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白山童
漢方医家の疫病観と
蘭方医家の虎列刺認識
研究ノート「幕末期における疫病観と民衆」から
安政年間、幕府や諸藩に仕え、また諸藩の町村で開業していたおよそ三万人弱の医家のうち、漢方医と蘭方医の比率は八割強対二割弱であったと推測されている。ただしこの中の「蘭方医」には、本来漢方であった者が、その後蘭方を学び、あるいは一部処方を取り入れて蘭医の看板を掲げた者も相当数入っていたようで、その医学的知識・技量をもっぱら蘭学によって形成し得た者は、実際としてはかなり少数であったろう。
近世後期以後の漢方医家は、実はあまり病因論に関心を持たなかった。漢方医学において個々の疾病(えきびょう)や疫病(しっぺい)の原因を論ずることは、その世界観の基盤であるところの陰陽五行(おんみょうごぎょう)・五運六気(ごうんりっき)を論ずることであったが、これは実際の治療活動にはなんら益するところがなかった。こうした問題は、だいたい、奥医師を輩出した考証派と呼ばれる人々が扱ったようであるが、論が陰陽五行の枠組みの中で展開されている限り病因意識も易占(えきせん)と同様で、中国的形而上(けいじじょう)学の知見の範囲を出ることはなかった。コロリの原因は「これ天地間に行わるるところの一種の癘気(れいき)に感じて起こるものにして、気運の変によりて鬱蒸(うつじょう)して生じたる一種の疫症(えきしょう)なり」というところで、諸家の認識が一致したという。
こうした考証派の思弁(しべん)的医方に対して、臨床体験を重視しつつ、古来の医書から実際的・有効的な治療法を再発見し、眼前の病者を救うことが大切だとする古医方の一派が興(おこ)り、近世中期以降優勢となっていた。そこには実践と経験を重視する近代的思考の萌芽(ほうが)があり、また医術の発達もあった。『解体新書』に四半世紀先んじて、蘭学とは別の発想から山脇東洋の『臓志』人体解剖を実現させたのも古医方の実証精神である。しかし彼らは、疾病の根本原因については不可知論の立場に立ち、「なぜ」を問わなかったために、古来の中国医学思想の瞑想(めいそう)性・神秘性からは解放されたものの、認識論としての医学の発達という面では不十分であった。
古医方の実証的要素と蘭方の有効性を折衷(せっちゅう)して臨床に生かした一群の人々を折衷派と呼んでいるが、近世臨床外科の最高峰に立った折衷派の華岡清洲も疾病論にはあまり関心を示さなかった。
このように伝統の漢方医学は、実証的傾向を強めていた古医方や折衷派を含めても、結局は疫病というものを漢籍医書の認識の範囲内でしか理解しようとはしなかった。すなわちそれが「霍乱(かくらん=吐瀉を伴う病気)」の一種であれ、「瘟疫(おんえき=一時的に流行する病)」の一種であれ、あるいはかつて北方から中国に流入した「蕃沙(ばんさ=烈しい腹痛を伴い、顔面黒張して声を発することが出来ず、短時間で死に至る原因不明の病気)」などであれ、その病の根本原因は「天地間に行わるるところの一種の癘気(れいき)に感じて起こるものにして、気運の変によりて鬱蒸(うつじょう)して生じたる一種の疫症たり」ということに落ち着いたのである。
文政五年から冬にかけての「コレラ初上陸」に先立つ半年ほど前、幕府医官の桂川甫賢と大槻玄沢、佐々木中沢ら蘭学者・蘭方医は、定例の江戸参府のために東上していたオランダ商館長ブロムホフと商館医官チュルリングに面会していた。その席上、前年および前々年にジャワ島バタビアで「コレラ・モルブス」という疫病が流行していることについて、その病屍解剖所見、病状、療法を記した現地のオランダ人医師の小冊子を譲り受け、甫賢はこれを宇田川榛斎に貸し、榛斎の息子榕庵がこれを翻訳した。当初彼らはこの疫病を普通の胃腸病「霍乱」と理解して特に関心を示すことはなかったが、その秋から冬にかけてコロリが西国(さいごく)に蔓延(まんえん)するとともに、ブロムホフの言葉と小冊子を思い出した。冊子の内容は、各地に散在する彼ら蘭学者・蘭方医の間を書簡を通じて行き来すると同時に、流行地の状況や実際の症例、処方経験などの情報も彼らのネットワークを通じて共有化された。
このような経緯があって安政五年にコロリが全国流行した時、長崎、大阪、京、江戸の蘭方医は、その疫病の病症が「虎列刺」という外来の疫病と同じものであることをすぐに知ることが出来た。しかしそれは、全国の医家の中ではごくごく少数であったし、ましてやそれらが民衆の知見に広まっていくことは望むべくもなかった。
安政五年には幕府の依頼によってオランダ海軍医官ポンペが来日していた。ポンペは極東地域の英字新聞で上海でのこれら流行を知り、門下の松本良順に指示して、英領インドで長く病院長を務めていた医師ウンドリフの著書から予防・治療法を翻訳させ、これをもとに長崎奉行所にコレラ対策の要項を示した。ほどなく長崎市中に「虎列刺」が上陸したが、松本良順がその治療にあたる中で自ら羅病(らびょう)するなど自他の臨床経験をも加えて、ポンペとその弟子たちは安政「虎列刺」の対策に奔走(ほんそう)した。
緒方洪庵は独自に所蔵の洋書を参照して『虎狼刺治準』を著している。安政五年時には、「虎列刺」に関する西洋医学の原書や漢訳本がかなり輸入されており、また日本での臨床経験に基づいた書も多数著されるなど、その根本原因の認識については「一種の揮発毒(きはつどく)にして雰囲気中に存在し、風につれて遠方に伝はり、又人より人に伝染することあり」ということ以上に追究され深められることはなかった。
漢方医家の認識「天地気運の不順による穢濁(わいだく)の気」にせよ、蘭方医家の「一種揮発毒の雰囲気中の存在」にせよ、コロリあるいは虎列刺の発症と流行の原因は、人間の営為(えいい)によってそれを除去できる、というものではなかった。その意味では陰陽五行説も不可知論も大差なかったし、そうした基本認識は、どのような論理や修辞(しゅうじ)を尽くそうとも、宗教的言説の範囲から明確に自立したものとは言い難かったのである。
※次回は「コロリ・天命ならざる死への抵抗」です。
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