鬼庭秀珍 『贋作・お柳情炎』 


    第1章 お柳受難旅



「お柳さん、頼むからもうわしらをかまわないでくれ。本当に迷惑なんだから」

思いがけなくも女侠客ツバメ返しのお柳は、かつては日光裏街道大胡宿を縄張りに近郷一帯を仕切っていた川村甚三親分の落ちぶれ果てた姿を目の当たりにした。大胡宿から北へ半日行程の山あいの僻村でのことである。

しかも、その川村にけんもほろろに追い払われ、お柳が実の妹のように可愛がっていた川村の一人娘お美津と会うことも出来ずに、すでに晩秋を迎えたような景色が物悲しい山奥の陋屋を後にした。朝早くから昼過ぎまで人もまばらな村落の一つひとつを尋ね歩いて、ようやく現在の住まいを探し当てただけにお柳の落胆も大きかった。

それにしても、義理を尽くしたお柳にねぎらいの言葉一つかけなかった川村甚三は、実年齢以上に老け込んでいたし、何かに脅えているようだった。昔の堂々とした物腰と侠客の鏡とまで言われた懐の深さを表す柔和な眼差しがまるで幻だったように消え失せ、情にもろいお柳には甚三の零落ぶりが悲しくてならなかった。が、その思いを呑み込み、お柳は旧恩への感謝の心を込めた挨拶をして辞去したのだった。次第に遠ざかる陋屋を何度も振り返るお柳の切れ長の美しい双眸に映る景色は霞んでいた。

 そのお柳を朝からずっと尾行している一群があった。川村組の縄張りを奪った矢島辰造の子分達である。その数、十数人。機会を窺っていたらしい彼らは重い足取りで山道を引き返すお柳を待ち伏せ、雑木林の物陰や木立の間からわらわらと現れて彼女を取り囲んだのだ。予期していなかったお柳の顔に緊張が走った。

身構えるお柳の目の前にかつての川村甚三の子分、今は矢島一家の大幹部におさまっている岩田源太郎が進み出てきた。

「お柳、矢島の親分がお待ちだ。おとなしく俺らについて来てもらおうか」

瞬時に事態を把握したお柳が源太郎の言葉をふふんと鼻先で交わす。

「何の真似だよ、源太さん。女一人を相手にこんな人数で大げさじゃないかい。それに、あたしに用があるなら、辰造さん自身が出向いてくるのが筋じゃないのかい」

お柳は一年前に闇討ちされた沢村竜一郎親分の仇を討つため四日前に浅草を発ち、目当ての大胡宿に潜入する前に周辺の村々で情報集めをしていた。その昨日、たまたま通りすがった温泉地で仇敵の木崎耕平を見つけたが、耕平と一緒に温泉に来ていた矢島の子分たち十人余りに邪魔をされ、すんでのところで逃がしていた。が、お柳は矢島衆の半数に手痛い傷を負わせ、彼らを率いていた源太郎は怪我をする前に尻尾を巻いて退散していた。

昨日より数は多くてもこの連中は彼女の敵ではない。お柳は右手を懐に入れて匕首を握り、男並みの上背があるしなやかな姿を源太郎に向けた。

「こんな山奥までよくもゾロゾロとつけてきて、ご苦労なことだねえ。おあいにくさま、おとなしくあんた方についていく理由はないよ」

ツバメ返しの異名があるように、正統の剣術を学んだお柳の大胆で目にも止まらない刀さばきには田舎ヤクザの喧嘩剣法ではまるで歯が立たない。それが分かっている彼らは顔を引きつらせて、お柳を遠巻きにしたまま手を出そうとはしない。
 女としては大柄なお柳は見事に均整の取れた肢体をしているだけでなく器量も人並み外れている。その美貌もさりながら、女一人でこれだけの大人数に囲まれてもまったく動じない彼女に矢島衆は最初から呑まれていた。内心(噂通りのいい女だ……)と見惚れている者もいた。

紺地に淡い水色と黒の縦縞が走る小粋な着物に身を包んだお柳は、切れ長の涼しげな瞳に凛とした光をたたえて、ひと渡り彼らの緊張しきった顔を眺めて苦笑した。が、その中でひとり源太郎の物腰が昨日とはまったく違って落ち着き払っているのが気になった。

