ぐうたら備ん忘録25  歳 月

                
【2008.10.25 up】






 ここ数年間、ボクは以前より頻繁(ひんぱん)に夢を見るようになった。目覚めた後も夢の内容を(おぼ)えていることが多いからそう思うのかも知れないが、ボクが見る夢のうち最も多いのは次の三つである。


 一つは、新幹線などの列車で急ぎの旅をしている夢である。十年以上前から繰り返し見ているのだが、旅の出発地と目的地は様々で、東京から広島へ向かう時もあれば、名古屋から仙台へ向かう時もあり、福島から大阪へ向かう時もあって、出てくる人によってその違いが分かる。そして、ボクは必ず旅の途中で乗り換えをする。

 乗り換え駅の所在場所は旅のコースによって異なるのに、駅構内の情景はどこの駅でもまったく同じなのだから不思議である。薄汚れた狭い通路の先に発車ホームへ下りる長い階段があり、なぜか階段上の小さなブースで特別切符を買わなければならない。そこの係員がグズグズして発車時刻に間に合わなかったり、テキパキと対応してくれて間に合ったりする。

 間に合わなかった場合にボクは最寄りの私鉄に乗り込んで目的地へと急ぐのだが、その私鉄が目的地とは違う方角へ向かってしまい、あわてて途中下車した田舎駅でボクは悲嘆に暮れる。一方、予定通りに乗れた場合はその列車の行き先がいつの間にか変わっている。このケースでも途中下車したボクは、草深い田舎駅のボク以外は誰もいないプラットホームに一人(たたず)んで空を仰ぐ。

 いずれにせよ、急ぎ旅なのにどうしても目的地に辿(たど)り着けないボクは焦燥感に駆られて目覚めるという、おかしな夢である。


 最近特によく見るのが、現在ほとんど視力がない左眼が突然くっきりと見えるようになった夢である。それも、車を運転している自分に気づき、快哉(かいさい)を叫んで目覚めるパターンが多い。たまに、大学同期の悪友たちと居酒屋で仲間と酒を酌み交わしているシーンがある。彼らから「都筑ぃ。お前、目が見えるようになったんだから、今度は物書きとして開眼しろよ」と言われ、「ああ、そのためにもお前らとの付き合いを止めなきゃいかんな」と悪態(あくたい)を吐きながら、(あれっ、左眼が見えてる!)と驚いて目覚める。

 ボクの左眼は二年前の夏に突然裂けた。大急ぎで角膜の縫合(ほうごう)をしたが、それ以来ボクは不自由で鬱陶(うっとう)しくい片目暮らしをしている。しかも、無事に見えている右眼の疲れが激しい上に集中力の低下でまとまった作品が書けないこともあって、いつもイライラしている。

 原因は『モーレン潰瘍』という自己免疫性の眼病で、自分の免疫細胞がある日突然に自分の角膜を侵入した外敵と見て食い尽くしてしまう、発症原因不明な難病である。縫合した角膜も次第に蚕食(さんしょく)されていき、再び裂けかかった八か月後に新しい角膜を移植した。それから半年後に移植角膜にも自己免疫攻撃が始まってヒヤヒヤしたが、広がる前に何とか抑え込めた。
 その後は良好な状態を保っており、手術ができるようになれば、元通りにとまではいかないものの左眼は再び見えるようになるとのことである。しかし、手術が出来るのはまだかなり先のことになるらしい。



 そして三つ目は、やはり亡くなった息子の夢である。

 今から丁度十年前の十月に、まだ二十五歳という若さだった息子は親のボクより早く逝ってしまった。その親不孝息子が、つい先日、夢に出てきてボクを助けてくれた。

 夢のシーンはボクが愛犬ミニダックスのチャタローを左腕で腋の下に抱えるようにして眠っているところから始まった。が、まもなく左腕が痛み始めた。
 いつの間にかチャタローはぬいぐるみに替わっていて、しかも中に鉛が詰まっているようにひどく重い。それでぬいぐるみチャタローを横にずらしたのだが、ずらした途端にチャタローの姿は
霧散(むさん)して消え、ボクは得体の知れない何かに仰向けの全身を圧迫されて身動きできなくなった。
 金縛り状態から抜け出そうと必死にもがいても息が苦しくなるだけで、ボクは強い焦燥感に駆られた。その時である、二本の腕がすっと伸びてきてボクの手をつかんだのは……。それは息子の腕だった。
 ボクの手を握った息子は、額に脂汗を滲ませているボクを易々と引き起こすとにっこりと微笑みかけ、その姿を消していった。
 薄れていく息子の影に向かって名前を呼びながら片手を伸ばした時にボクは目覚めた。ベッドの上に起き上がったボクの胸はとても温かかった。


