ぐうたら備ん忘録22 春はあけぼの、夢うつつ 【2008.03.05 up】 百と八つの煩悩を除く鐘の音が凍てついた夜気を震わせて年が改まり、ボクは一昨年の夏の左眼角膜穿孔(角膜に孔が開いて裂けること)によって片目暮らしを余儀なくされてから二度目の正月を迎えた。しかし、視力回復への次のステップへ進む目途はまだ立っていない。それほどボクの左眼に取りついた『モーレン潰瘍』は自己免疫性の極めて治療が難しい眼病だ。 だからこの正月は、「目出たさも チュウくらいなり 春かすみ」なのである。 見える右眼は疲れが激しく、よくかすむ。文を綴ろうとしても集中力が続かず、すぐに頭に霞がかかる。四六時中鬱陶しいし、日々の細々したことは家族の手を借りないと出来ない。車の運転は危ないのでどこに出かけるにも助手席に座って女房殿を煩わせている。 主治医のTS大学病院S教授が言う「長期戦」を乗り切れば視力が回復するという一縷の望みがボクを辛抱強くしているが、こんな生活が更に一年あるいはそれ以上続くのかと思うと、正直、気が重い。けれどもこの厄介な病を患って、ボクは「気力だけでは補えないこともある」と再認識した。 そのはずだったのだが……。 正月三が日は、例年通り自堕落に過ごした。朝湯に浸かった後、(主治医のS教授に知れたらこっぴどく叱られるだろうな)と思いながら御節料理を肴にしこたま酒を呑み、バタンキューと倒れて昼下がりまで眠る。酔いがまだ覚めない状態で夕食時に軽く迎え酒をして再びバタンキュー。夜中に喉が渇いて目を醒まし、水をガブガブ飲むからお腹が冷えてトイレに駆け込む。何度かそれを繰り返して朝を迎え、眠気まなこで風呂に入る。 とまぁ、極めて非生産的な三日間を過ごして四日の朝からようやく日常に復帰したが、宿酔いである。(松の内は仕方がないよな)と自堕落振りを手前勝手に正当化して、酒こそ呑まなかったものの、無為徒食の延長戦に突入した。 そして松飾りが取れた八日の午後、突然、激しい胃痛がボクを襲った。 以前に一度経験した胃痙攣と同じ症状だった。あの時は、駆け込んだ救急医療センターで痛み止めの注射をしてもらって帰宅し、ひと晩眠ると胃の痛みは嘘のように消えた。そのことを思い出したボクは、手元にあった痛み止めの錠剤を飲んでベッドに横たわった。 いつの間にか深い眠りに落ちていたボクが目覚めたのが翌九日の未明。胃の痛みはうんと軽くなり、代わって腹部がしくしくした。しかし、キリキリ刺し込む痛みではなかったので「自分で何とか出来る」と思いながら朝食を摂り、痛み止めを口にしながら昼食と夕食を済ませ、からだを休めることに専念した。 ところが、翌十日の朝から腹の痛みが強まってきて下痢が始まり、腹痛と下痢はその日からなんと六日間も続いた。食べては下す繰り返しである。 ボクは、「病気を治すのはあくまで患者本人であって、医者はその手助けをしてくれるのだ」と考えている。だから、医者にかかる前に「まずは自力で治す」努力をする。今までずっとそうしてきたし、糖尿病とこの眼病以外は大した支障もなく乗り切ってきた。とはいえ、腹痛と下痢が何日も続くのは苦しい。 苦しみは四日目に頂点に達し、その翌日から腹の痛みが少し軽くなった。そこでボクは何とも言い難い不思議な体験をした。TVをつけたのは久し振りだったが、モニターに映し出された番組のほとんどをボクはすでに一度観ていたのである。 新聞の番組欄を確かめたが再放送とは記されていない。たまたま女房殿が観ていたDVDドラマも一度観た覚えがあったから、「これ観るのは二回目か?」と訊くと「ううん、初めてよ」と言う。ボクは狐につままれた思いで何度も首をかしげたが、確かに一度観ているのだ。「デジャビュ」なのか、それとも意識が朦朧とする中でボクは幽体離脱をして近未来へ飛んでいたのか、と埒もないことを考えた。しかし、確かな答えが見つかるはずもなく、ボクは考えるのを止めてトイレに走った。 ひどい下痢が止まったのが十五日の夜半。ボクはホッとひと息吐いた。 翌十六日には予約してあったS教授の診察を受けに千葉のTS大学病院眼科へ出かけたが、体力を消耗していたせいだろうが足元が覚束なかった。今思い返すと、この時ボクの意識はすでに混乱していたようである。気は張っていたものの、思考能力がかなり低下していたように思う。 宙を歩くような感じで千葉から帰ってくると、今度は経験したことのない深刻な便秘に苦しむことになった。二、三時間置きに便意を催すが、出るのはほんのお印程度。これが二日ほど続いて、いよいよ力んでも何も出てこないようになった。