「お柳、今日は何が何でも大胡まで連れていくからな。悪あがきしたってムダだぜ」

「力ずくで引っ張っていくつもりかい、源太さん。昨日と違ってずいぶんな自信じゃないか。無理すると昨日のみんなのように怪我をするよ」

「それがお柳、昨日みたいなわけにゃいかねえんだ。おい、晋太、女をここに連れてきな」

源太郎の指示で物陰から引き出されてきたのは後ろ手に縛られて猿轡まで咬まされた川村甚三の愛娘お美津だった。お柳の顔色が変わった。

「お、お前たち、卑怯じゃないか!」

「なあに、おめえがおとなしくすりゃあこの娘に怪我はさせねえ。さあ、その頭の簪と隠し持っている得物をここに投げ出せ。さもねえとこの娘の顔が傷だらけになるぜ」

お柳が男以上に侠客らしいといわれる由縁は我が身を犠牲にしても義理を尽すところにある。任侠心の欠片もない悪党の矢島一家はそこを突いてきたのだ。お柳にしてみれば思いもよらない卑怯なやり口だった。そんなあくどい策略で待ち構えているなど考えもせずに彼らの縄張りの中を無警戒に動いたお柳の落ち度だった。

「源太さん、お前たち矢島一家はこんな汚い手まで使うのかい。わかったよ、得物が欲しいならやるよ。ほら、とっときな」

口惜しさを奥歯で噛み締めながらお柳は、髪に挿した簪を抜き帯の後袋に隠し持っていた匕首を取り出して前に投げた。

「それだけじゃまだ足りねえ。そのおっかねえ手を後ろへ廻してもらおうか」

「ほう、あたしをふん縛ろうってかい? ふん、やれるものならやってごらんよ」

お柳は源太郎の言葉を無視して再びヤクザ達を見回し、連中の出方を窺った。その視界の隅でお美津が猿轡の下でくぐもった呻き声を大きく上げた。

「お美津さん!」と身を乗り出したお柳の頬は凍りついた。晋太と呼ばれた兄貴株が後ろ手に縛り上げたお美津を後ろから抱え、その喉首に匕首を突きつけている。

「やい、お柳。素直に縛られねえと娘はここでお陀仏になるぜ。ぐずぐずするなって」

 猿轡を咬まされた口で懸命に助けを求めるお美津の姿に、お柳は抵抗を諦めた。

「わかったよ。言う通りにしてやるから、お美津さんに危害は加えないでおくれ」

唇を噛み締めたお柳が両手を後ろへ廻していく。その脇にすり寄った手下二人がお柳の左右の肩と手をガシッとつかみ、麻縄を手にして背後に立った源太郎がひねりあげたお柳の左右の手の華奢な手首を背中に重ね合わせ、ひしひし縄を打っていった。さすがのお柳も大恩ある川村甚三の一人娘を楯に取られては抵抗出来ない。口惜しさを噛み殺して縄目を受ける他はなかった。

(ツバメ返しのお柳ともあろうものが……)

 お柳は後悔していた。矢島辰造のあくどさを知っていながらこの卑劣なやり口を予測できなかった自分が情けなかった。油断があったのだ。潔癖で曲がったことが大嫌いなお柳は(いかな矢島でもそこまでは)と敵を買いかぶっていたのだ。その結果がこれだった。

 あらくれ男どもの世界でずっと生きてきたお柳は修羅の道には慣れていたし、生死の際を何度も切り抜けてきたお柳には男以上の度胸をしているとの定評があった。沢村竜一郎親分を闇討ちして逃げた木崎耕平と赤井三郎の二人が大胡宿にいるとの情報を得て出立した今度の仇討ちも、やれるのは自分しかいないと思い決めたことだった。

