北米報知新聞(NorthAmericanPost)連載エッセイ
      都筑大介 「一言居士のつぶやき」

      第10回 空気の効用 (2010年4月21日掲載)



 欧米の人たちはよく「日本という国は、日本人というのは、どうもよく解らない」と首をかしげる。が、明治の文豪・夏目漱石が名作『草枕』の中で日本社会の特徴を端的に表現した次の一文を頭に入れて付き合えば意外に分かりやすいのではないだろうか。

《山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角(かど)が立つ。情に掉(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい》

 優れた能力を示したり、事の道理を主張したり、自分の思いを貫こうとすれば孤立させられ、理の有無にかかわらず、隣近所や職場という狭い社会の〈空気〉に順応しないと生きていくのが難しい世の中だと、西洋事情に詳しい英語教師だった漱石は嘆いている。

 日本人にとって〈空気〉はほぼ絶対的な支配力を持つ判断の基準であり、それに抵抗する者を異端として社会的に葬るほどの力を持っている。それゆえに日本人は、その時その場の〈空気〉に応じて判断し、客観情勢の論理的検討の下に判断することは極力避ける性向があり、物事を論理的にではなく臨場感的に把握する傾向が強い。


 こうした状況は漱石が生きた時代から100年余りが経っても変わっていない。日本は今も「空気が支配する国」なのである。実体のない〈空気〉がその場にいる人たちの意思を拘束し、そこでの結論は論理的結果としてではなく〈空気〉に適合しているものが採用される。その後に「あの場の空気からしてそうせざるを得なかった」と弁明がなされる。つまり、責任は空気にある訳で、空気の責任は誰も追及できないから都合がいい。

 西暦604年、時の摂政・聖徳太子は『十七条憲法』を制定し、その第1条に「和を最も大切なものとし、争いは無いようにせよ」と記して政争に明け暮れる官僚や貴族たちを戒めた。が、太子の思想はゆがめられ、表面だけ「和」という〈空気〉を保って、責任を曖昧にする悪しき慣行が今日まで伝わってきているような気がしてならない。


 しかし、日本社会を支配する〈空気〉は、時折、日本人に巨大なエネルギーを発揮させる。黒船来航や敗戦といった驚愕体験をした時に日本人は、国難の克服に向かって全力で動き出し、時代の流れを読み取り、価値観を転換し、考えられないような力を発揮した。日本人はそういう不思議な能力を持っているようだ。しかし、窮地に陥るまでは目覚めず、平素はつかみ所のない〈空気〉に唯々諾々と従うことを苦としないのも日本人なのである。

 とはいえ、〈空気〉は対立する一方を排除する。「片方を善、もう片方は悪」と規定してしまえば、その規定に誰もが拘束されて身動きがつかなくなる。大手メディアがこの手法を使えば、それが事実であるかどうかとは関係なく、語られたこと・報じられたことが事実に転化していく。これが繰り返されているうちに事実はどんどん国民の眼から遠ざかって行く。ある種ヒステリックな正義が振り回されることによって出来上がった世論は必ずしも本当の民意とは言えない。しかも、往々にしてその世論はある日突然雲散霧消する。そして誰も追及できない空気の責任だけが残るのだから、メディアにとっては実に都合が良い。戦後日本では大手メディアを掌握する人間たちが時の政府と癒着してきた。そのことが今日の混沌とした社会を生んだ要因のひとつだ、とボクは考えている。


 前述した聖徳太子が大国『隋』の皇帝に「日出ずる処の天子より書を日沈む処の天子に致す。つつがなきや……云々」という国書を送って激怒させたという逸話があるが、今の日本の指導者層には、残念ながら、独立国の矜持を示した太子同様の気概をもって世界に伍している者が少なすぎる。この国には心のすさんだ人が余りにも多くなってしまった。

 経済は低迷を続け、財政難から国は借金を増やし、親殺しや子殺しなど目を覆いたくなるほど悲惨な事件が増え、自殺者の数は毎年3万人を上回り、窃盗・万引き・詐欺などのお金にからむ犯罪も増加の一途をたどっている。このまま人口の大幅な減少期を迎えれば、間違いなく日本は国家崩壊の危機に直面する。

 こんな国にしてしまった政治家・官僚・大企業経営者たちの責任は勿論のこと、本来の役割と責任を果たさないできた大手メディアの責任は大きい。今こそ彼らがこぞって「こんな国では恥ずかしい」という〈空気〉を盛り上げるべき時だとボクは思うのだが……。

[2010年4月]