ぐうたら備ん忘録24 厄年明けに思う
             【2008.07.04 up】






 三か月ほど前になるが、我が家のバルコニー前の山桜が満開にした白く可憐な花びらで枝いっぱいを飾った日にボクは満六十二歳の誕生日を迎えた。つまり、後厄(あとやく)の六十一歳を終えて厄年(やくどし)から抜け出た次第であるが、そのふた月余り前からボクの抱える病の症状がすべて好転して行ったのだから不思議なものである。

 厄年とは実年齢の一の位と十の位の数を足すと「六」になる年をいう。そのルールに従えば、六歳、十五歳、二十四歳、三十三歳、四十二歳、五十一歳、六十歳の年が本厄(ほんやく)の年であり、その前後の年のことを前厄(まえやく)後厄(あとやく)と呼ぶ。そして、「男は四十二歳、女は三十三歳」が大厄(たいやく)の年といわれている。

 それにしても昔の人の知恵は大したものだ、とボクは思う。自分自身の半生を顧みると、厄年とその前後の年に今も記憶が鮮明な物事が起こっている。しかも、災厄(さいやく)の「厄」に襲われるだけではなく、ご利益(りやく)の「益」も度々訪れている。つまり、厄年というのは人生の節目であり、いにしえの賢人は我々庶民にそのことを教えているのだ。

「おいおい、都筑。急に厄年の話を持ち出したりして、一体、何が言いたいんだ?」

 例の悪友たちがボクの脳裏に現われてチャチャを入れようとしているが、いつものことだから気にしないで話を続ける。

「足して六」ルールに従えば百五歳も厄年になるがとてもそこまでは生きておれないだろうから、最初に述べたように、どうやらボクの最後の厄年は「(やく)(とし)」に変わってから終ったようだ。その小さな喜びを語る前に、ボクの半生を整理してみるとおおむね次のようになる。

■七歳(1953年…後厄)の夏。父が亡くなった時にまだ四歳だったボクの後見人になった伯父が事業に失敗して、父がボクに残してくれた敷地の広い洋館建ての家を売却し、伯父とともに祖父母が住む隣町に引っ越した。この時にボクの金持ちの坊ちゃん時代は終わり、貧乏人の鼻たれ小僧時代が始まったが、まもなくガキ大将に出世した。

■十五歳(1961年…本厄)の中学三年生の時、普通科高校への進学を考えていたボクは、「工業高校で手に職をつけるのでなければ学費の援助はしない」と伯父に迫られて窮地に陥った。しかし、幸いに日本育英会の特別奨学生になることが出来て学費を確保し、ボクは自分の希望通りに普通科高校に進学した。その後、学費の安い国立大学に入学すると同時に伯父の家を出て奨学金とアルバイト代で自活し、何とか卒業して就職も出来た。ありがたいことに、就職する時の保証人にはゼミの教授がなってくれた。

■二十四歳(1970年…本厄)も残りひと月という時にボクは女房殿にプロポーズした。そして、二十五歳(後厄)になった秋に彼女と結婚して家庭を持つことが出来た。

■三十二歳(1978年…前厄)から三十四歳(後厄)にかけて、本社の下っ端管理職だったボクは寝る暇も惜しんでよく働いた。店舗開発の企画立案と用地買収を進めるかたわら、業界で加熱した小売店の引き抜き合戦を指揮して成果を上げたことが高く評価された。

■四十二歳(1988年…本厄)の秋に、ボクは東北六県を管轄する営業責任者として仙台へ単身赴任した。この仙台在住中に味わった旨い酒と美味しい肴の数々がボクに糖尿病発症というありがたくないプレゼントをくれた。

■五十歳(1996年…前厄)の夏にボクは、大学卒業以来二十七年半勤めた会社を早期退職した。そして五十二歳(後厄)の秋に、かけがえのない息子を事故で失ってしまった。その後四年の歳月を静かに見送ってから、ボクは執筆を始めた。

■六十歳(2006年…本厄)の夏にボクの左眼の角膜は突然裂けた。すぐに縫合手術を受けたのだが、原因は、発症のメカニズムがいまだに解明されていない自己免疫性の「モーレン潰瘍」という難病によるものだった。ボクの片目暮らしはこの時に始まり、今も続いている。そして六十一歳(後厄)で迎えた今年の正月明けに、ボクは「腸閉塞」になって一か月近くの入院治療を余儀なくされた。秋口から再発しかかっていたモーレン潰瘍を抑えるために多量に投入し続けた免疫抑制剤が体の抵抗力を低下させたのが原因だったらしい。