しかし、ヤクザ者の喧嘩や勝負ごとは何が起こるかわからない。万が一返り討ちに遭えば運がなかったと諦めねばならない。
 沢村組二代目の銀次郎は、半月が過ぎてもお柳から連絡がない時は密偵を送って探らせ、その次第によっては一家を挙げて大胡宿へ押し込む約束をしてくれたが、組の古手連中は「女だてらに出過ぎたことを」とよからず言う者ばかりだった。そんな者に限って自分から手を汚そうとはしない。それもあって、不覚を取ったと気づいた時にお柳の脳裏に真っ先に浮かんだのは彼らの顔だった。

「だから止めておけと言っただろうが。どうするよ、お柳さん?」と嘲笑っていた。

(どうするもこうするも、こうなったら成り行きに任せるしかないさ)

自嘲しながらお柳は、後ろ手に縛り上げられた身を大勢のヤクザたちに囲まれ、お美津とともに間道伝いに大胡宿へと休みなく連れ回されていった。

道すがら、お柳は自分のせいで巻き添えになったお美津のことを案じた。お美津が彼らの巣窟でどんな目に遭わされるのか、それだけが気がかりで自分のことは頭にない。

お柳は途中何度も立ち止まり、縄尻を持つ源太郎を振り返って、

「源太さん。あたしらの諍いには何の関係もないお美津さんの縄をほどいて家へ返してやっておくれ。あたしがこうして捕まったからにはもう用は済んだはずだろう」と頼んだ。

しかし源太郎は、「ダメだ。おめえのこった、お美津がいなきゃいつ暴れ出すかも知れねえ。ともかく大越へ戻るまではダメだ。ぐずぐず言ってねえで、とっとと歩け」と突き放し、三度目に頼んだ時にはお柳の口に豆絞りの手拭いで猿轡を咬ませて「おめえの扱いは大胡で親分が決めなさる。さてどうなさるか、楽しみにしていな」と言った。

矢島辰造は捕らえたお柳をどうするつもりなのか。意図は分からないが大胡宿への途上で殺すつもりはないらしい。いずれにせよ、お美津が彼らの手中にある限りお柳は身動きが取れなかった。お美津を元気づけよう、あわよくば二人で示し合わせて逃げ出そうと思案したお柳だったが、彼らは二人を近づけず、言葉を交わす機会も全く与えられなかった。

お柳とお美津を引き連れた岩田源太郎一行が大胡宿へ着いたのは夕方も暗くなってからだった。人目の少ない間道伝いに、弟分の片桐晋太郎と手分けして、後ろ手に縛り上げた女二人を覆い隠すようにそれぞれの前後左右をぴったり取り囲んで歩む道行きが思いのほか時間を要したからである。

 

長い道のりを徒歩で大胡宿まで連行されたお柳とお美津は、矢島辰造が妾の角田和枝に営ませている女郎宿『紅屋』の裏手へと曳いて行かれた。そこには大きな土蔵があった。観音開きの重い大戸が引き開けられ、網張格子の内戸も横に引かれて突き入れられた二人の目に映ったのは暗く沈んだ情景だった。
 奥半分には一間幅の階段を伝って上がる屋根裏があり、それを支えるように太い柱が立っている。階段下には幅広の木の井桁格子が嵌められており、仕切られた狭い空間が江戸時代の牢屋のようになっている。また、何に使われているのか、一番奥には石造りの小部屋のようなものが口を開けていた。

お柳は、猿轡は外されたものの後ろ手縛りのまま土蔵のほぼ真ん中に立つ柱を背負わされ、新たな縄を胸と腰にかけられて柱に括り付けられた。お美津の方は、柱に立ち縛られたお柳からは見えない位置の、奥の床に転がされて縄尻を牢格子につながれた。

