ぐうたら備ん忘録28
   自省の日々

            【2010.12.23 up】





 このところボクは、年の瀬が近づくと妙に感傷的になる。何かを失ったような気分になって一年前に戻りたくなる。
 といっても、棺桶に入る日が近づくのを厭っているのではない。ボクは91歳まで生きる予定だから、まだそんなことは露ほども考えていない。が、ここ数年は正月に「今年はこれをやるぞ」と心に決めてもやり遂げたことがないものだから時間を取り戻したくなるのだ。構想がほぼ出来上がっているものは幾つもあるのに、今年もまた、何一つ小説作品を仕上げることが出来なかった。

今年のボクにやれたことは、北米報知新聞の連載コラム「一言居士のつぶやき」を続けたことだけだった。もっともこれは、ボクが実の弟のように思っているT君を介して頼まれた仕事だから途中では投げ出せない。しかし、毎月一本書くのにもかなり時間を食う。海外のメディアに載るものだけにデータに誤りがあってはいけないし、論理も明快で客観的でなければならないからだ。先方の財政事情で一文にもならないボランティア的な仕事だが、つい感情がペン先に走ってしまうボクにとってはいい勉強になるから良としている。

それにしても、大手出版社の小説大賞にノミネートされた作品を書き上げた頃の頭のひらめきと集中力がいまだに戻らないことが口惜しい。

 遡ること約5年、春に還暦を迎えたボクの左眼の角膜は季節が夏に移るとすぐに裂けた。前年の暮れからコロコロ感に悩まされていたのだが、まさか『モーレン潰瘍』などという症例の極めて少ない病気に罹っているとはボクは勿論のこと当時の主治医も気づいていなかったから、まさに青天の霹靂だった。緊急入院して縫合手術を受けた後でも病名すら分からず、セカンドオピニオンを求めて今の主治医の元を訪ねた秋にようやく自己免疫による蚕食性の悪性潰瘍であることが分かった次第であった。

 角膜が裂けて虹彩が表にこぼれ出る酷い症状だったから左眼は視力を失った。その視力の回復見込みがあるという今の主治医に励まされて治療を開始したが、最初に彼が「長期戦になりますよ」と言った通り、4年半あまりが経過した今もまだ視力回復手術が行える段階には至っていない。途中『モーレン潰瘍』が再発して、縫合した角膜がまた裂けそうになって角膜移植をし、その後も一度再発した。

治療が順調にすすんで角膜の状態が安定し体力とともに免疫力が回復してくるとこの病気は再発する。本当に厄介極まりない。だから免疫力を適度に弱めておくためにボクの体は免疫抑制剤漬けになっている。それがまた別の病を引き起こすから始末が悪い。手足の異常なむくみ、帯状疱疹、腸閉塞、肺炎と、元々丈夫なボクの身に、今までならあり得ないことが次々と降りかかってくる。そんなこんなで、ここ数年は満足できる一年を送ったことがないものだから、冒頭に述べたような感覚に囚われるようになったのだろう。

「病を治すのは当人の意思とその体内に潜む自然治癒力であり、医者も薬もその手助けをしてくれる存在に過ぎないことを忘れてはならない」

 この言葉に接すると、「なるほど名言だ」とうなずく人もあると思う。誰の言葉かって? ぐうたら都筑ことボクの言葉である。

「なんだ、偉い先生の言葉じゃなかったのか」と拍子抜けしたと思うが、偉くないボクの言葉も時には真理を言い当てることがある。これなんかは多分そのひとつだと思うが、人は何をするにしても意思がしっかりしていないと目的を達するのは難しい。ぐうたら都筑はそう信じている。

そのボクの信条のひとつに「やせ我慢も男の器量」というのがある。いささか寂寥感が漂う信条だが、江戸っ子の心意気ならぬ貧乏人の心意気だ。

しかし、この貧乏人のやせ我慢を貫くことによってボクは散々な目に遭っている。それは前述した名言と相乗悪効果を引き起こす。

ボクは体調不良に陥ってもなかなか病院へ行こうとしない。「医者嫌いなだけだろう」と言われると返す言葉がないが、とにかく名言通りにまずは自分で治そうと試みる。そして症状をどんどん悪化させ、いよいよ自分でもたまらなくなってようやく病院へ駆け込む。三年前の冬の腸閉塞も今年の夏の肺炎もそうだった。だから主治医に、「我慢していないですぐに来ていればこんなに酷くはならなかったのに」とか、「おかしいなと思ったらすぐに来なければいけませんよ」と、叱られる。

ところがこの広島生まれのカバチタレ(屁理屈をこね回す者)は、お医者さんが親切に忠告してくれているのに、「先生、やせ我慢も男の器量です」と言い返す。これでは「医者嫌いな患者」ではなく「医者が嫌う患者」である。頑固で我が儘な偏屈者は自分で世界を狭くするらしいが、間違いないようだ。

もう少し素直になって友達を今まで以上に大切にしないと、そのうち誰にも振り向いてもらえない哀れな因業ジジイになりそうだ。くわばら、くわばら。ぐうたら変人も、来年こそは満足できる良い年にしたいと思う年の暮れである。


                           [2010年12月]