白山童

     江戸のコロリとコレラの差異

        研究ノート「幕末期における疫病観と民衆」から






 幕末期の民衆生活を不安に陥れた諸要因には、黒船来航、開国、およびそれに端を発した政治的混迷、大規模な地震災害の続発、異常気象と凶作、物価の高騰、急速な治安悪化、さまざまな怪異、流言、そして時疫(じえき)の流行などがあった。これらの諸要因は、あるいは相互に関連づけられて認識され、あるいは互いに複合的に作用しつつ、民衆の日常生活と精神生活の上にさまざまな不安を醸成した。
 安政五年(1858)から六年にかけて、ほぼ全国に蔓延(まんえん)し猛威(もうい)を振るった時疫はコレラであったが、当時は、「暴瀉病」「虎狼痢」「見急」などと呼ばれた。コレラは、
「コレラヴィブリオによって起こる。急激な下痢によって水分を失ってショック状態になる。脱水の結果意識不明や痙攣をおこす。数時間で死亡する恐ろしい疫病」であり、最初日本に上陸したのは文政五年(1822)であった。なおそれから、十年を経ずしてヨーロッパ諸都市も最初のこれら大流行にみまわれている。
 文政五年に初上陸し西国を中心に流行したコレラ=ラテン語名「コレラ・モルブス」は、その三十六年後の安政五年に二度目の日本上陸を果たしたのであったが、人々はこの疫病が激しい吐瀉(としゃ)すなわち嘔吐(おうと)と下痢とを伴い、即日あるいはわずか二三日でころりと死に至る場合が多々あることから、これをコロリと呼んで怖れていた。対馬の人々がこの疫病を「見急」と呼んだのも、朝に元気な姿を見せていた人が夕には死んでいるという程の劇症を怖れてのことであった。
 この疫病・安政コロリに羅病(らびょう)し死亡した者は江戸市中だけで三万人とも二十六万人とも言われている。統計がないため正確な死亡率は不明だが、明治十年以降のコレラ統計から推察すれば、少なくとも羅病者の六〇〜七〇%は助からなかったであろうと思われる。

 コレラは元来、インド東北部のガンジス河三角州からベンガル平原にかけて盤居(ばんきょ)していた疫病であったが、十九世紀に入って、ヨーロッパ諸国の東アジア植民地化が急進展するのと歩調を合わせて世界に広がった。コレラ菌は西欧諸国軍隊の欧亜間の移動や、広域的な商業貿易に従事する人間たちの一群と行動を共にして、消化器官や排泄物中に、あるいは飲料水や食糧中に生息しながら、ヨーロッパ世界、東南アジア、中国沿岸、ユーラシア、そして極東へと繁殖領域を拡大していった。
 こうして起こったコレラの世界的大流行の第一波が長崎経由および朝鮮半島〜対馬経由で日本列島に到着したのが文政五年の流行であり、安政五年の場合は、清国の流行地・東シナ海沿岸地方を経由して長崎に入港したアメリカ海軍軍艦ミシシッピー号の水兵がコレラを発症、これが日本全土に広まったもので、世界的流行の第三派にあたるものであった。

 羅病するとすぐコロリと死亡してしまうコロリが、近代医学の説明するコレラ、すなわち「コレラ菌によって発症する疾病」であるという認識は、十九世紀中葉の西洋医学にはまだなかったし、もちろん漢方医学にもなかった。従ってその「根本的治療法」はなかったのであるが、インドおよび東南アジア植民地、さらにはヨーロッパ諸都市において、西洋医学が対症療法による処方経験を積んでいたので、長崎のオランダ商館と職務上接触する幕府役人・通詞(つうじ)、また、ポンペらと交流したり、彼らの塾に学んだりした一部幕府・諸藩の医官、蘭学者・蘭方医らは、商館関係者からのコレラ流行地の情報、およびこの疫病に関する洋書の翻訳などを通じて、コレラおよびコレラ病処方の知識をかなり正確に知ることができた。しかしそれは当時の日本人のごく一部、全国に三万人いたと言われる医師たちの間でもきわめて少数の人々であった。

「同月(七月)末の頃より都下に時疫行われ、芝の海辺、鉄砲洲、佃島、霊岸島の畔に始まり、家毎に此病に罹らざるはなし。八月始めより次第に熾にして、江戸中并近在に蔓り即時に病て即時に終れり……中略……始めの程は一町に五人七人、次第に殖えて簷を並べ一ツ屋に枕を並べ臥たるものあり。路頭に死にけるも有りけり。此の病、暴瀉又暴沙など号し、俗諺に「コロリ」と云へり。西洋には「コレラ」又「アジア」「テイカ」など唱ふるよし(東都の俗ころりといふは、頓死をさしてころりと死したりといふ俗言に出て、文政二年痢病行はれしよりしかいへり。しかるに西洋にコレラといふよしを思へば、おのづから通音なるもをかし)」
                   【斉藤月岑『増訂武江年表』安政六年】


「古呂利は本と皇国の俗語にて卒倒の義を云ひて、古より早く病に称し来る事なり。「元正間記」に云、元禄十二年の頃、江戸にて古呂利と云ふ病はやり、今月流行す、早く南天の実と、梅干しを煎じて呑めば其病を受けず、左もなければ、ソロリと煩いて古呂利と死すとて、江戸中、南天の実と、梅干しを煎じて飲みしと云ふ云々、又古老の話に、昔古呂利にて数万人死して葬ること能はず、官因って水葬の令を下すと云ふ」                  【浅田惟常『古呂利考』】

 大多数の医師および民衆には、安政のコロリはあくまでも従来から度々襲ってきた、烈しい吐瀉を伴う疫病の一種としてのコロリであって、ヨーロッパ勢力の東漸とともに襲来した「近代世界を象徴する疫病」ではなかった。民衆が用いたこの疫病の概念=呼称「コロリ」はコレラの発音を日本語に転じたものではなく、「頓死」「卒倒」という全く別個の一般名詞だったのである。すなわち、コロリとコレラの認識の間には、近世と近代との「知見」の大きな差が横たわっていたのである。


                                                   つづく