「よしっ、これでひと安心だ」

 首尾よくお柳を生け捕りにして鼻高々の源太郎も、ここまでの道中はさすがに緊張し通しだった様子で、晋太郎と顔を見合わせて深いため息をついた。

「長道中で草臥れているだろうから、皆、ひと休みしろや。それから晋太、俺は親分が来なさるまでここにいるから、報告にはおめえが行ってくれ」

晋太郎にそう指図をした源太郎は、配下の平吉と常次の二人に「おめえらは俺と一緒にここにいろ」と命じて、三人が土蔵に居残った。

十人余りの男たちがぞろぞろと土蔵を出て行き、大戸がギイーッと閉まると早速、源太郎はお柳に絡み始めた。

「おい、お柳。うちの親分に詫びを入れる覚悟は出来たかい」

縄目を受けた身での長道中でひどく疲れていたもののお柳の気力は衰えていない。土蔵の隅で恐怖に震えているお美津を安心させるように毅然とした態度を見せた。

「何を言うのさ。あたしを捕まえるために渡世から足を洗った甚三親分のお嬢さんを楯に取る卑怯な手を使った上に、人を人とも思わないひどい扱いをされちゃ、詫びも何もないじゃないか。詫びを言うのはそっちの方じゃないのかい」

「何だと。ちっとはおとなしくするかと思や、まだ減らず口を叩くたぁ、ふてぇアマだ」

「源太さん、あたしが何か間違ったことを言ったかい? あんたたちと因縁のあるあたしはどうされても仕方がないさ。でも、お美津さんは何の関係もないはずだよ。こんなひどい目に遭わせるなんて可哀相じゃないか。早く縄をほどいて座敷でゆっくり休ませて、明日の朝には家に帰してあげておくれな」

「うるせえ! おめえの指図などきけるか。お美津もおめえのそばにいる方がいいだろうという俺たちの親切心だ。そんなことよりゃ、おめえの身の心配でもしろ!」

「お美津さんはお前さんの旧の親分さんの一粒種じゃないか。そのお美津さんを……」

邪険に扱うなんて、と言いかけてお柳は口をつぐんだ。彼らには初端からお美津を解き放すつもりがないことを悟ったからである。であれば、何をするか分からない奴らにお美津の身を委ねるよりも自分の目が届く所に置く方がいい、とお柳は思った。しかし、お美津をここに置いた彼らの本当のあざとい意図をまだ察していなかった。

「お柳。おめえまさか、うちの親分に煮え湯を呑ませた三年前のことを忘れちゃぁいめえな。親分は甚三爺さんとの諍いにちょっかいを入れて来たおめえには、ひとかたならねえ恨みを抱いておられる。あのあともずっとおめえの消息を探らせていたくれえだ。そのおめえがこの大胡に一人で舞い戻ってくるたぁ、いい度胸だぜ」

確かにここ大胡宿はお柳にとって危険な土地だった。が、俗に灯台下暗しという。彼らの気のゆるみを突けば仇討ちの仕事もすんなり済ませることが出来るだろう、という読みがお柳にはあった。しかし、その読みは外れ、お柳は窮地に立たされた。三年前の諍いの折に匕首で眉間を割られた矢島辰造のお柳への恨みは深く、こうして捕らえられた以上はよほどの僥倖がない限り耕平と三郎を討つどころではない。

柱に立ち縛られているお柳を眺めている源太郎の方は、普通なら絶望感と恐怖で生きた心地もないはずのお柳が落ち着き払っているのが意外だった。沢村一家の救出をあてにしているにしても、すぐに彼らが来られるわけがないし、沢村勢が大胡宿に入る頃にはすでにお柳の仕置きは終わっているはずである。(それなのになぜ?)と内心首を傾げながら、源太郎はなおもお柳にからんだ。

「お柳、分かっているだろうが、おめえもいよいよ年貢の納め時だ。親分の腹の虫の居所が悪けりゃ、ここでバッサリってこともあるぜ。肝心の仇討ちも出来ずにさぞ口惜しいだろうなあ。いや、仕置きされて死ぬのがさぞかし怖いだろう。どうでい、お柳」

源太郎の陰惨な物言いにも動揺せず、お柳はいつもと変わらぬ口調で言い返した。

「ああ口惜しいさ。口惜しいには口惜しいけど何が怖いものかね。あんたはどうだか知らないがね、源太さん。あたしはいつでも命を捨てる覚悟をして任侠の道に入ったのさ。ただ、ここの親分のような大層ご立派な男の手にかかって死ぬのはやっぱり情けないやね」

