ぐうたら備ん忘録20  野球盤と帯状疱疹 【2007.8.10】




 今から半世紀余り前、洟垂(はなた)れ小僧だったボクはようやくガキ大将に出世した。丁度その頃だった、右を向いても左を見ても貧乏人(びんぼうにん)だらけの漁師町にも白黒のブラウン管テレビが入って来たのは……。
 うちの近所では夏場になると自家製のアイスキャンディを売って繁盛していた店が、店舗に隣接する和室の床の間に誇らしげに飾って、昼間にアイスキャンディを買った子供たちに夜のプロレス中継などを見せていた。「エビでタイを釣る」という
比喩(ひゆ)があるが、「テレビで客が釣れる」時代だった。


 当時は、大方の子供が月々定まった小遣いを親から貰えるような環境にはいなかった。無論ボクもそうだったから、(あこが)れの力道山の試合がある日にアイスキャンディを買えるはずもなく、ボクはテレビでプロレス観戦する恩恵に浴することはほとんどなかった。

 しかし、貧乏人の子供たちにも楽しみはあった。「おまけ」や「景品」の付いた菓子が発売され始めていたからである。特にグリコキャラメルは、野球好きのボクには実に魅惑的だった。箱の中に「応募券」か「当たり券」が入っており、応募券を十枚集めると抽選で、当たり券なら五枚でもれなく、「エポック社の野球盤」が貰えた。

 とはいえ、そのキャラメルを買うおカネがない。ボクは真っ黒に日焼けした顔の眉間に皺をよせて少ない知恵を(しぼ)り出そうとした。そして、指の腹でこすると垢がこぼれる首をひねっているうちに、同じ町内で魚屋をやっている伯母が以前に「夕方だけ手伝うてくれるええ人がどっかにおらんかねえ……」と祖母に相談していたことを思い出した。

 魚屋は日銭が回る商売である。(気前のいい伯母のことだからきっと小遣いをくれる)と手前勝手に決め込んで、殊勝な態度で伯母に店の手伝いを申し出た。伯母は、「ええ子じゃねえ、あんたは……」と目を細め、ボクの思惑通りに「手伝い賃をあげにゃいけんねえ」と言った。その翌週からボクは伯母の手伝いを始めた。

 週に三日、ボクは学校が終るとその足で伯母の魚屋へ通った。学期末休みに入ると朝早く起きて、市場へ魚を仕入れに行く伯母の後ろに付いて回ったりした。昔の(たとえ)に「門前の小僧、経を詠む」というのがあるが、まもなくボクは「魚の三枚下ろし」が出来るようになった。予想外の新戦力を得た伯母はますます気前が良くなり、ボクはほくほく感に充たされた。魚屋の手伝いで貰うおカネと時々祖母がそっとくれる小遣いで、ボクは少なくとも月に三個のキャラメルを買えるようになった。

 魚の匂いがプーンとする指で口に運ぶキャラメルの味は以前と少し違った。が、「エポック社の野球盤」を手に入れるという大目標のためには、そんな些細なことは気にしておれない。ボクは、つり銭勘定と魚の三枚下ろしに精を出した。

 そんな風に過ごしているうちに、ある日ボクに幸運が訪れた。なんと、魚屋の看板坊やになって半年も経たないうちにグリコの「当たり券」が五枚たまったのである。ボクは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)(=嬉しくて小躍(こおど)りすること)した。勿論、すぐにグリコ本社へ送った。

 が、それからの日々の長いこと長いこと。なかなか日は暮れないし、いつまでも朝が来ない。野球盤に興じる自分の姿が夢にまで出てくる。学校でも魚屋でも気もそぞろだった。野球盤がボクの手元に届いたのは二週間ほど後だったと思うが、ボクには一年もの長さに感じられた。まさに「一日千秋の思い」だった。そして、見事に「嬉しいおまけ」を手に入れた自分の強運に我ながら感心したことを今も鮮明に憶えている。



 それから半世紀余りの歳月が流れ、現在ボクは『モーレン潰瘍(かいよう)』という自己免疫性の極めて厄介な眼病と闘っている。自分の免疫細胞が自分の角膜を攻撃して溶かしていくのだから始末が悪いことこの上ない。今年の三月には『角膜移植』をして、再び破裂しそうになっていた左眼の角膜を新しいものに張り替えて(ふた)をした。
 幸いに新角膜の定着は順調だったが、今度は眼圧が急激に高まった。高眼圧が長く続くと緑内障になって視神経がダメージを受け、
視野(しや)狭窄(きょうさく)から失明へとつながっていく。しかし、その眼圧も七月初旬にほぼ平常レベルまで下がり、今は小康状態に入っている。となれば、次は視力回復へのステップに進む訳だが、まだその予定が立たない現状である。


 それはともかく、病気治療には「薬の副作用」という「おまけ」が付きものであることを、この二年間、ボクは如実に体感させられた。

 ボクがモーレン潰瘍にかかったのは一昨年(2005)の十一月末である。が、町医者から紹介されたS大学病院でもそのことが判らず、小首をかしげる担当医からボクは「最初のおまけ」をもらった。