 思い起こせば、一年前の十月中旬にも息子に励まされた夢を見ている。移植した左眼の角膜に『モーレン潰瘍』発症の兆しが出た直後だった。

 夢の中のボクは以前に参拝した憶えのあるお寺の本堂前に(ぬか)づいていた。そこに年老いた和尚さんと小坊主が現われ、和尚さんは何もかも打ち明けて煩悩を振り払うようすすめてくれ、ボクは深くうなずいて口を開こうとした。その時、すっとボクの背後に廻ってボクの肩に手を添えた小坊主が、「心配しなくても大丈夫だよ。だから頑張ってね」と(ささや)くように言った。聞き覚えのある声音に思わず後ろを振り向いたボクは、その小坊主が小学生の頃の息子であることに驚いて夢から醒めた。

 息子が出てくる夢は色々見るが、以前は幼かった頃の彼と触れ合うシーンが多かった。
 一度、向かい合ったボクの頭の天辺から足の先まで視線を這わせた大学生の彼から「オヤジぃ、何だか小さくなったなあ」とタメ口を利かれ、ボクが「バカ野郎! お前が苦労させるからじゃないか」と言い返す夢を見たことがあるが、夢の中で息子がボクに救いの手を差し伸べるようになったのは、やはり、ボクの左眼が裂けて以降である。




 息子が逝った1998年からの十年という歳月を振り返ると、初めのうちボクを取り巻く時の流れは完全に停止していた。が、(こよみ)の上で三年が過ぎ去った頃にボクは時が流れ始めたのを感じた。その流れは年々少しずつ早くなっていったが、今もまだゆるやかだ。

 時の流れが停止していた三年間、ボクは、家内と娘の傷ついた心の動きに細心の注意を払いながら、息子が遺してくれた日記やメモを一冊の自家本にまとめた。その折々の心の様相が(つづ)られている文章から浮かび上がってくる、生き生きとした息子をいつも身近に置いておくためである。
 しかしその間、表面上冷静に振る舞っているボクを誤解する人もいた。かけがえのない息子を失ったというのに悲しむ様子がないのは、余りにも情が薄いというのである。その人にはボクが
毅然(きぜん)としている理由に思いが至らなかったらしい。

 ボクは、息子の葬儀の時にはつい感情を剥き出しにして泣いてしまった。が、その翌日から人前では涙は見せないようにしてきた。家内と娘に対してもそうした。夫であり父であるボクが悲しみに沈みこんでいては、心に深い傷を負った家内と娘は支えられないと考えたからである。とはいえ、ちょっとしたことがきっかけで心が張り裂けそうになったことも何回かあった。そんな時ボクは、自分の部屋に(こも)って一人こっそり泣いた。

 家内と娘の心の揺れが比較的小さくなってきた2002年の秋頃から、ボクは息子へのレクイエムとして小説『ストップ・オーバー』を書き始めた。
 ボクが息子のことを題材として小説を書くことを快く思わない向きもあった。その理由はボクも理解できるものだったが、ボクはあえて強行して出版まで漕ぎ着けた。息子の心の真実を世の中の人たちに知って欲しかったからである。
 にもかかわらず、無意識の配慮が働いたらしく、作品内容を中途半端なものにしてしまったことが悔やまれる。しかし、この頃からボクは息子の夢を頻繁に見るようになった。


 その後、七回忌法要を済ませてからだったと思う、息子の思い出を家内や娘と話すことができるようになったのは……。
 その頃から書き始めた小説作品の一つが、2006年春に、あるメジャー出版社の大賞候補になった。残念ながら受賞には至らなかったが、意を強くしたボクは本格的な執筆活動に入ろうとしていた。
 その矢先に『モーレン潰瘍』で左眼が裂けたという次第である。以来約二年半を治療に費やしているが、いまだに視力回復手術の目途が立っていない。先が見えないのは辛い。が、夢がそのストレスを発散してくれているようだ。


 流れゆく時が傷ついた人の心を癒すという。
 十年という歳月を経た今のボクはゆるやかに流れる時の中に身を置いている。が、時は流れても、かけがえのない息子を失った心の傷は癒えない。
 それでいいのだと、ボクは思う。傷口がふさがることがあっても、その下にある傷はいつまでも生々しくなくてはならないと思っている。
 それが愛する息子を失った親の義務だと、ボクは思うから。


 息子が亡くなってからこの方、ボクは息子が使っていた部屋の壁に息子のポートレートやスナップ写真を飾り、そこを自分の部屋にして寝起きしてきた。
 九十一歳の誕生日に棺おけに入る予定のボクは、これからもずっとその部屋で、時々息子の夢を見ながら、これからまだ長い歳月を精一杯に生きていくつもりである。


                                [平成二十年(2008)十月]