「ふん、また減らず口かい」

源太郎はお柳の皮肉を鼻先で笑って余裕を見せた。

「ご立派だよ、あんたの親分は。目をかけてくれた川村親分を裏切ってシマを乗っ取った矢島辰造に寝返っただけじゃなくて、チンケな恨みを晴らすために恩義のある人の娘さんをかどわかして盾道具に仕立てて、女のあたしを騙し打ちしたんだからねえ」

「なんだとう!」と、源太郎が声を張り上げた時に表の大戸がギイーッと開いた。

 

 片桐晋太郎が持つ灯りに先導されて小柄で貧相な初老の男が入ってきた。ここ大胡宿の賭場を仕切っている矢島辰造だった。腰巾着の松吉が後ろにつき従っている。

辰造はすでに酒が入っているらしく、赤ら顔で昂ぶった声を出した。

「おお、お柳だ。紛れもなくツバメ返しのお柳だ。でかしたぜ、源太。よくぞ生け捕りにしてくれた。さすがにわしが頼りにしている組の幹部だけのことはあるわい。おい、晋太。もっと灯かりを増やせ。お柳の顔とからだがもっとよく見えるようにしろい」

 三十歳過ぎの晋太郎が若い三下のように動いて左右の壁の燭台すべてに灯を入れると、柱を背にして立ち縛りにされているお柳の顔がよりはっきりと見えてくる。囚われの身であることを感じさせない物腰で睨み返すその表情に辰造は何とも言えない女の艶を感じた。

「久しぶりだねえ、辰造さん、別に会いたくもなかったけどさ。あんたのあくどさは変わらないねえ」

「相変わらず負けん気の強ぇ女だなあ。それにしてもお柳、ザマぁねえな。どうだい、生け捕りにされた気分は?」

「ふん、任侠道にあるまじき卑怯なやり口でこのお柳を捕まえてご満悦かい」

「なんだと。今まで散々わしを虚仮にしといて何を言いやがる。おめえを捕まえるのに何をしようとこっちの勝手だ。ううん? なんだ、その目は。言いてえことがあったら言え。どうせ二三日の命だ。何でも聞いてやるぜ」

猫が捕まえた鼠をいたぶるようにネチネチとからんでくる辰造に接し、お柳はかえって生気を取り戻したようだった。

「ああ、言わせてもらうよ。大恩ある甚三親分を裏切ってシマを横取りした上に今度はあたしを捕まえるためにその恩人の娘さんまで利用するなんて、真っ当な侠客のすることじゃないよ。あんたみたいな男をね、辰造さん。任侠の世界じゃ外道と言うのさ」

「こ、こいつ……」

痛いところを突かれた辰造は言葉に詰まった。が、その顔は怒りに赤く膨れ上がっている。小柄で背丈の低い辰造はお柳を見上げるようにして怒りの言葉を投げかけた。

「お柳。この辰造を怒らせたら、苦しみ抜いて死ぬことになるぞ」

「ああ、それでもかまやしないさ。斬るなり突くなり、どうとでもしておくれよ。ところで辰造さん、耕平の顔が見えないねえ。あたしが怖くて隠れているのかい。いずれ決着はつけてやると伝えておくれな、三郎にもね」

「ふん、明日の命も知れねえ挽かれ者の分際で負け犬の遠吠えかい。おい、松吉。このクソ生意気なアマをちっとばかし痛い目にあわせてやりな」

「承知しやした。あっしがこの手でこいつの性根を叩きなおしてやりやしょう」

お柳の正面に立った松吉はお柳と同じくらいの背丈だが胸板の厚いガッシリした体格で、相撲取りのような大きな手をしていた。
 その松吉のすねたような三白眼がお柳をねめつけた。が、お柳は不敵な表情のままである。松吉を睨み返して「ふん」と鼻で笑った。

小馬鹿にされた松吉の四角い顔が赤く丸く膨れ上がり、いきなり大きな平手でお柳の頬を往復二度打った。ついでに鳩尾へこぶしを打ち込む。が、お柳は小さな呻き声を洩らすだけで悲鳴は上げない。繰り返し頬をぶたれてもお柳の反応は変わらなかった。