 似たような経験をお持ちの方もおられると思うが、厄年というのは確かに人生の節目である。体調も変われば、社会的地位に変化も起きる。自分ではどうしようもないこともあるが、心構えひとつで「わざわい転じて福となす」ことも出来る。
 いにしえの賢人は、厄年をもうけることで、そのことを示唆したのではなかろうかとボクは思う。


 さて、「厄」が「益」になって明けたボクの小さな喜びだが、持病の糖尿とモーレン潰瘍を患っている左眼の症状改善は、腸閉塞のために便意を催しても便通がなくてうんうん唸っていた入院中に始まった。

 ボクの糖尿症状は、世紀が変わった頃からずっと安定していた。ところが六十歳(本厄)の春に、当時の眼科医が薬の処方を間違えたことが原因で急激に悪化してステロイド性糖尿病になり、内服薬では血糖値を抑えられなくなった。結果、治療法をインシュリン注射に切り替えざるを得なかった。
 しかし、今回の腸閉塞で体内に予想外な変化が起きたらしく、退院後初めての外来検診時に美人の主治医が「とてもいい状態になってますし、眼の手術の予定がなければ、すぐ内服薬に戻しても問題ないのですがね」と微笑んでくれた。
 綺麗な女医さんにそう言われて、ボクは糖尿病がすっかり治ったような気分になった。


 なかなか先行きの目処が立たなかった眼の方はというと、退院後初めて診察してもらった時に、日本における角膜再生分野の第一人者でありボクの主治医でもあるS教授が「何がどうプラスに働いたのかは分かりませんが、免疫抑制剤をまったく服用していないのに、角膜は今迄で一番いい状態になっていますねえ」と言って驚いた。
 その後も通院のたびに「いい状態が保たれています」というコメントがあり、最近は五月に「(腸閉塞で低下した)体力が回復するのを待ちましょう」、六月には「荒技を使うのはもう少し先の方がいいでしょう」と、視力回復のための次の手術がそう遠くないことを示唆するようになった。


 その一方で、腸閉塞時に7キロも一気に失った体重も、すでに4キロ余りを取り戻した。体重が増えるにつれて体調も少しずつよくなってきている。

 これらのことがボクの言う「小さな喜び」であり、このまま理由のよく分からない幸運が続けば、多分、ボクの左眼は今年の除夜の鐘を聞く前に見えるようになる。というより、そのことをボクは切に願っている。

 この二年余りを振り返ってみると残念なことが多かった。
 ボクの小説作品がG出版社の大賞候補になって、受賞はできなかったものの創作意欲がうんと高まった時期に、ステロイド性糖尿病・左眼角膜の
穿孔(せんこう)(穴が空いて破れること)と続いて肉体的に急ブレーキがかかった。
 その後も、左眼が見えないだけではなく、モーレン潰瘍再発を抑える免疫抑制剤の副作用で全身がむくんで足が腫れあがったり帯状疱疹に悩まされたりした。更に腸閉塞まで患った。
 その間、「病は気からと言うじゃないか」と何度も自分を励ましてきたが、以前の集中力は戻らない。片目暮らしは本当に不自由で鬱陶しく、何をするのも億劫である。その上に体調がすぐれず、女房殿や娘と口を利くのも嫌な時もあった。


 しかし、それもあと半年だ。

 そう思うと気持ちに張りが出てきた。
 とはいえ、昔の比喩に「慌てる乞食は貰いが少ない」というのがあるように、物書きも同じで、焦ったり慌てたりしても得るものはないだろう。
 今は、気持ちを落ち着け腰を据え、物事をじっくりと眺め直し、「焦らず諦めず」の姿勢で作品の構想を固め、左眼に光が戻って来た時の支度をしておく時期だとボクは考えている。すっかり棒に振ってしまった二年間の葛藤もきっと生きてくることだろうと信じている。


 厄年が明けた今年、除夜の鐘を聴く前に、ボクは新しいスタートラインに立てそうだ。

                                [平成二十年(2008)七月]