白山童

         
江戸の深層





 家康による開府から数十年という短期間に江戸は世界屈指の大都市となった。武家・町方人口の合計が百万人に達したのが、十八世紀初めと推定されている。急増人口のほとんどが東西六十余州から流入した社会増である。身分・職種も多様なこれらの人々が江戸の時空のうちに投げ込まれ、渾然(こんぜん)一体となって江戸人特有の心性や美意識が醸成されてくるのは、十八世紀後半から十九世紀のことである。
 開府当初の三百町から延享二年(1745)には寺社門前町を組み入れ千六百七十八町にまで膨らんだ大江戸の人々は、それぞれの胸中にそれぞれの想念を懐(いだ)きながら生を紡いだのである。その全貌を知り尽くすことはとうてい出来ないけれども、いくつか断片を拾い上げて、彼らの心の深層を瞥見(べっけん)することは出来よう。
 まずは江戸前期、日本橋北詰から魚市で活況を呈する大船町や小田原町の雑踏をあとに東へ三町ばかり行くと、日本橋川から入掘が二本流れ込んでおり、最初に「思案橋」、小網町一丁目の先には「捨格(わざくれ)橋」が架かっていた。これらの橋を渡る手前には両替・呉服・米穀・魚・青物・瀬戸物などの問屋が集積する世俗世界であり渡り切った向こう側には堺町の芝居小屋と吉原遊郭の悪所があった。
 元禄期に出た『江戸惣鹿子(そうかのこ)名所大全』には捨格橋について「世の好士(すきもの)の輩、世議も人のそしりも親類の不興もかまわずわざくれ、明日は閻浮(えんふ)のちりとならばなれ、今日のらくこそ娑婆のおもひてよ、一寸さきはてんとやみじや」とあり、浮世の掟も自制心もかなぐり捨て=わざくれて歓楽の淵に身を投じる者たちの心意が橋名に含意(がんい)されたことを伝えている。「思案橋も同意なり」という。実際、遊里に家産を蕩尽(とうじん)した者たちも少なくなかった。下って安政二年(1855)江戸地震のとき、夥(おびただ)しい鯰(なまず)絵の一枚摺りの中に、新吉原の遊女や遣り手たちが家や蔵を倒壊させた鯰に抗議している姿があるが、そこで鯰は「手前たちの手管(てくだ)で潰すほうが多い」と反論している。まったくその通りであったろう。
 正徳年中(171115)男伊達の山中源左衛門は麹町真法寺で切腹するとき「わんざくれふんばるべいかけふばかり/あすはからすがかつかじるべい」の辞世を遺しているが、よくよく考えると、この「わざくれ」は江戸人の心の深層への回路であるだけでなく、同時に江戸っ子の美意識の原初形態でであったかもしれない。
 明暦二年(1656)に吉原が浅草へ強制移転と決まり、翌年正月の振袖火事をはさんで六月に新吉原となった。日本橋の跡地には高砂町・新和泉町・住吉町・難波町の四町ができた(江戸人から「まめがら町」という俗称をさずかった)。遊里跡の町にことさら謡曲の目出度い曲名を冠したのは、そこに夥しい人々の「ただならぬ」情と念とが沈殿堆積しており、それを祓(はら)いつつ過去の時空を一新しなければならなかったからであろう。
 日本橋吉原の記憶も希薄となる江戸中期以降、捨格橋(わざくればし)の名は江戸の地図から消失する。そして大江戸の繁華は京・大阪を凌駕(りょうが)してゆく。しかし仔細(しさい)に見れば、着実に生業に励み有徳人となる者、俗世の底を這い回って貧窮に死する者、例の如くわざくれて身を滅する者など、貴賎さまざまな人間の生が明滅していった。そうした江戸人の生活と心意とを根底から拘束するものに「時の鐘」があった。
 江戸市中で最初の時鐘は元和年間(161523)日本橋の本石町三丁目に設置されたが、明暦の大火後には江戸市街の拡大もあって各地に増設されるようになり、元禄頃には本石町、浅草寺、本所横川町、上野文殊堂、芝含海山切通し、市谷八幡、目白不動の七カ所、天保四年(1833)梓行の『江戸名所図会』では赤坂田町成満寺と四谷天龍寺を加えて市中九箇所となっている。
 花見の頃は上野の暮れ六つを聞いて寛永寺の黒門が閉まり、新吉原では浅草の明け六つが遊女との別れと定まっていた。町々の木戸の開閉、見世(みせ)の開閉も鐘の音とともにあり、奉公人から冬の早暁(そうぎょう)の夜着を剥ぎ取るのも、期日に借銭取立人の来訪を予告するのも鐘の音であったろう。時の鐘は浮世のさまざまな約束事について、果たすべき義務と刻限とを厳然と告げたのである。
 鐘撞(かねつき)の生活は本石町の鐘役辻源七の場合、家持一軒につき月四文、年に四十八文ずつ役銭を徴収しており、しかもこれが大小横町ともに四百十町あったから、番人など常時七、八人を使用して経済的に豊かであったらしい。ところが、世のしがらみの刻印や果たせぬ約束の刻限を迫る鐘の音は、ややもすれば人生の暗転を、時には離別生死の問題をも支配した。これは人間の生涯に響く運命の鐘であったから、鐘撞番の仕事には因果めいた噂が付随し、鐘撞堂の株は永く所有されずによく売買されたという。「遊歴雑記」は鐘撞番の子供に運命的な不幸が応報する話を採録し、「武野俗談」は鐘撞堂の娘がろくろ首であったとの風聞を伝えている。時の鐘もまた確実に江戸人の深層に響き渡っていたのである。

              【朝日新聞社発行『一冊の本』2003年4月号に掲載】