北米報知新聞(NorthAmericanPost)連載エッセイ
      都筑大介 「一言居士のつぶやき」

     第32回「心の温度差」 
               (2012年3月21日掲載)



 東日本大震災から丸1年が経ったのに、明るい兆しどころか、絶望感にも似た無力感が被災地に広がっている。
 2300万トンに上る瓦礫のうち処理されたのはいまだ6%未満。地震と津波で被害を受けた市町村で復興計画が決まったところはまだなく、インフラ復旧も遅々としている。被災地の人たちが毎日その目にせざるを得ない光景は1年前と大差ない。今も仮設住宅で暮らす人は
11万人、公営住宅などの見做し仮設住宅に住む人が15万人、原発事故のあった福島県では人口流出が続いている。

 

 国が復興基本計画を決めたのが震災から4か月半も過ぎた7月下旬、主な復興財源を含む第3次補正予算の成立は被災地が氷点下となりはじめた11月下旬だった。復興庁はようやくこの2月に始動したが、実務は関係省庁を通して行うこととなり、何のための復興庁か疑わしい状態。
 それもあって、4回にわたる補正で
18兆円余りの復旧復興予算が組まれたものの大半が未執行。官僚が仕切る補助金行政の悪弊が地域主体の復興事業の進捗を妨げている。

 今や被災地の企業の1割以上が廃業を決め、多くの企業も縮小か撤退せざるを得ない状況に追い込まれている。職場がなければ人は地域を離れるしかなく、地域の復興はできない。先月半ばに被災地のある町長が「私たちの町は日本ではないのですか!」と野田首相に詰め寄るという出来事があったが、そう言いたくなる気持ちがよく分かる。

当の野田首相は、3月11日に行われた合同追悼式で、「被災地の復興を1日も早く成し遂げる」「震災の教訓を未来に語り継ぐ」「助け合いと感謝の心を忘れない」と3つの誓いを表明した。彼は、その2日前、ワシントンポスト紙に「我々の目標は単に震災前の姿を取り戻すことではなく新生日本を建設することだ。我々はこの歴史的な困難を乗り越える決心だ」という復興に向けた決意を示す文を寄稿している。
 その言やよし。
 であるが、言葉を裏付ける具体的な行動が伴っていない。財務省の尻馬に乗って消費増税にのみ血道を上げている現状では無責任に法螺を吹いているのと変わらない。

 復興とは日常生活を取り戻すことである。地域社会があり、顔見知りの人たちがいて、暮らしの糧となる仕事がある穏やかな日々を取り戻すことだ。国には国民の生命と財産を守る義務がある。その義務を果たすべき時であることを中央の政治家や官僚たちは認識できているのだろうか、とボクは首を傾げたくなる。

震災前の日本は全体がある程度一つの時間で動いていたが、震災後は場所によって時間の流れが大きく異なっている。被災地でも原発事故のあった福島県と他の二県では違う。宮城や岩手は悲惨な津波災害を受けたが津波自体は終わって日常が少しずつ動き始めているが、福島では原発事故が終わらないからいつになっても日常の時間が始まらない。

古い時間がとまらないから始められないことが沢山ある。そのいい例が原発である。原発中心の政策が終わらないから新しいエネルギー政策が始まらない。現在国内に原発は54基あるが、定期改修などによってそのすべてがこの4月に停止する。
 それもあってか、政府と電力各社は停止中の原発の運転再開を模索している。これまで時間やお金や労力を費やしてきただけに、そこに大きな利権が存在するだけにやめられないのだろうが、原発事故の悲惨さを目の当たりにした今だからこそ、やめることが出来るかどうかが問われている、とボクは思う。

 大震災後も余震が止まらず、ゲリラ豪雨や大雪がこの国を麻痺させている。日本列島は今日もまた閉塞感に覆われている。財政の現実を見ても政治の混乱を見ても出るのはため息ばかりだ。
 大震災と原発事故はこの国全体に深刻なダメージを与えた。
 しかし、大手メディアの報道に切迫感はまるでない。3月
11日が近づいてようやく震災特集を組んだが、普段は震災も原発事故もなかったかのごとく猟奇的な事件や芸能人スキャンダルを追い回している。
 政治も無策である。思い切った復興事業をスピーディにやることで経済を活性化させるチャンスなのに、ボクの目には、増税や緊縮財政を叫んで冷えた景気に水をかけ、デフレを悪化させようとしているようしか見えない。
 問題が山積していてもこの国がただちに転覆する実感がないからだろうが、政治とメディアへの不信は深まるばかりである。それにしても被災地と中央の心の温度差は大きい。

元来、日本人は「自然の中で生かされている」という感覚を持っている。「自然の営みの一部に間借りして自然の恵みを頂戴している」という自然観を持っている。津波をもたらした海は憎いが、豊饒の海によって生かされてきたことも知っている。自然と闘うのではなく自然の懐に抱かれて共に生きることを真剣に考えるべき時が今だとボクは思う。


[2012年3月]