都筑大介「ストップ・オーバー」の紹介

 文芸社HPより転載       編集者の魂         
 都筑大介著 『ストップ・オーバー
 人生の思ってもみない場面で途中下車(ストップ・オーバー)を余儀なくされた、父と子の真実……。
「今この小説が問いかけてくるものに真摯な気持ちで応えたい」    それが担当編集者になった私の使命だと感じました。強く泣き叫ぶ声が、原稿からダイレクトに心の隅々に響き続け、その声は激しく私の魂を揺さぶります。
 行間から滲み出てくる哀しい呻き声は、自らを改めて問い直してみろと、私に語りかけてきました。
                     (編集部 馬場先智明
 本書は、著者、都筑大介さんの実体験を元にした小説です。
 団塊世代の企業戦士として営業部門の中軸を担ってきた都筑さんが、平成8年、外資系石油会社を突然退社します。定年まで10年を残してリタイヤしたのは、息子さんを思ってのことでした。自動車事故をきっかけに、彼が市販の咳止め薬を3年にわたって大量に常用していたことがわかったからです。
 コデインとエフェドリンを含むその薬はある種の覚醒作用をもたらすもので、大量に摂取すれば、交感神経が損なわれ、一時的な爽快感の後で無気力状態を招きます。つまり、コカインやヘロインに近い効果をもっています。
 ことの重大性に気づいた都筑さんは、当時の支店長の重職を擲(なげう)って“家族のもとに”戻る決意をします。しかし、時すでに遅く、息子さんはもう取り返しのつかない身体になっていました。
 奇矯な言動。発作的な暴力。それが延々と繰り返される家庭は、地獄のようであったでしょう。親にこんなことをと思われるような罵詈雑言を吐いたかと思うと、次の瞬間、シュンとうな垂れて、「母さん、父さん、ごめんなさい」と小さな震える声で許しを乞う。その瞬間、素直で、誰にでも優しかった頃の息子さんの顔に戻ったといいます。でもそれも束の間、また発作が嵐のように始まります。
 都筑さん、奥様、そして娘さんのいつ果てるとも知れない格闘の日々は、恐らく当事者以外知り得ない修羅の毎日だったと思います。でも都筑さんは、そんな息子にしたのはすべて自分の責任と、全力で立ち向かい続けました。この小説は、その壮絶な記録でもあります。書名は、思ってもみない場面で“途中下車(ストップ・オーバー)”を余儀なくされた二人の人生を象徴するものです。

 実は、本書刊行以前、都筑さんは、私家版で、息子さんが生前、日記に書き留めた文章をまとめたものを遺稿集として出されています。私も読ませてもらいました。鋭敏過ぎる感性の震えが、言葉のナイフとなって噴出しているようでした。同時に、たった一人で傷つき悩んでいた若い不安な心情が切々と綴られていて、正直、読み通すのが辛すぎる本でした。都筑さんは、遺稿集をまとめることで、改めて息子さんと対峙する試練をご自分に課したのでしょう。普通の親なら、時の流れとともに記憶が自然に風化してゆくのを待つという“安全”な道に逃げ込んだはずです。そうでもしなければ自責の念という重圧に圧し潰されてしまうからです。しかし、都筑さんは、遺稿集だけでなく、小説というかたちで、もう一度、亡き息子さんと向き合う道を選びました。過去に背を向け、忘れたフリをし続ける自己欺瞞の泥沼で窒息する苦痛より、書くことによって全てを見つめなおそうとしたのです。私はここに、もう一度立ち上がらねば、と決意した都筑さんの意志、プライドを感じました。そして、それゆえにこそ、この小説は凡百の懺悔録とはまったく異質な、一個の普遍性をもった“父と子の物語”として結実しました。

 元々文学的素養に恵まれた方であるのは、文章からも一目瞭然ですが、負の感情に毒されることも、溢れ出る想いに足をすくわれることもない、透き通った哀しみが胸に沁みます。たとえば、島尾敏雄『死の棘』や大岡昇平『俘虜記』など、作家の実体験から生みだされた名作は数多くあります。それらが今もなお読み継がれているのは、皮相な苦悩や告発にはない、読む者の心に直接届く真実の言葉がそこにあるからでしょう。私は『ストップ・オーバー』もこの系譜に加えたい欲求にかられます。
 原稿を最初に読み終えたあと、私は、子供から大人の世界へとつながる脆くて危険な吊り橋を、フラフラしながら渡っていた、10代後半の頃の自分を思い出しました。谷底に落ちる契機はいくらでもあったように思います。そして今、自分の子供をちゃんと見ているか、そして話を聞いてあげているか。意志の疎通ができないのを、子供の無知や経験不足と決めつけて、ボキャブラリーの多さや声の大きさで子供を威圧していないだろうか……などと、想いは次々と頭の中に現れては消えてゆきました。
 読後の余韻が去ったあと、「じゃあ、オマエはどうなんだ!?」という恐ろしい問いを必ず投げ返してくるのは、優れた文学の特質でもあります。この作品は、読む人に強烈なパンチとなるのか、あるいはじわっと効いてくるボディーブローとなるのかわかりませんが、いずれにせよその痛みの感覚は、深く考える契機を与えてくれるように思います。

 都筑さんは、一部の表現についての度重なる変更依頼に、一言も異論を差し挟むことなく、実に的確に要求以上のレベルの手直しで応えてくださいました。あり余る思いを抑えるのは、さぞ困難な試みだったのではないでしょうか。この場を借りて、改めてお礼を申し上げたいと思います。