からすぐに事情聴取ですって、刑事さん? 何で明日じゃいけないんですか! 奥さんのショックの大きさを考えれば、それぐらいの配慮があってもいいんじゃないですか!」
吉村の余りの剣幕に、また繭美が悲嘆に暮れていることにやっと気を回した刑事たちは、「それでいいってことにするか」と顔を見合わせた。
そして、若い刑事の方が「まだ嫌疑が晴れた訳じゃないんだ。二人が共謀すれば十分可能な犯罪だということを忘れないで、明日の昼過ぎには署に出頭することだ」と言い捨てて、居間を出て行った。
刑事たちと鑑識員がすべて引き揚げたのは真夜中の一時過ぎだった。
「吉村さん、あなた、もしや……」
おずおずと口を開いた繭美が吉村の瞳を覗き見た。
「いえ、僕じゃありません。社長の遺体を見つけてすぐに僕のところに飛んできた爺やさんの話だと、誰かが社長と言い争いしているような声を聞いたそうです。ですから、犯人はその言い争いをしていた人間だと思います」
「昨夜の九時過ぎに、主人に電話を入れませんでしたか?」
「はい、僕は入れていません。誰か、電話をしてきた者がいたんですか?」
「ええ、主人は『何だ、お前か』と言っただけで、その人の名前は口にしませんでしたが、電話がかかってきて母屋へ向かいました」
「そうでしたか。ここの電話番号を知っている人間は限られています。会社の主立った者と社長個人の親しい知り合いを合わせて十数人に過ぎません。ですから、遅かれ早かれ、警察がその線から犯人を見つけると思います」
吉村は大久保の犯行だと直感していた。しかし、夫を殺された強いショックに耐えている繭美が恐怖感でパニックに陥るのを恐れて、大久保の名前を口にすることは避けた。
その吉村も離れへ戻り、乱れに乱れた心の制御に一人苦しんでいた繭美は、つい数時間前にこの世を去った八名瀬のことを思い起こし、お金にまつわる繭美との約束をすべて果たしてくれた八名瀬への感謝が心に深く根ざしていることに繭美は気づいた。
裸の肌身を縛られ、恥辱に塗れながら身を焦がした日々が懐かしく思えた。
そして、「嘘から出た誠」というように、亡き父のような温もりを八名瀬に感じていたことに驚き、自分の心の中に八名瀬を愛する気持ちがあったことを悟った。
(わたし、また、愛する人を失ってしまった……)
今も敬愛してやまない父を亡くし、心から愛した結城達哉を失い、ようやく愛せるようになった八名瀬を今また奪われたことが、言語を絶するほど哀しかった。
繭美は、自分が愛した男たちが次々と不幸な死を遂げるという事実に胸を緊めつけられてさめざめと泣き続けた。切れ長で美しい両眼は腫れあがり、男たちの目を惹いてきた美貌にもやつれが見える。色を失い氷のように凍てついた頬を涙で濡らしながら繭美は思った。
(いけないわ、何があっても吉村さんを愛しては……)
午前三時。昨夜からの雨はまだしとしとと降り続いていた。それはまるで深い悲しみの淵に沈んでいる繭美が流し続けている涙のようだった。
つづく
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