「強情なアマだぜ」

と、呆れ顔で呟いてお柳のあごに手をやった松吉の顔にぷっと、お柳が血まじりの唾を放った。絶妙の間合いだった。顔を汚された松吉はたちまち逆上した。

「こ、こいつ!」と、こぶしを振り上げた松吉の手首を辰造が押さえた。

「やめろ、松吉。もういい、これ以上顔をぶつな。折角の器量がだいなしにならぁな」

辰造は今更ながらお柳の稀有の資質を感じていた。両手の自由を奪われ柱に括りつけられた状態で六人もの男に囲まれていてもなお気力で負けていない。窮地にあることなど微塵も感じさせず、凄まじい負けん気を顔に浮かべて開き直った物腰には独特の野性味が滲み出ている。さすが関東一円にその名を轟かせるだけのことはあった。
 こんな絵に描いたような侠客は男でも自分の身内にはいないし、おまけにすこぶる付きの美女ときている。矢島辰造はお柳を殺すのが惜しいと思った。

もっともお柳と辰造の可愛い甥の木崎耕平の間には悶着がある。仁義からすれば二人を対等に闘わせるべきだが、対等の闘いをして耕平がお柳に敵うはずはない。が、お柳の方を薬で弱らせておくとか、そこはどうにでも按配出来るし、耕平がお柳を返り討ちにして葬ったという格好になる。それも一案だと思う一方で、辰造はこの類まれな美貌の女侠客を生かしておいて利用することを考えていた。たとえ血の繋がった甥の耕平であってもお柳をくれてやろうなどとは露ほども思っていなかった。

「お柳、おめえもこのままむざむざと死にたかぁねえはずだ。事と次第によっちゃあ生かしておいてやってもいいと思うが、どうでい」

「親分、話が違いますぜ!」

松吉が気色ばんだ。腹心の松吉でもこうだから先日お柳に手傷を負わされた連中が騒ぎ出すのは知れている。だからといって自分の考えを引っ込めれば親分の沽券にかかわる。

「黙りやがれ! 松吉ぃ、てめえ、子分の分際で親分のわしに逆らう気か!」

貧相な顔を鬼の形相に変えた辰造は子分達を威圧しておいて再びお柳の方を向いた。

「どうだ、お柳。耕平たちのことは別に考えるから、おめえ、ここ大越に居ついてわしのシマで相応の働きをしてくれねえかい。おめえがその気になってくれるなら、これまでのことは水に流して-----

言葉巧みに懐柔しようとする態度にお柳はぴんと来るものがあった。矢島辰造には女を非情に仕置きするだけの度胸はない。血を見るのが嫌いなのだ。そう思い当たったお柳は辰造の言葉を遮ってきっぱりと言った。

「辰造さん。耕平と三郎の指をもう一本ずつ詰めるくらいでお茶を濁すことを考えているようだけどさ。それで全部チャラにして、あたしにあんたの賭場の飼い犬になって壷を振れっていうのならお断りだね。このお柳を甘く見ないでおくれ」

 図星を指されて唖然とした辰造の顔を見つめて、お柳はわざと言い募った。

「そんなことなら死んだ方がましさ。世話になった沢村一家を裏切ることになるし、何よりもあたしまであんたと同じあこぎなエセ任侠だと思われちまうじゃないか。お互い変な物惜しみなどしないことだよ。耕平たちとの果たし合いをさせるつもりがないのなら、あっさり仕置きして殺しておくれ」

「な、なんだと!」

薄れかけていた辰造のお柳への憎悪が、子分たちの前で軽蔑された口惜しさも加わって、再び激しく燃えあがった。

「お柳、後悔するなよ。おめえがそう出るなら、望み通りに仕置きしてやろう。だがな、殺すのは後回しだ。物事には順番というものがあらぁな。三年前におめえがこのおれ様を虚仮にしてこの眉間を割ったこと、昨日もうちの若い者に手ひどい傷を負わせたこと。先ずは、そのそれぞれについてきっちり詫びを入れてもらうぜ」

「ふん、こっちから詫びを入れるいわれはないよ。ひと思いに殺しておくれ」

「まだダメだ。仕置されて死ぬ前におめえがしなきゃならねえことがあるだろう。わしらに迷惑をかけたことを心底反省して、礼を尽くした詫びを述べるのが先だ。いいか、その段取りをこれから言うからよく聞けよ、お柳。 その最初はここにいる皆の前で着ているものを脱いで裸になってもらう」