しかも便意を催す間隔が縮まって一、二時間置きになった。 必然、眠れない。眠れないから意識がぼやけてくる。ボクは、それでもまだ「ここを乗り切れば」と強気の姿勢を崩さず、我慢を続けた。心配を募らせた女房殿が病院へ行くようにと繰り返しすすめてくれたが、ボクは、「我慢も男の器量の一つだ」と嘯いて意地を張っていた。 自分の部屋に籠もってベッドに横たわり、うつらうつらしていると、ボクのお腹の中に昭和三十年代の「三丁目の夕日」的な町並みが現われた。 通りの両側にぎっしりと肩を寄せ合うように立つ家々のベランダで洗濯物がはためき、軒下には大小様々な鉢植えが所狭しとばかりに並んで道幅を狭めていた。その狭い道をワンパク坊主たちが走り回り、後ろを母親らしき中年女性が目を吊り上げて追いかけている。通りの入り口に陣取った似顔絵描きが通り客に声をかけ、中ほどのトリスバーから年増のママが出てきて紫煙をくゆらせ、向かいの家の奥さんと何やら話している。奥まったところにバイクに跨った番長を囲むように不良たちがたむろしていた。 そこにぬっと一人、好々爺が姿を見せ、通りの左右の住人たちと軽く挨拶を交わしながら、にこにこと通りを歩いた。誰かが「会長さん、いいお日和だねえ」と声をかけた。つまり、町内会ならぬ「腸内会」がボクのお腹に中に形成されていた。 彼らが、この腸内会が便秘の原因なのだとボクは気づいた。それで早速腸内会長に皆して速やかにボクの腸内から退出してくれるように頼んだ。好々爺の腸内会長は事情を理解してくれて皆を説得してみると言ってくれたが、似顔絵描き以外は首を縦に振らない。 便秘症状は一向に改善せず、食欲は減退するし、二十日を過ぎるとお粥も喉を通らなくなった。女房殿も娘もますます心配するし、家の中を歩くのもフラつくようになり、ボクはようやく医者に診てもらうことを決めた。 二十四日の朝。糖尿でお世話になっている市立病院の内科へ行くと、主治医のI先生に「どうしてもっと早く来なかったんですか」と叱られた。そして、ただちに入院とのお達しがあった。返す言葉もなく、ボクは素直にうなずいた。 翌二十五日に入院すると、早速検査が始まった。連日CTやらX線やらエコーで腹部と胸部の検査をし、一週間後に胃カメラ検査と大腸カメラ検査が予定された。一度胃と腸の中を空っぽにしなければいけないから、食事は摂れない。点滴による栄養補給に頼ることになった。しかし、それは苦にはならなかった。そのことよりも入院してからも続いた便秘の方が苦しかった。 眠りに就くと腸内会の面々の姿が脳裏を渦巻いた。依然として彼らは立ち退きを拒んでいる。ボクは改めて一人ひとりに話しかけて説得を試みた。その結果、トリスバーのママとワンパク坊主の家族が立ち退いてくれた。「それじゃ私も」と腸内会長が後に続いてくれて、それをきっかけに他の人たちも次々と退出してくれた。が、番長グループがボクの苦しみをせせら笑いながら居残った。しかし、その不良たちも大腸カメラ検査前の腸内洗浄で居なくなり、ようやくボクの胃袋とお腹は空っぽになった。 さて、病の原因だが、主治医のI先生と一緒に担当してくれた外科の先生は、当初、大腸がんを疑ったらしい。が、幸いにがん細胞はなく、大腸の屈曲部がひどい炎症を起こして腸閉塞状態になっていたことが判明した。 そして、これも幸いなことに、腸壁の癒着には至っていなかったので開腹手術は免れた。加えて、胃袋の方にも何の問題もなかったことがボクを安堵させた。 そんなこんなで約一か月間に及ぶ入院治療を受けて何とか無事に退院することができたが、子年の新春はボクにとってまさに「夢うつつ」。妄想と悪夢の日々だった。しかも、正月に56キロあった体重が49キロまで落ちていた。足腰がフラつくはずである。 ただ、退院してすぐに訪れたTS大学病院で嬉しいことがあった。一か月ぶりに診察したS教授は、以前の映像記録と当日の映像を示して、「何がどうプラスに働いたのかは判りませんが、角膜はいままでで一番いい状態になっています」とコメントしつつ破顔した。左眼の症状に思いがけない改善があったことにボクも驚いた。 このひと月半を振り返ってみると、自分が相変わらず我が儘で頑固でへそ曲がりであることを苦笑せざるを得ない。 また、気持ちは若くても、肉体の方はちゃんと還暦を過ぎていることを今更ながら痛感させられた。 ボクは自分の体力を過信していたようだ。この苦い経験を生かして心構えを新たにしなくてはなるまい。 今ボクは、「予定通りに九十一歳まで長生る」ことを、妄想しているのではなくて、真剣に考えている。 [平成二十年(2008)三月] |