ぐうたら備ん忘録29 確定宣告
            【2012.01.27 up】




 東日本大震災から約10か月、被災地での復旧作業が滞る中、年が改まった――。

正月元旦のボクは、例年通り熱めの朝湯に浸かり、湯上りに頭から冷水を被って心身をシャキッとさせて、女房殿手作りのおせち料理に舌鼓を打ちながら酒を飲んだ。今年のおせちには娘が作った料理も数点あった。それを褒めちぎりながらお銚子を一本追加させて酩酊した。飲ん兵衛はいじましい。何かと屁理屈をつけてひと口でも多く呑もうとする。ボクもそれだ。

ゴロリと横になってうたた寝していた午後2時半頃、からだが左右に大きく揺れた。かなり大きな地震だ。「新年早々、縁起でもない」と呟きながらTVをつけると、震源地は東京から南へ600kmの鳥島近海、震源の深さが370km、推定マグニチュードは7.0。東京・神奈川は震度4だったが、これが近くて浅い場所だったらと思ってとゾッとした。政府は「原発の稼動期間を40年とし、特例として更に20年延長を認めることもある」と発表したが、現在国内にある原発54基は速やかに廃炉にした方がいい。なぜなら、そのすべてが、活断層の近くか活断層の真上にあるのだから。そう感じた。

2日と3日は朝風呂こそ省略したが元旦に続いて酒浸りだ。宿酔いがやっととれた5日は午後から渋谷のJRAウインズへ。中山金杯と京都金杯の馬券を買ったが、見事に外れた。これも例年通りだ。そして8日、二つの私立大学で近世日本の歴史を教えている弟分との「二人新年会」を今年は浅草でやった。正午に落ち合い、観音様にお参りをしてから奥山の居酒屋で下地をつくり、仲見世裏の小料理屋に移って痛飲。この日もまた酩酊した。電車とバスで帰宅したのだが、どこをどう経由して帰ってきたのか覚えていない。

それからようやくエッセイに取りかかったのだが、North American Post(北米報知新聞)に連載しているコラム「一言居士のつぶやき」の1月の原稿締切りは14日。資料の整理に2日、その後1日で書きなぐった文章を整理・推敲するのに次の1日をかけ、更に1日かけて2000字の原稿にまとめ直し、何とか仕上げてメール添付でシアトルへ送った途端に気が抜けた。それから一週間は文章を綴る気にもならずだらだらと過ごした。
 

(そろそろ確定申告の仕度を始めなきゃいかんなあ)

23日午後、ボクはそう思いながらかかりつけの眼科がある大学病院へ行った。

 その大学の教授であるボクの主治医は、日本の角膜再生分野では一二と言われている大先生だ。その大先生が、診察が終わると眼圧測定結果や角膜の断面撮影画像を示しながらこう言った。

「引き続き症状は安定しています。薬も今のままでいいでしょう」

 去年12回聞いたコメントと同じだった。

 物足りなさを感じたボクは、そろそろ先の見通しをはっきりさせてもらいたい、と膝を乗り出した。

「移植した角膜の厚さが元の3分の2くらいになっていますよねえ」

「そうですね」

「更に薄くなることが考えられますよね。とすると、視力を取り戻すにはもう一度角膜移植が必要だということでしょうか?」

「いいえ、その必要はないと思います」

「えっ……、それはどういうことですか?」

 と、怪訝な眼差しを向けるボクに主治医はシャラッとした口調でこう説明した。

「左眼の視神経が相当ダメージを受けているので、視力が戻るにしてもホンのわずかだと思います。以前のように両目でモノを捉えるような見え方にはならないでしょうね」

(なんだと! 散々期待を持たせておいて今になって突き放すのか!)

 そう叫びたくなったが、それでは大人気ない。それに2年くらい前からそうなった時の覚悟はしていたから、衝撃もなかった。

「つまり、左眼の視力回復は諦めた方がいいということですか?」

「そういうことになりますね」

 もはや、何をか況や、である。
 

 そもそもボクの左眼は、還暦を迎えた6年前の夏に突然裂けた。角膜穿孔というヤツだ。自分の免疫細胞が自身の角膜を攻撃して溶かす「モーレン潰瘍」という奇病に罹って薄くなっていた角膜が破れて虹彩(黒目)が飛び出したのだ。
 それを眼窩に押し込んで、まだ少し厚みのあった角膜と強膜を縫合するという緊急手術をした。

 執刀医師は「1日遅れていたら失明したでしょうね」と言ったが、いま思い返せば、モーレン潰瘍であることに気づいていなかったのだから体のいい言い訳だったに違いない。最初から元通り見えるようになる見込みなどなかったのだろう。

 その3か月後にセカンドオピニオンを得ようと訪ねたのが今の主治医である。
 彼はたった一度の診察でモーレン潰瘍であると見破った。さすがである。

 が、「視力が回復するかどうかは五分五分でしょうね。賭けになります、それに長期戦になります」と言い、ボクはその「五分五分」に賭けた。

免疫抑制剤を服用しながらの治療は様々な病気を発症させた。
 手足の異常なむくみで苦しんでいる間に縫合した角膜はうんと薄くなり、角膜移植手術をした。その後は帯状疱疹に悩まされ、それが一段落するとモーレン潰瘍が再発。
 免疫抑制剤の量が増えると、今度は腸閉塞である。開腹手術は免れたが約1か月の入院を余儀なくされた。そして退院して半年後には肺炎になった。

 予期せぬ病が角膜穿孔から3年間にどっとボクを襲った。糖尿治療で長年世話になっている内科医の見解は「免疫力の低下が原因」とのことだった。

しかし、奇妙なことがあるもので、腸閉塞で入院退院後は免疫抑制剤が必要なくなった。今から2年前のことである。体質が変化したらしかった。

そんな経緯でモーレン潰瘍の治療を始めてから5年半が経ち、「視力回復の見込みなし」との確定宣告を受けてボクは賭けに負けた。
 しかし、口惜しくはなかった。
 1月23日の数字の並びは「1・2・3」。その次は「4(死)」だ。(それで左眼の視神経が死んだのか、通院日をずらせばよかったのかなあ)などと馬鹿なことを考えながら帰宅した。

 

 ボクは今年66歳になる。
 91歳まで生きる予定だから、残り25年間を片目で過ごさなければならない。
 しかし、歴史を紐解けば隻眼の英雄が結構いる。伊達政宗しかり、山本勘助しかり、柳生十兵衛しかり。
 歴史に残る英雄になるつもりはないし、なれるはずもないが、隻眼でありながら大活躍した先達がいることがボクの活力になっている。

 幸いに右眼は健在である。現在の視力は裸眼で0.8、レンズを使うと1.2だ。年齢からすれば不足はない。老眼と乱視が少々気になるが、眼鏡を新調すれば目の前の世界がすっきりくっきりするはずだ。左眼に光が戻らないことに悩む必要はない。
 81歳までの15年間に小説やらエッセイやらを書けるだけ書いて、残り10年を静かに暮らせばいい。

そう結論して背筋と腰をピンと伸ばしたボクだったが、やはり人の子。23日の夜は酒を浴びるように呑んでしまった。ともあれ、今日から確定申告書の作成だ。




                        
[2012年1月27日]