「ええっ。な、何だって?」

お柳は信じられないという顔つきで辰造を見返した。

「裸になれと言ったのが聞こえなかったのか」

その瞬間にお柳の顔から血の気が退いた。端正な頬が凍りつき、美しい眉がゆがんだ。

それを見て、辰造はニタリとした。お柳のような筋金入りの侠客は死ぬことを恐れていないし、殴る蹴るの折檻をしたところで音を上げるはずもない。それよりも効果があるのは女としての羞恥心を煽って心を緊め上げるやり方だ。

そう考えていた辰造は、真っ裸という言葉一つで早くもその効果が表れたことにホクソ笑んだ。が、何食わぬ顔に戻って続けた。

「その上でわしらの前に土下座して、気の利いた詫びを言ってもらう。『わたくし、かつてツバメ返しのお柳といわれた女でございますが、矢島組の辰造親分様とご一家の皆様方に、わたしの了見違いから先年より酷いご迷惑を多々おかけしました。この度は心を入れ替え、この通り裸になって心からお詫び申し上げます』とな。どうだ、判ったか」

「そ、そんな理不尽なことを……」

お柳の顔から瞬時にして血の気が退いた。こんな連中にお柳が詫びを入れなければならない理由はない。それなのに大勢の男たちの前に一糸まとわぬ姿を晒して詫び口上を述べるなど、想像するだけで身の毛がよだつ。動揺を隠せないほどの衝撃だった。が、お柳はすぐに気を取り直して意地の言葉を投げかけた。

「このあたしに、ツバメ返しのお柳としてちっとは世に知れた女侠客に、おまえさん方は女郎にもさせないようなむごい事をやらせる気かい」

「ふん、なにがむごい事だ。裸になって詫びの言葉を並べるだけのことだぜ。ほほう、こいつは面白えな。こんな簡単なことがおめえにとっちゃ血の気が退くほどのことなのか。よし、そうと分かりゃ、ますますもってやらせにゃならんな。なあ、みんな」

ニンマリ笑って振り返った辰造に、源太郎はじめ子分達は口を揃えて「そうしやしょう、親分。何が何でも裸詫びをさせやしょうや。それでようやく溜飲の一つか二つが降りるってもんでさあ」と答え、中の一人、先ほどお柳に唾を吐きかけられた松吉が図に乗って更にまくしたてた。

「さすがはうちの親分だ、考えることが違うぜ。ツバメ返しのお柳も裸にひん剥きゃただの女さ。この高慢ちきでクソ生意気な女に赤恥かかせて、面目ぶっ潰して、てめえが女郎と変らねえ女だってことを教えてやりやしょうや」

子分たちの追従にうんうんと頷いた辰造は、ようやくお柳に一矢報いた気分で、胸に湧き上がってきた歓喜の思いを抑えながら念を押した。

「今夜はこの紅屋の大広間に一家が揃って、おめえを捕らえた祝宴を張ることにしてある。お柳、おめえはその席に裸で出て皆に詫びを入れろ。今ここで教えた口上をそのまま子分どもの前で言ってもらうぜ。まあ、乱れる酒の席だ。その後は存分に酒の肴と余興のおもちゃになってもらう。仕置きのことはその後でゆっくり考えてやる。いいか、判ったな」

お柳は絶句した。女が渡世の裏街道を生きる以上、とどのつまりに女郎の身に堕される覚悟もないではない。が、衆目の目に裸の肌身を晒すことは、任侠道を生きてきたお柳にとっては女郎になる以上の酷い仕打ちであり、死ぬより辛いことなのだ。

どんな極道者にも一分の情があり、決してしないことがある。ことにお柳が関わった任侠の世界には人の情に関して少なくない掟がある。矢島辰造が今お柳にやらせようとしていることはその掟のラチを超えている。もしも本気で言っているとしたら、矢島は任侠心の欠片もない正真正銘の外道だ。

(任侠どころか人間としてもこの男は……)