 いつまでも炎症が退かないものだから担当医がステロイド内服薬を処方した。彼はボクが糖尿持ちであることを失念していた。服用し始めて一か月の間にボクの体重は8キロも減った。空腹時血糖値が500近くにまで上がり、糖尿症状は著しく悪化した。ボクは、インスリン注射以外に改善方法のない「ステロイド性糖尿病」になっており、約一か月の入院治療を余儀なくされた。
 そして、退院してまもなくボクの左眼は角膜
穿孔(せんこう)(角膜に穴が開くこと)を起こして緊急縫合手術を受けた。

 ボクの眼病がモーレン潰瘍だと判明したのはそれから三か月後だった。S大学病院から紹介されたTS大学病院で自己免疫性の難病であることが判った。
 そこで処方された免疫抑制剤に、ボクは「二つ目のおまけ」をもらった。

 今度は「全身のむくみ」である。特に両足がパンパンに腫れ上がって歩くのにも難儀をした(写真左)。
 主治医は利尿作用のある眼圧低下剤を追加処方してくれたが一向に効き目がない。ボクが特異体質なのかも知れないが、結局「体のむくみ」はボク自身がネットで見つけた漢方のハーブティで解消した。

 にもかかわらず、追加処方された薬が「一時的な難聴」という「三つ目のおまけ」をくれるのだから弱った。上述したように現在も眼圧低下剤を飲んでいるために難聴状態は続いている。


「おまけはもう沢山だ。ごめん(こうむ)りたい」と嘆息していたボクに、あの意地悪な免疫抑制剤が趣向を凝らして、『帯状疱疹(たいじょうほうしん)』という「四つ目のおまけ」をくれた。

 ボクが体の一部に異常を感じたのは今年の四月中旬のことだった。腰・尻たぶ・内腿部など、左側の下半身がやけに(かゆ)くなった。
 しかし、木の芽時でもあったし、ボクは、カブレか何かだと思って軽く見ていた。市販の軟膏を塗って、
(かゆ)くなったらぽりぽり()いて過ごしていた。
 すると、掻いたところに痛みを感じるようになり、その部分がミミズ腫れになって化膿してきた。
(こりゃいかん!)と思ったのが異常を感じてから二週間後、近所にある総合病院の皮膚科に飛び込んでようやく、ボクはそれが帯状疱疹だと知った。


 帯状疱疹は、小さな水ぶくれが出来る病気「ヘルペス」の一種で、ウイルスが原因となって起こるが伝染性はない。そのウイルスは子供の頃によくかかる水疱瘡のウイルスと同じもので、水疱瘡が治った後も体内に潜んでいる。そして、外傷・疲労・老化・免疫抑制剤などによって体の抵抗力が落ちると、潜んでいたウイルスが活発になって症状が出るという。特に体の免疫機能がひどく弱まっているときは再発しやすいらしい。

 ちなみに代表的な症状はこうである。
「体の左右どちらか一方にチクチクするような痛みが起こり、しばらくしてその部分が赤くなり、その上に小さな透明の水ぶくれが集って出来る」
 水ぶくれは神経に沿って体の片側に帯状に広がるので帯状疱疹というのだそうだ。
「やがてそこが濁って黄色くなり、黒褐色のかさぶたが出来る」
「かさぶたが取れて治っていくがひどい時は潰瘍になる」といい、
ボクの場合はそのひどい時の症状になっていた。

 なにしろ水ぶくれとかさぶたが出来ている場所が場所だけに、椅子に座れないし、ベッドに横たわっても体の右側を下にするしか方法はない。しかも、四六時中ズキンズキンするから夜も眠れない。その上、二週間ほど服用したウイルス感染治療薬の影響で、味覚と嗅覚が狂って食欲が一気に減退し、あっと言う間に体重が3キロ落ちた。


 眼圧の高い眼はしくしくするし、帯状疱疹になった場所は疼き続ける。まさに「泣きっ面に蜂」状態が二か月間も続いた。
 しかし、幸いにも、眼圧が下がっていくのに呼応するように帯状疱疹も快方に向かった。今は傷痕として残った黒褐色の斑点も徐々に薄れてきている。



(それにしても……)とボクは深くため息をついた。
 野球盤のような「楽しいおまけ」はいつでも大歓迎だが、薬の副作用という「嬉しくないおまけ」はもう勘弁して欲しい。



 どころでつらつら思うに、ボクは還暦を迎えた一年前の三月からずっとこの『備ん忘録』に自分の病気のことばかり書いてきた。「似たような状況にある人たちの参考になれば」と敢えてそうしてきたのだが、「辛気臭(しんきくさ)くて鬱陶(うっとう)しい話のオンパレード」だったように思えてならない。自分では良かれと思っていても他人様に不快感を与えてしまうことが往々にしてある。ボクはそのことに気づいた。

(少し配慮が足りなかったかも知れないなあ……)
 と、ボクが珍しく考え込んでいたら、頭の隅っこに悪友たちがニューッと姿を現わした。

「ふふふっ、今頃気づいたのか。遅すぎるよ、都筑ぃ」
「お前、相変わらず鈍感だなあ」
「都筑の場合、学習効果が長続きしないのが問題だな」

 例によってニヤニヤしながら痛いところを突いてくる。いつもなら意地になって反発するボクだが、今回は違った。
(ああ、皆の言う通りかも知れんな)と、呟いていた。


                         [平成十九年(2007)八月]