お柳はこの田舎ヤクザの常軌を逸した無節操ぶりに、憤りを通り超えて、情けなさと哀れさを感じた。しかし、子分達はその人でなし親分より更に情けない下司な連中だった。

「この威張りくさった女が裸にされて抱かれたら、どんなよがり声を出すか楽しみだ」

「股の間に本当に女のものがついているかどうか、確かめるのが先だぜ」

子分達の下卑た言葉にお柳は憤った。

「まったく、ヤクザの風上にもおけない連中だね。冗談にも程があるよ。やれるものならやってみな。あたしにだって意地があるから、ただじゃやられないよ」

 大きな瞳の奥で怒りの炎がメラメラと燃え上がっている。その凄みのある眼差しに恐れをなして男どもは立ちすくみ、土蔵の空気がぴんと張りつめてすべての音が消えた。

 

 数瞬の後――。

お柳がその重い沈黙と張りつめた空気を破った。

「辰造さん、脱げ脱げと言うけどさ。第一、こうして縄で括られているあたしにどうやって着物を脱げと言うのさ」

ハッとした矢島辰造はお柳の鋭い視線を避けながらかたわらの晋太郎に何か囁いた。うなずいた晋太郎がすっと辰造のそばを離れてお美津がいるところへ向かった。

その瞬間、お柳の顔が再び緊張した。

不安げにお柳たちのやりとりを見つめていたお美津の背後に回った晋太郎がぐいっと彼女の華奢な肩をわしづかみにした。

「イヤーっ!」というお美津の悲鳴が柱に括りつけられているお柳の耳朶を打ったが、今のお柳は憤りに歯を軋ませる他にどうしようもなかった。

辰造はそんなお柳に勝ち誇ったように言い募った。

「お柳、ここでおめえの気ままが通ると思ったら、そいつは大きな間違いだぜ。このお美津がどうなってもいいのなら別だが」

「辰造さん。こうしてあたしを捕まえたからには、もうお美津さんに用はないはずじゃないか。すぐに父親のところへ帰してやっておくれよ」

「そうさな、おめえが素直にわしの言う通りにするなら帰してやらんでもない。おとなしく着物をすっかり脱ぎ捨てて裸になりな。これから縄をほどくが、もしもまた暴れたりしやがるとお美津の首に匕首が突き刺さるぜ」

辰造の言葉を聞いた晋太郎が懐から匕首を出してお美津の喉元へあてがうと、お美津は「ひいーっ!」と薄絹を引き裂いたような悲鳴を上げた。

いかなお柳であっても、恩人の一人娘であるお美津の命を引き換えにされては抵抗できない。お美津の存在がお柳の心を縛り上げていた。

「あんたって人は……」

どこまであこぎなのだと言いたい気持ちを抑えて、お柳は答えた。

「ここまで来てもう暴れたりはしないよ。だから、約束しておくれ、あたしがおとなしく裸になればお美津さんを家へ帰すと」

「おう、帰してやる。だからスパっと脱いじまえ。おめえならできるだろう」

「念を押すまでもないさ。さあ、この縄をほどいておくれ」

柱から解き放され後ろ手縛りの縄もほどかれたお柳はもう迷わなかった。

帯締めをほどき帯揚げを抜き取ったお柳は、シュシュッと小気味いい音をたてて帯を解き落とすと、腰紐を抜いて、紺地に淡い水色と黒の縦縞が走る粋な袷の着物をその場に脱ぎ落としていった。

思い切りの良さはお柳の身上でもある。沢村組の賭場で壷を振った時も請われれば肩脱ぎになるのを躊躇しなかったし、肌の一部を見せることにさほど抵抗感はない。
 しかも今は、疲れきった身を包む袷は埃まみれだったし、その下の水地に白の斜め格子が入った襦袢も汗を吸って肌に貼りついていた。だから、男六人がギラギラ血走った目を見開いて自分を眺めているのは別にして、それらの着衣を脱ぎ捨てることに未練はなかった。

襦袢の伊達巻をほどき落して腰紐を抜いたお柳は、爽やかな色の布を滑らかな肩先から滑らせていった。



                                (続く)